第百二十八話 グレヴィリウス公爵の来訪
エリアス・グレヴィリウス公爵は、まずは新たな街道建設の調査について実地で確かめるべく、レーゲンブルトを経ることなく、直接ロージンサクリ連峰へと向かい、麓の村で止宿した。
そこでヴァルナルと合流して一泊した翌日に、山間の道の途中まで行き、調査についての詳細な報告を受ける。その後には隣接するダーゼ公爵側との折衝において必要とされる、具体的な利益や維持管理の配分等について、ヴァルナルと話し合った。
ここまでの過程で、公爵の目的が街道建設の下見だとヴァルナルは疑いもしなかった。実際に、レーゲンブルトへと向かう道すがら、並んで
しかし公爵がわざわざ辺境の地にまで足を運んだ理由が、そればかりでなかったことをヴァルナルが知ったときには、既に審問は始まっていた……。
***
夕食を終えた後、ヴァルナルは公爵に呼ばれた。
「今から?」
思わず聞き返したのは、行きたくなかったからではない。
アールリンデンからそのままロージンサクリの麓まで行き、街道建設予定の山道を視察…という強行軍であったので、ようやくレーゲンブルトに辿り着いて、今日は早めに休まれるであろうと思っていたのだ。
公爵の伝言を届けに来たのは、ルーカス・ベントソンだった。
「新婚夫婦の語らいの邪魔をするのは俺としても不本意だが、閣下からのご命令なのでな。男爵夫人も一緒に、と」
「ミーナも?」
ヴァルナルは首を傾げた。
正直、公爵は貴婦人連中相手に楽しく語らうという人ではない。というより、昔からその容貌に心寄せる婦人方は多く、つきまとう女にはあからさまに邪険に扱うことも少なくなかった。
唯一の例外が亡くなった奥方であったわけだが、夫人を失ってからなど、必要に応じて仕方なく相手せねばならない状況を除き、女性と話すことはほぼないと言っていい。
隣に座るミーナと目を見合わせる。
「何か…お気に召さないことが……」
心配そうにミーナがつぶやくと、ルーカスはあわてて笑みを浮かべて否定した。
「そのようなことはございませんよ、男爵夫人。正直、このような辺境の田舎で、こうまで行き届いた饗応をしてもらえるとは思ってもみませんでした。しかも急なことであったというのに、誠に男爵夫人の細やかな配慮には感謝するばかりです」
「そんなことは…」
ミーナは謙遜したが、ヴァルナルは天性の色男ぶりを発揮するルーカスからミーナを隠すように立ち上がり、大声で牽制しにかかる。
「そうだろう! いや、実は大変だったんだ。この時期はいつも
「それはそれは…」
ルーカスは苦笑した。女のことで、こうまでこの男が変わるとは思わなかった。
しかし、胸中ではより不安が増大する。それはヴァルナルにではなく、この準備を取り仕切ったのがミーナであった…ということに、だ。
だが憂いを面に出すことなく、とぼけた様子でヴァルナルをからかった。
「無骨なヴァルナル・クランツには勿体ない方であられるようだな、男爵夫人は。婚儀を上げて間もないが、後悔はしておられませんか? もし、これ以上、この男とつき合いきれぬとなった場合には、私めを頼って下さい。なんなりと」
「まぁ…」
ミーナはルーカスの冗談にクスクス笑い、ヴァルナルは思い切り苦虫を噛み潰した顔になる。
「いい加減にしろよ…お前」
「怖い顔をするな、男爵。
「うるさい。早く行くぞ」
ヴァルナルはミーナの手を取り、ルーカスをジロリと睨みつけて部屋を出ていく。ミーナは軽く会釈してルーカスの前を通り過ぎた。ルーカスは恭しく騎士礼をしながら、軽く息をつく。
ついこの間まで病弱なお坊ちゃんの世話人、その前は厨房の下女、もっと前は飲んだくれの夫に虐げられていた、奴隷上がりの妻でしかなかった女だというのに、ちっとも卑しさを感じさせない。元からの美しさだけでなく、身についた教養から滲み出る品性。ただの平民出の女には、不釣り合いなものだ。
それこそ公爵閣下の疑念を招くほどに……。
***
「ヴァルナル・クランツ、公爵閣下の前に罷り越しましてございます」
頭を下げるヴァルナルから一歩下がって、ミーナも無言でお辞儀する。
右手でスカートをつまむ優雅な指の形、左手はそっと卵を持つかのように胸に添え、頭は下げずに、目を伏せてまっすぐに背を伸ばしたまま腰をやや落とし屈める…。
その美しい所作を、公爵は無言で注視していた。
「………あの?」
何も言わぬ公爵にヴァルナルが首をかしげる。
「あぁ…」
公爵は我に返ると、コツコツとテーブルを人差し指で叩いてから、ミーナに言った。
「呼び立てて早々すまぬが、男爵夫人に頼みたいことがある」
「はい?」
ミーナは驚きながらも気を引き締めた。
公爵が目で合図すると、若い従僕がワゴンに被せてあった白い布を取った。そこに置いてあったのは、少し形の変わったカップ類とポット、ハンドルのついた黒い箱のようなもの、それに小さな布袋だった。
「これは…」
ヴァルナルはワゴンの方から漂う匂いに、すぐに思い出す。以前に弟・テュコが持ってきた黒い豆と同じ匂いだ。
「最近、帝都で流行っているらしい。
鷹揚に言いながらも、公爵の鳶色の瞳は油断なくミーナの挙動を窺っていた。
ミーナは突然のことに戸惑うばかりで気づかなかったが、ヴァルナルはチリチリと胸の奥で焦りだす。
おそらくはテュコが話したのであろう。
公爵家とヴァルナルの実家の間に直接取引はないが、公爵邸に出入りする大商家は重要な取引先だ。彼らに珈琲豆を売りつける際にでも、ちょっとした話題として持ち出したのかもしれない。
「そこの従僕に教えてやってくれ。男爵夫人の教えとあらば、間違うことなく学ぶであろう。必要とされる道具は揃えたつもりだが、まだ何か入り用か?」
「いえ…」
ミーナはチラリとワゴンの方を見やった。以前に作った時にはなかった豆を挽くためのミルまで用意されていた。
「十分にございます。それでは失礼して、淹れて参ります。しばしお待ち下さいまし」
ミーナはまた優雅に辞儀をすると、くるりと踵を返すときにヴァルナルと目が合った。心配そうなヴァルナルの手にそっと触れて微笑んでから、若い従僕を連れて部屋を出ていく。
ヴァルナルは扉の閉じる音を聞いてからも、しばらくは黙り込んでいた。
公爵はヒュミドールから葉巻を取り出すと、カチリと専用鋏で先を切ってから火を点ける。
フゥと煙を吐いてから尋ねた。
「何か言うべきことは?」
ヴァルナルは言葉に詰まった。
だが、こうして尋ねてくるということは、公爵もまた、疑念の範囲内であるということだろう。
「……ございません」
しばし考えて答えたヴァルナルに、公爵は眉を寄せた。
「それがお前の選んだ
「何のことを
「ほぅ、そうか」
公爵の顔はいつもよりも冷たく、声には苛立ちが含まれていた。
吐き出した紫煙が天井へとたゆたって上りゆくのを見つめながら、公爵は独り言のようにつぶやいた。
「……十三年ほど前のことだったか。我が姉が不名誉な死を迎えたのは」
ヴァルナルはいきなり公爵が始めた話に目をしばたかせた。
公爵の姉・エレオノーレが貴婦人にあるまじき不行状によって、悲惨な死を迎えたことは、公爵家にとっては恥辱であり、語ることも許されぬ禁忌であった。
ヴァルナルは当時、南部戦役に出征していたため、詳しいことはよくわからない。
ただ、ある時を境として、公爵を始めとして誰一人、エレオノーレに関することを話さなくなった。いや、なんであれば当初から公爵家に存在していなかったがごとき扱いであった。
それなのに今、公爵が唐突にその姉の話を始めたことに、ヴァルナルは困惑するしかない。
「そなたは遠く南の戦で忙しかったゆえ、知らぬであろう? 我が姉が ――― いや、正式なる名前で呼ぶならば、エレオノーレ・モンテルソン
聞くほどに不気味で、ヴァルナルは答えを知りたくもなかったが、公爵の
ヴァルナルは気を落ち着かせるように、一つ息をついてから尋ねた。
「何であったのでしょうか?」
「下賤の男共と遊び呆けた挙句、病に罹ったのだ」
「それは……」
ヴァルナルは絶句した。
その先の言葉は頭に浮かんだが、故人の、しかも元とはいえ大公妃殿下であった人のことである。口に出すのは憚られた。
しかし公爵は無表情に言い放った。
「
『そのような荒淫なる女と大公を結婚させたのは、グレヴィリウスの落ち度である。あるいは大公殿下にも病の危険があったやもしれぬ』…とな。公爵家にとっては恥ずべき事態であるゆえ、すべてを秘匿するという条件もつけた上で、その代償としてエン=グラウザを差し出すしかなかった」
南東にある
元は小さな漁村があるだけの貧しい島であったが、そこにある山がダイヤモンド鉱山であることがわかり、公爵家における重要な収入源の一つとなっていた。しかも南部戦役における補給路の一つとして港湾施設が整えられ、この十数年での発展はめざましい。
ヴァルナルは公爵家の内政については無頓着であったので、詳しくは知らなかったが、大公家とグレヴィリウス公爵家間の微妙な確執については薄々感じていた。
近いところで言うなら、小公爵であるアドリアンと大公家のシモン公子との
その時は大して気にも留めなかったが、今となれば彼らが過敏になって言い立てるのも無理ないことだった。
だが今、そのことよりも問題とすべきは ――――
「それとミーナのことで何か関わりでもあると申されるのでしょうか?」
思いきって尋ねたヴァルナルに、公爵は答えることなく、また全く別の話題を持ち出す。
「オヅマと言ったか? お前の新たな息子の名前は」
「は? あ……はい」
「肌の色と瞳の色は母親から引き継いだらしいな。確かに西方の民の血が混じっている。だが、髪は
ヴァルナルの顔は強張った。自然と目を伏せてしまう。
「そなたも少しは覚えがあるのではないかな? 今のお姿が印象深いので忘れてしまうが、大公殿下もまた、あの者と同じような髪色をしていたのだ」
「それは…」
言いよどむヴァルナルに代わって、ルーカスが首を傾げて尋ねた。
「恐れながら、閣下。さすがに髪色だけで類推するのは乱暴だと思いますがね。正直、オヅマの髪色はそう珍しくもないものですよ。閣下と小公爵のような髪色であれば、それは間違いなく親子であると認められるでしょうが」
「わかっている」
否定されても、公爵の声に苛立ちはなかった。やや皮肉げな笑みを浮かべつつ、淡々と話を続ける。
「…ルーカス、男爵の新たな息子の年齢は?」
「十二と聞き及んでおります」
「我が姉が不行状によって亡くなったのは十三年前。その一年後に生まれた子供。母親の腹におる頃であれば、我が姉の亡くなった時期に重なる」
「それは、偶然でございましょう!」
ヴァルナルはさすがに強く反論した。
肝心なことに触れない公爵の真意については理解しても、先程聞いたばかりの公爵の姉・エレオノーレの自死とオヅマの誕生に関係があるなどとは思えない。
しかし公爵はまた無表情となり、鳶色の瞳をすうっと細めた。
「そう…偶然だ。だが同時に、不思議なことよ。男爵夫人がそれまでの身分にそぐわぬほどの礼儀作法を身につけておるということが。正直に答えよ、ヴァルナル。今日のこの
「………いえ」
ヴァルナルは苦しげに否定する。さっきルーカスにも言ったばかりだ。
執事であるネストリのいない中、ミーナの采配によって、領主館はその客に
ありとあらゆる磨けるものは磨き抜かれ、手すりなどは木目の表情も判別できるほどつややかに、廊下を照らす銀の燭台一つ一つに至るまで徹底的に。
館内の美術品や絵画などが飾られてあった広い廊下には、現グレヴィリウス公爵本人の肖像画と、それより幾分小さいヴァルナルの肖像画が掛けられ、その間にはヴァルナルが公爵から拝領した甲冑が飾られた。
吹き抜けとなっている玄関広間中央の階段上からは、グレヴィリウス公爵家の紋章が染め抜かれた幕と、レーゲンブルト騎士団の幕が並んで垂らされており、これは公爵への歓迎と忠誠を示すものだった。
この客室も、赤褐色であった絨毯は群青色の地味な柄のものに変えられ、カーテンなどの織物類も、同じ色合いの生地で揃えられてあった。家具は基本的に白を基調として統一してあるので、おそらく公爵家を象徴する色である青と白に合わせたのだろう。
「このような辺境で、こうまで行き届いた饗応を受けるとは思わなかった。先程の晩餐も…献立に合わせて使用する食器、燭台や花器の選別、配置に至るまで…よほどに
以前に弟にも言われたことだった。
ヴァルナルは顔を固くしたまま、黙り込んだ。
公爵は葉巻を
「あの当時、姉の死についてこちらでも調査した。結局、我が姉の恥辱に
ヴァルナルは息を呑んだ。
ついに我慢ができずにその場に崩折れるように跪く。
「……公爵閣下、お許し下さい。今、私から申し上げることは、何もございません。ミーナは一生言わぬと決めています。私もまた、妻の選択を尊重します」
「…………」
公爵は陰鬱な目でヴァルナルを見下ろした。
ちょうどその時、ノックの音が響いた。
次回は2023.05.07.更新予定です。