第十二話 領主館の春
すったもんだの一騒動の後、一番変化があったのは、ミーナとマリーが西棟にあるオリヴェルの部屋の階下に移ったことだった。
その部屋は元々はアントンソン夫人の小休憩所のような場所であったのだが、マリーが頻繁に(というより毎日)オリヴェルのところに行くこともあり、気難しいオリヴェルの世話係はミーナという既成事実が出来上がってしまったこともあり、
「それならばオリヴェルの近くにいた方がよかろう」
というヴァルナルの鶴の一声で移動させられたのだった。
アントンソン夫人は厨房付きの下女であるミーナがでしゃばってくるのは不愉快であったが、これであの癇癪持ちの若君の面倒をみなくて済むのだと思うと、いっそせいせいして、ミーナにありとあらゆるオリヴェルに関する仕事を任せた。
それこそオリヴェルの服や下着の洗濯から、給仕から、寝かしつけまで。
ミーナは年老いたヘルカ婆を放っておくこともできず、厨房の仕事もしながら、新たに増えた世話係としての仕事も文句を言わずにやっていたが、とうとう無理がたたって再び倒れてしまった。
ちょうどその場に居合わせたヴァルナルは、ミーナを部屋に寝かせた後、すぐさまアントンソン夫人を呼んだ。
「聞いたところによると、ミーナに洗濯までさせていたようではないか。なぜ、洗濯女中にさせない? 食事の片付けや朝の支度まで……」
「それは…お坊ちゃまがいたくミーナを気に入っておりますので…」
「ミーナに世話係を任せたからといって、他の女中の仕事をさせるようにと指示した覚えはない。この程度のことで、私に口を出させるような無能者はいらぬのだぞ、夫人」
静かな恫喝に、夫人はゾオーッと背筋が凍りついた。
同時にオリヴェルだけでなく、どうやら領主様にとってもミーナは特別な存在らしい、と推量する。
下手にミーナに嫌がらせなぞすれば、簡単に解雇されるだろう。紹介状すら書いてもらえぬかもしれない。
アントンソン夫人は深々と頭を下げて陳謝した後、すぐさまオリヴェル付きだった女中のゾーラを呼びつけて、今後は絶対にミーナに洗濯をさせず、朝の支度も以前のように女中達の持ち回りで行うよう言いつけた。
ミーナに仕事を回せて楽ができたと喜んでいた西棟の女中達は、アントンソン夫人の厳しい叱責と、もし今後ミーナの負担になるようなことをすれば、この館から追い出されることを覚悟しろと脅され、一気に肝を冷やした。
その後は多少時間の余裕もできたミーナではあったが、やはり朝早い厨房の仕事と、オリヴェルの世話係の両立はなかなかに大変だった。
相変わらず、文句を言わずに忙しく働き回るミーナを見て、ヴァルナルは古参の料理人であるヘルカ婆を呼んだ。
「ヘルカ婆よ、申し訳ないがミーナにはオリヴェルの世話を
しかしその申し出に、ヘルカ婆はよりよい提案を示した。
「いえ、ご領主様。実は婆めも相談したいことがございました。といいますのも、我が娘…えー、確か今年で三十八だったか、九だったか…
ヴァルナルは快諾した。
それから数日も経たないうちに、パウル爺そっくりのヘルカ婆の娘・ソニヤは、成人した娘と息子と共にレーゲンブルトにやって来た。
娘のタイミはソニヤと共に厨房付きの下女となり、息子のイーヴァリはパウル爺について庭師見習いとして働き始めた。
一方、オヅマである。
マリーとミーナにあてがわれた部屋が三人で起居するには手狭であるのに加え、オリヴェルの世話で夜遅い時間に戻ってきて、短い睡眠をとっている母の邪魔をしたくなかったので、オヅマは小屋に留まることにした。
ここであれば、朝早い時間に多少物音がしても、ミーナが敏感に起きてくることもない。最初は少しだけ寂しかったが、別に会えないわけでもないし、慣れてくると一人でいるのは気楽なものだった。
月の冴えた晩に、昔、ミーナがよく歌っていた歌を歌うのも良かったし、夜の眠れない時にひたすら木剣の素振りをするのも自由である。
それまではさほど気にしていなかったが、ミーナもやはり親なので口うるさく言われることもあり、多少鬱陶しかったんだな…と、子供ながらに思ったりする。
そんなことを厨房の新たな料理人となったソニヤに言うと、「フン。ツッパっちゃって」と軽く笑われた。
小麦袋を運んだお礼に、今日のおやつのスコーンをつまみ食いしていたオヅマはムッと言い返す。
「なんだよ、本当にそう思うんだから」
「ハイハイ。アンタの母親は立派に息子を育てているよ。ちゃあんと、巣立つ準備もしてるってワケだ。さすがだね」
「なんだよ。結局、褒めてんのは母さんじゃんか」
「そりゃあね。あんな出来た人は
何気なく言われた『帝都』という言葉に、いまだに顔が一瞬こわばるのは何故だろうか。
オヅマは誤魔化すように大口開けてスコーンを食べながら、ソニヤに尋ねた。
「…帝都に行ったことがあるの?」
「一時ね。小娘の憧れってモンさ。商家で女中をしてたが、そこで旦那に会って、それから旦那につき合って……ま、私もあちこち巡り巡ってここに戻ったってことさ。それより、オヅマ。私は時々閃くんだよ」
「は?」
オヅマは聞き返しながら、2個めのスコーンに手を伸ばしたが、ソニヤは容赦なく引っぱたいた。
「痛ぇッ! なんだよ、もう…」
「オヅマ、ちゃんとお聞き。予言だよ。ミーナはおそらく領主様の奥方になるであろう……」
いかにも占い師然と厳かな雰囲気でソニヤは言ったが、持っているのが笏杖ではなく、オタマなので、まるで信憑性がなかった。
そもそも、予言の内容自体が有り得ない。オヅマは狐につままれたような顔になった後、プッと吹いた。
「馬ッ鹿で~。ソニヤさん、冗談キツイよ。ナイナイ、ムリムリ」
「フン。子供にゃわからないだろうよ」
「子供だってわかるよ。一介の召使いが領主様の奥方になんて…どんな絵物語さ。夢見過ぎだよ」
普通に考えれば、オヅマの言っていることはもっともだった。
ただ、領主館にいた使用人達は徐々に気付き始めていた。
当人達が自覚する以上に、客観的にはヴァルナルの態度はわかりやすいものだったからだ。
その最たることは、本来であればとっくに公爵領アールリンデンに向かう時期だというのに、いまだに領主館に残っていることだった。
一応、名目では春先に紅熱病の流行があったせいで、仕事が滞っている…と公爵家には説明しているらしかったが、それだけでないのは明らかだった。
使用人たちは噂した。
「やっぱり…ミーナかねぇ?」
「そうだろうよ。やたら頻繁に呼びつけては、オリヴェル様のことを聞いてるっていうが、今までの世話人の女には、そんなことなかったじゃないか。むしろ、遠ざけたりして…」
「下手すりゃ、来月までいらっしゃるんじゃない?」
「いや~、そりゃないだろ。来月ったら、
毎年、各地に散った貴族達は、
ヴァルナルもまたそれに合わせて、公爵と共に向かうため、それまでに
確かに紅熱病の流行で多少遅れるのは仕方ないとしても、季節が暖かくなるに従って流行も既に終息しているというのに、まだ向かおうとしないのは、公爵様一筋の忠義者のヴァルナルには珍しすぎることだった。
その理由を考えた時、昨年までと違うことといえば、一つしかない。
「領主様にも春が来たねぇ~」
多くの使用人達は、この領主様の不器用な意思表示を微笑ましく見守った。
◆
雨の日と、月に一度の休養日が重なって、オヅマは久々にオリヴェルに会いに来ていた。
不思議といつでも会えると思うと、足が遠のく。
オリヴェルのお気に入りはマリーだし、今はミーナにもついてもらっているので、自分はそんなに必要でもないだろうと思っていたのだ。
「やっと来た」
しばらくぶりに会ったオリヴェルは、オヅマを見るなりむくれた顔になった。
「なんだよ? またぶっ倒れて、おんぶされたいのか?」
オヅマがからかいながら言ったのは、例の執務室の一件の後、三人は抱き合って喜んだのだが、気が緩んだオリヴェルは急に力をなくして倒れ込んでしまったのだった。
意識を失うまでではなかったが、足に力が入らないというので、オヅマがおんぶして部屋まで運んだのだ。
紅熱病のことがあって、館には公爵家から送られた医師が常駐していたので、いつもの医者を呼ぶまでもなく、診察してもらえた。
「おそらく急に走ったからでしょう。まだ体を動かす準備をしないうちから、無茶をすると、体が対応できずに力がなくなってしまうのです」
まだ年若い医師は、オリヴェルに食事を十分に食べて、少しずつ体力をつけていくように助言した。
それまでオリヴェル専属の老医師はとにかく寝ておけ一辺倒であったが、帝都のアカデミーを卒業したばかりの、新たな知識を身に着けた医師は、まったく違った診断を下したのだった。
彼は紅熱病が鎮火していくと、公爵の本領地に戻っていったが、ヴァルナルの要望で一月に一度は往診に来てくれることになった。
「もうおんぶなんて出来ないさ。随分食べるようになって、太ったからね」
オリヴェルはふん、と笑って言ったが、オヅマはつかつか寄ると、あっさり持ち上げた。
「うん。ま、多少重くなったな」
「おろせ! 馬鹿!」
「おぅ、そんな言葉言うようになったか。覚えたか?
スラングを教えていると、マリーが思い切りオヅマの足を蹴った。
「オリヴェルにヘンな事教えないでよ!」
オヅマは痛みに耐えつつ、そっとオリヴェルをおろす。
「痛ェだろ! オリヴェルごとひっくり返ったらどうすんだよ、お前」
「お兄ちゃんはそんなことしないでしょ」
振り返って怒る兄に、マリーはにっこり笑って言う。ますますこまっしゃくれてきた。
オリヴェルはぎゃあぎゃあと喚くオヅマを見て溜息をもらした。
ここのところは自分もミーナが作ってくれる(オリヴェルの食事に関してだけ、いまだにミーナが調理を担当していた)料理のお陰で、好き嫌いも少なくなり、肉も随分と食べるようになってきたのに、オヅマは会うたびごとに背も伸び、体つきはどんどん鍛えられたものになっていく。
騎士団で訓練を受けているのだから、当たり前なのだろうが…。
「今日は母さんは?」
オヅマはキョロキョロと見回した。
これだけ大声で喋っていて、ミーナの叱言が聞こえてこないのは不思議である。いつもなら、オリヴェルを持ち上げた段階で叱られ、クソ野郎の段階で頭を殴られていたはずだ。
「母さんなら領主様にお茶を淹れに行ったわ」
マリーが当たり前のように言う。
「お茶ァ? そんなのネストリか、他の女中がやる仕事じゃないか」
「よくわかんないけど、母さんの淹れたお茶が美味しいんだって」
オヅマはふとソニヤの言葉を思い出した。
―――――ミーナは領主様の奥方になるであろう!
ブンブンと首を振って、追い出す。
一体、何を言い出すのだ…あのおばさんは。
「たぶん、僕のことを色々と聞いてるんだと思うよ。父さんはいつも人から僕の話を聞くから…」
オリヴェルは補うように話してくれたが、その顔はさびしげだった。
「話せばいいじゃないか、領主様と」
オヅマは軽く言った。「あの時みたいに、執務室でも寝室でも、入っていったらいいじゃないか」
「そんなこと……」
頭を振るオリヴェルの脳裏には、昔、夜中に訪ねた時の父の冷たい顔しか思い浮かばない。
「ムリ、っつーの禁止な」
オヅマは先手でオリヴェルの言葉を封じた。オリヴェルは詰まって、困ったようにオヅマを見つめる。
「だって…何を話せばいいかわからないよ」
「何だっていいじゃないかよぉ。昨日はマリーと遊びました。マリーが興奮してシッコをもらしました、とか」
「そんなことしてないわよ!」
「だったら…そうだな、なんかしたいこととか?」
「したい…こと?」
「そ。なんかあるだろ? お前、ずっとムリムリ言ってやらなかっただけで、本当はいっぱいしたいことはあるだろ?」
「……だって…無理だよ」
「ムリ禁止っ
オリヴェルはしばらく考えた後、ポツリとつぶやいた。
「馬に…乗りたい」
「馬?」
「……オヅマが捕まえた黒角馬じゃなくてもいいけど…一回、馬に乗ってみたい」
オヅマはポンと手を打つ。
「いいじゃんか、それ。言いに行けよ」
しかしオリヴェルは俯いて首を振った。
「いい」
「なんで?」
「………」
オリヴェルは黙り込んだ。
昔、オリヴェルが赤ん坊の頃から物心つくまで世話してくれていた侍女は言った。
「お父君は忙しくていらっしゃいます。ご迷惑にならぬよう、静かに、いい子にしておかねば、見捨てられてしまいますよ」
幼い子どもに刷り込まれたその言葉は、オリヴェルをヴァルナルの前で萎縮させる。一緒に食事がとれるようになっただけ進歩というものだ。
それだって、ミーナがしつこく、
「領主様は本当はとても若君のことを気にかけておいでですよ。毎日のように私にお尋ねになるのですから」
と、言ってくれて、ほんの少しだけ勇気が出たのだ。
しかし、ミーナはそうは言うものの、たまに夕食を共にする父は、やはり難しい顔で黙々と食べるばかりで、声をかけることはためらわれた。
「……父上が許してくれるワケがないよ。騎士にとって馬はとても大事なものなんだから。病気の子供の我儘で、そんなことを言ったら、叱られるよ」
オリヴェルの言い訳に、オヅマは首をかしげた。
「……そうかなぁ?」
ヴァルナルは我が子を馬に乗せることも許さないほどに狭量な人間だろうか?
もっともこればかりはオヅマも否、と確定できなかった。
騎士にとって馬と剣は命そのものだ。
ヴァルナルにとっては、騎士としての己が第一であり、その誇りこそがヴァルナルを賢明な領主たらしめている。
マリーが消沈したオリヴェルに笑いかけた。
「じゃあ、もっともっと元気になって馬に乗りましょ。楽しみでしょ?」
「……そうだね。その時には、僕がマリーと一緒に乗ってあげるよ」
「うん!」
オヅマはふぅと息をついた。
こういう時のマリーは絶妙のフォローをする。
だが、親密な二人にちょかいを出したくもなる。
「なんだ? 馬に乗りたいなら、兄ちゃんが一緒に乗ってやるぞ」
「嫌」
マリーはすげなく言った。
予想外に強い否定だ。オヅマはムッとなった。
「なーんでだよ。俺だったら、すぐにでも乗せてやれるぞ」
「お兄ちゃん、だって絶対にものすごく速く走るんでしょ? 私が止めてって言っても、止めてくれないで、ゲラゲラ笑ってそうだもん」
「…………」
否定できない。
オリヴェルがクスッと笑った。
「レディを乗せる時は襲歩は駄目だよ、オヅマ。ちゃんと
「そんなこと一生ないから、どうでもいいさ」
オヅマは気のない様子で言うと、オリヴェルの部屋から出て行った。
次回は2022年5月18日20:00更新予定です。