昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百三十六話 ルミアとハルカと豆猿

 マッケネンはいつまでも馬から降りてこないオヅマを不審そうに振り返って、ギョッとなった。

 

「どうした? オヅマ」

「………え?」

「顔が、お前…真っ青だぞ」

「いや……」

 

 オヅマはごまかすように無理に笑みを作ると、馬から降りたものの、ほとんど落ちたに近かった。

 マッケネンはあわててオヅマを支えた。

 

「大丈夫か? どうしたんだ、いきなり…」

「大丈夫だよ」

 

 答えながらも、オヅマの頭はガンガンと殴られたように痛み、得体の知れない恐怖感で背中は汗でびっしょりだった。

 

 得体の知れない…?

 いや、わかっている。

 すっかり忘れていた()の中から、リヴァ=デルゼの腕が伸びてきて、オヅマの頭を鷲掴みにしていた。

 

 

 ――――― 悪い子だ…

 

 

 ねっとりと絡みつく囁きは、真綿でゆっくりと首を絞めるかのように、オヅマの思考を止める。抗うだけ無駄だと、諦めて受け入れることを強要してくる。

 

 

 ――――― どうせなら愉しめ…オヅマ…

 

 

「……う…」

 

 息が、できない。

 オヅマは首を押さえて、その場にくずおれた。

 ぐるぐると視界が回って、意識を保つことが苦しい。いっそ気を失いたかったが、異常なほどに逆立った神経はそれを許さなかった。 

 

 マッケネンがそばで必死になって呼びかける声も、奇妙な雑音に紛れてよく聞こえない。

 オヅマの肩を強く掴むマッケネンの手だけが、オヅマを()でない現実にいるのだと実感させてくれていた。

 しかし、嘔吐感と頭痛は治まらない。

 

 その時、あきれた溜息が聞こえた。

 

「ずいぶんと弱々しいガキを寄越したもんだね。剛勇なるグレヴィリウスにしては、人選を間違えたんじゃないのかい?」

 

 オヅマを苦しめていたリヴァ=デルゼの幻影は、その声でパッと霧散した。急速に頭痛も嘔吐感も消失する。

 顔を上げると、腕を組んだ女 ――― ルミアがオヅマを見下ろしていた。

 

 ――――― 違う…

 

 よくよく見れば、そこにいるのはリヴァ=デルゼではない。

 女にしては大柄な体つきと、セピアの瞳は似通っていたが、年齢がまったく違っていた。

 オヅマの()に出てきていたあの悪魔は、二十代後半くらいだ。目の前の老女はいくら若く見えても、五十より下ではないだろう。それに ―――

 

「なんだい、坊や。会うなり吐きそうな顔して倒れ込むような奴に稽古をつけるなんぞ、御免蒙るよ、私は」

 

 ハキハキした切れの良い話し方は、リヴァ=デルゼとまるで違っていた。

 声も、着実な人生経験を積んできた者の、低く落ち着きのある、安心感のもてる声音だ。婀娜(あだ)っぽく、ねばりつくような、酒ヤケしたあの女の嗄声(しわがれごえ)とは違う。

 

 オヅマは一度、大きく息を吐いてから立ち上がった。

 軽く服についた土を払って、ルミアに頭を下げた。

 

「醜態をさらし、失礼しました。オヅマ・クランツと申します」

「クランツ?」

 

 ルミアは少しだけ考えて、意外そうにオヅマを見た。

 

「あの男の息子がこんなに大きくなったとは意外だね。病弱で十歳(とお)までも生きられないと言っていたのに」

 

 オリヴェルと勘違いされているとすぐにわかって、オヅマは訂正した。

 

「いえ。俺…僕は、オリヴェルではありません。クランツ男爵とは、母が再婚して…」

「なんだってェ? 再婚? あの男、また懲りずに結婚したのかい?」

 

 ルミアはひどく驚いて、頭をおさえた。

 

「なんだってまた…。どうせ、失敗するだろうに」

「失敗?」

「あの男は結婚にゃ向かないよ。どこまでいっても主君一筋、頭の中身が騎士根性で塗り潰されているような男なんだからね」

 

 オヅマは複雑だった。

 確かにそうだとも思うが、母に対するヴァルナルの態度を見る限りは、今のところは極めて良好であるように思える。

 

 何も言えなくなっているオヅマの隣で、マッケネンがククッと笑った。

 

「いや、老師殿。それが、ヴァルナル様もすっかりお変わりになられましてね」

「へぇ?」

 

 ルミアは理解しがたいといった感じで腰に手を当て、首をひねる。

 

「あの男が? 公爵に立ってろと言われたら、三日どころか一月、下手すりゃ半年でも立ってそうな、あの男が?」

「そうなんです。新たな奥方は、顔立ちだけではなく、心映えも優れた御方でして」

「ふぅん…」

 

 ルミアは適当に相槌を打ってから、チラリとオヅマを見て、尋ねてきた。

 

「お前さん、お母さんに似てるのかい? それとも父親?」

「………父の顔は知りません。肌の色と瞳の色は母と同じです」

「母親の髪の色は?」

「……金髪ですけど…それがなにか?」

「ふーん……」

 

 ルミアはジロジロとオヅマを無遠慮に眺め回してから、また腕を組むと、フンと鼻を鳴らす。

 

「なんだい。なんだかだ言って、やっぱりあの男、面食いじゃないか」

「ハイ?」

「いや。当人は顔なんぞ気にしないとか言ってたがね、私は前々から思ってたんだ。この男はおそらく面食いだと」

「…………」

 

 オヅマは黙り込むしかなかった。

 まるでヴァルナルが母の色香に惑わされたような言い方だ。そんなわけがない…と抗議できないのは、母が美人であることは疑いようもないからだ。もっとも息子の立場でそれを認めるのもなんだか面映ゆい。

 

「まぁ、リーディエ様のような方を近くに見ていたら、女を見る目が厳しくなっても、仕方ないだろうが…」

「リーディエ?」

「公爵閣下の亡くなった奥方様だよ」

「あ……」

 

 以前に見た(とき)色の髪の貴婦人の絵を思い出す。

 確かに美人ではあった。

 母と比べてとなると……やっぱり息子なので公平な判断は下せない。

 

 気まずそうなオヅマを窺い見てから、マッケネンは安心したように言った。

 

「大丈夫そうだな? じゃ、俺は帰るぞ」

「えっ? もう?」

「おぅ。今から駆ければ夜までにターゴラ(*前夜に泊まった宿場町)には着く。早く帰って、ヴァルナル様にお前を無事に送り届けたことを伝えないと、きっとやきもきして待っておられるだろうからな」

 

 マッケネンは笑って言ってから、ルミアに深々と頭を下げた。

 

「それでは、私はこれで失礼します。先程は緊張と、この数日の旅の疲れが出たせいで、少しばかり調子を崩したようです。一晩寝れば、おそらく明日からは目を見張られることでしょう」

 

 マッケネンはオヅマの才能を称賛しつつ、さりげなくオヅマの体調を気遣って、今日一日は休ませてくれるように頼んでいた。

 ルミアは肩をすくめて、オヅマをまたチラと見た。最初にオヅマを値踏みしていたあの目だ。

 

「じゃあな。がんばれよ」

 

 励ますようにオヅマの肩を叩くと、マッケネンは馬にまたがった。

 

「あ…うん。ありがとう、マッケネンさん」

 

 オヅマは今更ながらに、ちょっと心細くなった。

 本当ならここまで送ってきてくれたマッケネンに、丁重に感謝の意を述べるべきであったが、昔馴染みの気安さもあって、一瞬、レーゲンブルトにいた頃の、見習い騎士に戻ってしまった。

 マッケネンはオヅマの()()を見破ったのだろう。クスリと笑って、馬上から亜麻色の頭を、やや乱暴に撫でた。

 

「…がんばれ」

 

 もう一度、勇気づけるように言ってから、マッケネンは馬首を来た道へとやると、颯爽と駆け去っていった。

 

 

***

 

 

「はい」

 

 家に招き入れられるなり、ルミアは手を出してきた。

 

「はい?」

 

 オヅマが聞き返すと、面倒そうに「アンタの世話代だよ」とそのものズバリ言ってくる。オヅマはややあきれつつ、首に下げていた『世話代』の入った袋をルミアに渡した。

 

「ふ…む」

 

 ルミアは袋の中身を素早く確認すると、澄ました顔で言った。

 

「さすがに大グレヴィリウスだね。ケチな田舎伯爵とは違うよ」

「はぁ…そんなもんですか」

「そりゃそうだよ。色が違う」

 

 自分の授業料…という現実味のある話について、オヅマはあまり聞きたくなかった。背嚢(はいのう)から書状を取り出し、ルミアに差し出す。

 

「これ、ベントソン卿からの紹介状と、ヴァルナル様からの親書です」

「あぁ…」

 

 ルミアは受け取って、署名だけチラと見ると、机の上に放り投げた。

 

「読まなくていいんですか?」

「こんなの形式的なモンさ。アンタを来させることは、ベントソン卿が前もって(しら)せてきていたし、ヴァルナルなんぞ…どうせ、あれやこれやと、くどくどしいことを書いてきてるんだろうよ。寝る前に読めば丁度いいだろう」

 

 なんてことを言うのであれば、ヴァルナルの手紙は睡眠導入剤としての役割を持たされたのだろう。

 

 ルミアは煙管(キセル)に葉を詰めると、「さて」とオヅマをまたじっと見つめてくる。

 オヅマは反射的に目をそらした。どうもあのセピアの瞳は、居心地が悪い。

 

 ルミアはパと空中に煙の輪を吐いて、尋ねてきた。

 

「オヅマと言ったか…お前さん、既に一度、稀能(きのう)を発現しているそうだね。しかもよりにもよって『千の目』だって? 奇ッ怪な技を身に着けたもんだ。誰に習ったんだい?」

「………わかりません」

「わからない?」

「勝手に……出来たんです」

「ホハッ!」

 

 ルミアは吹いてから、ゴホゴホとむせた。

 

「勝手に出来たァ? とんでもないホラをふくもんだ」

「ホラじゃないです! 本当に…」

 

 しかしその先に続く言葉をオヅマは言えなかった。

 ()で修行したなどと言って、信じてもらえるはずもない。まして、あの()が、今のオヅマと繋がりがあるなど、認めたくもなかった。

 

 ルミアは胡散臭げにオヅマを見てきたものの、それ以上追求するのも面倒に思えたらしい。

 

「まぁ、いいや。悪いがウチでは、自分の面倒は自分で見てもらうよ。まずは、今日のアンタの()()()()を調達してきな。ハルカ!」

 

 鋭く呼ぶ声に、部屋の隅に伸びた細長い木の棒からスルスルと子供が降りてきた。春先でまだ寒いだろうに、短い袖のシャツに、膝までの短いズボンに裸足。オヅマがラディケ村でいた頃と同じような格好だ。

 タタッと走ってきて、ルミアの隣に立ち、そこでようやく女の子だと気付いた。

 

「この子は私の孫でハルカ=デルゼだ。ハルカ、オヅマだ。新たな稽古仲間さ」

 

 オヅマはにわかに、また胸がザワザワした。レーゲンブルトでアンブロシュ卿に会ったときと同じような感覚だ。

 

 ハルカと呼ばれた娘は、年の頃であればマリーとそう変わらないか、少し下くらいだろう。

 やや黄みのある日焼けした肌に、切れ長の腫れぼったい一重の瞳、鶸茶(ひわちゃ)(*灰色がかった黄緑色)の髪。

 幼さに似合わぬ無表情で、初対面の人間に対する好奇や警戒は見えない。

 ルミアと同じセピア色の瞳は、どんより曇っていて、オヅマを見ているのかすらわからなかった。髪もまたルミアと同じように耳下で切り揃えていたが、一房だけ赤い筒型の髪飾りをして、耳横に垂らしていた。

 

「ハルカ……」

 

 オヅマは無意識にその名をつぶやいていた。

 初めて会ったはずなのに、聞き覚えのある名前、見覚えのある無愛想な顔。

 だが、オヅマはそれ以上、思考を辿っていくことはしなかった。その先に見え隠れするリヴァ=デルゼの姿は、不穏しか()び起こさない。

 

 ブンと頭を振って不吉な影を追い出してから、オヅマは手を出して挨拶した。

 

「よろしくな、ハルカ。俺はオヅマだ」

「…………」

 

 ハルカはオヅマの手をしげしげと眺めていたが、握手することはなかった。何も見なかったかのように、戸口へとすとすと歩いて行く。

 

「ついていきな」

 

 ルミアは煙管をふかしながら、すげなく言った。

 オヅマはコクリと頷き、ハルカの後に続いて家から出た。

 

 夕闇の迫る森の中、ハルカは一度もオヅマの方を振り返ることなく、黙々と歩いていた。

 

 決して早いわけではないが、まるで足に羽でもついているかのように、軽やかだ。裸足だが、常日頃から歩いていて足裏が強くなっているのだろう。ちょっとした枝などでも平気で踏みしだいていく。

 しかもよく見れば、足首には黒の足輪(あしわ)をつけていた。

 オヅマも騎士団での訓練で、たまにあの足輪をして、走練などをすることもあるので、知っていた。あれは重りなのだ。重量は様々あるが、一番軽いものであっても、慣れない者であれば、普通に歩くことすらできない。

 しかしハルカの足取りに、重さは一切感じなかった。

 それだけでもこの少女が尋常ならざる身体能力を持っていると計り知れる。

 程なくしてオヅマはそれを確信できた。

 

「うわっ」

 

 いきなり斜め上から何かが飛んできた。

 反射的に()けると、間一髪、さっきまで右足のあった場所に叩きつけられ、何かの果実が無残につぶれていた。

 黒っぽい果汁と、中の緑色の粒が地面に飛び散っている。

 

「なんだ…?」

 

 背を屈めて見ると、プワンと独特の臭いが鼻についた。

 

「うげ…これ、スジュの実じゃねぇか」

 

 オヅマは途端に鼻をつまんで(しか)め面になったが、のんびりしている間は与えられなかった。

 ビュッと音がして、背にそのスジュの実がベチャリと当たる。

 

「ゲッ!」

 

 咄嗟に後ろを向いて確認しようとする間に、また実が飛んできてベチャベチャと腕と腹にぶち当たった。

 

 キャッキャ! と楽しげな声が響く。

 

 オヅマはキッと実の飛んできた方向へと目を向けた。

 暗くなってきた木々の枝々に、ポツポツと浮いた小さな赤い光。

 よく見れば、それは目だった。さらに目を凝らすと、薄緋(うすひ)色の毛に覆われた、黒い顔の猿たちが枝の上から並んでオヅマを見ていた。

 

「……豆猿?」

 

 つぶやくと同時に、また左斜め上からビュンと飛んできたのをよけると、枝に並んでいた豆猿たちが一斉に散って、あちこちからスジュの実を投げてくる。

 

「だぁッ! なんだ、コイツら!!」

 

 オヅマは相手しきれないと思い、走り出した。

 いつの間にかいなくなっていたハルカの姿を見つけると同時に、息をのむ。

 前を走るハルカもまた、豆猿からスジュの実を投げられていたが、流れるような身のこなしでよけていた。

 オヅマは信じられなかった。

 重いはずの足輪をしていてなお、あの俊敏な動き。

 

 ハルカはオヅマの視線に気付いたのか、こちらを向いた。

 一瞬、隙ができてハルカの足にベチョリと実が当たる。しかしハルカは全く気にする素振りもなく、再び駆けていった。

 やがて木々が途切れて、川べりの拓けた空間に出ると豆猿達の攻撃はやんだ。

 

「お前……」

 

 オヅマはハルカに聞きたいことが色々とあったが、息が切れて言葉にならない。

 一方、オヅマよりも動き回りながら走っていたハルカの顔は涼しく、息切れもしていない。肩がまったく動いていないので、隠しているわけでもないだろう。

 

 ハルカはしばらくオヅマと見合っていたが、ついと横を向くと、川にザブリと入った。

 足についていた果汁が見る間に流れていく。

 そのままザバザバと大きな岩がいくつか並んでいるところまで歩いていくと、しばらく、じいぃーっと佇んでいた。

 

 オヅマは静かにしていた。

 ハルカが魚を狙っているとわかったからだ。

 案の定、ハルカは急に手を川の中に突っ込むと、魚を一匹掴んでいた。そのままポイとオヅマのいる川べりへと投げる。

 土の上で魚がピチピチはねていた。

 

 オヅマが飛んできた魚からまた再びハルカの方へと目をやると、ハルカはじっとオヅマを見ていた。

 やはり表情は乏しく、何を考えているのかわからない。

 オヅマはハッとルミアに言われたことを思い出した。

 

 ――――― 今日のアンタのおまんまを調達してきな…

 

 つまり、自分の食い扶持は自分で取ってこい、ということだ。

 

 オヅマは靴だけ脱いで、川に入っていった。

 ズボンを脱ごうかとも考えたが、さっき豆猿どもにさんざんスジュの実をぶつけられたせいで、すっかり汚れて今更濡れるのを気にするような状態でもない。

 

 ハルカは川の中に入ってきたオヅマに、別の岩場を指し示した。

 

「わかった…」

 

 オヅマは頷いて、素直にその場所へと向かう。

 岩の水に浸かっている部分にはびっしりと苔が生えていた。

 ハルカと同じようにしばらくじっとしていると、白い魚がゆっくりと寄ってくる。よく引き付けてから、オヅマも同じようにして手で掴み取ろうとしたが、魚はパシャリと響いた水の音に、間一髪で逃げていった。

 

「チッ……タモでもありゃあな……」

 

 オヅマはつぶやき、ハルカの方を見ると、ちょうどハルカがまた川に手を突っ込んで、魚を取っていた。

 いや、取っている…というより、魚を叩いて川から飛ばしている、と言ったほうが近いだろう。手はまっすぐに指を伸ばして、川に入れるときも水音をなるべくたてないように水面と垂直にして、そこからの動作は一気だ。

 

「そうか…」

 

 オヅマは要領を得ると、すぐさま一匹魚をすくい取った。同じように岸辺へと飛ばす。

 二人で大小十匹近くを取ってから、ハルカが持っていた布袋に魚を入れて帰り道についた。

 そのときにはすっかり辺りは暗くなり、豆猿達もねぐらに戻ったのか、もう実をぶつけてくることはなかった。

 

「なぁ…」

 

 オヅマは少し前を歩くハルカに声をかけた。

 ハルカは足を止めて振り返るが、黙ったまま、オヅマを見つめるだけだ。

 

「さっき、お前、豆猿からスジュの実を投げられてたの…ぜんぶよけてたのか?」

 

 ハルカは少しだけ考え、左足を少しだけ持ち上げた。

 どうやら全部は避けられなかった…ということらしい。

 そこはさっき、実がぶつけられたところだったが、川の水ですっかり綺麗になっていた。

 

「いや、それはお前、俺に一瞬、気ィ取られたからだろ? 悪かったな」

 

 ハルカはまじまじとオヅマを見ていたが、やっぱり何も言わなかった。肩にかけていた袋を軽く持ち直して、また歩き始める。

 

「あ、おい。それ重いんだったら…」

 

 オヅマは少し小走りになってハルカの後を追ったが、そのとき、足元がズルリと滑った。

 

「うあッ!」

 

 声を上げて、見事に尻もちをつく。

 ベットリと黒っぽい汁が、手についた。おそらく尻にも。

 先程、豆猿達が投げまくっていたスジュの実が、地面に叩きつけられて潰れ、それに足をとられたらしい。

 

「……プッ」

 

 ハルカが思わずといったようにふきだす。

 それまで一切の感情をなくしたかのように、凍りついていたハルカの表情が緩むのを見て、オヅマはホッとした。

 年相応の、可愛らしい笑顔だ。

 

「そんな顔するんだな…お前」

 

 立ち上がりながら、思わず出た言葉が、胸を()く。

 まるで随分と前から彼女を知っていたかのような感覚に、自分でも理解が追いつかなかった。

 

「あ、いや…」

 

 訂正しようとしたが、ハルカの顔から既に笑みは消え、鈍い目でオヅマを見上げるだけだった。

 

 オヅマは少しだけ頭痛がしたが、軽く頭を振って痛みを飛ばした。

 無表情にじぃとオヅマを見つめるハルカに、またニッと笑ってみせる。

 そのときに魚を入れた布袋が、ハルカの肩に食い込んでいることに気付いた。

 

「それ、貸せ。俺が持つ」

 

 オヅマは布袋をハルカから取り上げて歩き出したが、ハルカはボンヤリ佇んでいた。

 

「なにしてんだよ? ホラ、行くぞ」

 

 ハルカに手を差し出すと、ハルカはオヅマの手と顔を交互に見て目を何度かしばたかせた。戸惑っているようだ。

 オヅマは、グイとハルカの手を取った。

 

「行こう。腹減った」

 

 手を引いて歩き出す。

 不思議そうに見つめながらも、ハルカはオヅマの手を離さなかった。

 





次回は2023.07.02.更新予定です。
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