ルミアの問いに、オヅマはしばらく答えられなかった。
知っている、と言ってもそれは
会ったこともない。
たとえ今、このときも
「知りません」
静かに答えると、オヅマはギュッと唇を引き結んだ。
何を聞かれようと、そうとしか答えることはできない。
ルミアは深刻な顔で黙すオヅマを、しばらく見つめていた。
大きなセピアの瞳がじっと見てくる。
それはリヴァ=デルゼのように威嚇するものではない。問い詰めるものでもない。だが、穏やかでありながら透徹とした光が、オヅマを貫くように見ていた。
ちょっとした嘘程度なら、この目の前で洗いざらい白状しただろう。
だがオヅマのそれは嘘ではなく、
剣術の試合で対峙するかのように、オヅマは必死でルミアの目に耐えた。
にらみ合いは思ったほど長く続かず、先に目を伏せたのは、ルミアのほうだった。
「あぁ、そうかい。じゃ、いいや」
軽い溜息とともに、あっさりと自らの疑問を放り出す。
オヅマは面食らった。
「へ?」
「なんだい、拍子抜けみたいな顔して」
ルミアのセピアの瞳がジロリとオヅマを見たが、そこには特に疑心暗鬼な様子もない。ふたたび
「私は面倒くさがりでね。当人が言わないことを、いちいち聞いて厄介事をかかえるのも御免蒙りたいし…ま、アンタが娘を知っていたところで、私がアンタに教える内容が変わるわけでもない」
オヅマはゴクリと唾を飲んだ。
反射的に体が強張ったのは、リヴァ=デルゼから受けた修練を勝手に記憶しているからかもしれない。
「あの…修練の内容って、どんなものですか?」
思い切って尋ねると、ルミアはクッと片頬に笑みを浮かべた。
「とりあえずは、スジュの実を当てられないように、川まで辿り着くことだ」
「え?」
「しばらくは、あの豆猿共がアンタの師匠になる」
ルミアの言葉通り、翌日からオヅマはほぼ毎日、豆猿たちに
***
「だーッ!! テメーらッ!」
怒鳴りつけながら逃げ回るオヅマの背に、またスジュの実が一つ当たる。
すばしこい豆猿たちは、木の上からだけでなく、地上にまで降りてきて足元から投げてくることもあり、それこそ全方位からオヅマに襲いかかってくる。
いや、正確には彼らはオヅマを襲っているというより、オヅマ
ルミアはこの一帯を縄張りとしている豆猿グループを餌付けして、彼らに修行にやってきた人間の稽古をつけてもらっているらしい。
多くの修行者達がルミアの元を早々に去っていくのも、この屈辱的な稽古についていけない…という理由もあった。
確かに貴族や、騎士として代々家門を継いできた誇り高い者であれば、猿ごときに馬鹿にされているかのようなこの修行を、耐え忍ぶのは難しかったろう。
しかもルミアからは猿に手出しをすることは、重く禁じられている。
もし、猿に対して攻撃を行った場合には、修行の一切を停止され、主君には「恥知らずの不埒者」と通告された。
これはもはやその家門で騎士としての職を奪われるに等しい。
騎士でなくとも、ルミアは近隣の傭兵組織にも顔がきくので、もし『
どちらにしても、猿への暴行が明らかになった時点で、ルミアの鉄拳制裁は覚悟せねばならない。
オヅマは豆猿たちの
そもそも容赦なく投げてくる実を避けるのに必死で、そんなつまらないことを考える暇もなかった。
最初に魚を取りに行ったときと同じように、シャツをほぼ真っ黒にしては、洗濯草で洗う日々が続いた。
「あんなの、どうやってよけろってんだ…」
ボヤくオヅマの横には、まったく汚れていないハルカがいる。
「お前、どうやってよけてるんだ?」
と、オヅマが聞いても、ハルカは表情を変えずに目を瞬きするだけだった。
「まだまだだねぇ」
ルミアは今日も洗濯するオヅマを見て笑った。
「無理ですよ。一個よけても、次には後と横から来るんだから」
オヅマがぶつぶつと文句を言うと、ルミアはフンと鼻をならす。
「そうかい。ヴァルナルなら、全部よけてるだろうがね」
「………」
ヴァルナルの名前を出されてはグウの音も出ない。
確かに『
「アンタはまだまだ限界が早いね」
「限界が早い?」
「最初の十個までは、まぁまぁよけられる。でも、走っていくほどに、当てられる数が増える。粘り強さが足りない。途中でへたばっちまうのさ」
「………」
オヅマはムっとなった。
レーゲンブルトにおいても、公爵家の騎士団での訓練においても、オヅマはそこそこ体力のあるほうだとされていた。カールのような華麗な剣技は無理だとしても、
ルミアは明らかにふてくされたオヅマを見て、片頬を上げて笑う。
「不本意、と言いたげだね」
「……正直、騎士団の走練だって、俺は一番最後まで残ってます」
騎士団で行われる走練は、速さを競うものよりも、長く走っていられることのほうが重要視される。オヅマは持ち前の負けず嫌いもあって、終了を言い渡されるまで走っていることが多かった。
しかしルミアはヒラヒラと手を振った。
「あんなの、チンタラ走ってるだけじゃないか。足を動かしてるってだけだよ。ま、自信があるなら……」
次の日から、ルミアは早朝の走練を課した。
しかも
「ふん。余裕だ」
「そうかい? あの子にどこまでついていけるかねェ?」
言ってるそばからハルカは黙々と準備して、さっさと出発する。
「馬鹿にすんなよ、婆さん」
気安い口調で言って、オヅマは走り出した。
走ることは、オヅマの得意分野であった。昨日も言ったが、レーゲンブルトにいた頃でも、走練では騎士団の誰にも負けたことはない。そもそもヴァルナルに目をかけられたのも、ラディケ村からレーゲンブルトまでの距離を、とんでもない速さで走ってきたことが発端だと、のちにカールから聞いている。
豆猿たちからの
オヅマは余裕綽々と走り出した、が。
***
「情けないねぇ。いつまで座りこんでるんだい。とっとと飯食って、豆猿たちのところに行きな!」
ようやく帰ってきたものの、薪の入った背負子をドサリと降ろしたと同時に、オヅマはその籠に寄りかかるように座り込んで動けなかった。
目の前では、ハルカが自分が運んできた薪を薪小屋に置いていっている。その顔は同じ距離を走ってきたとは思えぬほど平然としていた。
「化物かよ、お前は…」
何気なくつぶやくと、ハルカが暗い目でジッと見てくる。すぐにオヅマは訂正した。
「違う。お前がスゴイ奴ってことだ」
「ハハッ! レーゲンブルト育ちの騎士見習いも兜を脱いだかい」
ルミアに笑われても、オヅマはもはや何も言えなかった。
実際、自分が未熟であることは、今回の山走りで痛感した。
豆猿たちからの稽古は慣れないものであったから仕方ない、と誤魔化せたが、走る訓練はレーゲンブルト騎士団にいた頃からやってきたことだった。それもオヅマには自信があったのだ。
しかし、ハルカの脚力はオヅマの想像を遥かに超えていた。
小川を軽く飛び越え、坂道を駆け上り、険しく足場の悪い獣道でも、一向に速度が落ちることはない。ほとんど壁のようになっている岩場もあったが、這い登るのも降りるのも、それこそ猿のように速かった。
それに健脚であるという以上に、身体をそこまで酷使しても、ハルカが息を乱すことはほぼなかった。
心肺機能の鍛え方が違うのだ。しかし ――――
「これって……『澄眼』に関係あるんですか?」
オヅマが尋ねると、ルミアはフフンと笑った。
「訓練を
言い捨てて、ルミアはオヅマに背を向ける。
「…クソ…っ」
オヅマは自分がみっともなくて、苛立った。
ルミアはオヅマが迷っていることに気付いているのだ。
豆猿たちからの稽古にしろ、この走練にしろ、いったい何のためにやっているのかわからない。
その上、その与えられた課題を、何一つ満足にこなせていない自分…。
黙念と地面に座り込んでいるオヅマの前に、いつの間にかハルカが立っていた。
顔を上げると、やっぱり表情のない一重の瞳が、オヅマをじっと見つめていた。
「なんだ…?」
問いかけると、ボソリとハルカが言う。
「……なれ」
「なれ?」
問い返すオヅマにハルカは頷いた。
もう一度言う。
「なれ。なれる」
「なれる…?」
ハルカは頷くと、オヅマの
オヅマもノロノロと立ち上がると、薪を運びながらつぶやいた。
「なれ…なれ…なれる…馴れる…?」
***
比較的過ごしやすいとされるここ東北部のズァーデン地方であっても、確実に夏の気配が草いきれに混じって匂い立つ。
あれからもオヅマの日常はそう変わりなかった。
早朝から二山越えての走練と薪拾い、豆猿たちからの
一月近く、この修業をしている間に、オヅマはハルカの言っていた『なれ』の意味が徐々にわかりはじめていた。
要は『馴れろ』ということだ。
頭で考えるよりも馴れて、体を順応させていく。
確かに最初の頃に比べると、豆猿たちからのぶつけられる実の数も格段に減った。それはある意味、目が馴れた、といえる。
豆猿たちが投げてくる実が、さほど速く感じなくなってきたのだ。目だけでなく、投げた実の迫ってくる音や、豆猿の気配といった感覚も、以前に比べるとひときわ鋭敏になった気がする。
走練においても、今ではハルカを追い越すまでになったが、これにはまた別の事情もあった。
「さて。
ルミアは勿体ぶって言い出したが、実際にそれは稀能修得の鍵となるものだった。
呼吸による集中。
これができなければ、稀能を発現することは不可能と言ってもいい。
そのために学ぶのが呼吸法なのだが、多くの修行者たちにとって、呼吸という普段からやり馴れているはずのこの動作、あるいは極めて必然的な生命維持活動は、いざ『技能』として行うと、最も難度の高い、修得に時間のかかる代物だった。
しかしオヅマはルミアの手本を真似ただけで、なんの造作もなく出来てしまった。むしろ最初から集中が深すぎて、鼻血が止まらなくなり、ルミアが急遽止めに入ったくらいだ。
呼吸による集中は神経を研ぎ澄まし、尋常でない力を引き出すが、身体にも影響を及ぼす。その副作用を減らすためにも、体を鍛える必要があるのだ。
ルミアはオヅマの持つ特異な才能に驚きつつも、やはり疑問がぶり返した。
これは才能なのか、あるいは既に
しかしオヅマに尋ねることはなかった。聞いたところで、また「知らない」と言うのが目に見えている。
話を元に戻すと。
オヅマはこの呼吸法を利用することによって、心肺能力も飛躍的に向上し、走練においてはハルカを追い抜いた。もっとも、これまでハルカが凄すぎたのであって、これでようやく年の差分になっただけだと、オヅマは思っている。
ルミアは時々、オヅマの剣撃の相手もしてくれたが、わざと隙をつくって、オヅマに存分に打ち込ませるだけだった。
「ちゃんと攻撃しろよ! 稽古になんねーだろ!!」
まったく向かってこないルミアにオヅマが怒って言うと、しゃあしゃあと返してくる。
「
「こンの…クソ婆ッ」
悪態をつくが、ルミアはカラカラ笑って相手しない。
オヅマは口ではルミアに文句を言いながらも、そろそろ気付き始めていた。
――――― 訓練を
おそらくここでは騎士団のように、与えられた訓練をこなすだけでは駄目なのだ。自分にとって何が必要なのか、何を学ぶべきなのかを、自ら見出していかねばならない。
だが『
与えられた課題の中で、いったい何が必要なのか、自分がいったい何を学べばいいのか。
今のところは、ただ
成長できているのかもわからない。
しかし修行について悩むところはあっても、オヅマはここでの生活をある意味満喫していた。
早朝から日暮れまで、自分のおまんまを調達することも含めて、ほぼ走り回っているような毎日ではあったが、公爵邸での堅苦しい日々に比べると、ずっと気楽だ。
ルミアは師匠で、偉そうではあったが、礼儀作法に厳しいわけでもない。(「クソ婆」と言われても笑っていたくらいだ)
ハルカも相変わらず愛想はなかったが、オヅマが困っていると無言で手助けしてくれたし、最近では剣撃稽古の相手もしてくれる。
そんなわけで、すっかりこちらでの生活に馴染んでいたオヅマに、アドリアンからの手紙が届いたのは、緑清の月半ばの、雨の日のことだった。
***
『
いよいよ明日には帝都へと出発する。
元気かい? たぶん元気だろうと思ってる。
何かあれば公爵邸に
君が
君のことだから、師匠という人の厳しい稽古にも、
僕は明日から長旅だ。帝都に着いたあとのことを考えても、憂鬱になるばかりだよ。
この前、ヴァルナルに剣術の稽古を受けているときに、僕もズァーデンに行って修行を受けたいと言ったら、皆に反対された。
「大貴族の若君には必要ございません」だってさ。
誰が言ったのかは、想像できるよね?
大公殿下だって稀能者なんだから、僕だっていいじゃないかと言ったけど、「大公殿下は別格でございます」だってさ。
本当にマティの石頭にはかなわないよ。
そういえば
僕も黒角馬と普通の馬との
どうせなら騎乗して帝都まで行きたかったけど、それも禁止された。
帰ってくるまではおあずけだってさ。
エーリクも特別にヴァルナルの厚意でもらえたんだけど、彼は帝都まで騎乗して行くことを認められて、もう嬉しくてたまらないみたいだ。
普段は固まってる顔が、馬のことを考えていると、緩んじゃうんだろうな。
馬具の手入れをしながらにやけてるエーリクを見て、キャレが「エーリクさんは、何か悪いものでも食べたのでしょうか?」って、真面目に尋ねてきたよ。久々に大笑いしたな、あれは。
僕らが帝都から戻る頃には、君も帰ってきているだろう、ってヴァルナルが言っていた。
修行って、何年もかかるのかと思って、君がそうだったらどうしようかと思っていたけど、ヴァルナル曰く「半年でモノにできないなら、もうそれは才能がないということです」だってさ。
厳しいね。
それに稀能を修得できてからも、鍛錬は必要なんだって。だからヴァルナルは、騎士団の訓練以外でも、自分だけの時間をつくっては、鍛錬しているらしい。
君もヴァルナルのようになっていくなら、ますます差が開く一方だ。
剣術においては君と互角でありたかったのに。
いずれにせよ、僕はものすごく憂鬱だってことだ。
嬉々として修行に行ってる君と違って。
まさか本当にあの日のうちに出発するなんて思わなかったよ。聞きたいこともあったけど…まぁ、また帰ってきてからにしておく。
アールリンデンに戻ったら、しばらくはみっちり補講を受けてもらうよ。再来年の
そのつもりで!
アドリアン・オルヴォ・エンデン・グレヴィリウス』
***
「…………」
オヅマはそのままそっと畳んで、読まなかったことにしようかと思ったが、そうもいかない。
アドリアンはおそらくヴァルナルからここでの情報を得たのだろう。その上で、オヅマがここの生活に順応しきって、羽根を伸ばしていると予想した。
間違ってない。さすがだ。
しかし ―――
「俺に当たるなよ、俺に。愚痴を書いてくるか、わざわざ」
自然と溜息がもれる。
おそらくこの手紙で一番言いたかったのは、ロクに説明もせずに早々にズァーデンに旅立ったオヅマへの文句だ。
普段、物分かりのいい、よく出来た小公爵様然としている分、反動がオヅマに来る。他の近侍にもこんな愚痴が言えればいいのだが、最初から小公爵として対面しているせいか、なかなか難しいのだろう。
「……っとに、困った小公爵サマだ」
言いながら、手紙をまたざっと読み返す。
途中にある一文に顔が曇った。
喉にこみあげてくる苦味を無理に飲み下し、深呼吸する。
脳裡に浮かび上がってきそうなその影を打ち消して、仕方なくペンを手に取った。
『緑清の月 某日
前略 嫌味たらしい小公爵さま …………』
次回は2023.07.16.更新予定です。