結局、オリヴェルの願いが届くこともなく、ヴァルナルは今年も
いつもであれば一月前には行ってるので、今年は随分と粘った方である。
粘った…という言い方になるのは、館にいた多くの使用人達の感想を示したものだ。
玄関ホールまで見送りに来たオリヴェルとミーナに、いかにも名残惜しそうに何度も振り返って出て行く領主様に、彼らは心の中で静かにエールを送った。
最初の結婚で失敗して以来、とんとそちらの方には興味を示さなかった領主様の、ようやく芽生えた恋心だ。
身分違いとはいえど、むしろそれが故に若い女中などは色めきだった。
それとなくミーナにどう思っているのかと聞けば、当の本人はたわいない冗談だと取り合わない。
無論、一部には馬鹿馬鹿しいと一蹴する(ネストリを始めとする)使用人もいるにはいたが、地元の発展に大いに貢献してくれた領主様への敬慕が強い多くの使用人は、この不器用な恋の行方を暖かく見守っていた。
騎士団は五分の一を残して、ヴァルナルと共に向かった。
一応、平時においても領内における騒乱や災害などが起きた時のため、あとは甚だ形式的ながら北方の守りのため、兵力を少しは残しておかねばならない。
オヅマは当然のごとく残留組だった。
剣術は、最初にオヅマを気にかけてくれたマッケネンが教えてくれる。
また、旅立つ間際にヴァルナルの許可をとって、とうとう朝駆けにも参加させてもらえるようになった。
「お前は本当に勘がいいな。たった二ヶ月そこらで、ここまで乗りこなすとは」
マッケネンは素直に褒めてくれる。
カールはひねくれてるから滅多と褒めないし、アルベルトに至ってはそもそも口数が少なくて、人を褒めることに慣れていない。
オヅマは嬉しいが、多少おもはゆい気分だった。
「まぁ、馬場で練習してたから」
軽く謙遜すると、同じく残留組になったサロモンが豪快に笑った。
「んなこと言って、今日の晩には内股が悲鳴を上げるだろうぜぇ。馬場でちょこちょこ乗るのとは訳が違うんだ。しっかり軟膏塗って、冷やしておけよ」
先達の言葉はやはり真実である。
その日の夜は内股と尻にチリチリとした痛みが続いて、眠りは浅かった。
それでも朝焼けの景色の中で、馬を並べて太陽に礼拝する…あの一団に加われたことに、オヅマは我が事ながら感動していた。
もっと先の話かと思っていたのだが、案外と早く叶った。この先は、本当の騎士として認められるようにならねば。
苦手な弓も頑張って練習した。
指にも掌にもマメができては潰れて、痛みを堪えながら剣を振るって、どんどん手の皮が固くなっていく。
「オヅマ、お前、騎士になりたいと言うが、どんな騎士になりたいのだ?」
マッケネンは剣の指導を終えた後に、道具を片付けているオヅマに尋ねた。
オヅマはすぐさま大声で叫んだ。
「ご領主様! ヴァルナル様みたいな騎士になりたいです!」
周囲で同じく片付けをしていた騎士達が吹き出す。
サロモンは大笑いして、オヅマの背をバンと叩く。
「ハッハッ! ま、大望を持つのは自由だからな!」
「なんだよ! わかんないだろ」
オヅマはムキになって言い返したが、同じく騎士のスヴァンテは冷笑した。
「ハハハ。どうだか。ご領主様を目指すとなれば、
「黒杖の…騎士?」
聞き返したオヅマにマッケネンが説明してくれる。
「黒杖の騎士は、皇帝陛下より直接その栄誉を受けた一握りの騎士だ。無論、それだけの実績も能力も必要だ。大貴族の息子というだけでもらえる
「魔法!? そんなのあるの?」
「いいや、ない」
すげなく答えたのは、騎士団においてパシリコに継ぐ長老のトーケルだった。白髪混じりの髭をしごきながら淡々と言う。
「儂は生まれてこの方、この帝国の東から西からこの北まであちこち回ったが、そんな代物に出会えた試しは一度としてない。過去のおとぎ話だ」
「いずれにしろ…ヴァルナル様を目指すというのであれば、剣術だけでは駄目だな」
マッケネンはそう言って、ニンマリ笑った。
その何かを含んだ笑みを見た時、オヅマは自分の発言を少しだけ後悔した。
しかし、やっぱりヴァルナルはオヅマにとって憧れだ。
騎士達がなかなか乗りこなせない
あんな格好いいところを見せられて、憧れないほうがどうかしている。
翌日、どしゃ降りの雨で訓練が臨時休止になると、オヅマはマッケネンに食堂に呼び出された。
机の上に乗っている本を見て眉を寄せる。
「……なにこれ?」
「読み書きの本だな。それと算術の本もある。あとは礼法」
マッケネンは三冊の本をオヅマの前に並べた。
「昨日、お前の母であるミーナから聞いたが、お前、書く方はすっかり放り出しているらしいな」
「………」
オヅマは背をすぼめながら、視線を逸らした。
実のところまだラディケ村にいた頃から、時々ミーナはオヅマに文字を教えてくれようとしていた。
お陰で読むのはまぁまぁできたが、書くのはインクを買うのも難しかったのもあって、すっかりやる気をなくしてそのままだ。
「正直、お前の母のような身分の者が文字を読み書きできる上、礼法まで完璧なのは珍しいくらいだが、せっかく親に素養があっても息子にやる気がないとなぁ」
「だ…だって、いいじゃないですかぁ。騎士の仕事は戦うことなんだし…」
「お前が傭兵か、下級騎士で十分だというならそれでもいいがな。お前は将来どうなりたいと昨日言ってたんだっけ?」
「…………領主様みたいに…なりたい、です」
「だったら、最低でも上級騎士…その上で黒杖を賜ることができるほどにならないとな。そのためには…文武両道、これが
マッケネンの言葉は逃げ出す余地がなかった。
ここで逃げ出せば、オヅマは自分の言葉に嘘をついた恥知らずになる。
その上で、ヴァルナルの名前まで出して、自らの将来の目標を語ったというのに、早々に投げ出すようではヴァルナルへの不敬と取られかねない。
オヅマは目の前でニコニコ笑っているマッケネンを恨めしく見て、怒鳴るように言った。
「わかりましたよ! 勉強すりゃいいんでしょ、勉強!」
「結構」
マッケネンは頷くと、すぐにオヅマに字の書き方を教えた。
食事の時間が近付くと、オヅマにインクとペンと紙を数枚渡して、
「ちゃんと今日やったところの復習をするようにな。明日点検するから。もしやっていなかった場合は、朝駆けには連れて行かん」
オヅマはあんぐりと口を開けて、涼しい顔で立ち去るマッケネンを見た。
知り合ってから短い期間ではあるが、マッケネンはオヅマの性格を熟知していた。 オヅマにとっては、素振り五百回とか、城壁周りを延々走るとかよりも、朝駆けに参加できないことの方が罰として効果的だ。
オヅマはその日から毎晩、小屋で勉強する羽目になった。
◆
オヅマが
「なんだ。それだったら、僕と一緒に先生に教えてもらったら?」
オリヴェルは幼い頃から時々、世話係などから文字を教えてもらっていた。
当然、オヅマよりも読む知識は豊富であるし、書くことにも長けている。
最近では体調のいい状態でいることが増えたので、そろそろ帝都から家庭教師を招聘することも考えられているらしい。
「先生? そんなのいたっけ?」
オヅマが首をひねると、オリヴェルはミーナを示した。ゲッとオヅマの顔が歪む。
「冗談じゃない。母さんに教えてもらうなんて御免だよ」
「どうして? とっても丁寧でわかりやすく教えてくれるのに」
「そりゃ、お前がこの館の若君だからだよ。自分の子供相手とは違うの!」
「えぇ? だって、マリーだって教わってるよ。ね? マリー」
マリーはコクンと頷くと、腕を組んで兄をあきれた目で見た。
「しょうがないわ。だって、お兄ちゃん、母さんの話を聞いてたら寝ちゃうんだもの」
「母さんがなんか読み出したら、子守唄に聞こえるからな」
そうして船を漕ぎはじめたオヅマの耳を引っ張って、大声で怒鳴られたこともあるのだが、おそらくそんなミーナをオリヴェルは知らないだろう……
ミーナは苦笑して聞いていたが、コホンと咳払いした後にオヅマに言った。
「もし、どうしてもわからないことがあったら言って頂戴。教えてあげられることなら、力になるわ」
「大丈夫、大丈夫。マッケネンさんもあれで割と頭いいらしいから。帝都のアカデミーの試験に落ちたから騎士になったんだって。試験受けられただけでも、相当なんでしょ?」
「まぁ…だったら母さんなんて必要ないわね」
ミーナは驚いてから、少し肩をすくめてみせる。
帝国において中小規模の有象無象のアカデミーと名のつく教育機関は数あるが、『帝都のアカデミー』と通称されるキエル=ヤーヴェ研究学術府は最高峰の教育機関だ。
大陸の智慧の集積学府とも呼ばれ、多くの賢人が在籍して教鞭をとっている。
当然ながらその入学は最難関中の最難関であり、毎年のように多くの人々が受験するが、よほど頭が良くないと入れない狭き門であった。
しかも通算して五度不合格となると、永遠に入学できない。
中には最初から入学できるとは思っておらず、記念として受験する者もいたようで、昨今では受験の前に一度、考査資料を送った上で受験資格を認可する…という形になっている。
つまり、受験できるだけそこそこに頭がいいという証左になる。
「騎士って大変なのね。剣も弓もやって、お勉強までしないといけないなんて」
マリーはさすがに毎日雑役をしながら騎士団の訓練も受けて、その上勉強までしなければならない兄に、ちょっとだけ同情した。
「傭兵とか下級騎士ならまぁいいらしいんだけどさ。やっぱ騎士を目指すなら上級だろ。鎧とか全ッ然違うからな! 下級のなんか野暮ったくて…」
「鎧で決めたの?!」
「それもある」
マリーはあきれて、軽く溜息をもらす。同情するだけ無駄だった。
オヅマは妹にあきれられていることに気付かず、オリヴェルに尋ねた。
「そういや、お前知ってたか? 領主様は
「ううん。なに、それ?」
「なんかスゲーんだって」
「はぁ?」
オリヴェルが首を傾げるのを見て、ミーナが説明した。
「とても強く、心映えも優れた騎士に送られる名誉ある称号です。領主様は文武において優れておいでですが、その上で
「稀能? なにそれ」
オヅマはわからなかったが、オリヴェルはびっくりしたようだった。
「父上が? 本当に?」
「えぇ。私もよくは存じ上げませんが、そう聞いております」
オヅマは二人で話しているのに割って入る。
「なぁ、稀能って何さ?」
「稀能っていうのは、ちょっとした特別な力…みたいなもの、かな?」
オリヴェルが迷いつつ言うと、ミーナが補足する。
「周囲の人間からは、特殊な能力のように見えるのですが、実際には相当の修練を積んで可能にするものらしいですよ。元からの素養に加えて、己で磨くことで身に着けるのだと…」
「ふぅん。なんか凄いなぁ…。それって領主様が言ってたの?」
オヅマは何気なく聞いたのだが、ミーナの顔は一瞬強張った。母の態度にオヅマの方がかえって動揺する。
「え…なに?」
「いえ…なんでもないわ」
ミーナはすぐに笑みを浮かべたが、オヅマは母が何か隠していると気づいた。
いつもそういう笑みを浮かべて誤魔化すのだから。
ミーナは訝しげに見てくる息子を見つめ返しながら、問いかけた。
「オヅマ…あなたも、黒杖の騎士になりたいの?」
「え? ……あ、うん。まぁ…」
返事しながら、オヅマはオリヴェルの前ということもあってちょっと恥ずかしかった。まさか息子の前で、お前の父親に憧れているとは、声を大にしては言いにくい。
しかしオリヴェルはあまり頓着していなかった。
「じゃ、頑張らないとね、オヅマ。上級騎士なら皇宮に配属されるかもしれないから、キエル式礼法は
笑顔で恐ろしいことを言ってくる。
礼法はオヅマに課された勉強の中で最も厄介で苦手な科目だった。
「ああぁ…もう勘弁してくれよー」
ゲンナリと肩を落とすオヅマを見て、オリヴェルとマリーがケラケラ笑っている。
その様子を微笑ましく見ながら、ミーナはどこか暗い口調でつぶやいた。
「………抗えない…ものね……」
次回は2022年5月22日20:00更新予定です。