第百四十二話 新年の帝都にて
二十日近くの旅程、帝都へ入る
こういうときにお小言を言いそうなマティアスは、帝都にある自家の館へ行っている。
いつもであれば、帝都到着後の一切の差配は、マティアスの母であるブルッキネン伯爵夫人が行っていたらしいが、その夫人が領内で事故に遭い、負傷して今回は来られないので、慣れない父を手伝うためだった。
幼い頃から伯爵家における当主の仕事を近くで見てきて、それらを詳細に記していたというマティアスであればこそ、可能なことだろう。
そこへくると、テリィもまた、年輩の祖父が心配なので、身の回りの世話をしてやりたいと、一時的な暇乞いをしてきたものの、果たして本当に
それにテルン老子爵のことはアドリアンも見知っていたが、印象としては
キャレとエーリクはアドリアンに
「お疲れですね。お茶を用意致しましょう」
サビエルはさすがに従僕として、
「うん。頼む。喉が渇いた」
サビエルが部屋を出ていくと入れ違いに、エーリクが姿を見せた。
「キャレは部屋で寝かせておきました」
「あぁ、ありがとう。どう? キャレの様子は?」
「風邪ではないようです。熱もないですし、咳などもしてません。一応、医者に見せようと言ったのですが、当人がしばらく寝れば治るというので、とりあえず寝かせています」
「そうか。まぁ、初めての
いつものことだが、到着初日の帝都の公爵邸は猫の手も借りたい忙しさとなる。
公爵のことはもちろん、一緒に公爵邸に逗留する貴族の対応までせねばならないからだ。
アールリンデンにおいてもそうであるように、帝都の公爵邸においても、軽視されている小公爵の、その近侍のことなど、正直、まともに面倒をみてくれる保証はない。
「はい。では私がキャレと同室ということでよろしいですか?」
エーリクが尋ねたのは、広大なアールリンデンと違い、この帝都公爵邸内では近侍は二人で一部屋があてがわれるからだった。
特に部屋の割り振りは決められていなかったが、マティアスとテリィがおらず、体調を崩したキャレの面倒を見るのであれば、必然同室になる。
「うん、その方がいいだろう。キャレもマティと一緒だと、ずっと怒られてるみたいで気が休まらないだろうし、テリィだと我儘につき合わされて困るだろうから。エーリクだったら、一番休めるだろうしね」
話している間に、サビエルがワゴンを押して入ってくる。
「おや、エーリク公子。キャレ公子の体調はいかがですか?」
「特に問題ありません。寝ています」
にべなく答えるエーリクに、サビエルはにっこり笑った。
近侍たちはそれぞれに長所短所を持っていたが、それはコインの表裏と同じで、一見素っ気なくみえるエーリクの短所は、見方を変えれば余計な無駄口を叩かないという長所でもあった。それは同時に口堅いということでもある。
この数ヶ月、サビエルはアドリアン付きの従僕として、近侍たちに身の回りの世話について指導することもあったので、全員を弟のように思っていた。
(もちろん、近侍は貴族子弟であるため、従僕であるサビエルは節度を弁えた上での接し方を心がけてはいたが)
その中の一番の問題児は、幸いにも今回の訪詣から外されたため、何かとクソ忙しい道中に余計な仕事が増えることもなく、サビエルとしては有難いことこの上もなかった。
いたらきっとなにかしら、ひと悶着起こしていたに違いないのだ。
普段は父親(=ルーカス)に感謝することなどそうもなかったが、今回ばかりは「いい仕事してくれましたね!」と心の中で快哉を叫んだ。
そんな従僕の内心など知ることのないアドリアンは、一仕事終えたエーリクに一緒に茶を飲むかと声をかける。
しかしエーリクは空気を読まないという短所、あるいはたとえ小公爵であっても
「イクセルの様子を見に行きたいので」
という理由を聞いたときに、アドリアンは苦笑しながらも許可した。
ヴァルナルから特別の計らいによって贈られた
到着したときにキャレが倒れてしまったので、仕方なく兄のイェスタフに頼んで、厩舎まで連れて行ってもらっていたが、よっぽど嫌だったのだろう。何度も「勝手に乗るな!」と念押ししていた。
「やっぱりエーリクもお兄さんの前だと、弟に戻るんだな。あんなに必死になってるエーリク、初めて見たよ」
エーリクが去ったあとで、お茶を飲みながらアドリアンは思い出して笑った。
「兄上のイェスタフ卿はエーリク公子とはまた違ったご様子の方でしたね。見た目もそうですが、性格もなんというか…対照的というか」
サビエルがイェスタフの姿を思い浮かべながら言うと、アドリアンは一口茶を含んでから頷く。
「そうだね。僕もイェスタフ卿とは今回初めてまともに話したけれど、雰囲気はエーリクよりも柔らかい印象だったな。なんだか、オヅマと気が合いそうだ」
「確かに。あぁ、そういえば…」
サビエルはオヅマの話題が出てきて、あわててポケットをまさぐった。
「オヅマからの便りが届いていたようです」
「オヅマから?」
アドリアンはわかりやすいほどに、嬉しそうな顔になった。
サビエルの差し出した手紙を取り上げると、
「いかがなさいました?」
アドリアンは何も言わずに、サビエルに手紙を渡した。
サビエルはいざ読もうと手紙を手に取ったものの、すぐに読み終えた。
文面は簡素そのものだった。
『
前略 嫌味たらしい小公爵さま
お察しの通り。こちらは順調。
帰ったら、俺が修行して差し上げましょう。それまでご壮健にお過ごしあれ。
オヅマ・クランツ』
サビエルは一枚だけの便箋をそっと封筒に戻してから、アドリアンに尋ねた。
「これはいかが致しますか? 焼却しますか? それとも古紙として出しましょうか?」
「いや…一応、文箱に入れておいて。筆不精の人間の書いた貴重な手紙だから」
アドリアンの言葉には、たっぷりと嫌味が含まれていたが、本来それを味わうべき相手は遠く離れた場所にいて、聞こえることなど当然ながらあり得ない。
苛立ちと一緒に茶を飲み干すと、アドリアンは憮然とした表情でしばらく考えこんでいた。
「ねぇ、サビエル。オヅマが
問われてサビエルは、空になったアドリアンのカップに再び茶を注ぎながら思案する。
「左様でございますねぇ……オヅマ公子は、なにせ身軽な恰好を好まれます。近侍服なども、一番簡素なものがお好きなようですし。ですから、きらびやかに着飾ったりするのなんて、最も苦手とされるのではないでしょうか?」
「確かに…」
アドリアンは首肯して、ニンマリと笑った。
「じゃあ、帝都にいる間に、遠く離れた地で修行に励むオヅマのために、凝りに凝った服と
「それはきっと震えるほどにお喜びになるでしょう」
長旅のあとで疲れすぎた思考は、のどかな田舎でのびのび過ごしているだろうオヅマに対して、羨望や鬱憤を感じずにはいられなかったのだろう。
***
この時期に帝都に来る貴族の過ごし方は、帝都郭内に屋敷を持っているか否かで、まず分かれた。
郭内に屋敷のある人間は、そこで過ごす。
アドリアンも帝都において一、二を争う宏壮な公爵邸において、これから五ヶ月近く滞在することになる。
郭内に屋敷を持たない人間には、またいくつかの選択肢がある。
一つは郭内でこの新年の時期だけ家を借りるもの。
この家の規模は様々で、一家族だけで住むためのこじんまりとしたものから、一族全員で滞在するための大規模な屋敷を借りる者もいた。こうした家々は普段であれば貸家専門業者、あるいは大商家によって管理され、多くの場合は何代にも渡って関係性を築き、その伝手によって借りることが多かった。
最近ではこうした貸家業から発展して、大規模邸宅を貴賓客専用の宿にする例も増えてきていた。
商人からすれば、一つの家族に貸し出すよりは複数人を相手にしたほうがより実入りがいいのは言うまでもなかったし、貴族側でも夫婦二人だけや単身者などは、家一つを借りて召使いなどを引き連れて帝都に来るよりも、身軽かつ費用を抑えられるという需要もあったのだ。
ただ、一部の古い考え方の貴族などからは、この新たな業態は敬遠された。
彼らは自分たちの部屋の隣に見知らぬ誰か、あるいは自分よりも格下の貴族がいるなどという状況そのものが有り得ないことだった。
それに部屋を一歩出れば、貴族同士顔を突き合わせるのであれば、そこは社交場であり、当然ながら身なりにも気をつけねばならず、疲れてしまうという声もあった。
最後の手段は懇意の貴族や、主として仕える大貴族の邸宅に居候するという形だ。
費用の点でいえば、これは一番安上がりであった。
だが体面を重んじる貴族にとって、こうしたいわゆる『間借り』とも呼ぶべき状況は恥ずべきものとされ、多くは敬遠された。
もっとも元々貴族でもなかったヴァルナルなどは、どうせ公爵邸に日参するのだから、いっそ一緒にいた方が楽だとばかりに、毎年公爵邸に滞在していた。今年においてもそれは変わらない。
騎士たちも、帝都やその近隣に家族のいる者などは、しばらくの帰省が許された。
それ以外の者は警護や、治安維持といった仕事に従事することになるが、これも交代制で、多くの独身の騎士たちは、間近に控えた
それを当て込んだ商人たちも、プレゼントになるような品をこぞって仕入れし、特に花屋などは女性に送るための凝った花冠のサンプルなどを店先に並べて、周辺の同業者と競って声を張り上げていた。
その他にも、新年の
大釜で荒く挽いた豆を煮ていると、濃厚な香りに誘われた人々がチラホラとやって来る。上澄みを掬って供されるので、中に挽いた豆が混ざっていることもあったが、飲めば疲れがとれる…と、一種の
なにせ、この新年を控えた帝都の雰囲気というのは、気温の上昇とともに、一種独特の熱気をはらみ、一年の中で最高潮に盛り上がる時期であった。
人々は楽しそうでありながらも、とにかく忙しい。
運河をゆく小舟すらも渋滞するほどだ。
こうした帝都の華やかさに一役買うのが、各貴族家で催される夜会や園遊会、婦人方を中心とした小規模な茶話会、詩の朗詠会などであった。
誰が誰に招待状を送った、送っていないと、貴族社会においては、かしましく噂されるのが常であったが、グレヴィリウス公爵家の若君であるアドリアンなどは、毎日のように届くこうした宴への招待状や手紙の山を見るだけで、憂鬱だった。
「こちらは宰相公……ダーゼ公爵主催の園遊会の招待ですよ。返事を出さなくてよろしいのですか?」
マティアスら近侍は、揃ってアドリアンに来た手紙の山を開封しては中身を確認し『不要』『保留』『返事必須』に、分類していた。オヅマがこの作業を任されていたら、きっと早々にやる気をなくし、途中から適当にやって、マティアスといつものごとく口喧嘩が始まったことだろう。
わざわざ尋ねてくるマティアスに、アドリアンはうんざりしたように言った。
「断りの返事なんて出したって仕方ないだろう」
「いえ。行かれてもいいんじゃないかと…」
「えぇ? どうして?」
「いえ、別にまだいいとは思いますが…」
言葉を濁すマティアスに、アドリアンは首をかしげる。するとテリィが得意げに言葉を継いだ。
「ダーゼ公爵閣下の息女は確か来年で十一歳ですよ。小公爵さまよりも、一つ年下」
テリィの意図をいち早く察したキャレの手が止まった。チラとアドリアンを横目で見れば、当のアドリアンは鈍い目でテリィを見ていた。意味がわからず、問いかける。
「だから、なに?」
「将来のことを見据えて、送ってこられた…ということも考えられます」
マティアスが再び口を開く。
「将来?」
アドリアンはまた聞き返し、近侍らの興味深げな顔を見回してから、しばし考え込む。やがて答えに行き着くと、一気に顔を赤くした。
「何言ってるんだ! そんなのまだまだ、まだまだ先のことだろ!!」
テリィはようやく意図を飲み込んだアドリアンを見て、ニヤニヤ笑いながら話した。
「そりゃ結婚なんてまだまだ先でしょうけど、グレヴィリウス公爵家の若様であれば、もう婚約という話が出てきたって、おかしくはないですよ。ダーゼ公爵に限らず、ご令嬢方はきっと今か今かと手ぐすね引いて待っておられることでしょう」
アドリアンは思いきり渋面になると、まだその招待状を持っていたマティアスから取り上げて、『不要』の箱に放り込んだ。「あぁー」と、テリィがもったいなさそうに声を上げる。
「いいんですかぁ? ダーゼ公爵の一人娘といえば、噂では相当な美少女らしいですよ。母方が北方の異民族の血を引いていたとかで、珍しい髪色らしくて。小公爵さまとお似合いかもしれません」
「くだらない! ただでさえ明後日の夜には、ここで夜会が開かれるんだぞ。それだって嫌だっていうのに、どうして
吐き捨てるようにいうアドリアンに、マティアスがまた鹿爪らしく申し述べた。
「そうも言ってはおられません。不本意でしょうが、こうした集まりにおいて顔を見せて知遇を得ることは、将来的にも必要なことだと…先生方も
アドリアンは唇を噛み締めて押し黙ったあとに、吐き捨てるようにつぶやいた。
「どうでもいいよ。どうせ公爵様がお決めになるだろうから」
背後で聞いていたサビエルも、近侍達も、その投げやりな態度に少しばかり違和感を持った。
誰も言わないが、アドリアンの母親である亡き公爵夫人は、本来の婚約者ではなかったものの、公爵閣下からの熱烈な求愛によって結ばれた。当然、その息子であるアドリアンもまた、両親のような恋愛結婚を望んでいるだろうと、皆が予想していたのだ。
しかしアドリアンは自分の将来の伴侶について、どこか忌避していた。なんであれば、結婚なんてしたくもなかった。
「小公爵さまは、どのような方が相手であっても、公爵様のご命令に従うということですか?」
少し震える声で尋ねたのは、意外にもキャレだった。
近侍たちは目を丸くして、やや紅潮した顔で、問いかけるキャレを不思議そうに見た。
しかし、アドリアンは普段は無口なキャレまでもが、こうした話題になると俄然口を開くことにも、多少苛立った。
「そうだよ」
「それでよろしいのですか?」
キャレが重ねて問うてくるので、アドリアンはますます不機嫌になった。
「それでいい。なんの文句がある? 公爵様が…いやどうせルンビック子爵かザウナール補佐官あたりが、公爵家に見合った、然るべき
「小公爵さまのお相手ですよ? どうしてそんなに他人事のようにおっしゃるのです? 公爵閣下のように、ただ一人の愛する人と結ばれたいとは思われないのですか?」
その日のキャレは、まったくもって理解不能だった。
いつもなら、ここまではっきりと不快感を表すアドリアンを目の前にしたら、ビクビクしながら口を噤むものなのに、キャレは自身にも自分がどうしてこんなにムキになって言い立てるのかわからなかった。
アドリアンはダン! と机を叩くと、とうとう立ち上がった。
キャレはアドリアンが机を叩いた音にビクリと震えて、身を固くする。だが、スタスタと扉のほうへと歩いていくアドリアンをあわてて呼び止めた。
「お待ちください、小公爵さま!」
その甲高い鋭い声にアドリアンの足が止まる。しかし振り向くことはなかった。
キャレはギュッと自分のシャツを鷲掴みしながら、ゴクリと唾をのみこんだ。自分でもどうしてこんな勇気が出てくるのかわからない。けれど止められなかった。
アドリアンの拒絶の背を見つめながら、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「私は…庶子です。望まれぬ子でした。父は母を妻とも認めませんでした。だから…公爵閣下と奥方様のご関係は、とても…その……いいものだと、思います」
最後は重くなっていく空気に押しつぶされるように小さい声になったが、キャレは言い切った。
アドリアンは佇立したまましばらく黙していたが、やがてまた低くつぶやいた。
「僕は父上とは違う。僕は…誰か一人を特別に思うなんてことはしない」
静かな声音には、断固とした意志があった。
キャレはアドリアンの冷たい面に、心臓が凍りついて、ミシリと罅割れた気がした。
アドリアンの姿が扉の向こうに消えても、キャレは固まったまま、閉じられた扉を見続けた。