キャレは部屋に入るなり、自分が注目されていることに気付いた。しかもひどく間の悪いことに、目の前には驚いた顔で固まっているアドリアンがいる。
「あ……」
冷水を浴びせられたかのように、キャレは我に返った。
一気に血の気が引く。
だが、もっと困ったのはアドリアンの顔を見た途端に、涙が出てきてしまったことだった。
「…何があった?」
アドリアンが尋ねると、エーリクはアドリアンの前に進み出て、深々と頭を下げた。
「お騒がせして、申し訳ございません。その…」
エーリクは迷ったが、結局は頑なに拒んだキャレの意思を汲んだ。だが、適当な言い訳も思い浮かばない。
「特に、何もありません」
何の説明にもなってない答えに、マティアスは眉を寄せたが、アドリアンはすぐに頷いた。
「あぁ、そう。じゃあ、いい。……それでテリィ、おいしいのはどれって?」
何事もなかったかのように、クルリとキャレ達に背を向けて、テーブル近くにいたテリィに声をかける。
テリィは緊迫した状況に目を丸くしていたが、アドリアンに朗らかに尋ねられて、ハッと我に返った。
「あ、あの…ハイ、これです」
「じゃあ、食べよう。エーリクと、キャレも。お腹が空いていると、気が短くなってしまうっていうからね」
言っている間にも、ベランダ側のテーブルにはなかった料理を目指し、チラホラと食いしん坊貴族たちが部屋に入ってくる。
アドリアンは皿に手早く数品を盛って、キャレのほうへと向かった。
「え…?」
キャレはどこか気まずくて、皆から離れた壁際に立っていたのだが、近づいてくるアドリアンに困惑しておどおどと目を泳がせた。
アドリアンはキャレの前に立つと、手に持っていた皿を「はい」と差し出す。キャレは目をしばたかせ、アドリアンをぼんやりと見つめた。
「キャレの好物のさくらんぼのタルトもあったよ。その海老と何かのムースのパイ包みはテリィのオススメだ。何か、がどんなものかは食べて確認するしかないけど」
アドリアンは少しおどけたように言って、朗らかに笑う。
キャレはますます目が離せなかった。優しい光を宿した
「あれ? 違ったっけ? さくらんぼのタルト、好きだと思ったんだけど」
「いえ…」
キャレはさっと指で零れそうになった涙を拭うと、皿を受け取り、さくらんぼのタルトを一口食べた。
「……美味しいです」
ようやくキャレは笑えた。
アドリアンも微笑む。
タルトを食べながら、キャレは初めて兄に感謝していた。
兄の思惑がどうあれ、こうしてアドリアンに出会えたこと。それがキャレにとって、何よりの喜びだ。
***
一方、他の近侍たち ――― マティアス、エーリク、テリィの三人は、微妙な表情でキャレとアドリアンの様子を窺っていた。
「なにがあったんだ? 結局は」
マティアスが怪訝にエーリクに尋ねたが、やはりエーリクはうまく言い繕えなかった。
「ちょっと……」
「なにその気になる言い方」
テリィは肩をすくめると、大口を開けて海老と何かのムースのパイ包みにパクつく。今日はこれで五つは食べている。このパイ包みは人気のようで、もうあと三つほどしか残っていなかった。
「あ、先にあと一つもらっておこう…」
まだ手元の皿に一つ残っているというのに、テリィはまたそのパイ包みを取ろうとして、トングに手を伸ばした瞬間に、横から掠め取られた。
「おい!」
ムッとなって叫んだのは、そのトングを取ったのが自分よりも小さな女の子だったからだ。
「ぼっ、僕が先に取ろうとしていたんだぞ!」
しかし女の子の方は、そんなテリィをジロリと見て、吐き捨てるように言う。
「先に取られたのは、あなたが鈍臭いからでしょ」
「な、なにっ?」
「なぁに? こんなところで大声出して。みっともなーい」
いかにも憎らしげな口調で言いながら、女の子はトングを素早く動かして、残っていたパイ包みをすべて取ってしまった。
「あっ! オイ! かっ、勝手に全部取るな!」
「どうしてよ? 私は自分の分以外に、お兄様の分も取ってあげてるんだからね」
「そっ、そんなの知るか! 僕が一切れ取ろうとしてたんだ!」
「あなた、もう皿に一つ乗っているじゃないの!」
テリィよりも明らかに年下 ―― おそらく十歳前後 ―― であろうが、女の子は口達者だった。
気の強そうな青い瞳と、今日の日のためにとキツく編み込み、結い上げた
二人の小さな喧嘩に大人たちは少々あきれ顔ながらも、どこかしらほのぼのと見ていたが、一人ゲンナリした顔になったのはエーリクだった。
「どうした?」
マティアスが尋ねると、エーリクは「いや…」と軽く首を振ってから、
「すまないが、ちょっと、これ持っててもらえるか?」
と、皿を預けた。
「なんだ?」
首を傾げるマティアスを置いて、エーリクはテリィと言い争いをしている少女のほうへと歩いて行く。
「ルイース」
いきなり背後から野太い声で呼びかけられて、女の子はビクリと震えた。皿に乗ったパイ包みが跳ね上がる。もう少しで落ちるところで、女の子は上から蓋するように手で押さえつけた。
「ちょっと! エーリク兄さん。いきなり声かけないでよ。びっくりするじゃない!」
「兄さん?」
テリィが驚いたように、エーリクを見上げる。
「なに? 君の妹?」
「あぁ。ルイース、こちらは俺と同じく近侍のチャリステリオ・テルンだ。ちゃんと挨拶しろ」
「あらまぁ」
ルイースは驚いたように言ってから、目の前で皿の上のパイ包みをパクリと食べた。
「おい! なっ…なんで食べるんだ!」
「私の皿にあるものを食べて何が悪いのよ」
「なっ…なんて口の利き方だ! ぼ、ぼ、僕は…っ、てっ、テルン子爵家の嫡子だぞ!」
慣れない人間に対して、テリィはどうしてもどもってしまう。その上、怒っているので、ますます症状がひどくなった。
そんなテリィにルイースは小馬鹿にしたように、それでも一応兄の顔を立てて挨拶した。
「まぁ、そうでしたの。気付きませんでした。ルイース・イェガと申します、テルン公子。それにしても、ずいぶんと
ルイースの辛辣な指摘に、テリィは自分でも気にしていたから尚の事、恥ずかしさと怒りで、もう首まで真っ赤になった。
妹の背後で苦い顔のエーリクに、半泣きで抗議する。
「おい! エーリク! ちょっとひどいんじゃないのか、君の妹」
「………すまん」
「謝る必要なんてないわよ、エーリク兄さん。この人、ベランダ側のテーブルでも、このパイ包みをたらふく食べていたんだから。それで、こっちに残ってるかと思ってきたら、こっちでも漁ってるなんて……さもしいったらないわ!」
「なっ! なっ!」
テリィは怒りすぎて、もはや言葉も出なかった。茹でられたように真っ赤になるテリィを見て、ルイースはあきれたように笑った。
「まぁ! 嫌だ。子爵家の跡継ぎになる人が、年端もゆかない女の子相手にプリプリ怒るなんて…品位はどこに置いてこられました?」
「いい加減にしろ」
あまりに嫌味な妹の物言いに、エーリクが軽くその頭を小突くと、挿してあった髪飾りが落ちた。
「きゃあッ! ひどい!! 何するのよ!?」
ルイースは金切り声で兄を怒鳴りつけた。
エーリクはますます面倒になったと、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「……悪い」
ボソリと謝ったが、ルイースの怒りは収まらない。
皿を荒々しくテーブルに置くと、エーリクに詰め寄った。
「この髪を結い上げるのにどれだけ時間がかかったかわかってるの? 今日は朝早くから湯浴みして、マーサとロッティとエッカたち三人がかりで髪を洗って乾かして、朝ごはんをつまみながらドレスを着て…」
噛みつかんばかりの剣幕で言い立てる妹に、エーリクは閉口した。
こうなると怒るだけ怒って、疲れて鎮火するまで何もできない。
しかし、その噴火した火山みたいになっているルイースの肩を、そっと叩く人がいる。
エーリクはハッとしたが、止める間もなかった。
「なにっ?」
ルイースは怒りのままに振り返り ――― 固まった。
「これ。落ちたままだと踏まれるから」
穏やかに言ってルイースの髪飾りを差し出したのは、アドリアンだった。
***
ルイース・イェガはエシル領主ブルーノ・イェガ男爵家の一人娘だ。
当主のブルーノは勿論、跡継ぎとしての男は望んだものの、それは長男が出来て、その後に次男が生まれたことで、もう十分だと思った。だから三番目もまた男であったときは、わかりやすく落胆し、生まれたばかりのエーリクを抱いた妻から、大層な叱責を受けた。
であるから、四番目に生まれてきた待望の娘を彼が猫可愛がりしたのは、想像に難くない。
それはブルーノだけでなく、どれだけ可愛く着飾っても、ひたすら汚すことしかしてこない男三人の成長に呆れ果てていた妻・アイナも同様であった。
両親だけではない。
当時は壮健であったイェガ男爵の前当主、年の離れた兄二人(エーリク除く)、エシル騎士団の騎士たちから、イェガ家で働く使用人まですべて、ルイースを溺愛した。
ちなみにエーリクはルイースとは三歳しか違わないので、兄達ほどに妹に甘くはなかったが、喧嘩することはなかった。
幼い頃に妹を泣かしたときに、兄達からこっぴどく叱られて以来、この妹の我儘に対抗するのは諦めたのだ。
そういうわけで、エシルにおいてルイースは無敵であった。
皆から『この世でもっとも可愛らしいお嬢様』と言われ続け、自分でもそう思って生きてきた。これまでがそうであったように、これからの人生も、自分の望むままに進んでいくことを信じて疑わなかった。
「ルイース、お前の結婚相手が決まったんだ…」
気まずそうに父が話してきたとき、ルイースは世界が一気に氷で覆われたのかと思った。
まだ自分は初恋すらしたことがないのに。
きっとこれから恋物語の
だがルイースは自分を励ました。
もしかしたらその結婚相手こそ、自分にとって理想の王子様であるかもしれないではないか。
だが姿絵を見せられ、相手の年齢を聞いた途端に、ルイースのわずかな希望も打ち砕かれた。
「やだ!」
ルイースは姿絵をテーブルに放り出し、ソファにふんぞり返って叫んだ。「やだやだやだやだやだやあぁぁあだッ!!」
両親も兄も、ルイースの反応を予想していたのだろう。
とりあえずその場では、無理に言い聞かせようとはしなかった。
ルイースはその後も断固として拒否したものの、いつもたいがいのルイースの我儘を許してくれる父ですらも、この件については、娘の願いを聞き入れることはなかった。
そもそも当初からルイースに拒否する権利はなかったのだ。
その日から、ルイースは何をしても楽しくなくなった。何をしても無駄に思えた。それこそ花嫁教育よろしく、相手の家から派遣されてきた女の家庭教師は、ルイースのやることなすことにケチをつけ、挙句の果てには母にまで文句をつける。
本当に嫌で嫌で嫌でたまらなかった。
しかもその婚約者とやらは、自分と婚約しても一度もエシルに挨拶に来ることもなかった。定期的にルイースにプレゼントを送りつけてきたが、どれもこれも、まったく面白みのない、平凡な、愛情なんてものは欠片も感じられない贈り物ばかりだった。
ルイースは自分もそうだが、相手もさほどに自分と結婚したいわけではないのだと理解した。贈り物に簡単なメッセージは添えられていたものの、手紙などは一切来なかったからだ。
今日、初めてその婚約者と会ったが、彼は最初にルイースに丁重に挨拶したあとは、ひたすら父と話すばかりだった。
ルイースは母の後ろで、チラチラと何度か彼を観察していた。
終始笑顔で、一見、優しそうであったが、時々眼鏡の奥のアンバーの瞳が、周囲の人々を威圧的に見回していた。
なによりルイースは、彼の薄い、血色の悪い唇が好きになれなかった。
成人は十七歳。あと、五年。
ルイースは楽観的に考えることにした。
人生には何があるかわからない…と、亡くなった祖父の言葉を思い出す。
もしそうならば、向こうから婚約を破棄してくることだってあるかもしれない。いや、むしろ……破棄させればいい。
そこからルイースはずっと、ハヴェル・グルンデン公子から婚約破棄をさせるための方策について考えていたのだが、考え事をしていればお腹も空く…ということで、まだ料理が豊富に残っているらしい東の小部屋に訪れた。
まさかそこで『運命の出会い』が待っているなどとは露と思わず。
こうしてルイース・イェガにとっての物語は始まった。
***
アドリアンは首を傾げた。
目の前でさっきまで尻尾を踏まれた子犬のように怒りまくっていたルイースが、振り返った途端に固まって、アドリアンの差し出した髪飾りを受け取ってくれないからだ。
「あの…? これ、あなたのですよね?」
アドリアンは一応尋ねた。
どう考えてもそれはエーリクが妹をちょっと叱りつけたときに落ちたものなので、間違えようもなかったが、何か声をかけないと、目の前の女の子が永遠に動かないような気がする。
エーリクは止まってしまった妹を怪訝に見て、いつまでも受け取ろうとしないので、一歩前に進み出た。アドリアンの手から髪飾りを取ろうとして、脇腹を思いきり肘で突かれる。
「ぐッ!」
いきなり呻き、エーリクは脇腹を押さえて止まった。
アドリアンも、傍にいたキャレも、何が起きたのか理解できなかった。それはルイースの着ていたドレスの装飾のドレープに隠され、脇腹を
「エーリクさん? どうしたんですか?」
キャレが尋ねてもエーリクは返事しない。斜め前から、自分を睨みつける妹の激しい威嚇を感じる。……
「ありがとうございます」
兄を牽制したルイースは振り返ると、にこやかに笑ってアドリアンから髪飾りを受け取った。
「優しい御方、お名前をお伺いしてもよろしいかしら?」
その台詞を聞いて、その場にいた数人の令嬢達は思わず吹き出しかけた。
それは、彼女らのような娘たちであれば誰でも一度は読んだことのある、少女向け小説『茨の城のかわいいお姫様』に出てくる一節であったからだ。それ以外のご令嬢でない面々は、ルイースの質問に苦笑いだった。
エーリクは脇腹を押さえたまま、慌てまくった。
「な…馬鹿、ルイース、お前…ッ」
しかしアドリアンはそんなエーリクの様子を面白げに見ていた。軽く手を上げて制する。
「いいよ、エーリク。初めて会ったのに、名乗らないのは確かに失礼なことだ。初めまして、イェガ令嬢。僕はアドリアン・グレヴィリウスと言います」
「あっ!」
そこでルイースはようやくそれが小公爵であることに気付いた。
考えてみれば、その
同時に、ルイースはますます高揚した。
まさに今、この場、このときこそが、自分のために
「初めまして、小公爵さま。
ルイースは鬱陶しい家庭教師に今は感謝した。
小公爵であるアドリアンの前で、非の打ち所がない優雅な挨拶をすると、ルイースは父がよく褒めてくれる『花が
「まったく、なんで小公爵さまに気づかないんだよ。さっきだって、閣下と一緒に高座に立たれていたっていうのにさ…」
さっきまで言い争っていたテリィがブツブツ言い、マティアスも鹿爪らしい顔で頷く。彼らはルイースのあまりの豹変ぶりと、小公爵であるアドリアンに対する馴れ馴れしい態度に、不快感も露わであった。
一方で近侍二人からの厳しい目にも、ルイースはまったく平然としたものだった。
確かに公爵閣下の挨拶のときに、高座に公爵と似た少年がいたのは知っている。
ただ、離れていたし、人が多く立っていてよく見えなかったのと、そもそもその時にはハヴェルとの婚約破棄のことを考えるのに忙しく、正直気にしていられなかったのだ。
「兄から小公爵さまのお話を聞いて、一度、お会いしたいと思っていました。今日、こうして会うことができて、とてもとても嬉しいです!」
アドリアンは急にルイースが自分のほうに一歩寄ってきて、妙に熱っぽく言ってくるので、思わず半歩さがった。
「それは…どうも。じゃあエーリク、久々に妹さんと一緒に…」
さりげなくエーリクのほうへと促したが、ルイースはまったくそこから動こうとせず、きっぱりと言う。
「いいえ! 小公爵さま。兄なんてどうでもよろしいのです!」
「え?」
「エーリク兄様はいつも、ずーっと、むっつり押し黙ってばかりで、つまらないのです。一緒にいても、ちぃーっとも楽しくなんかありません。それよりも私は小公爵さまとお話がしたいですわ。いえ、是非にもお話ししたいことがございます!」
アドリアンは困惑し、助けを求めるようにエーリクを見つめた。エーリクは頷くと、妹の腕を掴んだ。
「いい加減にしろ。小公爵さまに対して、失礼だぞ」
「黙ってて頂戴、エーリク兄様。普段は縫い付けたみたいに口が開かないのに、どうしてこういうときには開くのよ」
「……いいから、お前が黙れ」
エーリクはいっそ妹の口を塞ぎたいくらいだったが、前にそれをしたときに噛まれたことを思い出す。あのあと膿んで、しばらくは剣を持つのも難儀したのだ。
しかしルイースは別の手段を編み出したようだった。
この日のために新調した
「がッ!」
エーリクはまた呻いて、今度はうずくまった。
兄から逃れると、ルイースはアドリアンの手を掴んだ。
「助けてください、私を。望まない結婚を強いられているんです!」
引き続き、更新します。