昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百四十九話 グレヴィリウス家の夜会(7)

「……それ…って」

 

 アドリアンは絶句した。

 エーリクの妹であるルイースがハヴェルと婚約したということは、アドリアンもルーカスから聞いて知っていたが、まさか当人がこうまであけすけに内情を喋るとは思わなかったのだ。

 

 驚いて固まる周囲に我関せず、ルイースは続ける。

 

「小公爵さまが私と結婚してくだされば、私はあの人と結婚せずに済むわ! だって、あの人よりも小公爵さまのほうが偉いでしょう? あ…偉いってだけじゃなくて、小公爵さまがとても素敵だってことが一番ですわ。えぇ、もちろん」

 

 アドリアンは呆気にとられた。

 いったい、この女の子は何を言ってるんだろうか? というかそもそも、自分が()()()()()()言っているのか、わかっているのだろうか?

 

 テリィはもちろん、マティアスですらも、ルイースの突然の申し出に開いた口が開いたまま、何も言えなかった。

 小部屋にいた人々は皆、一様に石と化してしまったようだった。

 

 エーリクはいつまでも(うずくま)っていることもできず、痛みをこらえてどうにか立ち上がった。

 今度こそなんとしてもこの妹の口を塞がねばならない。

 久々に怒鳴りつけようと息を吸い込んだとき、鋭い声が響いた。

 

「なにを言っているんですか、あなたは! 無礼にも程がある!!」

 

 叫んだのはキャレだった。

 それまであまりに急な状況に混乱して何も言えなかったキャレは、それこそルビーの髪を炎のように揺らめかせる勢いで、怒りに震えていた。

 

「参りましょう、小公爵さま! このような礼儀知らずを相手になさる必要はございません!!」

 

 キャレはルイースが握っているのと反対のアドリアンの手を掴むと、グイと引っ張る。

 

「ちょっと!! 何するのよ!」

 

 負けじとルイースもしっかり掴んで離さない。

 

「離しなさい! 失礼な!」

 

 キャレが怒鳴りつけると、ルイースも青い目に怒りを灯して睨みつける。

 

「あなたこそ邪魔をしないで頂戴! (わたし)は、今、とっても大事な話をしているのよ!!」

「お黙りなさい! あなたが勝手に話し始めただけでしょう!」

「うるさいわね! あなたには関係ないでしょう!」

「私は小公爵さまの近侍だから、十分に関係はあります!」

「私だって、その近侍の妹なんだから、いいでしょ!」

「なにそれ!」

「なによ!」

 

 甲高い声で喚き散らす二人の間で、アドリアンは呆然とするばかりだった。

 喧嘩をやめさせようと口を開いても遮られ、腕をあっちにこっちにと引っ張られて、為す術もない。

 そうこうしている間に耳も痛いし、腕も痛くなってきた。

 

「ちょ…っ…と」

 

 さすがに腹が立ってきて、抗議しようと思ったとき、入口に現れた人の姿に顔が強張る。

 そこにいたのは、父とハヴェルだった。

 一気に、背中に汗がふきだした。

 

「黙れ…」

 

 渇いた口の中でつぶやくが、すっかり喧嘩に夢中のキャレにもルイースにも聞こえない。

 エーリクやマティアスも、公爵閣下の前で怒鳴り声をあげる勇気はなかった。というよりも、目の前で言い合っている二人以外は、公爵が現れた途端に空気が冷えたかと思うくらいの緊張を感じて、とても口をきける状態でなかった。

 

「うるさい! 黙れ!!」

 

 アドリアンが怒鳴ると、ようやくキャレとルイースは口を開けたまま止まった。

 手首を掴んでいた二人の力が弱くなったので、アドリアンは両手を振り払った。

 すぐにその場に片膝をついて、父に頭を下げる。

 

 キャレも、そこに公爵がいることに気付くと、一気に青くなって、ほとんど崩折れるように跪いた。

 ルイースは恐る恐る振り返り、公爵とハヴェルの姿を認めると、さすがに血の気が引いて、キャレと同じようにへなへなとその場にしゃがみ込んだ。

 

 さっきまで騒々しかった小部屋は水を打ったように静まり返った。

 そこにいた人々は皆、公爵に対して頭を下げたが、それは敬意を表すというよりも、かの人の視界に入ることを恐れたからだった。

 唯一、頭を下げることもなく、公爵の隣で相変わらず笑みを浮かべていたのはハヴェルくらいなものだ。

 

 ピンと張り詰めた空気の中を、公爵 ―― エリアスはゆっくりとアドリアンの前に歩いて行く。

 跪いた息子の前に立ったまま、しばらく無言だった。

 

「……この騒ぎはなんだ?」

 

 静かな問いかけに、アドリアンはすぐに答えられなかった。

 元はと言えばルイース・イェガが訳の分からないことを言い出したのが発端ではあるが、そのことを今ここで言えば、彼女自身もその兄であるエーリクも、ひいてはイェガ男爵も身の置き所のない状況になるだろう。

 

「申し訳ございません」

 

 アドリアンが謝ると、エリアスは眉をわずかに上げた。

 

「謝るのであれば、この騒ぎの(もと)となったのは自分であると認めるのだな?」

「それは…!」

 

 マティアスが顔を上げて言いかけるのを、アドリアンはキッと睨んだ。マティアスはすぐに強い視線に気付き、口を閉ざす。

 アドリアンは再び深く頭を下げて、静かに認めた。

 

「はい。そうです」

 

 エリアスの(とび)色の双眸がスッと鋭くなり、眉間に気難しげな皺が寄る。

 アドリアンはまた父から叱責を受けると身構えたが、そこに割って入ったのは朗らかなハヴェルの声だった。

 

「まぁ、仕方ございませんよ、公爵閣下。小公爵様はなにせ、閣下に似ておられますから。年相応のご令嬢であれば、のぼせ上がるのも無理ございません」

 

 エリアスは怪訝にハヴェルを見た。

 

「相変わらず暢気(のんき)だな。そこの子女は其方(そなた)の婚約者であろう?」

「えぇ」

 

 ハヴェルはニコリと微笑むが、顔色を失くして座り込んだままのルイースに手を差し伸べることはなかった。

 

「まだまだ幼いので、世情に疎いところも、純真無垢と申せます」

「寛大なことだ…」

 

 エリアスはつぶやいてから、ルイースに目をやる。

 ルイースはしゃがみ込んだまま、公爵からの視線を浴びて、震えが止まらなかった。恐怖でボロボロと涙があふれてくる。しゃくりあげて泣き出したものの、誰も彼女をなだめることはなかった。

 

 エリアスは再びアドリアンに問いかけた。

 

「お前の罪がわかるか?」

「………騒ぎを起こしたことです」

「そう。近侍と令嬢の慎みない争いを招くなど、グレヴィリウスの品位に瑕をつける醜態ぞ。それにハヴェルの面目も傷つけた」

 

 アドリアンは黙って頭を垂れる。

 空気はどんどんと重さを増し、その場に居合わせた人々は息苦しくなるほどだった。

 そんな中で、ハヴェルだけが笑っていた。

 

(わたくし)のことなど、お気になさらず。たかだか一侯爵家の次男坊に過ぎませぬ。名門エシルのご令嬢であらせられるルイース嬢にとっては、八歳年上の婚約者など、けむたいだけの存在でございましょう」

「言うことよ」

 

 エリアスは、ハヴェルの物柔らかな言葉の中に含まれた嫌味に、皮肉げな微笑を浮かべ振り返った。

 背後にはブルーノ・イェガ男爵が、跪いて頭を垂れている。

 

 そもそもこの部屋に訪れたのは、高座での謁見を終えたエリアスに、ハヴェルが新たな婚約者を紹介したいと申し出てきたからだった。

 当然、婚約者であるルイースの親であるイェガ男爵もまた、公爵に直接娘を紹介するとなれば放っておくわけにもいかない。それにルイースはより豊富に料理が残っている東の小部屋に行ったばかりであったので、男爵は二人の案内がてら共に向かったのだ。

 

 だが衝立だけで遮られたその部屋から聞こえてきた娘の大声に、ブルーノは凍りついた。

 

 ―――― 小公爵さまが私と結婚してくだされば、私はあの人と結婚せずに済むわ!

 

 一緒についてきた妻は、娘の突拍子もない発言に顔色を失くして倒れてしまった。ブルーノはあわてて次男に妻の介抱を頼み、自分は公爵の背後でただただ恐懼して頭を下げるだけだった。

 

 目の前では、とばっちりでしかないにも関わらず、小公爵であるアドリアンが、公爵からの静かな叱責に黙って頭を下げていた。

 ブルーノはひどく心が痛んだが、自分に発言権などあろうはずもない。

 

「イェガ男爵、なにか言うことはあるか?」

 

 エリアスは、大きな体を小さくしてかしこまるブルーノに尋ねた。

 だが、返事はない。

 

 ブルーノは何かを言わねばならないとは思いつつ、何を言えばこの場が穏便に済むのかがわからなかった。何かを言おうとして開いた口は震えたままカラカラに渇き、額から噴き出す汗も止まらない。

 

 エリアスが苛立たしげに眉を寄せると、緊迫した主従の間にハヴェルが割って入った。

 

「公爵閣下、お許しください」

 

 ハヴェルはエリアスの前で、アドリアンと同じように片膝をついて、恭しく辞儀をした。

 

「このような仕儀となりましたのは、私の不徳の致すところでもあります。此度(こたび)の婚約の意義について、まだ幼いご令嬢に気詰まりな思いをさせるのも悪く思い、あえて詳しく語らずにいたのですが、そのことでご令嬢の()()を招いてしまったようです。それに、イェガ男爵にも申し訳なく思っております。父にとって娘というのは、特に愛しい存在だと聞きます。まして男爵におかれては掌中の珠のごとく可愛がってきた一人娘。正直、不本意であったことでしょう」

「そのようなことは…ッ」

 

 ブルーノはあわてて否定しようとしたが、ハヴェルは振り返り、ほんのわずかに首を傾げた。

 柔らかなアンバーの瞳が、一瞬冷たく光って、ブルーノを刺す。

 ハヴェルは再びエリアスの方に向き直ると、頭を下げたまま続けた。

 

「まだまだ幼いご令嬢では、受け容れるのに時間もかかろうと…それは私も了承しております。ですから誠実に、気長に向き合っていこうと考えております。何事も心をこめることが重要だと…かつてリーディエ様も仰言(おっしゃ)っておられましたから」

 

 亡き公爵夫人の名前を、この場で口にすることができるのは、ハヴェルくらいであった。

 懐かしそうに言うハヴェルの様子に、エリアスの鳶色の瞳が愁いを帯びる。

 だがすぐにいつもの冷徹な表情に戻ると、ブルーノに言い渡した。

 

「ハヴェル公子の温情に免じて、令嬢の不始末については不問としよう。早急に()()して、十分に()()致せ」

「……はっ」

 

 ブルーノは平伏しながらも、またどっと全身から汗が噴き出た。

 公爵の言っている内容は、ある意味苛烈であった。

『保護』という名で()()し、『養生』という言葉で()()させろと言っているのだ。 

 

 震えるブルーノよりも早くに、腰を抜かした妹を抱え上げたのは、いつの間にか戻ってきていた次男のイェスタフだった。

 公爵とアドリアンに黙って頭を下げると、父と共にその場から立ち去った。

 

「では、私も幼き婚約者の様子を見てまいります」

 

 ハヴェルもまた、公爵に一礼すると踵を返して歩き出す。

 一度だけ振り返って、アドリアンを一瞥した。その目には憐れみが浮かんでいたが、再び前を向いた口の端にはうっすらと嗤笑(ししょう)がひらめいた。

 

 ハヴェルの背を見送りながら、アドリアンは拳を握りしめた。

 見えなくともわかる。彼が自分を嘲笑ったことが。

 

 今、この場において、一番の道化はアドリアンであった。

 

 

***

 

 

「この者はお前の近侍か?」

 

 エリアスはルイースについての()()が済むと、またアドリアンに向き合った。アドリアンの斜め後ろで、額をこすりつけんばかりに平伏するキャレを、ジロリと見つめる。

 

 キャレは公爵の視線が自分に向けられているとわかっただけで、ますます恐縮して体を固くした。心臓が凄まじい勢いで拍動して、冷や汗が止まらない。頭だけが熱く煮え(たぎ)り、首から下は冷え切って、小刻みに震えだす。

 

「……キャレ、謝罪……謝れ、早く…」

 

 マティアスがヒソヒソと囁き声で促してきて、キャレはハッと顔を上げた。途端に冷たく冴えた公爵の目が自分を射る。

 

「あ…う……」

 

 キャレは頭が真っ白になって、もう言葉を紡ぐこともできなくなった。

 その場にいた者たちの視線がキャレを責め立てた。

 怪訝に見つめてくるアドリアンの目ですらも、キャレを追い詰めてくる。

 呼吸することすら、ままならなくなってきた。……

 

「……キャレ?」

 

 アドリアンは思わず声をかけた。

 あまりにも顔色が悪い…というより、もう真っ白だった。

 

 キャレの異変に気付き、いち早く動いたのは意外にも公爵であるエリアスだった。

 キャレの前に屈み、息も絶え絶えとなっている口を大きな手でフワリと覆う。

 そのときにはキャレはもう意識が朦朧となっていたが、低く呼びかける公爵の声だけが聞こえた。

 

「ゆっくりと息を吐け、長く……」

 

 苦しげに顔を歪めながら、キャレはひたすら公爵の言う通りにした。

 ゆっくりと、長く、息を吐く。吐ききってから、静かに鼻から息を吸う。

 

 平坦な声は、まるで神官の読み上げる念誦(ねんず)のように淡々としていたが、キャレにはそれが安心できた。

 

 徐々に呼吸が整い出すと、今度は急激な眠気に襲われる。

 なにか大きなものに包まれた心地よさに、そのまま身を委ねたかった。

 

 かすかに開いた目に、アドリアンと似た端正な顔立ちの男が映る。

 (とび)色の瞳に表情はなく、どんよりとしていたが、怒っているようではなかった。

 

 ――――― 本当に、似てる…小公爵さま…

 

 そんなことを思いながら、キャレは気を失った。

 いや、眠った…と言った方が正しいのかもしれない。

 夜会のことを考えると胃がキリキリ痛んで、昨夜はロクに眠れなかったのだ。

 その上、いよいよ夜会が始まると兄に脅迫され、礼儀知らずの令嬢相手には大喧嘩。さすがに心身ともにクタクタであった。

 

「……手慣れたものにございますな」

 

 寝入ったキャレを抱くエリアスの背後から声をかけたのはルーカスだった。

 エリアスはジロリと見やって尋ねた。

 

「どうであった?」

「大したことではございません。今日、ここで宴会があるのを聞きつけた者どもが、おこぼれに(あずか)ろうと、集まったようです」

 

 ルーカスは公爵の警護として高座の隅に控えていたのだが、警備の騎士たちから門前で騒ぎが起きていることを聞き、向かったのだ。

 

 この時期、帝都の貴族の家では大小の宴会が開かれるが、新年前の気を良くした貴族たちの懐が緩むのを見越して、物乞いの類が集まる。それは珍しいことではなかったが、警備の騎士たちをも騒然となるほどのものであったのか、責任者であるルーカスに報告が来たのだった。

 

「少々、面倒な集団が居座って、やれ神の恩恵云々と御託を抜かすので、蹴散らそうとした騎士たちとちょっとした騒動になったようです。私が出張ってもよかったのですが、ちょうど暇そうにしていたクランツ男爵に任せてきました」

 

 ヴァルナルが聞いていれば、おそらく目を白黒して「勝手に押しつけて帰ったくせに!」と抗議したことだろう。だが、今ここで聞かずとも、エリアスは二人の間に起きたおおよその経緯を理解していた。

 

「相変わらず、貧乏籤を引く男よ」

「ま、美しく賢明な奥方を娶った代償であれば安いものでしょう。――― エーリク」

 

 ルーカスは楽しげに言って、アドリアンの背後に控えていたエーリクに声をかけた。

 

「いつまで公爵閣下に近侍の介抱をさせるつもりだ? 早く運べ」

 

 エーリクはあわてて中腰になって駆け寄ると、公爵の腕の中で眠りについてしまったキャレを抱きかかえた。

 そこにいた面々に一礼して、小走りに出て行く。テリィも重苦しい雰囲気から逃げ出すために「付き添います」と言い訳して()いていった。

 

 アドリアンは信じられない光景に呆然としていた。

 ()()公爵閣下が、()()父が、アドリアンの近侍をしばしの間とはいえ、その腕の中で介抱していたのだ。

 目の前で自分を鈍く見つめる人と同一人物なのか? と疑いたくなる。

 

 一方でエリアスは久々に間近に息子の顔を見て、驚いて目を何度も(しばた)かせる姿に、ふと妻の癖を思い出した。

 急に気分が重くなって、視線を伏せる。

 無言で立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。

 

 アドリアンはそれ以上の叱責がないことにまた驚きつつも、あわてて叫んだ。

 

「あ…ありがとうございます! 父上」

 

 エリアスはビクリと立ち止まったものの、結局振り返ることなく出て行った。

 

「なにか面白いことがあったようですね」

 

 ルーカスがのんびりと言った。

 本来であれば警護のために公爵に()いて行くべきであったが、立ち去り際にエリアスが手で制してきたのだ。一人にさせろ、と。

 

「あんまり面白くないよ…」

 

 アドリアンはさっきまでのことを思い出し、げんなりした。

 自分と同じ年の近侍と女の子の引っ張り合いに巻き込まれるなど、二度とゴメンだ。一から話すのも疲れそうで、アドリアンは話題を変えた。

 

「それより『手慣れたもの』って?」

「は? 何がでございましょう?」

「とぼけないでよ、ベントソン卿。さっき、キャレを介抱している公爵様に『手慣れたものですね』って言ってたじゃないか」

「あぁ…」

 

 ルーカスは笑うと、やや意地の悪い顔になった。「知りたいですか?」

 

「勿体ぶらないで下さい、ベントソン卿」

 

 横から言ったのはマティアスだった。

 彼はキャレとルイースの言い争いを止めようとしたのだが、頭の中で理論武装している間に、公爵の登場で沈黙を余儀なくされたのだった。

 

 ルーカスはやたら真剣な顔の近侍に肩をすくめた。

 

「そう大したことでもございません。昔、公爵閣下も小公爵として近侍を従えておられましたが、その中にああした発作を起こす癖のある者がおりましてね。あるときにリーディエ様から発作が起きたときの対処法を教えていただき、それからは閣下自ら介抱されるようになったのですよ。何度かやっているうちに、いつの間にやら、その近侍の発作もなくなりました」

「公爵様が?」

 

 アドリアンとマティアスはほぼ同時に聞き返し、顔を見合わせた。

 ルーカスはハハハと笑ってから、アドリアンの肩をポンと軽く叩いた。

 

「そのように吃驚(びっくり)されておられますが、小公爵様とて、閣下に介抱されたことはございますよ」

「え?」

 

 アドリアンはギョッとした。

 目の前で見たことすら信じがたいのに、自分がその対象であったなど有り得ない。

 

「嘘だ。そんなのあるわけない」

「いえいえ。さすがに覚えておられないでしょうが……まだ揺り籠の中に眠っておられるような頃に、ひどい癇癪を起こされて、夜中にずーっと泣いておられたのです。閣下がたまたま声をききつけて、見に行かれて……」

 

 ルーカスは語りながら思い出す。

 わずかな灯りの中で、ぎこちなく赤ん坊を抱いたエリアスの姿。

 泣き叫ぶ小さな小さな息子相手にも、真面目くさった顔で「息を長く吐け…」と、リーディエに教えてもらった通りにつぶやいていた。

 

「泣き疲れて眠られるまで、お抱きになっていらっしゃいましたよ。ようやく眠ったのを見て、乳母に任せて帰られましたが…」

 

 実際にはエリアスはアドリアンが眠りにつくと、ルーカスに預けて去ってしまった。自分が息子を()()()()など、認めたくもないかのように。

 

 アドリアンは初めて聞いたその話に、ひどく複雑な気持ちになった。

 今まで父に対して愛情を感じたことはない。そもそも愛情のある人だと思わなかった。あったとしても、向ける相手は死んだ公爵夫人に対してだけで、たとえその(ひと)の血を引いていても、アドリアンに対しては恨みしかないのだと思っていたのだ。

 

「僕は…覚えてない。知らないよ」

 

 アドリアンはポツリとつぶやき、悄然とその場から離れた。

 マティアスが追いかけようとするのを、ルーカスは素早く腕を掴むとニヤリと笑った。

 

「何があったか、聞こうか」

 





次回2023.09.10.更新予定です。
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