昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百五十一話 深夜の図書室

「ヒャアッ!!」

 

 キャレは驚いて飛び退(すさ)った。

 そのまま体勢を崩して、ぺたんと尻もちをつく。

 目の前に立つ男の端麗な面に、苛立ちがさっと浮かんで、あっという間に消えた。

 キャレはしばらく男をまじまじと見てから「あ!」と、声をあげる。

 弓部隊の一人で、近侍たちに弓を教えてくれている……

 

 ――――― 誰だったっけ?

 

 こんなに綺麗な顔をしているのに、どうして名前を忘れてしまったのだろうか。

 

「あ…あ、あの…すみません。えと…ヤ、ヤ…ヤミ…」

 

 それでもキャレは、どうにか頭の中から彼のおぼろげな名前をひねくりだした。

 

「ヤミ…トゥッ……トゥトゥリデス卿」

「トゥリトゥデスだ」

 

 ヤミは冷静に訂正してから「ヤミでいい」と、素っ気なく言ってくる。

 

「あ…はい。すみません、ヤミ卿。わた……僕、なかなか人の名前が覚えられなくて」

 

 キャレは丁寧に謝ったが、ヤミは大して興味もないように、足下に落ちていた本を拾った。

 

 ここは帝都の公爵家の中にある図書室であったが、夜半に近い時間なので、当然ながら人気(ひとけ)はない。

 キャレは誰もいないと思っていたのに、本を取ってクルリと出口へ向いた途端、そこに亡霊みたいに長細い、白っぽい人が立っていたので、驚いて腰を抜かしてしまったのだ。

 

「……人の体に興味が?」

 

 拾った本をキャレに差し出しながら、ヤミが問うてくる。

 キャレは自分が本をいつの間にか落としていたことに気付いた。

 一気に顔が熱くなる。

 

「あぁっ、すっ、すみませんっ」

 

 あわてて受け取ろうとしたが、ヤミは取れないように、ツイと本を上げた。

 

「あ…あの?」

 

 キャレは戸惑って、おずおずとヤミを見上げた。

 蒼氷色(フロスティブルー)の瞳が、無表情にキャレを見下ろしている。

 

「あの……なにか?」

 

 かろうじてキャレは問いかけたが、蒼の瞳はただ冷たく見つめるばかりで、何を考えているのかわからない。

 さっきまでは恥ずかしさで真っ赤になっていた顔が、徐々に恐怖で冷めていく。

 

 ヤミは持ち上げていた本をキャレの前に差し出した。

 キャレは少しばかりためらいながらも手を伸ばしたが、急にグイと肩を掴まれると、ヤミの顔が間近に近づいてきた。

 

「ヒ……」

 

 悲鳴を上げたかったが、喉を押し潰されたように声が出ない。

 一気に全身が強張ったキャレの耳元に、ヤミの鼻先がかすかに触れた。かと思うと、またグイと押し戻される。キャレは呆然と突っ立っているしかなかった。

 

 ヤミはまた手に持っている本の表紙を見つめ、それからキャレを見て、スッと目を細めた。

 再び本をキャレに差し出したが、キャレはもはや驚きと恐怖で動けない。

 ヤミはやや苛立たしげに眉を寄せ、無理やりキャレに本を押し付けた。

 

「もう、そろそろ…といったところか?」

 

 ボソリと、ヤミがつぶやく。

 キャレは慄然として、息を呑んだ。カチカチと奥歯が鳴る。

 何も言えず固まるキャレに、ヤミは淡々と言った。

 

「男を乞えば、(メス)の臭いは強くなる。バレたくなければ、想いは断つことだ」

 

 すべてを見透かしたかのように言われて、キャレは一気に冷や汗が噴き出た。

 泣きそうになって、うっ、と嗚咽する。

 しかしヤミはそんなキャレの姿に顔をしかめ、一層冷え冷えとした口調で突き放した。

 

「とっとと去れ。泣き言を聞くつもりはない」

 

 キャレの目の前でバチンと指を鳴らすと、無情に背を向ける。

 

 キャレは本を抱きしめると、あわてて走り去った。

 バタン、と図書室の扉を閉める音が響く。

 

 遠く足音が去っていくのを確認してから、ヤミはまた周囲の気配を探った。誰もいないことを確信してから、キャレの残していった燭台の蝋燭をフッと消す。

 一気に図書室は真っ暗になったが、ヤミはしばらく目を慣らしてから、行動を開始した。

 

 キャレの取った本が置かれていた本棚の側面にある、隠されたレバーを引くと、本棚がゴゴと動く。壁面を背にしていたはずの本棚の後ろにはぽっかりと開いた空間があった。

 少し進んだところに階段があったが、下へと続くその先はより深い漆黒へと呑み込まれている。

 ヤミが少し屈んで小さな空間に入ると、本棚は再び動いて、ヤミごとその場所を隠した。

 

 図書室はようやく深夜の静謐を取り戻した。

 

 

***

 

 

 ルーカス・ベントソンは騎士団での調練に合わせた生活を送っているので、早寝早起きが基本だ。だが今夜は少々、先だっての夜会で知り合った御婦人との()()()()()()()があって、遅くなってしまった。

 実家に帰ることもできたが、この時期は婚家で暮らす姉達も帰省しているので、何かとつつき回されるよりは、多少面倒でも顔の利く門番に開けてもらって公爵邸の自室に戻るのが一番という結論に至った。

 

 そんなわけで広い公爵邸内を深夜一人歩いている途中で、湿っぽい子供のすすり泣く声が聞こえてきたときには、正直、その手のことはまったく信じていないルーカスであっても、一瞬、肝が冷えた。

 声に近づくにつれ、それが本当に子供で、しかも小公爵の近侍の一人キャレ・オルグレンとわかると、ルーカスはホッとすると同時にあきれたように声をかけた。

 

「おいおい。どうした、キャレ・オルグレン。深夜にこんなところを歩き回って、迷ったのか?」

 

 キャレは響いた声にビクリと震え、一瞬、泣くのをやめたが、燭台を持ったルーカスに気付くと、途端にホッとしたように呼びかけながら、大粒の涙を流した。

 

「ベ…ベントソン卿…ッ」

「おいおい。本当に迷子になったのか?」

「す、す…すみません」

 

 キャレはひどく心許なげにしょんぼりと謝る。

 その姿にルーカスは少しだけ危惧を抱いた。

 

 近侍の中ではキャレは正直、出来の悪い部類だった。

 剣術や体術といった武芸全般もそうであったが、聞くところによると勉学の方でもあまり振るわないらしい。はっきり言って劣等生ではあったが、アドリアンからはそれなりに気に入られているようだ。

 ただ、気に入られ方、にも色々とある。

 

 キャレの容色は悪くない。

 いつも自信なげにしている姿はひ弱でもあったが、反面、守られるべき存在としては、ある種、男にとって庇護欲をかきたてるものがあるだろう。

 

 近侍と主の間の疑似恋愛は、正直なところ古くからあって、結婚前の貴族の若君が女のことで問題を起こさぬための防波堤として、認められてもいる。

 ただキャレを見ていると、妙な危うさを感じる。

 悲愴感というか、何か切羽詰まったものを感じさせるのだ。

 それがアドリアンに対して、何かしらの不都合を生じせしめるのではないか…と危惧させる。

 

「なんだって、こんな時間にこんなところにいるんだ?」

 

 問いかけながら、キャレが胸に抱く本が目に入った。えらく分厚い本だった。

 

「なんだ? 図書室にでも行ってたのか?」

「は…はい。すみません」

「なんでまた? 明日にでも来ればいいだろうに」

「ちょっと…急に調べたいことがあって……すみません」

「謝らなくてもいいが、燭台も持たずに歩き回って……だから迷ったんだろう?」

「え…? あっ、燭台」

 

 ルーカスはあきれた。

 どうやら燭台を図書室に置き忘れてきたらしい。

 

「おいおい。危ないな。本の置いてある部屋に火器を持ち込んで忘れるなんて。もし、火事にでもなったら、お前が一生働いても返せないかもしれんぞ」

「す、すみませんっ」

 

 あわてて踵を返そうとするキャレに、ルーカスは「待て、待て」と呼びかけた。

 

「いいから、お前はもう部屋に戻りなさい。これを貸してやるから」

 

 燭台をキャレに渡し、ルーカスは図書室へと向かうことにした。どうせ目が冴えているので、眠気を呼び込むための本を数冊借りていくつもりだった。

 

 キャレは受け取ってから、何か言いたげにルーカスを見つめる。

 

「どうした?」

「あ、あの…さっき、図書室で人に会って…」

「は? この時間に?」

「はい。僕もびっくりしたんですけど、さっき、あの…弓の…あの人……綺麗な顔をした方です」

 

 キャレは言いながら、どうして名前が出てこないのか不思議だった。しかも綺麗な顔と言いつつも、その印象すらもまたぼやけてきているのだ。

 

 だがルーカスはそのキャレの言葉と態度で、すぐさま彼の名前を言い当てた。

 

「ヤミ・トゥリトゥデス卿か」

「あ、はい。そうです」

 

 キャレが頷くと、ルーカスはニヤリと笑った。

 キャレは訳がわからなかったが、理由を聞いても言ってくれない気がした。

 

「それじゃ…ありがとうございます、ベントソン卿」

「おう。子供は夜更かしせずに寝ろよ」

 

 ルーカスは暗い廊下を去っていくキャレを見送ったあと、図書室へと足早に向かった。

 

 

***

 

 

 ヤミが階段を降りた先には、小さな扉があった。

 かなり屈んで入らねばならないその部屋の中へと足を踏み入れると、フワリと染み付いた葉巻の香りに包まれる。

 薄暗い小部屋の中には、その場をほぼ占めるテーブルと椅子が二脚あるだけだった。だが絨毯も含めて年代物の重厚な雰囲気を醸し出している。

 

 ヤミは奥の暗がりにある椅子に座った人物 ――― 公爵エリアスに一礼すると、前置きもなく話し始めた。

 

「ガルデンティア*1からの連絡はありません。使用人の女に探ってみましたが、殺されてはいないようです。うまく夫人に取り入ることはできたものの、少々、難儀な御方らしく、執着がひどくて、今は部屋から外に出ることも許されない状況です」

「………」

 

 カチリ、と葉巻を切る音がして、ややあってシダーの香りが揺らめく。

 

「それで?」

「使用人はこの十年でそっくり入れ替わったようです。当時のことを知る人間はほぼおりません。エレオノーレ様が女主人であったことすら知らぬ者がほとんどです」

「……きれいに抹消されたということか」

 

 抑揚のないエリアスの声が響く。

 ヤミは頷いた。

 

「予想通りだな。そちらは」

 

 ボソリとつぶやき、エリアスはハーッと長く煙を吐いた。

 蝋燭のかすかな光に煙がたゆたい、影へと消えていく。

 

 オヅマの出生に、姉であったエレオノーレの恥辱に満ちた死が絡んでいると考えたエリアスは、直属の諜報組織に再調査を指示した。

 十三年前の前回においては、直接姉の死に関連することを探っていた中で、ガルデンティアに送り込んだ間者がすべて戻ってこなかったので、調査は終了せざるを得なかった。

 しかし今回は当時を知る、あるいは当事者とも言うべきミーナという切り札を持っている。別角度から切り込み、姉の冤罪を晴らすことができれば、ダイヤモンド鉱山のある、今は南東の海の要衝となりつつあるエン=グラウザ島を取り戻すきっかけとなる。

 

 エリアス個人としては、正直なところ姉の汚名返上にも、エン=グラウザ島の領有にも、さほどに関心と熱意があるわけではなかった。

 むしろ個人的な心情の点でいうなら、十三年前の未熟な自分を嘲笑ったであろう大公家に対して、矜持が傷つけられた…という部分が大きい。

 また個人的な感情とは別に、公爵家が本来持っているべきものは取り戻すべき、という義務感は、強くエリアスにのしかかっていた。長くグレヴィリウス公爵として過ごす中で、彼の矜持はグレヴィリウス公爵家のそれとほぼ同等になってしまっていたのだ。

 

「以前に言ったクランツ男爵夫人の身柄を保護した従僕については?」

 

 大公本人には一切告げないことを約束しながらも、エリアスは当時の状況についてミーナから聞き取るようにルーカスに命じていた。当然、こちらの思惑に気付かせないように。

 ミーナは言い渋ったが、最終的には「恩人の消息を知りたいとは思いませんか?」という、情に訴えるやり方で情報を引き出したらしい。もっとも尋ねた時点で、その恩人が死亡している確率は高かったが。

 

「川にて死体が発見されております。十三年前の報告書に記載がありました」

 

 案の定、ヤミの報告は無情だった。

 

 ミーナは大公家から出て行ったのち、本来であれば天涯孤独で、しかも身重であったので、すぐにも行き倒れることは目に見えていた。しかし彼女の不遇に同情した従僕の一人が、秘密裡に彼女を保護して、知り合いの商人にその身柄を託したのだ。

 ミーナはその商人の伝手によって、ルッテア*2の商家の住み込み女中となり、オヅマを産んでいる。

 

「従僕が行方不明になった当時の日時から勘案するに、大公が男爵夫人(ミーナ)の失踪を知る前に、既に消されたようです。これは、おそらくエレオノーレ様のご指示かと」

「……()もあろう…」

 

 エリアスは驚かずに首肯する。

 姉の驕慢な気質からしても、自分の命令に逆らって、追い出した娘に手を貸した男を許すわけがない。しかもその従僕が大公に告げ口などして、自分の罪が明らかとなった上、追い出した娘まで取り戻されでもしては、無駄骨どころか自分だけが傷を負う羽目になりかねない。

 

 こうしてミーナの行方について一切不明となったまま、大公の知るところとなったあとには、関わった者たちへの苛烈な処罰が下されたのだろう。

 家令や執事をはじめとする相当数の召使いが解雇となっているが、それが果たして文字通りのものであるのか、あやしいものだ。彼らのその後を調べても、事故死や、自死、あるいはいまだに行方不明の者がほとんどなのだから。

 

「ただ、その死んだ従僕から男爵夫人を託された商人を突き止めることができました。行商人でしたので、なかなか足取りを追うのが難しかったのですが、幸いにも今はアールリンデンにて陶器工房のオーナーになっています。彼から当時の状況について聞くことはできるかもしれません」

 

 エリアスはクスリと笑った。

 

「存外と世の中は狭いものだな。我が領内にて、数奇なる運命に巻き込まれた者が三人も共存しているとは」

「………」

 

 ヤミの返答はなく、エリアスの下知を待っている。

 エリアスは再び葉巻を吸って、煙を吐いてから命令を下した。

 

「即刻、向かうがよかろう」

 

 ヤミはまた一礼すると、すぐさま踵を返して部屋を出た。

 バタリと閉められた扉を陰鬱に眺めて、エリアスはつぶやいた。

 

()が為の忠誠か………ヤミ・トゥリトゥデス」

 

 

***

 

 

 ヤミは階段を上り、真っ暗闇の空間にしばらく立っていた。

 外に出る前に気配を確認する。壁にある小さな窓を塞いでいたフラップを開き、そこから外を覗き見る。人の姿はなかった。もう一度、息を殺して、かすかな気配すら感じないことを確信すると、壁から飛び出た丸い取手のレバーを引いた。ゴゴと音がして本棚が開く。

 

 出てから一瞬、眉を寄せた。

 テーブルの上にキャレが忘れていったはずの燭台がない。

 あるいは途中で気付いて、取りに来たのだろうか。だとしても、おそらく本棚については気付かなかったはずだ。

 

 大して気にもとめずにヤミは図書室を出て、そこで声をかけられると同時に、燭台を取りに来たのがキャレでないことを悟った。

 

「トゥリトゥデス卿、深夜に図書室にまで来て読書か?」

 

 背後から響く聞き覚えのある声に振り返ると、ゆらめく蝋燭の灯りの中に、ルーカス・ベントソンの姿があった。

 ヤミはすぐに彼が待ち伏せしていたのだとわかった。

 

「…ベントソン卿こそ、こんな時間にわざわざ?」

 

 内心の動揺を知られぬように、ヤミが微笑をつくって尋ねると、ルーカスは肩をすくめた。

 

「ちょっとばかし、目が冴えてね。穏やかな眠りを与えてくれる本を探しに来たんだが、()()()()()()()()()()()()()、待っていたんだ」

 

 意味深な言い方にヤミはかすかに苛立ったが、素知らぬ顔をしていなした。

 

「邪魔ではありません。私も同じような理由ですから」

「ほぉ? で、いい本は見つかったのか?」

「あいにくと先客にとられました」

「先客?」

「小公爵様の近侍の…キャレ・オルグレンでしたか? あの子に持っていかれました」

「……そんなにその本がよかったのか?」

 

 ルーカスが首をかしげると、ヤミは先程のキャレの姿を思い浮かべ、うっすらと笑む。

 

「ええ。『ゾール百科事典人体編第三巻雌雄差異考察』という本です。キャレがどうしても必要だと言うので、譲りました」

「事典? 人体の…雌雄? そりゃまた、随分と奇妙な読み物を持っていったものだな。わざわざ深夜に取りに来るような本か?」

「まったくですね。まぁ、あの年頃であれば、男女の性差について、色々と悩みをかかえる時期であるのかもしれませんね」

 

 ルーカスはさっき、キャレに会ったときの危惧を思い出した。フッと視線を落とし、顔が翳る。

 

「では…」

 

 ヤミはキャレのことでルーカスの気が逸れたと思い、そのまま立ち去りかけたが、相手はやはり公爵の右腕と呼ばれる男だった。そう簡単に逃してはくれない。

 

「あぁ、そうだトゥリトゥデス卿。明日は小公爵様らの弓稽古があったな」

 

 ヤミは眉間に皺を寄せたが、振り返った顔はいつものごとく、ただ無表情なだけだった。

 

「申し訳ありませんが、明日の稽古にはつき合えません」

「またか? 最近、忙しいようだが、一応こちら()お前の仕事の一つだぞ」

「……了解はしておりますが、明日はアールリンデンに一度、戻らねばならなくなりました」

「なんだ? ヘンスラーの忘れ物でも取りに行くのか?」

 

 皮肉げに問うてくるルーカスに、ヤミは口の端を歪めた。

 

「あの男のために? 私が? わざわざ?」

「ハァ…やれやれ。自らの直属の上司に対する言葉ではないな」

「……ベントソン卿」

 

 ヤミはもはや上辺だけの話をするのも面倒になってきて、ルーカスにずばりと言った。

 

黒角馬(くろつのうま)にてアールリンデンに向かうことをお許し頂きたい」

「俺が許すと思うのか?」

「許すでしょう。私が誰からの命令で動いているのか、ご存知であるのならば。今、ここでつまらぬ腹の探り合いをするのも、いいかげん滑稽ではありませんか?」

「……とうとう尻尾を出してくれたということか」

 

 ルーカスは乾いた笑いのあとに、ヤミをじっと見つめた。

 蝋燭の光が揺らめく青い瞳は、静かにヤミを圧迫している。

 

「だったら、俺がわざわざお前を小公爵様のそばに配したことの意味は、わかっているのだろうな?」

 

 低く問いかける声にも、抑圧された気迫が込められていた。

 だがヤミはとぼけたように小首を傾げ、その白皙の面に艶麗な微笑を浮かべた。

 

「妙なことを仰言(おっしゃ)る。私一人を仲間にしたところで、『影』の総意を得られるわけではない。『影』は光に付き随う。小公爵様に光あれば、『影』も自然とその足下にひれ伏すだけのこと」

「小公爵様のご器量次第というわけか?」

「そうですね……」

 

 ヤミはスッと目を細めると、愉しげに言った。

 

「あえて私を配下にとお望みなら、私を満足させる仕事を与えていただければ、いかようにもお役に立ちましょう。賢明な団長代理であれば、おわかりですね?」

 

 ルーカスは苦虫を噛み潰す。

 この男の、姿形にそぐわない嗜好を知っていればこそ、本来であればアドリアンに近づけたくはなかった。

 

 ヤミはルーカスの憮然とした表情に、軽く肩をすくめる。

 

「最近はつとに平和で、なかなかそうした仕事のお呼びもないので、非常に持て余しております。アールリンデンから戻ったときに、ベントソン卿が用意してくださっておればよろしいのですが」

「馬鹿を言え。そうそうお前を必要とするような事件など起こってたまるか」

 

 ルーカスが吐き捨てるように言うと、ヤミは鬱陶しいほどに美しい微笑を返してきた。

 

「それでは黒角馬はお借りします」

 

 抜け目なく言って、去っていく。

 

 ルーカスは軽く舌打ちすると、渋い顔でヤミの後ろ姿を見送った。

 

 ヤミ・トゥリトゥデス。

 表向きは公爵家騎士団の第五隊に所属する弓の名人であるが、同時に公爵直属の諜報組織『鹿の影』の一人でもある。

『鹿の影』の存在は既に知って久しいが、その実体はほとんどわからなかった。公爵はルーカスにさえも、彼らのことは教えなかったからだ。

 だが彼らの去就は、将来におけるアドリアンの地位保全のために黙過できない。先程ヤミも言っていたように、彼らの総意が公爵の地位を約束するものでなくとも、彼らを使役できるかどうかは公爵の器量に関わってくるからだ。

 

 ヤミはようやくルーカスが見つけた『影』の一人だった。

 しかしヤミが『影』の一人とわかっても、ルーカスは当初、彼をアドリアン側に引き入れるべきか悩んだ。それは彼の言う「満足する仕事」に関わる彼自身の嗜好が、ルーカスにはあまり好もしくないものであったからだ。

 

 ヤミのもっとも満足する仕事。それは拷問であった。

 

 美麗なる顔に似合わず ―― いや、あるいはその美しさすらも凄絶なる陰惨さを助長するかのように、ヤミは嬉々として拷問する。ルーカスは役職上、その現場を何度となく見たことがあったが、それこそ怖気の走る光景だった。

 

 そんな加虐趣味の性格異常者を小公爵(アドリアン)の近くに置くのは、正直本意でなかったが、他の『影』の者を知ることができない以上、今はヤツのような者であっても、味方としておく必要がある。

 

「……早まったか」

 

 ルーカスは軽く後悔したが、いずれ後継争いが本格化したときに、彼のような存在が必要であることは痛感していた。それは現公爵のときもそうであったからだ。

 

「結局…眠れそうにないな」

 

 ぶつくさとつぶやきながら、ルーカスは磨き上げられた窓越しに、まだ星のまたたく空を見上げた。

 

 

*1
大公家の居城

*2
帝都郊外の都市の一つ





次回は2023.09.24.更新予定です。
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