ルミアは特に修行が終わったとは告げなかった。
体調が戻ると、荷物を纏めるように言われ、それでなんとなく、ここでの生活は終わりなのだと思った。
「シュテルムドルソンに着いたら、モンスの鍛冶屋に行きな。町に入って、モンスと言えば誰でも知ってるだろうよ」
オヅマは頷いて、カイルに荷物を乗せる。オヅマ一人であれば乗って行くつもりであったが、エラルドジェイも同行するので、歩いて行くことにしたのだ。
どうせ早くにアールリンデンに戻ったところで、アドリアンもいないので、やる事は残された騎士団の連中と一緒に訓練するくらいであろうし、それにやたらと早くに帰って、帝都に来いなどと言われるのも避けたかった。(もっともオヅマをここに来させたルーカスの意図からすると、その命令が下る可能性は低かったが)
エラルドジェイはアールリンデンの知り合いを訪ねるらしい。オヅマはその知り合いが誰なのかも知っていたが、また
そんなエラルドジェイもまた急ぎの用はないので、オヅマと一緒にのんびり旅することにしたようだ。
いざ出発となって、オヅマはルミアと並んで立っているハルカを見つめた。数ヶ月一緒に過ごしたものの、ハルカはやはり無表情にオヅマを見送るだけだ。普通であれば素っ気ないを通り越して、冷たいぐらいに思えたろうが、そういうわけではないことをオヅマはもう知っていた。
ここにいる間も、オヅマは
オヅマは背嚢の中に突っ込んであった、若草色の細長い包みをハルカに差し出した。
「これ、やるよ」
ハルカはじっとその包みを見てから、顔を上げて短く問うた。
「笛?」
「あぁ」
オヅマが頷くと、ハルカはまた包みをじっと見てから、ブンブンと頭を振った。
「なんで? 笛、気に入ってたろ?」
ここにいる間、ハルカの無言のおねだりにほだされて、何度か吹いてやった。きっと欲しがるだろうと思ったが、ハルカはグイとオヅマに笛を押し返した。
「ダメ。お母さんの笛、大事」
いつも無表情なハルカが、少しだけ怒ったように言うのに、オヅマは胸を衝かれた。
黙り込んだオヅマの肩を、エラルドジェイが軽く叩きながら笑った。
「ハハッ! ハルカちゃんは吹きたいんじゃなくて、お前が吹いてるのを聴くのが好きなんだよな?」
エラルドジェイに問いかけられて、ハルカはコクコクと頷いた。
「だとよ。だから笛をやるんじゃなくて、今度また聴かせてやれよ」
「今度って…?」
「いつか、でいいんだよ。いつか、また、だ」
エラルドジェイが軽く言う。何気ない言葉に、オヅマは暗い顔でうつむいた。
いつか、また…会えるのだろうか?
会っていいのだろうか?
「おい!」
エラルドジェイに強く背中を叩かれて、オヅマはハッとなった。軽くため息をついて、笛を再び背嚢に戻す。
正直、この笛を母が大事にしていたということに苛立つが、笛自体に罪はない。それに結局、母にとってこの笛は不要になったのだ。つまり、それだけヴァルナルを信頼しているというあらわれだろう。ずっとずっと大切にしてきたこの笛を手放してもいいくらいに…。
「じゃ、行くか」
エラルドジェイに言われて、オヅマは頷き、ルミアとハルカ、二人に頭を下げた。
「…お世話になりました」
「修行はまだ続くと思いな。あとはお前さん次第だ」
ルミアは最後まで厳しく釘を刺す。オヅマは「はい」と、ルミアのセピアの瞳から目を逸らさず、しっかりと返事した。
ハルカは手を振ることもなく、やはりどんよりとオヅマを見上げる。オヅマが手を出すと、じっとその手を見て首を傾げた。
「握手だ。俺と反対側にある手を出すんだ」
言われた通りにハルカが手を出すと、オヅマはギュッと握った。オヅマが手を離して「じゃあな」と言うと同時に、ハルカが唐突に尋ねてきた。
「どうして手を握ってくれるの?」
ルミアはギョッとし、エラルドジェイも驚いたようにハルカを見つめる。オヅマもびっくりして黙っていると、ハルカは続けざまに問いかけてくる。
「汚くないの? 気持ち悪いって…どっか行けって、蹴らないの? どうして?」
ハルカはオヅマが来たときから不思議でならなかった。
どうしてこの男の子は会ったばかりの自分を、汚いと言わないのだろうか?
多くの人間は ―― 大人でも子供でも ―― 自分を見ると、汚いと言って追い払った。じっと見つめると、見るなと石を投げられた。それなのに、オヅマは会ったその日には、ハルカの手を握ってくれたのだ。
「……ハルカ…」
ルミアが苦々しくつぶやく。
オヅマは腰をおとすと、ハルカと同じ目線になって言った。
「ハルカ、お前はいい奴だ。汚くなんかないし、気持ち悪くなんかない。今度、そんなことを言ってくるやつがいたら、ブン殴っていい」
「…おいおい」
途中でエラルドジェイがたしなめるのを、オヅマは無視して続けた。
「お前はルミアと一緒。俺の師匠だ。感謝してる」
「ジェイも?」
ハルカに言われて、オヅマはあわてて付け加えた。
「あぁ、そうそう。そうだった」
「そうだった…ってなんだよ。あんなに一生懸命相手してやったってのにさー」
エラルドジェイがプーッと膨れてみせると、ハルカはうっすらと笑った。オヅマは最初の日に思わず笑ったハルカの笑顔を思い出した。そう。こうやって少しずつでも笑ってくれればいい。
――――― ハルカちゃん、笑ったらとっても可愛いんだから!
「俺、妹がいるんだ。マリーっていう。いつかハルカにも会わせてやるよ。……きっと、仲良くなるだろうから…」
ハルカは不思議そうに聞いていたが、コクリと頷いた。
オヅマは立ち上がって、ハルカの頭を軽く撫でてやった。
「じゃあ…」
踵を返し数歩進むと、森の中からビュン、と真っ赤な実が飛んできた。難なく掴み取って、森の方へと目を向ける。木々の間から
「ありがとな!」
飛んできた実を持って手を振ると、豆猿たちはヒューイヒューイ、と機嫌のいい鳴き声を響かせた。
「ったく、ここの豆猿どもときたら、妙に頭がいいぜ。
エラルドジェイが肩をすくめて言う。
「そうかもな…」
オヅマは笑って、豆猿が投げてきた実を齧った。それは熟したロンタの実で、ちょうど甘さと酸っぱさの入り混じった果肉が柔らかかった。この状態は一日と持たないので、今朝、獲ってきてくれたのだろう。
「……よかった」
オヅマはつぶやいた。
今回の修行では、殺さずに済んだ。誰も、何も、傷つけずに終えられた。それがオヅマにとっては一番の収穫だった。
***
「どしたい? 随分と
ルミアの家を出発し、仲良くなった一部の村人にも挨拶して、ズァーデン村を後にしたオヅマは、しばらく無言で歩いていた。草笛を吹いていたエラルドジェイが飽きたのか、声をかけてくる。
「ハルカちゃんに笛突き返されて、しょぼくれてんのか?」
「違う…」
オヅマはすぐに否定してから、ハルカの言った一言がずっと気になっていることに気付いた。
―――― お母さんの笛、大事…
『お母さん』。
ハルカにとって、母はリヴァ=デルゼだ。
たとえあんな女であったとしても、やはり
「お前、今はアールリンデンにいるんだろ? だったら、そう離れたところでもないし、この馬ならさっとひとっ走りして、いつでも会いに行けるだろ」
エラルドジェイには、オヅマが寂しがっているように思えたらしい。
「違うよ」と、オヅマは首を振った。
「ちょっと…ハルカの母親のことを考えてたんだ」
「ハルカちゃんの母親? あぁ…」
聞き返して、エラルドジェイは眉を
「なんだ? ハルカの母親のこと、知ってるのか?」
「知ってる、っつーか…まぁ、ハルカちゃんから聞いただけなんだけどさ」
「ハルカが何て言ってたんだ?」
「うーん」
エラルドジェイは腕を組み、しばらく思案していた。チラ、とオヅマの顔を見て尋ねてくる。
「お前、聞いたことないの?」
オヅマは苦い顔になり、首を振った。
気になってはいたものの、リヴァ=デルゼのことを思い出すのも嫌で、初日に母親の名前を聞いて以来、話題にすることを避けていたのだ。
エラルドジェイは一息ついてから、「ま、いっか」と話し出した。
「ハルカちゃん、もっと小さい頃はお父さんと暮らしてたらしいんだよな。それがある日突然、母親がやって来て 、金貨の入った袋をドンと置いて、ハルカちゃんを連れて行ったんだ。それからしばらくは母親と一緒に暮らしてたみたいだけど、今度はお父さんが現れて…」
父親は『金は返すから、ハルカを返してくれ』と、リヴァ=デルゼに懇願したらしい。二人は口論となり、父親は途中でハルカを廊下に出した。ハルカが待っていると、ドンと音がして、やがてドアから出てきたのは母親だった。
「……ハルカちゃんはそれからすぐに
話を聞きながら、オヅマの顔から徐々に血の気が引いていった。オヅマの知っているリヴァ=デルゼであれば、言い争いをして平和的に解決することなど有り得ない。その父親という男に殴りかかるぐらいはしていそうだし、なんであればひと思いに殺していてもおかしくない。
おそらくその想像はエラルドジェイもしたのだろう。黙り込んでいるオヅマの隣で、遠い目をして言った。
「デルゼってさ、元々は女系一族なんだよな」
「女系一族?」
「あぁ。今はそうでもなくなってきたみたいだけど…本来、結婚もしないし、夫を持たない。しかも生まれた子が男だったら、里子に出すんだ。女だけがデルゼの姓を継ぐ。だからハルカちゃんが父親に育てられたって聞いたとき、意外だったんだ。でも、もしかしたら、自分で立って歩けるようになるまで、父親に
オヅマの顔が歪んだ。ギリ、と唇を噛み締める。
リヴァ=デルゼはおよそ母性というものを持たぬ人間だった。子供はもちろん、生まれたばかりの赤子であろうが、産み月を迎えた妊婦であろうが、必要とあらば一切容赦なく斬って捨てた。
ハルカのことも、泣くばかりで何もできない赤子の世話が面倒で、父親に育児を押し付けたのだろう。今だって、結局はルミアに預けっぱなしだ。要はハルカの世話係を父親から自分の母親に変えただけのことだ。
―――― あの子の父親は
ルミアが言っていたのを思い出す。
オヅマはレーゲンブルトの春祭りにやって来た行商や旅芸人の中に、何度か彼らの姿を見かけたことがあった。卑賎の身分とされ、虐げられることが多かったせいで、人目につかぬようにと、誰もが俯いて黙々と作業していたが、赤子を負うた母親も、幼い息子に草笛を作ってやる父親も、家族に対してだけはニコニコと笑いかけ、愛情深いように見えた。
もしかすると、ハルカの父親は自ら育てると申し出たのかもしれない。そしてあの女は歩けるようになるまでであれば、誰が世話しても同じだと思って、これ幸いと押し付けた…。
考えている間に、それが間違いないと、オヅマは
―――― 自分が育てると言い張るから、一旦くれてやった……
――――
―――― よく出来た娘さ……
リヴァ=デルゼにとってハルカは駒だ。
自分にとって従順で、文句を言うこともない、優秀な……。
「そんなに心配なら、いずれお前が引き取ってやりゃいいんじゃねぇの?」
エラルドジェイが軽い調子で言ってきて、オヅマは顔を強張らせた。
―――― まったく可哀想に。お前にいいように使われてるじゃないか……
同じような調子で、だが少しだけ叱責を含んで、
オヅマにリヴァ=デルゼを悪く言う資格などあるだろうか。
「おい!」
気がつくとエラルドジェイがオヅマの肩を強く掴んでいた。
ハッと我に返って、オヅマは息が乱れていることに気付いた。大きく深呼吸し、吐き出す息とともに、不意に思い出した
「真剣になるなよ。俺は、ただの思いつきでくっちゃべってるだけなんだから」
「あぁ…わかってる」
オヅマは無理に笑顔を浮かべた。
そうだ。今は
それでも、いずれ迎えにくるリヴァ=デルゼにハルカをみすみすやるのは、気が進まない。あの女が娘に対し、虐待まがいの指導をすることも、都合のいいように使役するのも目に見えている。
オヅマはもう一度、深呼吸し、青く晴れ渡った空を見上げた。
暗澹とした気分と相反した澄んだ空。渡っていく
オヅマはため息をつくと、再び歩き始めた。
次回は2023.10.08.更新予定です。
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