初めて会ったときのことは覚えていない。
リヴァ=デルゼが娘だと紹介していたが、それはオヅマにではなく、主君に対してであって、自分には関係ないと思い、見てもいなかった。
だからオヅマにとって、ハルカとの最初の出会いは深夜の井戸端だ。
「…うっ……くっ…」
切れ切れに聞こえてくるのは、痛みをこらえている声。そうとわかったのは、オヅマにも覚えがあるからだった。
梟の鳴き声すら途絶えた深夜。
『主城』と呼ばれる中心部の棟から離れたところにある西の館。
もはや誰も訪れることなく、廃墟となって久しい。
昔は季節の花々に彩られた美しい庭も、今は雑草に覆われ乱立する木々の枝葉が鬱蒼となって、不気味な様相を呈している。
その一角にある井戸の側で蹲っている人影に、オヅマは眉を寄せた。
「なにをしている?」
低く声をかけると、人影はビクリと立ち上がり、すぐにそこから飛び
その身のこなし、重たい剣を震えることなく構える姿に、オヅマは内心で舌を巻いた。
大したものだ。こんな時間であれば誰も来ることなどないだろう…と、おそらく気を抜いていたであろうに、瞬時に危険を察知して無駄のない動き。しかも今、こうして向き合っていて、隙がない。
ただ、オヅマは少しだけ眉を
さっき後ろ姿を一瞥した限り、短く髪を切っていたので、てっきり少年かと思っていたら、上半身裸のまま振り返ったその姿は少女だった。目に入ってきた、少しだけ膨らみのある未成熟な胸を見て気付く。
オヅマは表情を変えることなく、少女を観察した。
脇腹や腕に残る青黒い打ち身の痕や無数の切創、先程まで聞こえていた痛々しい声に、少女の置かれたおおよその状況を察した。
「怪我か?」
尋ねても少女は返事しなかった。
剣先が徐々に震えだしたのは、おそらく寒さからだろう。雪が降る季節を過ぎたとはいえ、早春の深夜はまだまだ凍える寒さだ。
「俺はオヅマだ。この大公家に仕える騎士だ。お前の名前は?」
「……ハルカ……デルゼ」
「デルゼ? では、お前はリヴァ=デルゼの縁故の者か?」
「リヴァ=デルゼは私の母」
「………そうか」
オヅマはその返答だけで、少女の怪我が誰によるものなのかを、すぐに理解した。
「剣を下ろせ。母がリヴァ=デルゼであるなら、俺と同じだ」
「同じ?」
「俺はリヴァ=デルゼより教えを受けた」
ハルカはその言葉でようやく警戒を解いた。そろそろと剣を下ろし、鞘にしまった。同時にくしゅり、と小さくくしゃみする。
オヅマは軽くため息をつき、自分の羽織っていたマントを取ると、ハルカの肩にかけた。
「うっ」
途端に顔をしかめるハルカを、オヅマは怪訝に見下ろす。
「どうした?」
問うてもハルカは答えず、痛みをこらえているのか唇を噛みしめるだけだ。
オヅマはしばし考え、ハルカに後ろを向かせた。そっとマントを取ると、とがった肩甲骨の一部と背中のほぼ中央を
「母親にやられたか?」
ハルカはコクリと頷く。
オヅマはギリッと奥歯を噛みしめると、そうっとハルカの肩にマントをかけた。
「傷に障るだろうが、少しだけ我慢しろ」
ハルカがまたコクリと頷く。
オヅマは井戸の蓋に置かれたハルカのシャツを手に取った。
背中の一部分が黒く焦げて穴が開いていた。おそらくリヴァ=デルゼが、暖炉の火かき棒ででも殴ったのだろう。理由など知らない。あの女の情緒に平穏などないのだから。
「来い」
オヅマが呼びかけると、ハルカは不思議そうに見つめたまま突っ立っていた。
「手当てしてやるから、ついて来い」
言うだけ言って、オヅマは歩き出した。
ついてこようがこまいが、そのまま自分の寝床に帰るつもりだったが、結局ハルカはついてきた。
誰住むこともなくなった西の館は、窓はすべて外から板が打ちつけられ、内側はカーテンが閉められてあった。ほとんどの家具には布で覆いがかけられ、埃がうっすらと堆積している。
淀んだ空気の中を、オヅマは迷うことなく二階にある一室に向かう。
そこはオヅマが勝手に自室として使っている場所だった。
『主城』にも、部屋は用意されてあったが、豪華な天蓋ベッドや、数々の高価そうな調度品に囲まれたその部屋よりも、この誰もいない廃墟同然の館の一室の方が、オヅマは落ち着いた。
部屋に着いて、燭台に炎を灯すと、ぼんやりとした橙の光の中に埃がゆるやかに流れていく。
部屋に一つだけの椅子を示したが、ハルカはドアの前で立ち尽くしていた。
オヅマは軽く苛立ちながら言った。
「そこの椅子に座れ」
哀れなことに、この無口な娘は命令されることに慣れているようだった。
オヅマは部屋の隅にある大きな箱を開けた。
そこには数枚のシャツやズボンといった軽装のほかに、薬や晒布、包帯などが置いてある。
オヅマ自身も怪我を負ったときに、自らで手当てするためだ。
この館に無造作に捨て置かれていたその箱は、開くときにキーッキキ、と軋む。魔女の高笑いのような独特の音に、ハルカが「えっ?」と声を上げた。
「なんだ?」
「……変な音がした」
「これだ」
オヅマは包帯と薬を取り出して、足下の箱を軽く蹴った。
「…油をさせば直るだろうが、面倒だ」
とりとめもないことを言いながら、机の上に包帯を置くと、ハルカにマントを脱ぐように言った。まだ、そうした羞恥心が育ってないのか、元からないのか、ハルカはすぐにマントを脱いだ。
「……少し痛むぞ」
オヅマは一応言って、ハルカの背の火傷に薬を塗っていく。ハルカは最初だけビクリと身を震わせたが、その後は耐えているのか、まったく身じろぎしなかった。
騎士の中にはちょっとした怪我でも大袈裟に騒ぎ立てて、手当てするのも一苦労する輩がいたが、ハルカはその点、我慢強いようだ。
火傷の痛みは負ったその時よりも、時間が経つにつれ痛みが増す。完治するまでは痛みと痒さに耐えないと、
「だから絶対、患部に触れるな」
オヅマの説明をハルカは真剣な表情で聞き、最後にコクリと頷いた。
包帯を巻き終えてから、オヅマはさっきの箱から自分が昔着ていたシャツを取ると、ハルカに放り投げた。
「もう小さくなったやつだから、やる」
「………」
ハルカはシャツを手にして、しばらく固まっていた。
「早く着ろ」
オヅマが言い直すと、ハルカはシャツを広げてまじまじと見てから、袖に手を通した。
オヅマはドアを開くと、クイと顎をしゃくって出ていくように促したが、やはりハルカはぼーっと突っ立ったままだ。
「出ていけ」
冷たく言うと、ハルカはパチパチと目をしばたかせてから、コクリとまた頷く。
部屋からハルカが出ると、オヅマはすぐに扉を閉めた。
リヴァ=デルゼの娘という時点で、オヅマにとっては忌避すべき対象であるように思えたが、母親から虐待を受けているのを知ると、無視もできない。
ザリ、と自分の右肩にある火傷痕に爪を立てる。
幼い頃、父と名乗っていた男によってつけられたその醜い痕は、奴隷の印である
母に殺され、母を道連れにしておいてなお、あの男はしつこくオヅマの中にこびりつく。
蝋燭を消して真っ暗闇となった部屋で、オヅマはサイドテーブルに置いてあったワイン瓶を取ると、直接あおった。思ったよりも昨日飲んでしまったようで、すぐに空になった。
最近ではもうワインを飲むくらいでは、眠れなくなってきている ――― …
板をぶち破った窓から空を見ると、月が雲から出てくるところだった。眠ろうと身を横たえても眠気は訪れず、オヅマは起き上がると、ため息をついて枕下に置いてあった母の形見の笛を取り出した。
窓を開けて、そこから屋根へと登る。
風が少しだけ吹いていたが、
唄口に唇を添わせるように当てると、軽く息を吸ってから吹き始める。
こうして眠れぬ夜などに時々吹きたくなるから、誰の邪魔になることもない場所を探している間に見つけたのが、この西にある閉じられた館だった。
月に話しかけるように吹くその笛の音を、ハルカが聴いていたと知ったのは、もっとずっと後になってからだ。……
***
その後にオヅマは
「リヴァ=デルゼ師の娘、ハルカ=デルゼの指導をお任せ願えないでしょうか?」
「ほぅ…?」
珍しいオヅマからの申し入れに、主君は興味深そうに眉を上げた。
並び控えていたリヴァ=デルゼがすぐさま声を上げる。
「何を勝手な! 我が娘のことに、お前が口を出すかッ」
「まぁ待て、リヴァ=デルゼ。話を聞くとしよう」
主君がリヴァ=デルゼをなだめて、軽く首を傾げて見てくる。
オヅマは頭を垂れたまま、静かに申し述べた。
「リヴァ=デルゼ師の娘は、師のすぐれた指導によって、着実に力をつけております。ゆくゆくは優秀なる女騎士となるに違いありません。そうなれば、いずれは公女様の護衛として仕えさせるがよきように思います」
「ふ…む。そうだな。リヴァ=デルゼ、異論はあるか?」
リヴァ=デルゼはオヅマをギロリと睨みつけたが、主君の言葉を否定はできなかった。
「……いえ、そのようになればよいと思い、稽古をつけております」
「そうか。
「その娘をいずれ公女様の護衛騎士とさせるおつもりであれば、リヴァ=デルゼ師が教育を担うは不適当と存じます。公女様は
「ふ…」
主君は笑みを浮かべ、リヴァ=デルゼは激昂した。
「ふざけるな! 貴様!! 私を嘲るかッ」
オヅマはゆっくりと顔を上げると、冷たい眼差しでリヴァ=デルゼを見つめた。ふぅ、とわざとらしくため息をつく。
「…かように、閣下の言葉を待つこともなく喚き散らす有様にて」
「なッ!!」
リヴァ=デルゼは何も言えなくなった。顔が真っ赤になり、怒りに握りしめた拳が震える。その場にいる何人かがせせら笑った。彼らはこれまでにリヴァ=デルゼから散々、無能、愚物と馬鹿にされてきたので、痛快至極だったのだろう。
主君はチラリとリヴァ=デルゼを見てから、肘掛けに頬杖をついてオヅマに問いかける。
「それで? お前が教えるにふさわしいと言うのか?」
「…私は閣下より直接、薫陶を受けております」
オヅマの隙のない弁舌に、主君はハッハッハッと愉しげに笑った。
「弁術について、よく学んでいるようだな。よかろう。ではその娘のことは、これよりオヅマに任せることにしよう」
「閣下!」
リヴァ=デルゼはそれでも食い下がろうとしたが、主君は立ち上がり、軽く手で制した。
「
主の顔に浮かぶ笑みの裏側に、そこはかとない恫喝があることをリヴァ=デルゼは瞬時に感じ取ったのであろう。すぐさま恐縮したように頭を下げ、震える声で了承した。
そうしてハルカはオヅマの下で、貴族への礼儀作法も含め、剣術の指南を受けることになった。
数年の間に、ハルカはオヅマの意図した通り公女の護衛騎士となり、同じく公女の侍女となっていたマリーと行動を共にすることが多くなった。
マリーは喜んだ。オヅマがハルカの教育を任されるようになって、何度となくアンブロシュの屋敷に連れて行ったことがあったので、マリーにとって、ハルカは妹同然だったのだ。
ただ、ハルカが成長するに従って、有能な女騎士になってゆくのは喜ばしいことだったが、周囲の人間からの誤解にはオヅマも辟易した。
それはマリーですらもそうだった。
「お兄ちゃん。ハルカちゃんのこと、どう思ってるの?」
「…騎士見習いだ」
「それだけぇ?!」
マリーは不満そうに声を上げ、ブツブツと文句を言った。
「まったく。お兄ちゃんがそんなだと、ハルカちゃんが可哀相だわよ…」
オヅマはため息をついた。
マリーに限らず、ハルカとオヅマの仲について曲解する者は多かった。いちいち否定して説明するのが面倒なので放っておいたのだが、そのせいで無駄なおしゃべりを聞く羽目にもなった。
***
「残念だったなァ、オヅマ。その女の処女は俺が奪っちまったんだ。そっからはもう、どんな奴にでも股を開きやがって…とんだアバズレだ!」
大公家騎士団の金や備品を横領していた男は、追い詰められた挙句、愚にもつかないことを言い出した。
彼を追跡する任務を負ったオヅマは、ハルカを伴っていた。その頃になるとより実践的な訓練として、いくつかの任務を共に行うようになっていた。
下卑た笑みを浮かべる男を、オヅマは面倒そうに見た。
どうやら男はオヅマが驚き、動揺すると思っていたらしい。最後の最後に、せめて一矢報いる……というには、あまりにもお粗末な言動だ。
うんざりしながら、オヅマはハルカに「真実か?」と問いかけた。ハルカがいつものごとく、無表情にコクリと頷く。
「この男は、今、お前を誹謗している。どうしたい?」
「…どうでもいいです」
「じゃあ殺せ」
オヅマが言うなり、ハルカは男をバッサリ斬り捨てた。
オヅマは男の絶命を確認してから、ハルカに尋ねた。
「お前…コイツに抱かれたのは、お前の意志か?」
「私の…意志?」
ハルカは困惑したようにつぶやく。しばらく考えてから真面目に答えた。
「わかりません」
オヅマは眉を寄せ、男を見つめた。
ブツブツとしたニキビ痕が残る、下膨れ顔の醜男。身丈も背の高いハルカより頭一つ分ほど低く、腹も出張っている。
どう考えても、ハルカを組み伏せることができる手合ではない。
もし本気でハルカが抵抗していれば、即座に殺せただろうし、殺すのが面倒ならば気絶させれば済む話だ。
オヅマはため息をついて立ち上がると、ハルカと向き合った。
「お前の私事についてどうこう言う気はないが、男を選べ」
「……どのような男がいいのですか?」
そういう質問を普通にしてくるのが、ハルカらしかったが、オヅマは心底面倒臭かった。それでも答えてやらねばならない。ハルカは間抜けに見せて計算高い貴族令嬢のように、あどけないフリをしているのではなく、本当にわからないから聞いているのだ。
「……家内の者は控えろ。今回のように後々面倒になる。病気持ちは論外。あとは、この男のようにグダグダとくだらぬ事を言う奴はやめておけ。猿以下だ」
「わかりました」
ハルカはオヅマに言われたことを、おそらく胸の中で反芻しているのだろう。その生真面目な様子に、オヅマはまたため息をつく。
「お前、マリーに知られていないだろうな?」
ハルカは首を傾げた。オヅマは軽く首を振った。
「知っていれば、マリーが俺に何も言わないはずがないから、知らないんだろうが…知られることのないようにしろ。こうしたことは他人に秘すものだ」
「はい」
「マリーがもし知れば、心配する…」
オヅマがつぶやくように言うと、ハルカは少しだけ申し訳なさそうな顔になった。
「マリーはいつも私を心配します。私が傷つくことを知らないのが、可哀相だと言います」
「……そうだな」
「それと、マリーは私があなたのことを好きだと思っているみたいです」
「…あぁ」
オヅマは答えながら、歩き始めた。
一番近い宿場町に戻り、そこで男の死亡を申告する必要がある。保安衛士に大公家の金を横領した罪により男を処した旨を伝え、彼らに死体の始末を頼むのだ。もちろん処理費用を払って。
しばらく無言で歩いていたが、オヅマはふと立ち止まると、振り返って問うた。
「お前……俺が好きなのか?」
「いいえ」
ハルカは即答してから、急に片膝をついた。
「オヅマ、あなたは私の
まるで誓うかのようにハルカは言った。顔を上げ、オヅマを見つめるセピアの瞳がいつになく熱を帯びている。
だがオヅマはそのハルカの誓いを、物憂げに見つめるだけだった。
「……この場だけにしておけ」
つぶやくように言って、オヅマはハルカに背を向けると、再び歩き始めた。
引き続き、更新します。