それからもブラジェナはオヅマの礼儀作法教師よろしく、何かとうるさく言ってきた。
しかも二言目には、
「
と、アドリアンを持ち出してくる。
内心、面倒で仕方なかったが、マティアスの母親だと聞いたら無下にもできないし、そもそも怪我をして、足が不自由になっている貴婦人相手に、怒鳴りつけるようなことはしたくもない。
それにオヅマとて、ブラジェナが決して意地悪で言っているわけでないのはわかっていた。
「よいですか、オヅマ。貴方のように、元は平民であった者が貴族社会で生きていくためには、それこそどの貴族よりも貴族らしい立ち居振舞いを、身に着けねばなりません。それが、貴方自身を無用な争いから守ってくれるのですよ」
ブラジェナは切々と教え諭す。そこにラッセのような尊大さも、自らの権威を誇示する意図もない。ブラジェナは心底、オヅマの行く末を心配し、同時に小公爵であるアドリアンのことを思いやっていた。
オヅマは最初、ブラジェナがそこまでアドリアンについて気にかけるのは、自分の息子が近侍として仕えているからだろうと考えていたのだが、実は別の理由があった。
「え? 公爵夫人の侍女……ってことは、アドルのお母さんに
オヅマの問いかけに、ブラジェナはピクリと眉を寄せた。
「オヅマ、また間違えています。アドルではありません。小公爵様とお呼びなさい。貴方と小公爵様が、レーゲンブルトで
「あぁ、はい。わかりました。……それで小公爵さまのお母上の侍女をされていたって?」
「えぇ。そうですよ」
ブラジェナはお茶を含み、穏やかな笑顔になった。
「懐かしいことです。リーディエ様にお仕えした日々は、私にとって最も光り輝く宝物のような思い出です。本来であれば、結婚した時点でお役目を辞するべきでしたけど、どうしてもリーディエ様とご一緒にいたくて、主人にも了承の上で、お勤めを続けさせてもらいました。マティアスを妊娠して、仕方なく
笑顔が急速に翳ると、ブラジェナの瞳から涙がポトリと落ちた。すぐさまハンカチで拭って、顔を引き締める。
「けれど、最上の幸福というのは、大いなる不幸への予兆とはよく言ったものです。あの御方があんなに早くに亡くなられるなんて。知ったときには、私もまた気落ちして……マティアスがいなかったら、いっそ後を追っていたかもしれません」
オヅマは半ば恍惚として話すブラジェナを見ながら、渋いお茶を啜っていたが、ふと気付いた。ずっと公爵邸に来てから思っていた疑問を、この人であれば答えてくれるのではないか?
「俺……」
「『僕』」
「あ、僕…ずっと疑問だったんですけど、どうして公爵閣下はアドリアンに冷たいんですか?」
公爵邸において、ルーカスも家令のルンビックも、果てはハヴェルからですらも、公爵閣下が亡くなった奥方をとても愛していたと聞いた。だから不思議だった。どうしてそんなに愛した人の子供に対して、ああまで冷淡なのかと。
最初は、貴族の親子関係だからそんなものなのかと、納得させていた。そもそも、広大な敷地内にいくつかある館で別々に暮らし、寝食も別ともなれば、親子としての情愛が薄くなっても当然だと思った。
けれど他の近侍たちから、それぞれの家庭の話を聞くとそうでもないらしい。
テリィなどは母親と頻繁に手紙のやり取りをしているし、月に一度は実家から衣服や保存のきく食品などを送ってくる。エーリクもあれで案外とマメに家族とは連絡を取っていたし、マティアスもこの新年に合わせて母親が刺繍してくれたというハンカチを受け取って、テリィのように騒ぐことはなかったが、それでも嬉しそうにしていた。
それぞれに違ってはいても、どの家庭においても、家族への敬慕や親愛はあった。貴族であっても、そこは平民と変わりなかったのだ。
アドリアンは物心ついたときには既に
このことはルンビックがつい口を滑らして言ってしまったのだが、そのときにオヅマは疑問に思って老家令に尋ねたのだ。『どうしてアドリアンは小さいときから、あそこで暮らしているのか?』と。
老家令は難しい顔になり、首を振った。
重い口を開いて言ったのは一言。
「公爵閣下が、そうお決めになったのだ」
オヅマは更に問いたかったが、ルンビックは再び同じ言葉を繰り返した。それは公爵の決めたことに異を唱えることは許さない、と言外に伝えていた。それでオヅマは沈黙するしかなかったのだが、今、ここでならば聞いてもいいだろう。おそらくブラジェナはその答えを知っているだろうから。
しかしオヅマからの質問に、ブラジェナもふっと目を伏せ、沈黙した。沈痛な面持ちで、静かにお茶を飲む。
「伯爵夫人、ここはアールリンデンではありません。ここにいる者の誰かが、告げ口しますか?」
オヅマが答えを乞うと、ブラジェナは顔を上げて、いつになくボウっとした表情でつぶやくように話す。
「いいえ。…いえ、違うのよ。私はやはり公爵閣下は、まだ深い悲しみの中にあられるのだろうと…そう思ったの」
「それは、公爵夫人が亡くなったことに?」
「えぇ。そう…。私にとって、リーディエ様が唯一無二の
ブラジェナはリーディエに関することになると饒舌になった。だが、肝心なことを教えてくれない。オヅマは焦れったかったが、また
「そこまで好きだったのに、その奥方の子供であるアドリアンに冷たすぎないですか?」
もう一度、同じことを尋ねると、ブラジェナはハーッと長い溜息をついた。
「それは…小公爵様を出産したことで、リーディエ様が亡くなられたからよ」
「は?」
オヅマは面食らった。じっくりと噛み砕いて理解してから、念のため聞き返す。
「あの、公爵夫人がアド……小公爵さまを産んで、その、お産のときに亡くなられた……から、息子のことが、嫌いになった……とか、そういうこと…ですか?」
ブラジェナは悲しそうにコクリと頷いた。
「はぁ!?」
オヅマは思わず大声で叫ぶと、立ち上がった。
「なんだよ、それ! アドルが悪いわけじゃねぇだろ。命がけで産んでもらっておいて、なんで生まれた子供が嫌いになるんだよ!?」
出産は命がけだ。オヅマのいたラディケ村でも、お産がもとで命を落とす母親はいた。だが、残された父親が、生まれてきた我が子を邪険にしたなど、聞いたことがない。オヅマの知っている限り、そうした
ブラジェナは、突然怒り出したオヅマに、呆気にとられた。しかしすぐに粗暴な言葉遣いに気付いて、いつものように叱りつける。
「オヅマ。またアドルなどと…」
しかし今のオヅマには、ブラジェナの言葉は耳に入らなかった。
ずっと疑問で、ずっとこの質問をするたびに暗い顔をする大人連中に、よっぽど何か重大で、隠したいような秘密があるのかと思っていたら……なんのことはない。
「自分の、大好きだった人が子供を産んだせいで、死んだから……その子供が嫌い!? なんだ、それ! ガキか。ガキでも、もっと物分りがいいぜ!」
あるいは大グレヴィリウスとも呼ばれる公爵家の当主として、本当はアドリアンに対して愛情を感じていても、あえて冷たく接しているのか……と、オヅマなりに
「俺の村に四人の子供産んで、五人目を産んだ時に亡くなったおばさんがいたけどなぁ……兄弟連中、みんな五人目の弟のこと、めちゃくちゃ可愛がってたぞ。おやっさんだって、俺がちょっといたずらして泣かせたら、拳骨振り回して怒ってたし。それが普通だろ? 違うのかよ?」
ブラジェナは粛然として固まっていた。もはや言葉遣いを正すことなど念頭にない。
オヅマの言うことは正しい。ずっと前からわかっていた。ただ、ブラジェナがそのことを
アドリアンが生まれた直後から、エリアスはほとんど息子を顧みることがなかった。その冷たすぎる仕打ちに、ブラジェナは直接エリアスに諫言した。
しかし、まだまだリーディエを亡くした悲しみが癒えていないエリアスは、ブラジェナを敬遠した。
リーディエのもっとも近しい侍女であったブラジェナは、それこそ幸せの絶頂でいた頃を共にした存在であった。であればこそ、彼女の遠慮ない直言は、エリアスにとってより厳しく、よりつらいものであったのだろう。
運の悪いことに、ちょうどその頃にまた南部地域が不穏になって、再び戦端が開かれる可能性があった。
ブラジェナの援護射撃をしてくれそうな二人 ――― ルーカス・ベントソンとヴァルナル・クランツは、準備などに忙しく、最終的には二人とも出征してしまった。その他の良心のある人々も、多くは戦地に赴いて、ある者は死に、ある者は近親者の死に衝撃を受けて、姿を見せなくなっていた。
文字通り、ブラジェナは孤立無援となってしまった。
その頃になると、公爵が息子である小公爵に対し、何らの愛情もないということは公爵邸内はもちろん、グレヴィリウス家門の中では周知の事実となっていた。
それでもブラジェナは、リーディエに仕えていたときと同様に、硬骨なる
「閣下。小公爵様は閣下とリーディエ様の間のご子息ではございませんか。どうか、親としての愛情をもって、小公爵様に接して下さいませ」
しかしこの
最終的に不興を買って、ブルッキネン伯爵家そのものが数年の間、アールリンデンに来参することも、
この公爵家からの処置は、すぐさま近隣のグレヴィリウス配下家門の知るところとなり、
「お前のその差し出がましい口のせいで、我が家が破滅したらどうするのだ!?」
当時まだ存命であった先代のブルッキネン伯爵とその夫人から、ブラジェナは厳しく叱責され、しばらく大人しく過ごすことを余儀なくされた。
一切の公爵家との関わりを禁じられたのだ。
三年に及ぶ暗黙裡の謹慎処分ののち、ようやくブルッキネン伯爵家が許されて、
それでもいいと、ブラジェナは受け入れた。
遠くからでも、アドリアンの健やかに育った姿を見たかったから。
ただ、五歳までアドリアンを親身に世話した乳母が、肺を病んで亡くなった後は、どんどんアドリアンから笑顔が消えていった。
彼女の死後に新たな乳母は置かれず、数名の
久々に会ったルーカス・ベントソンに、どうにか孤独なアドリアンの環境を改善できないのかと、意見したこともあったが、彼もまた慎重であった。
「それは伯爵夫人も自ら経験したのであれば、お分かりだろう? 閣下に対して、小公爵様の養育について下手に口出せば、遠ざけられてしまうのだ。もし私やヴァルナルまでが、閣下の不興をかって、公爵邸から事実上追放された場合、誰が小公爵様を守れる? あの女狐がすぐさま、
ブラジェナは忸怩たる思いを抱えながらも、ルーカスの言葉に頷くしかなかった。
ヴァルナル・クランツは、悩み、落ち込むブラジェナを励ました。
「ずっとこのままということはないだろう。リーディエ様のことは、閣下にとって、つらくてたまらぬことだろうが、それでも生きている限り時間は進む。時間が経てば、小公爵様への態度もあるいは多少、変化していくかもしれない…」
その言葉には、
思わぬ事件から、彼が小公爵をレーゲンブルトに連れて行ったことによって、それまで
息子であるマティアスを近侍にと、ルンビックからの打診を受けたときには、ブラジェナは驚いた。近侍の選定については老家令ら、公爵の補佐官が行うにしても、最終的に許可を出すのは公爵当人である。つまりこれはエリアスがブラジェナのことを許した、ということを意味していた。それが見当違いでないというのは、ルンビックが別に寄越した私信によって、この選定において公爵がまず決めたのが、マティアスであったと記してあったからだ。
ただ近侍として決定した旨の書面には、アドリアンにブラジェナがリーディエの侍女であったこと、ひいてはリーディエに関することを一切話さないことが、再度下知されていた。
ブラジェナはエリアスの歪んだ悲しみを感じた。
本来であれば、最もアドリアンが知りたいであろう、亡くなった母親のことを教えない。そのことを知っている人間をなるべく遠ざけ、あるいは口止めすることで、アドリアンに母親への愛情を持つことすら禁じる。
これこそエリアスがアドリアンに行っている、もっとも冷たい
きっとエリアスに近しい者であるほどに、何も言えなかったのだろう。
ルーカスにしろ、ヴァルナルにしろ、あまりに愛しすぎた奥方を亡くしたエリアスの、絶望と虚無を理解できてしまうから。
けれど、今、ブラジェナの目の前にいる少年は違う。
彼にとってリーディエは既に失われた人であり、アドリアンこそが護られるべき存在なのだった。当然のことだ。そもそもこの状態をリーディエが喜ぶはずがない。
「
ブラジェナは静かに認めた。それからじっとオヅマを見上げる。眼鏡の奥の薄茶色の瞳は、静かにオヅマの怒りを受け入れていた。
オヅマはともかく言いたいことを言ったので、ハァと息を吐いて椅子に腰かけた。それでもイライラして、残っていた
「小公爵様には何らの罪もない。ただ、公爵閣下を始めとする私達が、あまりにもリーディエ様と、リーディエ様を愛してやまない公爵閣下のお姿を知っているから、その思い出を大事にするあまりに、小公爵様を
「…なんでだよ…」
オヅマはカップから立ち昇る湯気を睨み、つぶやいた。
「アドルは周りの大人がそんなでも、一度も文句なんて言ったことないんだぞ。なんだったら、自分が悪いんだとか思ってやがる。なんで自分の子供にそんなふうに思わせるんだよ。アドルは生まれてきただけだろ? 自分の息子なのに、なんで…」
――――― 愛してやれない?
言いようのない苛立ちと困惑の中で、その問いはオヅマの硬く握りしめた拳に閉じ込められた。
ふと、オヅマの脳裏に死んだコスタスのことが浮かんだ。
コスタスは一度もオヅマを愛したことなどないだろう。それは当然で、自分の息子でないから。その上、ミーナがオヅマの父親をいまだに忘れていないことを知っていたから、見たこともない男への嫉妬がすべてオヅマに向かったのだろう。コスタスからの仕打ちを許す気はないが、彼がオヅマを嫌う理由は納得できた。
けれど、アドリアンは違う。今の話を聞いて、何一つとして納得できることなどない。
ブラジェナは途切れた先の、オヅマの言葉がわかったようだった。痛ましげに、悲しく告げる。
「公爵閣下は『愛を知らない人』だったの」
遠くを見つめるブラジェナには、エリアスの暗い顔が脳裏に浮かんでいた。
―――― あの子を…どうやって愛するかなどわからない。リーディエがいれば、教えてくれたろうが…私だけでは、子供の愛し方などわからない……
かつて、ブラジェナがアドリアンを見ようともしないエリアスに詰め寄ったとき、彼は言った。ひどく困り果てた、本当に途方に暮れた顔で。
そのときにはまだ、ブラジェナはエリアスという人間を理解していなかった。だからこそ、しつこくエリアスに食い下がってしまい、最終的に伯爵家ごと禁足を命じられてしまったのだ。
けれど時間はエリアスだけでなく、ブラジェナにも必要であったのかもしれない。
謹慎している間、ブラジェナはリーディエとの思い出を偲ぶ中で、思い至ったのだ。
――――― 彼は、愛することを知らなかったの…
昔、リーディエが言っていた……。
言われたときには、ブラジェナはあまり意味を考えることもなかった。リーディエが言うのであれば、そうなんだろう……と思っただけだ。
けれど、その言葉こそが、エリアスにとってリーディエの存在が、どういうものであったのかを知らしめていた。
なぜ彼があれほどまでにリーディエを溺愛し、尊敬し、なんであれば崇拝し、執拗なほどに固執したのか。
エリアスは幼い頃から公爵家内で幽霊のように育った。
実母を失い、伯母である先代公爵夫人に引き取られたものの、待っていたのは無視と、公爵家継嗣としての厳しい教育だった。
誰に愛されることもなかった子供は、誰を愛することもなく、愛し方も知らなかった。リーディエだけが、彼に愛を教えた。
美男で堂々とした見た目とは裏腹に、エリアスの中身は幼い子供と変わりなかったのだ。
かつてブラジェナがエリアスに親としての愛情を持つことを迫ったとき、彼は本当に
ブラジェナは胸の痛みを和らげるために、長く吐息した。
「オヅマ。貴方の言うことはもっともだし、間違いではないわ。でも公爵家において、公爵閣下のご不興をかえば、近侍から外されることもあるかもしれない。そうなれば一番困るのはアドリアン小公爵様よ。そのことをわかったうえで、行動なさい」
ブラジェナは自らの経験から、オヅマにそう忠告した。
オヅマはようやくこの数カ月間考えていた問題の解答を得たものの、まったく釈然としなかった。
元々、公爵閣下に対しては、アドリアンにそっくりということ以外、陰鬱で厳しい人という印象しかなかったが、そこに『いけ好かない奴』というのが加わった。
アールリンデンに戻り、いずれ公爵閣下と顔を合わせたときに、ブラジェナの忠告を思い出せるのかどうか……自信はない。
次回は2023.10.29.更新予定です。