楽しい時間はあっという間に過ぎるというが、アドリアンは正直ものすごく長い時間が経ったようにも感じたし、小島の
「おーい、小公爵」
ボーッとなっているアドリアンに、アレクサンテリが声をかける。
アドリアンは我に返ると、魂が抜けたようになった自分の姿をアレクサンテリに見られたことが、ひどくきまり悪く思えた。
「な、なんでしょうか?」
あわてて取り繕って答えるアドリアンを、アレクサンテリは半笑いで見つめる。
「まったく、わかりやすすぎるよ、小公爵。君が姉上のことが
「そ、そんなこと…当然でしょう! わかってます!!」
「どうだかねー。君も
父母のことに触れられて、アドリアンは急にムッと押し黙った。
機嫌の悪くなったアドリアンを見て、アレクサンテリは薄ら笑むと、水面に浮かぶ花を見ながら話を続けた。
「当代の
なんとなく、アレクサンテリが嫌な方向に話を持っていこうとしている気がして、アドリアンは、顔をしかめたまま黙り込んだ。しかしアレクサンテリは組んだ足に肘をついて、顎を手に乗せながら、特に面白くもなさそうな顔で続ける。
「君も両親のことで色々と悩ましいようだけど、このシェルバリの家系もけっこう面倒な人が多くてねぇ」
シェルバリ、というのは初代皇帝エドヴァルドの元の姓で、代々皇家に継がれた古い姓名だ。
(ちなみに『グランディフォリア』は四代目の皇帝が即位したときに、初代
そんな由緒ある名前を、まるで
「殿下。お立場を
「わかってるよ。だから言う相手は選んでるんじゃないか。僕も、君を信頼しているんだよ、ア・ド・ル」
ニンマリとアレクサンテリが笑うのを、アドリアンは仏頂面で見つめた。
絶対に、ワザと言っている。
「アドル」と。
公爵家においてはオヅマ以外、誰も言うことのないアドリアンの愛称を。
アレクサンテリはアドリアンが不機嫌になるのが、楽しいらしかった。嬉しそうに「フフ~ン」と鼻歌を歌いながら、ユラユラと体を揺らせて、わざとに小舟を不安定にさせる。それでも水夫は慣れたもので、上手に
アレクサンテリの体がようやく止まると、今度は口が
「君のお父上は突発的にあぁなったのかもしれないけど、
僕の
アレクサンテリは同意を求めてくるが、当然アドリアンは頷かなかった。
「………皇帝陛下のなさることですので、僕から申し上げることはございません」
しかつめらしく返事すると、アレクサンテリはつまらなそうにため息をついた。
「ま、そういうことだから。
「殿下!」
さすがにアドリアンは強く非難した。
たとえアレクサンテリが皇太子であろうと、いや皇太子であるならば、自分が
しかしアレクサンテリは、相変わらずニヤニヤと腕を組んで笑っていた。
「おお、怒ってる。怒ってる。いいね。これが、喧嘩ってやつ? 信頼ってこういうことだよね?」
「フザケたことを言ってないで、口を慎んでください。恐れ多くも国を守護するために、毎日祈ってくださっている神女姫様に向かって……」
「なーにを。さっき、姉上だって言ってたじゃないか。暇だって。あんな湖の上にぽつーんと浮かんだ神殿で祈ってようが、祈ってまいが、だぁれも知らないさ。口を慎むゥ? なーにを言ってるんだか。皇宮にはあいにく、
「誰が……」
アドリアンはいよいよ呆れかえり、ため息も隠さなかった。
すると急にアレクサンテリはアドリアンの隣に腰掛けてきて、耳元で囁いた。
「『貴畜』って言葉、聞いたことある?」
「……キチク?」
「最も貴くて、最も忌むべき
「……どういうことです?」
アドリアンが眉をひそめて尋ねると、アレクサンテリは
「
「……なにを
「ランヴァルト大公が先代皇帝であられる、僕の曽祖父・シェルスターゲ皇帝の末息子ということは知ってるよね?」
「それは、もちろん」
大公ランヴァルトはシェルスターゲ前皇帝の末子で、今の皇帝よりも年下の叔父であることは誰もが知っている事実だ。その母であるマイア妃は女官として勤めていて、皇帝からの信頼も厚かったので、年は離れていても、二人がそういう仲になったことに驚く者はいなかった。
「じゃあ、僕のお
まるで歌い文句かのように、どこかおどけた調子で、アレクサンテリは問いかけてくる。うっすらとした口元の微笑とは対照的に、紺青の瞳はガラス玉のように無機質で、何を考えているのかわからない。
アドリアンは凝然として、アレクサンテリを見つめた。膝の上に置いた拳が震える。自分の脳が勝手に推理して、答えを導くことに、うんざりした。
アレクサンテリの持って回った話を理解できないくらい、馬鹿だったら良かったのに……。
こんな話はもっと大人になってから聞きたかった。
しかも今、イェドチェリカに会ったばかりだから余計に生々しくて、それがアドリアンにはひどく腹立たしかった。まるでイェドチェリカもそうだと言わんばかりではないか。絶対にそんなことあり得るはずがないのに。
アレクサンテリはそんなアドリアンの心を、更にザラザラした言葉で刺激してくる。
「あぁ。別にそれが真実かどうかなんてわからないよ。実際にシェルスターゲ皇帝の子かもしれない。だって、神殿に行けるのは皇太子だけじゃない。
アドリアンはもう相槌も打てなかった。
言いようのない気味悪さが背筋を這い上る。
この国で最も清純とされる
そんなおぞましいことは、考えたくもない。
だがアドリアンにとっては衝撃的な皇家のこの
アドリアンにとって不幸だったのは、多感な青少年期にそうした話を聞いてしまったということだ。それはアレクサンテリも同様であったが、彼は良くも悪くも皇宮に暮らす人間であった。
「あぁ、心配しないで。僕はそういうの、まったく興味ないから。兄上も、姉上と仲は良かったけど、まぁ……なかったろうよ。父上は、姉上のことを嫌っておいでだからなぁ。ま、ともかく。姉上は、
アドリアンはひどく気分の悪い状態だったが、アレクサンテリの言葉にホッとした。当代
しかし胸をなでおろしたのも束の間、アレクサンテリは今度はアドリアン自身に関係する人について話し出す。
「ちなみについでに言うと、
アドリアンは静かに深呼吸しながら、目を閉じた。とりあえずアレクサンテリの口が閉じるのを待つしかない。今は下手なことは何一つ言うべきではないのだ。「やめて下さい」と言えば、アレクサンテリはますます面白がって、皇宮の
実際、アレクサンテリは、普段こんなことを大っぴらに話せる相手もいないことから、まぁまぁ得意になっていた。同世代でこの話が理解できる上、重要性を十分に認識して、ちゃんと
「でもそのせいで、
舟はようやく
舟から降りたアレクサンテリが、最後にとどめとばかりに刺してくる。
「だから、そういうことだよ。ランヴァルト大公が皇宮において、『
アドリアンはようやくそこで、アレクサンテリがこんな話をしてきた理由がわかった。先程、アドリアンが大公のことを尊敬するような
『貴畜』。『豺狼の子』。
そんなふうに陰口を叩かれて、この皇宮の中で生きていたのだろうか、あの大公殿下は。自分にはどうしようもない、父母の無責任の
ギュッと拳を固く握りしめて、アドリアンは湖の方を見つめた。水面に浮かぶ睡蓮の花を見ながら、静かに告げる。
「……長く話しすぎましたね、殿下。いくら夏とはいえ、水の中にずっといては体も冷えます。
言うだけ言って
アレクサンテリはフゥ、と息をついてから、クシャクシャと両手で頭を掻いた。
水辺にしゃがみこむと、スーッと睡蓮の花が三つ寄ってくる。アレクサンテリは小石をつまむと、ポイと、それぞれの睡蓮の花の真ん中に投げ込んだ。花弁に隠されて見えないが、その睡蓮の真ん中には、なぜか穴が空いていた。
「もう、情けないったらないよ。こういうのって、隠密にやってこそじゃん? なにバレちゃってんの? 貴族の坊や相手にさぁ」
言いながら、ポイポイとアレクサンテリは花の中に小石を放り込む。ゴボゴボと花の周囲に泡がいくつも浮かんだ。
「でも嬉しいことだよねー。あのグレヴィリウスの小公爵様に心配してもらえてさ。いいね。僕なんて、あんなに教えてあげたのに、まったく有難がってる節もないし。あーあ、これが兄上との人徳の差ってやつー?」
ゴボボッ、と大量の泡とともに、ぷっかりと浮かんでくるのを待つこともなく、アレクサンテリは立ち上がって背を向けた。
「アレ、役に立ちそうもないよー」
早足に歩きながら、誰にともなく言う。すぐに「御意」と静かな声が返ってきた。
そのままアレクサンテリは少し口をとがらせ、ひどくつまらなそうな顔で去っていった。
引き続き更新します。