昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百七十一話 ガルデンティアの主

 大公城ガルデンティア ――― 帝都近郊のガルデンティアの丘の上に建てられたその壮麗な屋敷を、帝都の人々は『城』と呼んだ。

 それは実際に帝都防衛のため、皇宮(こうぐう)を中心に周囲八箇所に作られた、城塞の一角でもあった。

 だが、ただの城塞ではなく同時に大公の居所(きょしょ)でもあることから、(あるじ)の品格に見合うだけの体裁は求められたのだろう。

 

 皇帝から、先の皇嗣(こうし)争いにおけるランヴァルトの活躍の褒賞として与えられたとき、この城塞は他の七つの城塞と同じように、実戦を想定しただけの外郭の一防衛拠点に過ぎなかった。それを『大公としての威容を損じることのないように』という皇府(こうふ)からの条件付きで貰い受けたランヴァルトは、半年で見事に壮麗なる城へと変貌させた。

 城の外壁を藍黒石(らんこくせき)という、南方でしか採掘できない希少な石で覆ったのだ。

 そのほかにもいくつかの館を新築したり、内装や園庭も、大公家としての面目に恥じないものに整えられたが、これらはすべてランヴァルト個人の私費によって行われた。つまり皇府はランヴァルトという稀代の英雄を使役しつつ、彼が必要以上に力をつけぬようにと、細心の注意をもって彼を牽制(けんせい)していたのだ。

 

 ランヴァルトの方もこの程度のことは想定していた。

 表面上、平和で穏健な治世の裏で、ありとあらゆる不穏の目を摘むことは、皇府における常套手段であったから。それが皇帝主導であれ、その従順なる配下の者によってであれ、目をつけられぬよう彼らの意図をいち早く汲み取って行動することこそ、皇家(こうけ)に生を()けた者の処世術であった。

 

 彼は皇府からの疑念を解消するために、この大公城改築において、皇帝個人から借金までした。そのことは大っぴらにはされないまでも、皇帝当人と宮廷内においては、冷やかしの対象ともなった。

 借金そのものは三年で返済したものの、この事実はいつまでも宮廷内において大公を馬鹿にする恰好のネタにされた。もちろん、ランヴァルトはあえて許容した。それが彼の狙いであったからだ。

 

 いずれにしろ、大公城はその異様なる外観ゆえに『黒城(こくじょう)』『夜城(やじょう)』(中にはいささかの冷笑を込めて『蝙蝠の巣窟』と呼ぶ者もいたが)などと呼ばれ、勇壮でありながら、気品高く、典雅(てんが)(おもむき)(たた)える歌が、数多(あまた)の吟遊詩人たちによって作られた。

『夜空を(まと)った』と歌の文句になるほどに、藍黒石(らんこくせき)(つや)やかな美しさで固められた城を、ガルデンティアの麓に住む人々は称賛し、自慢しあった。

 

 

***

 

 

 その夜城において、皇宮(こうぐう)から戻ったランヴァルトを待っていたのは、息子とその母だった。自らの居室にて待ち構えていた二人を、ランヴァルトは冷ややかに一瞥した。

 

「誰がここに入る許可を与えた?」

 

 静かな声であったが、それだけでも彼らは威圧されて言葉が出なかった。

 実のところ、この居室に入るにあたって、親子は大公の従僕から止められた。だが、現在大公の唯一の妻であるシモン公子の母、ビルギット・アクセリナ・モンテルソンは横柄に申し立てた。

 

(わらわ)はこの大公家における女主人ですよ。()(ほう)らごときに制止される身分ではありません。控えなさい!」

 

 母親の姿に追従するように、シモン公子も従僕らを責め立てた。

 

「お前たちに母上を止める理由などない。控えろ!」

 

 従僕たちは早々に説得をあきらめた。大公が戻れば、彼らが顔色を失くし、震えながら(ひざまず)くであろうことを予想していたからだ。実際に目の前でその通りの状況となった彼らを見て、従僕らは内心ほくそ笑んでいた。

 

「お、お…お許し下さいまし。我が子のことで、重大な決定がなされたと聞きまして、寛恕(かんじょ)を願いたく(まか)り越しました」

 

 震えながらも、なんとかビルギットは夫に申し立てた。いかにも(しお)らしく、なよやかに姿(しな)をつくって。

 ランヴァルトはビルギットの媚態(びたい)を無視し、軽く首をかしげた。側にいたヴィンツェンツェ老人がボソボソと告げた。

 

「先程の、グレヴィリウス小公爵との件につきまして、シモン公子様にリヴァ=デルゼの下で、修行をなさるよう決められたことにございます」

 

 ランヴァルトはフ…と笑い、マントの留具(クラスプ)を外した。すかさず従僕たちが取り囲んで、(あるじ)の装飾品を手際よく取ってゆく。最後に頭巾をとると、赤黒く変色した切創(せっそう)が露わとなった。

 頭頂部から眉間近くにかけて、醜く這う蚯蚓(みみず)のようなその(あと)は、本来であれば美麗なるランヴァルトの顔に(キズ)なすものであったが、不思議と年経るに従い、年長者らしき風格とともに、魁偉(かいい)なる威容を持たせた。

 シャツとズボンに、従僕からかけられたガウンを羽織っただけの軽装となった彼は、椅子に腰掛けると、肘掛けに肘をついて、愚鈍そうな顔をした母子を見つめた。

 

「なにが重大なのだ? その程度のことで」

「その程度ではございません! あの女戦士は、狂っております。この前にも修行と称して、騎士相手に半死半生のむごき行いをして、その騎士は立つこともできず、盲目になったというではありませぬか! もし、シモンも同じような目に遭って、もし、殺されでもしたら……!」

 

 ビルギットは声高に、涙声で訴えた。実際に目に涙も浮かべた。しかしランヴァルトの返答は冷たかった。

 

「あの程度で死ぬのであれば、それまでだ」

 

 ビルギットはヒクッと喉を詰まらせ、ハンカチで目元を拭いながら、大袈裟に愁嘆(しゅうたん)した。

 

「そのような……シモンは大公殿下の、ただ一人の子でございますのに……」

 

 しかしその言葉にランヴァルトの表情は一気に消えた。一切の感情のない虚ろな紫紺の瞳。酷薄な視線に、ビルギットの涙は引っ込んだ。気まずそうに目線を泳がせてから、あわてて話題を変える。

 

「そ……それに、今、シモンはアカデミーにて勉学に励んでおります。修行などで体を痛めて、授業に欠席するようなことになれば、他の公子方々との交流も途絶え、大公家嫡嗣(ちゃくし)としての面目も……」

「嫡嗣と決めた覚えはない」

 

 鋭くランヴァルトが言うと、またビルギットはうっと詰まって、唇を噛み締めた。

 世間では大公の継嗣となる男子がシモン一人であるため、シモンが大公家嫡嗣と見られていたが、ランヴァルトはその点について明言したことはなかった。それどころか、今や明確に否定した。

 ビルギットは曖昧なうちに我が子の世襲を固めようとしていたのだが、今この場において、それははっきりと打ち砕かれた。

 

 悔しげにうつむく母親と、冷たく自分を見る父親の間で、うろたえたのはシモンだった。彼は大公家の嫡嗣であると幼い頃から母親に言われ、周囲からもそのように扱われていたので、すっかりそのつもりであった。

 

「そ、そんな……だって、僕は…僕は、父上の子ではありませんか……」

 

 弱々しい息子からの問いかけに、ランヴァルトは鬱陶しげにため息をついた。

 

「お前が乃公(だいこう)の息子というのならば、リヴァ=デルゼの修行ごときに恐れをなして、それを母親に直訴した挙句、母子二人して嘆願に来るなどという醜態は見せぬものだ。それに……勉学?」

 

 ランヴァルトはコツコツと肘掛けを中指で打ちながら、皮肉げに口もとを歪めた。

 

「その年になってもまだ二葉(によう)(*アカデミーにおける学習進度の指標。最大九葉(くよう))しか取れぬ者が言うことか? 来年には成人(*十七歳)を迎えるというのに……いったい、三年の間に何を勉強していたのだ?」

「そ、そ……それは……去年は病気で休むこともあって……」

小賢(こざか)しい。言い訳ばかり達者だな」

 

 吐き捨てるようにランヴァルトが言うと、壁際に並んでいた従僕らが静かに嘲笑する。シモンは真っ赤になって、母親同様に俯いた。

 

 ランヴァルトはしばらくの間、無表情に、この情けない母子を見つめていた。

 コツコツコツと肘掛けを叩いていた中指が止まると、うっすらと口の()に笑みを浮かべて言った。

 

「リヴァ=デルゼの修行を受けることを免除してやってもよい」

 

 パッと親子が同時に間抜けな顔を上げる。自分たちの意見が通ったことで、喜びの笑みが浮かんでいたが、ランヴァルトのつけた条件にすぐ顔を曇らせた。

 

「但し、シモン。貴様の代わりに、近侍から誰か一人、リヴァ=デルゼの修行を受けるという者がおれば……だ」

 

 シモンは背後に並んでいた近侍たちを振り返った。目のあった一人はすぐに目をそらし、次の者はあわてて俯いて目を合わさないようにした。

 唯一、シモンの目線をそらさず受け止めたのは、シューホーヤの混血児、ファル=ヴァ=ルフだけだった。目が合うと、彼は(だいだい)色の瞳を細めて、ゆっくりと前に進み出た。シモンの斜め後ろに(ひざまず)き、恭しくランヴァルトに申し述べた。

 

「大公閣下の(おぼ)()しとあらば、(わたくし)めが喜んでシモン公子様に成り代わり、リヴァ=デルゼ様より指導を賜りたく存じます」

 

 ランヴァルトはまさか近侍から出てくると思っていなかったので、多少驚いたが、目の前に進み出たファルを見ると、ニヤリと笑った。

 

「お前……そうか。また身代わりになるというわけか」

 

 ファルは、一昨年前のアドリアンとの喧嘩で、シモンがガルデンティアの北塔に閉じこめられたときに、その替え玉として連れてこられた乞食の少年だった。本来であれば、用済みになったと同時に殺されてもおかしくなかったのだが、大公の気まぐれで救われた後に、シューホーヤの血を引くことがわかり、騎士見習いとなった。

 そうして今、ファルは驚きのあまり口を開いたまま固まっていた。まさか自分のような者のことを、この城の(あるじ)たる大公が知っているとは思っていなかったのだ。ハッとして我に返ると、その場に額を打ちつける勢いで平伏した。

 

「こ、この帝国の、しゅ、守護者たる大公閣下に、この…私などを……覚えていただけて、大変……大変、うれしく思います!」

 

 ファルはしどろもどろになりながらも、ともかく大公への尊崇を懸命に示した。

 その様子を直接の(あるじ)であるシモンは白けた様子で見ていたが、ランヴァルトは笑みを浮かべたまま立ち上がって、ファルの前まで来ると、愉しげに見下ろしながら尋ねた。

 

「お前の名前は?」

「ファル=ヴァ=ルフ・アンブロシュと申します」

「あぁ…アンブロシュ卿の息子となったのだったな。よかろう。では、せいぜい励め」

「はっ!」

 

 ランヴァルトは軽くファルの頭を撫でてやると、くるりと(きびす)を返した。先程までのファルへの態度とは打って変わって、冷然と妻と息子の二人を見やる。

 

「いつまでその間抜け面を、乃公(だいこう)の前に並べておく気だ? 用向きは済んだであろう。とっとと失せろ」

 

 シモンはあわてて頭を下げると、逃げるように足早に去っていった。

 一方、母であるビルギットはまだ名残惜しそうにして、何度も振り返っては秋波(しゅうは)を送っていたが、ランヴァルトは彼女に一瞥もくれなかった。

 実のところ、ビルギットは夫の怒りを買うことはわかっていた。たとえ夫婦であっても、この城の主であるランヴァルトの自室に勝手に立ち入るなど、無作法であり、許されることではない。それでもこの数ヶ月の間、口きくことのない夫に声をかけてもらいたいばかりに、少々無理を言って、押し入ったのだ。

 彼女からすると、息子のことは(てい)のいい口実で、本心ではただひたすらにランヴァルトに会いたかったというだけだった。娘時代から変わらず、たとえ夫の容姿が若い頃から変貌したとしても、彼女の心は一途にランヴァルトを想っていた。だが、夫は彼女の恋情を徹底的に拒否した。

 

「失礼致します……」

 

 彼女が小さな声で辞去を告げたときも、まるで耳に入っていないかのように、ランヴァルトは無視した。ビルギットはその冷淡な横顔を、それでも目に焼き付けるように閉じる扉の隙間から必死に見つめていた。

 

 

 ようやく己の部屋から()()がいなくなると、ランヴァルトはベッドに腰掛けた。すぐにヴィンツェンツェが用意しておいた煙管(キセル)を渡す。受け取りながら、壁際に居並ぶ三人の従僕に言った。

 

「下男としてやり直すか、出て行くか……どちらだ?」

 

 従僕たちは最初、自分たちに言われたのかどうかがわからず、澄ました顔で立ったままであったが、その後に誰も返事する者がないので、互いに不安げに目を見合わせた。

 

「大公閣下のお言葉を聞き逃すとは、一介の召使いにあるまじき態度……」

 

 ヴィンツェンツェがボソボソとした声ながら、下からジロリと睨めつけるように彼らを見ると、従僕らは途端にあわてて跪いた。

 

「も、申し訳ございません! (わたくし)共に言われたと、気付きませんでした」

「お許し下さい!」

「申し訳ございません!」

 

 従僕らは口々に謝ったが、ランヴァルトは彼らを見ようともしない。ベッドに上がると、頭側の飾り棚に立て掛けてあるクッションに(もた)れ、長い脚を投げ出すように座った。

 ベッドの下の隅でとぐろを巻いて寝ていた白蛇が、スルスルとランヴァルトの足を伝い這ってくる。太腿のあたりで鎌首をもたげ、チロチロと赤く割れた舌を踊らせた。ランヴァルトはその小さな頭を、指先で撫でてやりながら、ゆっくりと煙管を吸った。

 

「揃いも揃って、のうのうと……よくも乃公(だいこう)の部屋に、あのような愚物どもの侵入を許したな。貴様らは騎士がおらねば、(あるじ)の部屋を守ることすらできぬのか……」

 

 独り言のようにつぶやきながらも、ランヴァルトの口調にはありありとした嫌悪があった。

 従僕らはひれ伏しながら、震える声で訴えた。

 

「わ、わ、(わたくし)どもも御方様(おかたさま)をお止めしました! どうか謁見室にてお待ちあるようにと。しかし、この大公家の女主人たる者に逆らうのかと……公子様もご一緒になって責められたので、仕方なく……」

 

 言いながら、その従僕はだんだんと、それが自分たちの言い訳でしかないことに気付いたのだろう。声が小さくなっていった。

 ランヴァルトはふぅーっと長く煙を吐いてから、ひどく気怠げに言った。

 

「それで乃公(だいこう)に、あの鈍物(どんぶつ)どもの処理を押し付けたわけか。フ……従僕ごときに使役されるとは、馬鹿にされたものよ」

 

 従僕たちは、自分たちの行動が浅はかであったことを、今更ながらに思い知った。この明敏にして苛烈な主人の前では、虎の威を借る狐もまた、その爪牙(そうが)によって処されるのだ。

 ブルブルと震えて押し黙る従僕らの前に、ヴィンツェンツェがスススと音もなく近寄って声をかけた。

 

「返答せよ。下男となってやり直すのか、それともガルデンティアを去るか。去るのであれば当然、推薦状はない」

 

 それは選択肢がないも同然であった。元は大公城の使用人であった者が、推薦状もなく放り出されたとなれば、当然問題があったと見られる。就職できる場所が今以下の環境になることは必至であった。当然給金も。

 

「下男として……再び誠心誠意お(つか)えしたく……」

 

 一人の従僕が涙ながらに頭を下げると、他の二人も追従した。ヴィンツェンツェは「下がれ」としわがれ声で彼らを部屋から出した。

 

「やれ……どうにも昨今(さっこん)下僕(げぼく)は、(あるじ)が誰かを見誤るようにございますな」

 

 ヴィンツェンツェの言葉に、ランヴァルトはフッと笑った。腕を這う白蛇の冷たい肌が心地よい。目を(つむ)ったまま、皮肉げに言った。

 

「老人が近頃の若造に文句をつけるのは、百年前から変わらぬようだぞ」

「おや、そのような意地悪を申されますかな」

 

 とぼけたように言ってから、ヴィンツェンツェはまたスススと大公の寝そべるベッドの脇まで足音なく歩く。ランヴァルトから煙管(キセル)を恭しく受け取ると、隣に置かれた長細い机にある灰落(はいおと)しに灰を捨て、煙管をそっと専用の木の皿の上に乗せた。

 机の上には他に、帝国ではあまり見かけることのない白い磁器の香炉(こうろ)と、巻かれた布が置いてあった。

 ヴィンツェンツェは慣れた所作で香炉の蓋を取ると、すでに温まった灰の中に黒い丸薬のようなものを(うず)めた。ゆっくりと匂いが立ち昇ってくるのを確認して蓋をする。それからおもむろに巻かれた布を机に広げた。ズラリと百本近い(はり)が、長さもまちまちに並んでいた。それらは一見デタラメに布に留められているように見えて、実は使い勝手のいいように整然と並べられたものだった。

 

「シモン公子を嫡嗣(ちゃくし)とせぬのであれば、どこぞに代わりとなる御子(おこ)でもおられますのか?」

 

 ランヴァルトはその質問には答えず、ゆっくりと目を開くと、暗い天蓋(てんがい)を見上げた。ビルギットに言われたときと同じように、また無表情になる。だが明らかに変わった空気にも、ヴィンツェンツェは動じなかった。鍼を一本、一本取り上げては(すが)めて見ながら、愉しげに話す。

 

「ひとまずシモン公子は()()()()()()き、もし大公閣下の()()()を受け継ぎし御子(おこ)がいらっしゃるのであれば、お会いしたいものにございますな」

「………乃公(だいこう)が外に女でも作って、子を()しているとでも?」

 

 暗く苛立たしげな声に、ヴィンツェンツェはニタリと口の端を上げた。

 

「さすれば()()()が増えますゆえ。しかし、そのご様子では期待できませぬな」

「…………」

「大公閣下も、あのように未だに乳離れもしておらぬような、魯鈍頓馬(ろどんとんま)な息子では、頼りなくお思いでありましょう。他に大公閣下の()()()()()を受け継ぎし御子(おこ)あらば、()()も多少は己の立場の危うさに気付いて、刻苦勉励(こっくべんれい)するのではありませぬかな?」

「……()りもせぬ子を仮定したところで、今更であろう……」

 

 投げやりに言うランヴァルトに、ヴィンツェンツェはヒッヒッヒッと肩を揺らし、いやらしい笑い声を響かせた。

 

「閣下とてまだ、精が尽きたわけでもありませぬでしょう……今からでも」

 

 鍼を持って振り返ったヴィンツェンツェの顔は、卑猥(ひわい)な皺で歪んでいた。

 ランヴァルトの眉間の皺が深くなり、嫌悪も露わにヴィンツェンツェを睨みつける。濁った青の瞳と目が合うと、寝台に仕込まれた剣を手に取った。目にも止まらぬ速さで抜かれた剣の切先が、ヴィンツェンツェの鼻先に突きつけられる。

 

(わずら)わしい口だな。その首ごと、()()斬り捨ててやろうか」

「おォ~ゥ、怖や~怖や~」

 

 ヴィンツェンツェは怖がって震えてみせると、ポトリと鍼を落として首をすぼめた。そのまましゃがみこんで、すっぽりと自分を包むマントの中に入り込む。頭を覆っていたフードがダラリと後ろに垂れた。 

 ランヴァルトは灰色の布の中でゴニョゴニョと動く物体を、忌々しげに見つめた。切先を向けたまま、低く恫喝(どうかつ)する。

 

「勘違いするなよ、化け物。乃公(だいこう)がお前を必要としているのではない。お前が乃公(だいこう)を必要としているのだ。そうであろう?」

「左様」

 

 ヴィンツェンツェはニョイと布越しに顔を示した。布を一枚隔てたそれですら、またニタリと笑っているのがわかる。ランヴァルトは苛立たしげに、剣を振るってその布を斬り裂いた。

 

「ヒャアァッ!」

 

 老人のかさついた、素っ頓狂な高い声が響いた。

 両目を斬られたヴィンツェンツェは「やれ、痛や~、痛や~」と、フザケた様子でつぶやきながら、絨毯の上に落ちた鍼に手を伸ばす。しかし、すんででランヴァルトがその鍼を取り上げると、そのままブスリとヴィンツェンツェの右手の甲に突き刺した。

 

「おぉ、これはこれは……拾っていただけるとは、祝着(しゅうちゃく)の極み」

 

 ヴィンツェンツェは大して痛がる様子も見せず、手の甲から(てのひら)まで貫かれたその鍼を、血に濡れた左手で、グネグネと動かしながら抜いていく。

 ランヴァルトはもちろん、何ら悪びれることもなく、冷たく吐き捨てた。

 

「どこまでも白々しい者よな、ヴィンツェ。道化(ヴァルガー)であった頃のほうが、まだ可愛げがあったぞ」

「ホッホホ! では、では、可愛い道化に戻りましょうかな?」

「黙れ。……今日はもうよい。下がれ」

 

 ヴィンツェンツェはボタボタと目から血を流しながら、鍼を机の上に置いた布の、元あった場所に丁寧に戻すと、深々とランヴァルトに辞儀した。

 

「では、今宵は香のみ焚いておきますゆえ。ごゆるりと……」

 

 そのまま扉へ向かって、スススと足音もなく進んでゆく。しかし把手(とって)に手をかけたところで「そういえば……」と、なにかを思い出したように振り返った。

 

「あの娘がおりましたな。ついぞ見つかりませなんだが、もし(はら)んだ子を無事に産めておれば、本日お会いになられたグレヴィリウス家の小僧や皇太子とも、そう変わらぬ年の頃でありましょう。生きておれば、閣下のよろしき()となりましたものを」

 

 ランヴァルトは無言で剣を投げた。

 ドスリ、とヴィンツェンツェの耳をかすめて、扉に刺さる。

 

「精気が有り余っておるのはそちであろう、ヴィンツェ。とっとと小屋に戻って、お前好みの(しかばね)でも抱いて寝ろ」

「ホッホホ! では、では、そう致しますかな……」

 

 ヴィンツェンツェは、また下卑(げび)た笑みを浮かべると、軽く辞儀をして、部屋から出て行った。

 パタリと扉が閉まる。

 どこまでも人を食った、自らを()じることのない老人に、ランヴァルトは苦く舌打ちした。

 

「……不死者(しにぞこない)め。いっそあの皺首、斬ってやればよかったか……」

 

 苛々しながら無意識に薬指の爪を(かじ)りかけて、不意に思い出の中の少女が止める。

 

 

 ―――― 駄目ですよ、ラン。この前だって、血が出ちゃったでしょう……

 

 

 ランヴァルトは苦々しく拳を握りしめてから、ゆっくりと息を吐き、軽く頭を振った。ベッド脇の丸テーブルに置かれたデキャンタを手に取ると、そのまま赤い液体をあおって、ゴホゴホと()せる。

 よろめくようにベッドに腰を降ろすと、枕の上でとぐろを巻いていた蛇が、するすると寄ってきた。チロリと気遣わしげにランヴァルトの指先を舐める。

 何度も咳して息を整えると、ランヴァルトはまた白蛇の頭を軽く撫でた。一瞬だけ緩んだ顔も、バタリと倒れて暗い天蓋を見つめているうちに、また苦いものに変わっていく。

 

 

 ―――― ()()()を受け継ぎし御子……

 ―――― ()()()()()を受け継ぎし御子……

 

 

 老人の低いかすれた声が、嫌味に反芻する。

 何度も言われてきたその言葉は、もはやランヴァルトに何らの感慨も与えなかった。

 ただ、感情が冷え、凝り固まっていくだけだ。

 

 

 ―――― シモンは大公殿下のただ一人の子でございますよ……

 ―――― もし孕んだ子を無事に産めておれば……

 

 

「……うるさい」

 

 力なくつぶやく。

 何もかもが鬱陶しく、重かった。

 

「子など……()らぬ……」

 

 言ったのかどうかわからぬほどに、小さく囁く。

 やがて甘い匂いが強く感じられるようになっていくと、体がフワリと浮かんだかのような感覚になり、とろとろとした眠気が訪れた。耳元を蛇が這っていく(かす)かな音が聞こえる。

 

「レーナ……」

 

 腕に沿って移動していく蛇の、ヒンヤリとした体をそっと撫でて、ランヴァルトは目を瞑った。

 忌々しい老人の言葉に反応して、懐かしい思い出が去来する。

 そんな自らの惰弱(だじゃく)が、ランヴァルトには(うと)ましかった。

 夢寐(むび)にも忘れぬその面影の名を呼ぶことすら、(いと)わしかった。……

 

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