大公城ガルデンティア ――― 帝都近郊のガルデンティアの丘の上に建てられたその壮麗な屋敷を、帝都の人々は『城』と呼んだ。
それは実際に帝都防衛のため、
だが、ただの城塞ではなく同時に大公の
皇帝から、先の
城の外壁を
そのほかにもいくつかの館を新築したり、内装や園庭も、大公家としての面目に恥じないものに整えられたが、これらはすべてランヴァルト個人の私費によって行われた。つまり皇府はランヴァルトという稀代の英雄を使役しつつ、彼が必要以上に力をつけぬようにと、細心の注意をもって彼を
ランヴァルトの方もこの程度のことは想定していた。
表面上、平和で穏健な治世の裏で、ありとあらゆる不穏の目を摘むことは、皇府における常套手段であったから。それが皇帝主導であれ、その従順なる配下の者によってであれ、目をつけられぬよう彼らの意図をいち早く汲み取って行動することこそ、
彼は皇府からの疑念を解消するために、この大公城改築において、皇帝個人から借金までした。そのことは大っぴらにはされないまでも、皇帝当人と宮廷内においては、冷やかしの対象ともなった。
借金そのものは三年で返済したものの、この事実はいつまでも宮廷内において大公を馬鹿にする恰好のネタにされた。もちろん、ランヴァルトはあえて許容した。それが彼の狙いであったからだ。
いずれにしろ、大公城はその異様なる外観ゆえに『
『夜空を
***
その夜城において、
「誰がここに入る許可を与えた?」
静かな声であったが、それだけでも彼らは威圧されて言葉が出なかった。
実のところ、この居室に入るにあたって、親子は大公の従僕から止められた。だが、現在大公の唯一の妻であるシモン公子の母、ビルギット・アクセリナ・モンテルソンは横柄に申し立てた。
「
母親の姿に追従するように、シモン公子も従僕らを責め立てた。
「お前たちに母上を止める理由などない。控えろ!」
従僕たちは早々に説得をあきらめた。大公が戻れば、彼らが顔色を失くし、震えながら
「お、お…お許し下さいまし。我が子のことで、重大な決定がなされたと聞きまして、
震えながらも、なんとかビルギットは夫に申し立てた。いかにも
ランヴァルトはビルギットの
「先程の、グレヴィリウス小公爵との件につきまして、シモン公子様にリヴァ=デルゼの下で、修行をなさるよう決められたことにございます」
ランヴァルトはフ…と笑い、マントの
頭頂部から眉間近くにかけて、醜く這う
シャツとズボンに、従僕からかけられたガウンを羽織っただけの軽装となった彼は、椅子に腰掛けると、肘掛けに肘をついて、愚鈍そうな顔をした母子を見つめた。
「なにが重大なのだ? その程度のことで」
「その程度ではございません! あの女戦士は、狂っております。この前にも修行と称して、騎士相手に半死半生のむごき行いをして、その騎士は立つこともできず、盲目になったというではありませぬか! もし、シモンも同じような目に遭って、もし、殺されでもしたら……!」
ビルギットは声高に、涙声で訴えた。実際に目に涙も浮かべた。しかしランヴァルトの返答は冷たかった。
「あの程度で死ぬのであれば、それまでだ」
ビルギットはヒクッと喉を詰まらせ、ハンカチで目元を拭いながら、大袈裟に
「そのような……シモンは大公殿下の、ただ一人の子でございますのに……」
しかしその言葉にランヴァルトの表情は一気に消えた。一切の感情のない虚ろな紫紺の瞳。酷薄な視線に、ビルギットの涙は引っ込んだ。気まずそうに目線を泳がせてから、あわてて話題を変える。
「そ……それに、今、シモンはアカデミーにて勉学に励んでおります。修行などで体を痛めて、授業に欠席するようなことになれば、他の公子方々との交流も途絶え、大公家
「嫡嗣と決めた覚えはない」
鋭くランヴァルトが言うと、またビルギットはうっと詰まって、唇を噛み締めた。
世間では大公の継嗣となる男子がシモン一人であるため、シモンが大公家嫡嗣と見られていたが、ランヴァルトはその点について明言したことはなかった。それどころか、今や明確に否定した。
ビルギットは曖昧なうちに我が子の世襲を固めようとしていたのだが、今この場において、それははっきりと打ち砕かれた。
悔しげにうつむく母親と、冷たく自分を見る父親の間で、うろたえたのはシモンだった。彼は大公家の嫡嗣であると幼い頃から母親に言われ、周囲からもそのように扱われていたので、すっかりそのつもりであった。
「そ、そんな……だって、僕は…僕は、父上の子ではありませんか……」
弱々しい息子からの問いかけに、ランヴァルトは鬱陶しげにため息をついた。
「お前が
ランヴァルトはコツコツと肘掛けを中指で打ちながら、皮肉げに口もとを歪めた。
「その年になってもまだ
「そ、そ……それは……去年は病気で休むこともあって……」
「
吐き捨てるようにランヴァルトが言うと、壁際に並んでいた従僕らが静かに嘲笑する。シモンは真っ赤になって、母親同様に俯いた。
ランヴァルトはしばらくの間、無表情に、この情けない母子を見つめていた。
コツコツコツと肘掛けを叩いていた中指が止まると、うっすらと口の
「リヴァ=デルゼの修行を受けることを免除してやってもよい」
パッと親子が同時に間抜けな顔を上げる。自分たちの意見が通ったことで、喜びの笑みが浮かんでいたが、ランヴァルトのつけた条件にすぐ顔を曇らせた。
「但し、シモン。貴様の代わりに、近侍から誰か一人、リヴァ=デルゼの修行を受けるという者がおれば……だ」
シモンは背後に並んでいた近侍たちを振り返った。目のあった一人はすぐに目をそらし、次の者はあわてて俯いて目を合わさないようにした。
唯一、シモンの目線をそらさず受け止めたのは、シューホーヤの混血児、ファル=ヴァ=ルフだけだった。目が合うと、彼は
「大公閣下の
ランヴァルトはまさか近侍から出てくると思っていなかったので、多少驚いたが、目の前に進み出たファルを見ると、ニヤリと笑った。
「お前……そうか。また身代わりになるというわけか」
ファルは、一昨年前のアドリアンとの喧嘩で、シモンがガルデンティアの北塔に閉じこめられたときに、その替え玉として連れてこられた乞食の少年だった。本来であれば、用済みになったと同時に殺されてもおかしくなかったのだが、大公の気まぐれで救われた後に、シューホーヤの血を引くことがわかり、騎士見習いとなった。
そうして今、ファルは驚きのあまり口を開いたまま固まっていた。まさか自分のような者のことを、この城の
「こ、この帝国の、しゅ、守護者たる大公閣下に、この…私などを……覚えていただけて、大変……大変、うれしく思います!」
ファルはしどろもどろになりながらも、ともかく大公への尊崇を懸命に示した。
その様子を直接の
「お前の名前は?」
「ファル=ヴァ=ルフ・アンブロシュと申します」
「あぁ…アンブロシュ卿の息子となったのだったな。よかろう。では、せいぜい励め」
「はっ!」
ランヴァルトは軽くファルの頭を撫でてやると、くるりと
「いつまでその間抜け面を、
シモンはあわてて頭を下げると、逃げるように足早に去っていった。
一方、母であるビルギットはまだ名残惜しそうにして、何度も振り返っては
実のところ、ビルギットは夫の怒りを買うことはわかっていた。たとえ夫婦であっても、この城の主であるランヴァルトの自室に勝手に立ち入るなど、無作法であり、許されることではない。それでもこの数ヶ月の間、口きくことのない夫に声をかけてもらいたいばかりに、少々無理を言って、押し入ったのだ。
彼女からすると、息子のことは
「失礼致します……」
彼女が小さな声で辞去を告げたときも、まるで耳に入っていないかのように、ランヴァルトは無視した。ビルギットはその冷淡な横顔を、それでも目に焼き付けるように閉じる扉の隙間から必死に見つめていた。
ようやく己の部屋から
「下男としてやり直すか、出て行くか……どちらだ?」
従僕たちは最初、自分たちに言われたのかどうかがわからず、澄ました顔で立ったままであったが、その後に誰も返事する者がないので、互いに不安げに目を見合わせた。
「大公閣下のお言葉を聞き逃すとは、一介の召使いにあるまじき態度……」
ヴィンツェンツェがボソボソとした声ながら、下からジロリと睨めつけるように彼らを見ると、従僕らは途端にあわてて跪いた。
「も、申し訳ございません!
「お許し下さい!」
「申し訳ございません!」
従僕らは口々に謝ったが、ランヴァルトは彼らを見ようともしない。ベッドに上がると、頭側の飾り棚に立て掛けてあるクッションに
ベッドの下の隅でとぐろを巻いて寝ていた白蛇が、スルスルとランヴァルトの足を伝い這ってくる。太腿のあたりで鎌首をもたげ、チロチロと赤く割れた舌を踊らせた。ランヴァルトはその小さな頭を、指先で撫でてやりながら、ゆっくりと煙管を吸った。
「揃いも揃って、のうのうと……よくも
独り言のようにつぶやきながらも、ランヴァルトの口調にはありありとした嫌悪があった。
従僕らはひれ伏しながら、震える声で訴えた。
「わ、わ、
言いながら、その従僕はだんだんと、それが自分たちの言い訳でしかないことに気付いたのだろう。声が小さくなっていった。
ランヴァルトはふぅーっと長く煙を吐いてから、ひどく気怠げに言った。
「それで
従僕たちは、自分たちの行動が浅はかであったことを、今更ながらに思い知った。この明敏にして苛烈な主人の前では、虎の威を借る狐もまた、その
ブルブルと震えて押し黙る従僕らの前に、ヴィンツェンツェがスススと音もなく近寄って声をかけた。
「返答せよ。下男となってやり直すのか、それともガルデンティアを去るか。去るのであれば当然、推薦状はない」
それは選択肢がないも同然であった。元は大公城の使用人であった者が、推薦状もなく放り出されたとなれば、当然問題があったと見られる。就職できる場所が今以下の環境になることは必至であった。当然給金も。
「下男として……再び誠心誠意お
一人の従僕が涙ながらに頭を下げると、他の二人も追従した。ヴィンツェンツェは「下がれ」としわがれ声で彼らを部屋から出した。
「やれ……どうにも
ヴィンツェンツェの言葉に、ランヴァルトはフッと笑った。腕を這う白蛇の冷たい肌が心地よい。目を
「老人が近頃の若造に文句をつけるのは、百年前から変わらぬようだぞ」
「おや、そのような意地悪を申されますかな」
とぼけたように言ってから、ヴィンツェンツェはまたスススと大公の寝そべるベッドの脇まで足音なく歩く。ランヴァルトから
机の上には他に、帝国ではあまり見かけることのない白い磁器の
ヴィンツェンツェは慣れた所作で香炉の蓋を取ると、すでに温まった灰の中に黒い丸薬のようなものを
「シモン公子を
ランヴァルトはその質問には答えず、ゆっくりと目を開くと、暗い
「ひとまずシモン公子は
「………
暗く苛立たしげな声に、ヴィンツェンツェはニタリと口の端を上げた。
「さすれば
「…………」
「大公閣下も、あのように未だに乳離れもしておらぬような、
「……
投げやりに言うランヴァルトに、ヴィンツェンツェはヒッヒッヒッと肩を揺らし、いやらしい笑い声を響かせた。
「閣下とてまだ、精が尽きたわけでもありませぬでしょう……今からでも」
鍼を持って振り返ったヴィンツェンツェの顔は、
ランヴァルトの眉間の皺が深くなり、嫌悪も露わにヴィンツェンツェを睨みつける。濁った青の瞳と目が合うと、寝台に仕込まれた剣を手に取った。目にも止まらぬ速さで抜かれた剣の切先が、ヴィンツェンツェの鼻先に突きつけられる。
「
「おォ~ゥ、怖や~怖や~」
ヴィンツェンツェは怖がって震えてみせると、ポトリと鍼を落として首をすぼめた。そのまましゃがみこんで、すっぽりと自分を包むマントの中に入り込む。頭を覆っていたフードがダラリと後ろに垂れた。
ランヴァルトは灰色の布の中でゴニョゴニョと動く物体を、忌々しげに見つめた。切先を向けたまま、低く
「勘違いするなよ、化け物。
「左様」
ヴィンツェンツェはニョイと布越しに顔を示した。布を一枚隔てたそれですら、またニタリと笑っているのがわかる。ランヴァルトは苛立たしげに、剣を振るってその布を斬り裂いた。
「ヒャアァッ!」
老人のかさついた、素っ頓狂な高い声が響いた。
両目を斬られたヴィンツェンツェは「やれ、痛や~、痛や~」と、フザケた様子でつぶやきながら、絨毯の上に落ちた鍼に手を伸ばす。しかし、すんででランヴァルトがその鍼を取り上げると、そのままブスリとヴィンツェンツェの右手の甲に突き刺した。
「おぉ、これはこれは……拾っていただけるとは、
ヴィンツェンツェは大して痛がる様子も見せず、手の甲から
ランヴァルトはもちろん、何ら悪びれることもなく、冷たく吐き捨てた。
「どこまでも白々しい者よな、ヴィンツェ。
「ホッホホ! では、では、可愛い道化に戻りましょうかな?」
「黙れ。……今日はもうよい。下がれ」
ヴィンツェンツェはボタボタと目から血を流しながら、鍼を机の上に置いた布の、元あった場所に丁寧に戻すと、深々とランヴァルトに辞儀した。
「では、今宵は香のみ焚いておきますゆえ。ごゆるりと……」
そのまま扉へ向かって、スススと足音もなく進んでゆく。しかし
「あの娘がおりましたな。ついぞ見つかりませなんだが、もし
ランヴァルトは無言で剣を投げた。
ドスリ、とヴィンツェンツェの耳をかすめて、扉に刺さる。
「精気が有り余っておるのはそちであろう、ヴィンツェ。とっとと小屋に戻って、お前好みの
「ホッホホ! では、では、そう致しますかな……」
ヴィンツェンツェは、また
パタリと扉が閉まる。
どこまでも人を食った、自らを
「……
苛々しながら無意識に薬指の爪を
―――― 駄目ですよ、ラン。この前だって、血が出ちゃったでしょう……
ランヴァルトは苦々しく拳を握りしめてから、ゆっくりと息を吐き、軽く頭を振った。ベッド脇の丸テーブルに置かれたデキャンタを手に取ると、そのまま赤い液体をあおって、ゴホゴホと
よろめくようにベッドに腰を降ろすと、枕の上でとぐろを巻いていた蛇が、するすると寄ってきた。チロリと気遣わしげにランヴァルトの指先を舐める。
何度も咳して息を整えると、ランヴァルトはまた白蛇の頭を軽く撫でた。一瞬だけ緩んだ顔も、バタリと倒れて暗い天蓋を見つめているうちに、また苦いものに変わっていく。
――――
――――
老人の低いかすれた声が、嫌味に反芻する。
何度も言われてきたその言葉は、もはやランヴァルトに何らの感慨も与えなかった。
ただ、感情が冷え、凝り固まっていくだけだ。
―――― シモンは大公殿下のただ一人の子でございますよ……
―――― もし孕んだ子を無事に産めておれば……
「……うるさい」
力なくつぶやく。
何もかもが鬱陶しく、重かった。
「子など……
言ったのかどうかわからぬほどに、小さく囁く。
やがて甘い匂いが強く感じられるようになっていくと、体がフワリと浮かんだかのような感覚になり、とろとろとした眠気が訪れた。耳元を蛇が這っていく
「レーナ……」
腕に沿って移動していく蛇の、ヒンヤリとした体をそっと撫でて、ランヴァルトは目を瞑った。
忌々しい老人の言葉に反応して、懐かしい思い出が去来する。
そんな自らの