昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第五章
第百七十二話 キャレの秘密


「なんで……」

 

 キャレはシーツについた赤黒い染みに震えた。

 いずれ早晩(そうばん)来るであろうことは予想していた。そうしたものが女にはあるのだと、母や女中たちを見て知っていたから。念のため、こちらに来てからは、専門の本なども読んだ。だが、実際にその女としての(シルシ)を目の前にすると、考えねばならないことが多すぎて、たちまち飽和し、呆然となってしまう。

 ぼんやりしている暇はない。さっさと誰にも見つからぬように洗い場に行き、汚れたシーツを洗わねばならないとわかっているのに、体が動かない。

 

 どうして、よりによって今日なんだろうか。

 皇宮(こうぐう)で騒ぎを起こしたその日に、どうしてまたこんな困難なことが起こるのか。

 

 あの後、エーリクに抱きかかえられて皇宮の医務所に着いたが、キャレはなんとか保った意識をふりしぼって、医者の診察は固辞した。普段から騎士の訓練などで、不器用な自分はいつも怪我をしているから……などと言い(つくろ)って、塗り薬だけもらって(のが)れた。

 下手にシャツを脱がされでもしたら、いくら胴に布をキツく巻いているとはいえ、その時点で不審に思われてしまうだろう。医者ならば、最近丸みを帯びてきたキャレの体つきを見て、勘付いてしまうかもしれない。

 

「大丈夫か?」

 

 アドリアンは皇太子殿下との極めて私的な謁見(えっけん)の後、戻ってくるなりキャレに尋ねてきた。キャレはただうつむいて「大丈夫です」と、小さな声で言うのが精一杯だった。

 本当は蹴られた脇腹も、踏まれた背中もジクジクと痛くてたまらなかったけれど、心配でもされて、公爵邸でも医者に診てもらうようなことになったら元も子もない。

 

 帰りの馬車で、ダーゼ公女がわざわざ礼を言ってくれた…と、話していたことだけが耳に残った。ズキリと胸が痛んだのは、やっぱりアドリアンもあんなに綺麗な少女であれば、()かれても仕方ないと思いつつ、自分の境遇に不憫(ふびん)さを感じたからだろうか。

 自分も髪を伸ばして結い整え、美しいドレスを着たら、アドリアンは振り向いてくれたんじゃないのか……。

 そんな淡い期待を抱いたのが、あるいはいけなかったのか。

 

 公爵邸に帰るなり、キャレは自室のベッドに引き籠もった。アドリアンから事情を聞いたサビエルが医者を手配しようとしたが、キャレは必死に固辞した。

「今はとにかく体を休めたいから、一人にさせて欲しい」と。

 珍しくキャレがきっぱり拒否するので、サビエルも諦めて引き下がってくれた。一応、顔などの汚れを拭くために、水の入った(たらい)と、手ぬぐいを置いていってくれたのは、心底有り難かった。

 

 廊下の足音にビクビクしながら、どうにか顔や蹴られたところを拭き終え、もらった塗り薬を塗った。髪の毛の飴も、(たらい)にその部分をつけて洗い落とした。

 ようやく寝間着に着替えたところで、どっと疲れが押し寄せた。

 サビエルに言ったことは、はからずも本当になってしまったようだ。ひどくだるくて、とにかく眠くてたまらない。

 そのまま言葉通りに、キャレは眠った。おそらくこの疲れは、今日あの乱暴な大公家の若君連中に、暴行を受けたせいだろう…一眠りすれば、このけだるさも解消するだろう……そう、思っていた。

 

 だが、今にして思えばあれは兆候だったのだ。

 本にも載っていた。

 ()()の前後には、ひどく眠くなったり、体が重くなったりするのだと。

 

「………洗わなくちゃ」

 

 つぶやいて再確認する。ともかくこの汚れたシーツを洗濯せねばならない。

 しかし普通は下女が洗ってくれるものを、近侍がえっちらおっちら運んで、水場で洗ってなどいたら、絶対に不審がられるだろう。

 このときばかりは、ここがファルミナの掘っ立て小屋でないことが恨めしかった。あそこであれば、キャレがシーツを運んでいようと、井戸端で洗濯していようと、誰も気に留めなかっただろうに。

 ギリ、と唇を噛みしめて、キャレは憂鬱にシーツの赤黒い染みをまた眺める。それから今は何時かと、部屋に一つある柱時計を見た。藍二ツ刻(らんのふたつどき)を少し過ぎた頃。既に夕食は終わって、明日の連絡が済んでからの自由な時間帯だ。

 この時間であれば、同部屋のエーリクは自主訓練か、イクセル(*エーリク所有の黒角馬)を走らせに出ていて、戻ってくるまでには半刻(約三十分)以上はあるだろう。使用人たちも遅い夕食をとり、夜中の施錠確認とランプの消灯までの間は、各自の部屋で思い思いに過ごすはずだ。

 

 ―――― 助かった……

 

 キャレは少しホッとしてベッドから降りると、シーツを取り外した。

 敷布団にも少しだけ染みがついている。だが、さすがに一人で、この分厚く重い布団を運んで、洗濯するのは無理だった。ぬるま湯を持ってきて、こっそり夜中にでも染みを抜いていくしかない。

 なるべく洗濯物に見えないように、シーツを折りたたみ(このときもなるべく染みが見えないように)、そっと把手(とって)に手を伸ばしかけたときに、いきなり扉が開いた。

 

「ひっ!」

 

 キャレは後ろへと尻もちをついて倒れた。

 

「あ、キャレ。起きたのか?」

 

 エーリクが扉を開けて、入ってくる。だがそれよりも、その後ろから入ってきたアドリアンに、キャレの顔は固まった。

 

「起きているのか? それならちょうど良かった。一応、簡単に食べられそうなものを……」

 

 言いかけてアドリアンはピタリと動きを止め、凝然(ぎょうぜん)としてキャレの落としたシーツを見ていた。エーリクの持ったランプの灯りに照らされて、ちょうど染みになった部分がめくれあがって見えている。

 

「血じゃないか! しかもこんな……やっぱりひどくやられたんだな? 一体、どこを怪我したんだ?」

 

 エーリクがあわててランプを床に置いて、キャレの体に触れる。思わずキャレは「キャッ!」と甲高い悲鳴を上げてしまった。すぐに口を両手で塞ぎ、自分を凝視するアドリアンとエーリクを見上げる。

 二人からの強い視線に、キャレはたまらず、フイと目をそらして背を向けた。どうにか言い訳をしないと……と、必死で考えを巡らせながら、落ちたシーツに手を伸ばす。

 すると背後からアドリアンが尋ねてきた。

 

「キャレ、それは?」

 

 キャレの背中に向けて指をさすアドリアンの顔は、ひどく困惑しているようだった。

 キャレは戸惑いつつ指をさされた背中の方に目を向ける。グイと寝間着の長いワンピースを引っ張って、青ざめた。

 お尻のあたりにホトリとついた真っ赤な血。

 今更ながらに思った。

 シーツについているんだから、寝間着についていて当たり前だ。どうしてこんな当然のことを見落としていたのだろう……。

 

「あ……あ……」

 

 キャレは許しを乞うように手を組み合わせ、ボロボロと涙をこぼした。

 キャレの食事を運んできていたサビエルは、主人と近侍らの奇妙な雰囲気に気付くと、アドリアンの背後から覗き込んだ。彼はすぐに事態を把握(はあく)した。素早く、キャレとアドリアンの間に割って入る。

 

「いけません、小公爵様。すぐにここから出て下さい」

「サビエル、どういうことだ?」

「とにかく出てください。エーリク公子も、とりあえずこの部屋から出てください」

 

 サビエルがここまで切羽詰まった顔で、断固として言うことなどない。

 アドリアンはチラとキャレに鋭い視線を向けたあと、部屋から出て行った。エーリクもひどく戸惑った顔のまま出て行く。

 

 残されたキャレは、しゃくり上げながら泣き崩れた。

 もう終わりだ。これでもう終わり。

 すべて終わりだ……。

 

 

***

 

 

 ひとまずサビエルの機転で、キャレの部屋には口の固い年増(としま)の女中が呼ばれた。彼女はサビエルの説明と状況で察し、キャレに手早く()()()()について教えると、汚れたシーツと寝間着を持って出て行った。

 キャレが着替え終えるのを待って、サビエルが暗い顔で告げる。

 

「ルンビック様がお待ちです」

 

 キャレは胸を押さえた。心臓がギュウゥと引き絞られたかのように痛む。

 頷くと、サビエルの後について歩き出した。

 

 公爵邸の暗く、広い廊下はシンとして人もおらず、まるで処刑場に連れて行かれるかのようだった。いや、実際そのようなものだ。今まで公爵邸の人間、全員を(だま)していたのだ。叱責(しっせき)程度で済むはずがない。

 倒れそうになりながら、それでも進む。

 ひどく長い時間に感じたその道程(どうてい)ですらも、できれば永遠に続いてほしかった。家令(かれい)の部屋へと着いたら、もうそこでキャレの人生は終わるのだから。

 しかし無情にサビエルはその扉をノックする。

 

「連れて参りました」

 

 すぐに扉が開く。中から開けたのは、エーリクだった。チラとキャレを見る目には、まだ困惑があった。

 (うなが)されて中に入ると、そこにはエーリクとアドリアン、それに家令のルンビック子爵が厳しい顔で座っていた。

 

「そこに……」

 

 家令が静かに、机を隔てた、自分の真向かいに置かれた椅子を示す。

 キャレは泣きそうになりながら、部屋の奥まった場所で顔をうつむけて座るアドリアンを見た。キャレを見ようともしない。暗くて表情はわかりにくかったが、その雰囲気からキャレに対していい感情を抱いていないのは明らかだった。

 

「……そこに座りなさい」

 

 再び家令に言われて、キャレはおずおずと浅く腰掛ける。

 家令は机の上の書類 ―― おそらくオルグレン家からの身上書(しんじょうしょ)などであろう ―― を読んでから、鼻の上に乗った小さな丸眼鏡を取り外した。

 

「さて、それでは聞こうか。君は誰かね?」

「ぼ…僕……」

「その一人称は女性には不適当と思われるがね」

 

 ルンビックに柔らかく言い(とが)められ、キャレはビクリと体を震わせた。

 

「も、も、申し訳……ございません。あ、あの、あの私は……カーリンと、申します」

「カーリンか……ふむ」

 

 ルンビックはもう一度眼鏡をつけて、机の上にある紺色の背表紙の本をペラペラとめくる。それは配下家門の一族について記載された名鑑(めいかん)だった。めくっては、また戻りを繰り返して、カーリンの名前を探しているようだ。

 だがカーリンは諦めていた。そんな立派な本に載るのは、嫡出子(ちゃくしゅつし)か、庶子(しょし)であっても男子だけだ。カーリンのことなど、あの父が、ご丁寧に名簿を提出しているはずがない。

 案の定、見つからなかったのか、ルンビックはため息をつくと名鑑を置いてまた眼鏡を外した。

 

「カーリン、君はオルグレン家とかかわりがあるとみて良いのだな。その髪はさすがに(あざむ)けるはずもない。父はセバスティアン・オルグレン男爵か?」  

 

 カーリンはコクリと頷いた。

 

「キャレというのは? 男爵は君を男子と偽って、身上書を出したのか?」

 

 もしそうならば、虚偽記載である。当然、セバスティアンには相応の罰が与えられる。

 だが、カーリンは力なく首を振った。

 

「いいえ、違います。キャレはいます。私の弟です」

「弟?」

「はい。私達は双子なんです……」

 

 それからキャレは自分の生い立ちについて語った。

 

***

 

 カーリンたち姉弟(きょうだい)が生まれたのは、寒い冬の日であったという。

 母親は産気づいても、当然ながら医者など呼んでもらえず、仲間の出産経験のある女中たちの手を借りて、カーリンたちを生んだ。

 

 当主のセバスティアンからは、ねぎらいの言葉一つ与えられることはなかった。

 当時の執事が見るに見かねてセバスティアンにかけあい、産湯代(うぶゆだい)としてわずかながらの金品が与えられたものの、父親は生まれた我が子を見に来ることさえなかった。

 それでもこの執事のお陰で、数年の間、カーリンたち親子は衣食住の満たされた生活を送ることができた。

 

 母は文盲(もんもう)であったが、男爵家の子供であるならば、最低限の教養は必要だろうと、五歳の頃から読み書きについても教えられた。

 執事は先代男爵からの古参であったため、幼い頃から世話になってきた現当主セバスティアンも、さすがにむげにできなかったのだろう。

 だが執事が老齢によって体調を崩し、退職した途端に、カーリンたちはそれまで住んでいた離れの家から追い出され、邸内の隅にある掘っ建て小屋へと強制的に移住させられた。

 

 前執事から頼まれていた数人の心ある使用人や騎士が、カーリンら親子の待遇について、新たな執事やセオドアに意見したりしたが、彼らは例外なく排除された。そうなると、もはや誰もカーリンら親子を守ろうとしなくなった。カーリンらに優しくして、それを領主ら一家 ―― 特に領主の子供たちと奥方 ―― に見咎(みとが)められでもすれば、彼らは領主館での仕事を失い、推薦状もなく追い出されるからだ。

 

 こうしてカーリンたち親子は、領主館内で孤立無援(こりつむえん)となった。

 それでも与えられた掘っ建て小屋で、親子三人細々(ほそぼそ)と暮らしていたのだが、三年前の九歳のとき、弟のキャレが風邪をひいて、こじらせてしまった。高熱が何日も続いて、カーリンは執事に医者を頼んだが、やはり無視された。

 母は飲食を()って、ひたすらに祈り続けた。

 奇跡的に弟は助かったが、痩せた体は弱々しく、しかも熱で頭が少しおかしくなってしまったのか、ひどく癇性(かんしょう)(たち)になっていた。

 

 弟のキャレはその頃、騎士団で下男として働かされていたが、母はか弱い弟を気遣って、カーリンに弟の代わりをするように言った。カーリンの方は母と一緒に洗濯をしたり、台所で皮むきなどの手伝いをするくらいであったので、母としては病弱な弟を、常に自分の目に届く場所に置いておきたかったのだろう。

 カーリンは不承不承ながらも、母から涙ながらに頼まれては拒否もできなかった。少しでも弟に似るようにと髪を肩まで切って、弟の衣服を着て、下男の仕事を始めた。

 

 男女の双子ながら、キャレとカーリンは背格好も含め、容貌も似ていた。まだ子供であったというのも、幸いしたのだろう。ほとんどの人間はキャレとカーリンが入れ替わったことに気付かなかった。

 唯一、うっすらと勘付いたのは兄であるセオドアだけだったが、興味はないようだった。彼にしてみれば、妹であろうが弟であろうが、厄介者であることに変わりない。入れ替わっていることを(とが)めることすら、面倒であったのだろう。

 

 カーリンに大きな転機が訪れたのは、去年、十一歳の早春。

 兄がグレヴィリウス家の小公爵様の近侍(きんじ)になるよう言ってきたときだ。

 さすがにこればかりは、カーリンもキャレの代わりに行くのは難しいと思った。

 当然、母に相談した。

 だが、弟を溺愛していた母は、カーリンの提案 ―― つまり、(キャレ)を近侍として差し出すことには、強硬に反対した。そんなことになったら、か弱い弟は胸が潰れて死んでしまうと繰り返した。

 カーリンはあるいは公爵家に行けば、きちんとお医者様にも診てもらえて、キャレの病気も治るかもしれないと説得したが、母も弟もかたくなに拒んだ。

 

 この時点で、本当であれば兄に正直に話し、どうにか近侍となることを取り下げてもらうよう懇願(こんがん)すべきだった。

 だが、結局カーリンが選んだのは無謀ともいえることだった。

 女であることを隠したまま、弟の代わりに近侍となるべく、グレヴィリウス家へと向かったのだ。

 

 道中、何度も何度も馭者(ぎょしゃ)に言って引き返そうかと考えた。

 だがもし、そんなことをしたら、おそらくセオドアはカーリンたち親子を許さないだろう。

 自分だけでなく、母も弟も領主館から追い出される。

 粗末な掘っ建て小屋であっても、そこにいる限り、きちんと仕事さえしていれば食うに困らず、冬の寒さに震えることもない。

 

 それにどこかでカーリンは希望を持ったのかもしれなかった。

 延々と続くかに思えたファルミナでの単調な暮らし。

 あそこにいる限り、カーリンは最下層の人間だった。

 領主の娘であっても、一度も認められたこともなく、なんであれば館の一部の使用人たちは、あからさまにカーリンを馬鹿にして(いじ)めた。そうすれば正当なる領主の子である兄姉の機嫌が良くなるからだ。特に現奥方の二人の子供は、カーリンをいたぶることを楽しんでいた。

 

 自分のやっていることに後ろめたさを感じながらも、カーリンは結局、グレヴィリウス家に来ることを選んだ。

 この間違った選択をした時点で、自分には何一つとして弁明(べんめい)の余地はない。

 わかっていた。

 わかっていたのだ……。

 

***

 

「……では、ここに来たのは君の一存ということだな。本来であれば、父であるオルグレン男爵に事情を説明して、断るべきところを、自らの境遇から逃れるために、家族をも(あざむ)いて来た……と」

 

 ルンビックが重々しく言うと、声を上げたのはエーリクだった。

 

「待ってください! キャレに一方的に責任を押し付けるのは、おかしいです!」

 

 それはエーリクの勘であった。グレヴィリウス家で催された夜会での、キャレと兄であるセオドアとのやり取り。あのときに感じた異様な雰囲気は、ずっとエーリクの中で違和感としてくすぶっていたが、今日ここに至って、ようやく腑に落ちた気がする。

 

「キャレは……あ、いえ、この…子、が弟と入れ替わっていることに、兄であるセオドア公子は気付いていたかもしれません。もし、わかった上で、ここに越させたのであれば、むしろ非はセオドア公子にあるのではありませんか? キャレに……この子だけに罪を与えるのはおかしいです。選択の余地なんて、ほとんどなかったんですから」

「ふ……む」

 

 ルンビックは気難しく頷いてから、カーリンに尋ねてきた。

 

「どう思う? カーリン。君は兄のセオドア公子が、君が女であることをわかった上で、ここに来ることを止めなかったと、証明できるかね?」

「…………」

 

 カーリンは暗い顔でうつむいた。あの時、確かにセオドアは言った。

 

 

 ―――― ()()()()行っても構わないぞ……

 

 

 だが、それで言質(げんち)を取れるわけがない。あれはカーリンとセオドアだけの会話で、セオドアが「そんなことを言った覚えはない」と言われればおしまいだ。そうして十中八九、セオドアは「知らなかった」と言うに決まっている。

 沈んだ空気を切り裂くように言ったのは、アドリアンだった。

 

「そんなことはどうでもいい」

 

 ルンビックはそれまで黙っていた小公爵の冷たい声音に内心驚きながらも、静かに尋ねた。

 

「小公爵様におかれては、どうお考えでありますか?」

 

 アドリアンは爪が食い込むほどに強く肘掛けを掴みながら、一切カーリンを見ることなく、冷ややかに断じた。

 

「ここにオルグレン男爵の()()であるキャレではなく、カーリンという()()を寄越したということだけでも、オルグレン家の(あやま)ちだ。僕らのすべきことは、彼らの失態を指摘し、責任を追及したうえで、彼女を送り返すだけだ。それ以上のことをこちらが考えてやる必要があるのか?」

 

 常になく冷たいアドリアンの態度に、声を上げたのはエーリクだった。

 

「小公爵さま! オルグレン家において、キャレが弱い立場であることは、小公爵さまもご存知ではないですか。今日のことだって、これ以上、キャレの立場が悪くなることのないようにと、考えられたうえで ―――」

「この子は()()()じゃないだろう!」

 

 アドリアンは鋭く叫び、エーリクの言葉を遮った。エーリクがうっと詰まると、アドリアンは憤然と立ち上がって、カーリンの前へと歩いていく。

 伏せた目線の先にアドリアンの足が見えて、カーリンの背に無言の圧力がずっしりとのしかかった。

 

「顔を上げろ」

 

 冷たい命令が降ってきて、カーリンはゆっくりと顔を上げた。いつもやさしく自分を見てくれていた鳶色(とびいろ)の瞳に、かつてないほどの怒りを感じて、カーリンは唇を震わせ、涙をにじませた。

 そんなカーリンの痛ましい姿にも、アドリアンは苛立たしさしか感じないようだった。

 

「まるで自分が被害者のように振舞うんだな。けれど、君が僕らを騙していたことに変わりない。違うか?」

「……っ…す、すみま…せ…」

「謝罪はオルグレン家にさせる。明朝にも、男爵と嫡嗣(ちゃくし)であるセオドア公子に来てもらい、彼らに引き取らせろ」

 

 そのままアドリアンは部屋を出ようとしたが、重苦しい雰囲気をかき混ぜるかのごとく、軽い声が響いた。

 

「そう簡単にも参りませんよ、小公爵様」

 

 アドリアンがキッと睨む先にいたのは、ルーカス・ベントソンだった。いつのまに入ってきていたのか、暗がりからゆっくりと姿を現す。

 

「……どういうことだ? ベントソン卿」

 

 厳しくアドリアンが問いかけると、ルーカスは肩をすくめて、カーリンをチラと見下ろした。泣きそうな顔を見て、困ったような苦笑いを浮かべる。

 

「こんなか弱いお嬢さんだというのに、気付かなかった我らの不明も糾弾(きゅうだん)されますよ」

「な……僕らは、騙されていたんだぞ!」

 

 アドリアンは抗議したが、ルーカスの表情は平然としたものだった。

 

「そうですね。しかしグレヴィリウス家の若君であらせられるアドリアン小公爵様が、このような小娘にまんまと騙されたということのほうが、より面白い醜聞(しゅうぶん)として吹聴(ふいちょう)されることでしょう。地方の一男爵家に過ぎないオルグレンの失態(しったい)よりも」

 

 アドリアンはギリッと歯噛みした。固く握りしめた拳を、どこに振り落ろすこともできないまま踵を返して足早に戻ると、先程まで座っていた椅子にドスリと腰を降ろす。

 ルーカスはまだ怒りが収まらない様子のアドリアンを、少しばかり愉しげに見てから、カーリンに目を向けた。

 

「さて。では、カーリン嬢。もう一度、伺いましょう。君の見るところ、セオドア公子や父上は、君を()と承知で、ここに()させたと思われますか?」

 

 この場に来てから初めてやさしく問われて、カーリンはホッとなると同時に涙があふれた。ルーカスは慣れた様子で、胸元のポケットからハンカチを取り出し、カーリンに渡すと、なだめるようにその震える肩を、トントンとやさしく叩いてやった。

(ちなみに、一連の()()()()を見ていたサビエルは、部屋の隅に控えながら、やや白けた目で父親を見ていた。)

 

「父は……ほとんど会って、おりませんから、存じ上げないと…思います。兄は……おそらくわかっていた…かも、しれませんが……」

 

 切れ切れにカーリンが言うと、ルーカスが後を続ける。

 

「わかっていた上で寄越したにしろ、このことを糾弾したところで、彼は『知らなかった』とシラを切る、そうお思いですね?」

 

 カーリンは涙をぬぐいながら、コクリと頷いた。ルーカスは得心したように軽く目を閉じると、カーリンの手を取った。

 

「よろしい。では、カーリン嬢への問責はこの辺にしておきましょう。今日は色々と疲れておられるようですからね。エーリク。お前、部屋まで連れて行って、戻ってくるように。カーリン嬢、念のため部屋の鍵を閉めて、お(やす)みください」

 

 思わぬ幕切れにカーリンは戸惑った。

 

「え、でも……私は……牢屋に入れられるのではないのですか?」

 

 おそるおそる尋ねると、ルーカスはクスリと笑い、ルンビックはため息をつきながら首を振った。

 

「そんなことをするつもりは毛頭ない。いいから、今日のところはベントソン卿の指示に従って、ちゃんと寝なさい」

「……はい、わかりました」

 

 カーリンが立ち上がると、ルーカスが支えていた手をエーリクへと差し出した。エーリクはぎこちなくカーリンの手を取ると、ギクシャクしながら扉へと歩いていく。

 カーリンは部屋を出る寸前に、チラとアドリアンを窺った。けれどやはり、暗がりに静かに腰掛けるその姿からは、明らかな拒絶が感じられた。

 カーリンは胸を押さえた。

 アドリアンの言う通り、自分が騙したのだから、怒って当然なのだ。

 仕方ないのだと言い聞かせても、やはり涙は止まらなかった。頭を下げて、泣き濡れるカーリンの前で、扉は無情に閉まった。

 

 




引き続き更新します。
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