同日。
帝都、公爵邸内の一室。
小公爵アドリアンの部屋にいるのは、エーリクと、マティアス、部屋の主であるアドリアンの三人だった。
テリィは母親から連絡があり、一緒に出掛けている。この頻繁な外出に、いつもならばマティアスは文句タラタラであったが、今日は比較的すんなりと送り出した。理由は、テリィがいてはできない話をするからだ。
キャレがエーリクと共にファルミナに行ったあと、マティアスはルーカスに呼ばれて、キャレが女であったことを聞かされた。その際に、この件に関してきつく口止めされた。
「特に、同じ近侍のチャリステリオ・テルン。奴には漏らすな。口が軽いうえ、必ず母親に話すだろうからな。テルン子爵は信頼できる人だが、あの母親は最近グルンデン侯爵夫人に近づきつつある。重要な案件について、奴は外せ」
同じ近侍であっても、全員が全員アドリアンに忠誠を誓ってやって来るわけでないことはわかっていた。中には敵対勢力があえて
そもそもキャレも、オルグレン家がハヴェル公子勢力と繋がっていたために、秘密事項については疎外される立場だったのだ。
マティアスの母・ブラジェナもまた、オルグレン家が大人しく近侍を送ってきたことを
「ファルミナの少年には、慎重に接しなさい」
と手紙に書いてきていたが、果たして思いもよらぬ事態に、マティアスはしばらく混乱していた。だが、アドリアンはやや沈んだ様子ながらも、
ルーカスの話では、ファルミナからは新たに…というべきか、入れ替わりで
一人、
エーリクからファルミナでの
「それで、結局カーリン嬢の願いを聞き入れて、一緒に帰ってきたということか?」
マティアスもハッとなるほど冷たく、アドリアンは問いかけた。エーリクも感じたのだろう。コクリと頷いてから、少し困惑したようにアドリアンを見上げた。
「……おかしいと思わなかったのか?」
「は……おかしい…とは?」
「起きた時には母と弟の姿はなく、カーリン嬢の持っていた金も盗まれていた。そうして彼女は君を起こし、弟には近侍の役目は無理だからと、自分を連れて帰るように頼んできた。……僕には、カーリン嬢が母と弟に金をやって、しばらく身を隠すよう指示したうえで、狂言を演じた……ようにも思える」
「まさか……!」
エーリクは絶句した。あの日の朝の、カーリンの姿を思い出して、ブンブンと首をふる。
「そんな訳ありません! カーリンは母親も弟も、必死で説得しようとしていたんです。今回のことも反省して……。ここに戻ってきたのも、ただひとえに小公爵さまに一言お詫び申し上げたいと……その一心です!」
「無用だ」
エーリクはカーリンに代わって弁明しようとしたが、アドリアンは冷たく拒絶した。その上で、エーリクにも疑いの目を向けた。
「エーリク。君はこの帝都に来てから、キャレ……カーリン嬢と同室だったな。気付かなかったのか?」
「………え?」
「知っていて、黙っているよう頼まれたか?」
「まさか! そんな訳ありません」
エーリクが即座に否定すると、これにはマティアスも同調した。
「それは有り得ません、小公爵さま。エーリクの性格は、小公爵さまも、十分に理解しておいででしょう。キャレが女だとわかっていて、誤魔化すだとか……そんな嘘をつける人間ではありません!」
「あぁ……エーリクは、そうだ」
アドリアンは静かに頷いてから、ボソリとつぶやく。
「……キャレも……そうだと思っていた」
自分と同じ年の、どこか
ルーカスからは、ハヴェル公子一派であるオルグレン家から来るので、一応、注意するようにと言われていた。だが、やってきたのはオルグレン家で疎外されて育った庶子で、どこか自信なさげな様子が、オヅマと出会う前の自分を思い起こさせた。
アドリアンは
「……キャレは嘘をついていた。一度、嘘をついた人間を信じることは難しい」
重く苦いその言葉に、エーリクとマティアスはうつむいて黙り込んだ。
顔には出さないものの、キャレの嘘によって、もっとも傷ついているのはアドリアンなのだ……。
マティアスとエーリクはそれぞれにアドリアンの心情を思いやり、特にエーリクはアドリアンにカーリンに会ってもらうよう説得するのはあきらめた。
どんな言い訳をしようとも、どれだけ謝ろうとも、アドリアンの心に一度根差した不信は、そう簡単に取り払えるものではない。
「それにしても、これからどうするのだろう? キャレの不在については、今は外出しているとだけ言っているが……何日もとなると、さすがにテリィも不審に思うだろうし」
マティアスは不透明な先行きに困惑していたが、そう時を置かずしてルーカスから連絡を受けた。
「キャレ公子はファルミナにいる実母から、
夕食時にサビエルから聞かされた近侍たちは、互いに目配せして、事態の成り行きを考えた。
一人、のんびりしていたのはテリィだ。
「へぇ。キャレ、ファルミナに戻ったんだ。お姉さんなんかいたの?」
「……そのようだな」
マティアスは素知らぬ顔で相槌をうち、エーリクも、アドリアンも黙した。
彼らは、この数日の騒動が嘘のように、平生と変わらぬ時間を過ごした。
いつもどこか自信なさげな、伏し目がちの少年『キャレ』は、もういない。『キャレ』の不在に、彼らは少しずつ慣れていった。……
***
マティアスはルーカスから近いうちに、オルグレン家から連絡が来ると言われていた。キャレの母親らの失踪を知ったら、すぐにも誰かキャレに会いに来るだろう…と。
案の定、キャレ(=カーリン)がファルミナから戻ってきて二日後に、オルグレン家からやって来たのは、異母兄セオドアだった。
「キャレの実母と
セオドアはいかにも心配しているふうを装って言ったが、その目は油断なくマティアスの挙動を探っていた。
マティアスはそれとわからぬよう、唾を飲み下してから、澄ました顔で言った。
「どういうことでしょう? 我らはキャレ公子が、実の母君から連絡を受けて、ファルミナに戻ったと聞いております」
「キャレがファルミナに戻った? そのようなこと、聞いておりません」
セオドアが責めるように言ってくると、マティアスはムッとなって言い返した。
「それをこちらに問われても困ります。我々も、そう聞かされただけですから。オルグレン家にはとっくにご連絡がいっていると思っておりました。そちらの領地のことですから。行き違いになっていることはありませんか?」
「それは……聞いて、おりません」
セオドアは小さい声で返事しながら、落ち着きなく目を泳がせた。
本来、キャレと親元であるオルグレン家との意思疎通が普通にできていれば、こうした問題は起こりようもない。こうして訪ねてきていること自体、普段からキャレとオルグレン家が相互に密な連携を取っていなかったことを示している。それは一族をまとめる当主にとっても、その後を継ぐ
「あの……キャレの実母から連絡ということですが、本当に実母からだったのですか?」
それでもセオドアは簡単に自分の非を認めたくないのか、おかしなことを聞いてくる。マティアスは眉をひそめた。
「僕がその連絡を受けたわけでもないので、わかりかねます。どうしてそのようなことを問われるのですか?」
「いや……キャレの母親は
「そのようなこと、貴家にだって執事なり従僕なり、代筆できる者はおりますでしょう?」
「我が家にあの女の代筆をしてやるような者……」
思わず口走ったセオドアの言葉に、マティアスは鋭く聞き返した。
「まさか、たとえ召使いとはいえ、当主の子を生んだ女性に対して、危急の用件を代筆することすら拒むような、そんな不届きな下僕がいるのですか?」
「えっ……い、いや! そんなことは……」
セオドアはマティアスの冷ややかな視線に、強張った笑みを浮かべた。「確かに…誰ぞ従僕が書いたのやも……」
マティアスは震えそうになる手をしっかりと互いに握りしめながら、ふぅと一つ息を吐くと、いつも通りのしかつめらしい顔で問いかけた。
「オルグレン家においてそのような認識であるならば、キャレは一体、どこに行ったのでしょうか? まさかと思いますが、近侍の役目を
マティアスが詰めていくと、セオドアはあわてて立ち上がった。
「いや、私もあわてて参りましたので、家内の者にきちんと話も聞かず……もう一度、確認してみます」
「そうなさって下さい。こちらとしても、十日間ほどの滞在と聞いておりますが、あまりに長くなるようでしたら、近侍の役目についても考えてもらわねばなりません」
「もちろんです。もちろん……すぐにも帰るように申し伝えますとも!」
「さすが稀代の口達者、ブラジェナ女史の息子だな。あの詰め方、大したものだ」
だがマティアスはあまり喜べなかった。今も背中に冷や汗が伝うのを感じながら、自分にはああいった交渉は向かないことを思い知るばかりだ。母であれば、いっそ嬉々としてやっていたかもしれないが。
マティアスは自分の未熟さをこれ以上語られるのも億劫であったので、早々に話題を変えた。
「しかし、キャレ…カーリン嬢についてはともかく、失踪した母親と弟のキャレについてはどうするんです? 彼らがセオドア公子に見つかったら、カーリン嬢がファルミナに行ったことも、向こうの知るところに……」
心配そうに尋ねるマティアスに、ルーカスはいかにも不思議そうに小首をかしげた。
「
要するに、こちらにとっても、セオドア公子にとっても、切り札となるのはカーリンなのだ。彼女を手中にしておくことが、向こうに付け入る隙を与えないために、最も重要なことであって、キャレとその母親がたとえセオドアの手に落ちようとも、大して有効な反証とはなり得ない。
ましてエーリクからの話を聞く限り、キャレの知能にやや問題があるとなれば、彼らの言葉はまともに取り合ってもらえないだろう。(いや、
無情だが、この世で弱者はいとも簡単に利用され、救われることは少ない……。
「………」
また冷や汗が背筋を流れる。自分はやはり大グレヴィリウス公爵家の、権力争いの中枢にやって来ているのだと、今更ながらに自覚する。
生唾を飲み込むと、マティアスはルーカスに
「それで、結局キャレ…ではなく、
ルーカスはニヤリと頬を歪めると、それまでしていた肩の凝る話を追い払うように、明るく言った。
「あぁ、しばらくレーゲンブルトに行ってもらうことになった」
「レーゲンブルトというと、オヅマの……」
「あぁ、そうだ……」
ルーカスは頷いてから、ハッと思い出したように顔を上げた。
「そうだ。そういえばオヅマがいたな。アイツ、もう修行も終わってアールリンデンに戻っているだろうから、ついでにレーゲンブルトまで送らせよう。カーリン嬢も見知った顔がいたほうが、多少は安心できるだろうし、オヅマが仲介すれば向こうの家族も受け入れやすいだろう」
「それはそうですが……そもそも、オヅマはキャレが女だということを、知らないのでは?」
マティアスが冷静に尋ねると、ルーカスはポカンと口を開けた。
「…………そういや、忘れてたな」
引き続き更新します。