昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百八十二話 忘れられた公女

 オヅマはその文言に息を詰まらせた。ゴクリと唾を飲み下して、ブラジェナからの手紙の続きを読み進める。

 

 

『……(はか)らずも公爵閣下の御子を懐妊(かいにん)したので、自らの子に後を継がせようとでも企んだのでしょう。浅慮(せんりょ)なことです。しかしすぐに明るみになって、公爵邸からは追い出されました。

 アールリンデン市街にある小さな館で、今も監視され生活しています。もちろん公爵邸への出入りは禁止されていますが、元は女狐(めぎつね)が送り込んできた女です。最近はあまり見かけなくなったようですが、何度か図々しく押しかけてくるようなこともあったようです。

 特に泣き落としなんかは信じないように。

 前に門番の一人がそれでコロッと騙されて、まんまと中に入れてしまい、もう少しで小公爵様と鉢合わせるところでした。幸い、ベントソン卿が止めてくれたようですが。

 追放後に子供は生まれましたが、女児でした。そうとわかっていれば、小公爵様を暗殺しようなどという、不埒(ふらち)なことを考えなかったでしょうに。つくづく運もない、考えも浅い女です。だから女狐に利用されるような羽目になるのです。

 追放後に生まれた女児は、サラ=クリスティア・アベニウスと言います。

 彼女は小公爵様にとっては妹ですが、グレヴィリウスもエンデンの姓も与えられぬ庶子同然の娘です。わざわざ会う必要はありませんが、警戒のために、貴方(あなた)も知っておいたほうが良いでしょう。

 くれぐれも、女だからといって、ほだされてはなりませんよ! 娘もです!

 

 不悉(ふしつ)  ブラジェナ・ブルッキネン』

 

 

 ブラジェナはおそらくあわてて書いたのだろう。普段は見せないようにしている本心が、手紙の随所に表れていた。いくつかの言葉から、公爵の第二夫人であったペトラと、その娘であるサラ=クリスティアへの軽蔑が読み取れる。

 オヅマは手紙を机に置くと、頬杖をついて、コツコツと机の右隅を中指で叩きながら考え込んだ。

 

 ブラジェナが心配するのは無理ないことだが、オヅマはもう既にサラ=クリスティアと知り合っている。彼女の立場がわかったからといって、てのひらを返すように冷淡に接することなどできなかった。

 たとえ母親がかつてアドリアンの命を狙ったとはいえ、そのときにはまだ母親の胎内(たいない)にいたティアに責任があるわけがない。何もわからないまま、彼女は母親共々公爵邸から放逐され、忘れ去られたのだ。

 そうして大きくなっていくに従い、ティアは自らの生い立ちを知ったのだろう。母親が犯した罪も。

 今にして思えば、初めてオヅマと会ったとき、ティアの様子は少しおかしかった……。

 

 

 ―――― レーゲンブルト騎士団って……グレヴィリウス公爵家の騎士団の一つ、でしたよね?

 

 

 問いかけてきたティアの顔は少し強張っていた。オヅマがそうだと言ったあとに、取り繕うように笑った顔も。

 オヅマが公爵家に関わりのある人間だとわかっても、ティアは自らの身の上を言わなかった。自分が本当は公爵の娘だと名乗って、虐待する母親から逃れるために、保護を求めてもいいのに。

 

 オヅマはハァーっとため息をついて、大きく後ろに反り返った。足を机の縁にひっかけると、椅子を傾けて不安定なバランスでギィギィと揺らす。

 

「……っとに、無駄に似てやがる……」

 

 二つの顔を思い浮かべて、(ひと)()ちる。

 そうした思慮深さや、我慢強さ、同時に貴族らしいプライドの高さが垣間(かいま)見えるところまで、ティアの性格はアドリアンに似ていた。

 一緒に育っていなくとも、兄妹は似るのだろうか?

 マリーと自分に似たところなど、へらず口くらいしか思い浮かばない。妹のそばかす顔を懐かしく思い出してから、脇に押しやって、オヅマは再びティアのことについて考えを戻す。

 アドリアンがこの場にいて、ティアのあの窮状を知っていたら、どうするだろう?

 

 会ったこともない異母妹。

 自分を幼い頃に殺そうとした女の娘。

 

 おそらくアドリアンは、ティアの存在については知っていたはずだ。何度かそんな話をした気がする。

 だが、会いに行くことはなかった。それは仕方ないだろう。たとえアドリアンが会うことを望んだとしても、絶対にルーカスなりルンビックなりが、許さなかったであろうから。

 そうした周囲の忖度(そんたく)が、アドリアンをますますティアから遠ざけた。あるいは第二夫人が自分を殺そうとしたことも知っていて、尚のこと、会いづらくなってしまったのかもしれない。

 だが今のティアの状況を知っていたら、放置はしておかなかったはずだ。

 

 酒乱の親を持った子供が、どれだけ理不尽な暴力にさらされるか。

 オヅマはまだ耐えられた。

 男だから、兄だから、守るべき存在があるから…と、幼いながらに自分を奮い立たせて、コスタスの横暴に耐えることができた。

 だがティアは一人だ。

 今もあの古く傷んだ館の中で、誰に知られることもなく、空になった瓶を投げつけられてるかもしれない。

 

「チッ!」

 

 オヅマは舌打ちした。

 いずれにしろ手詰まりなのだ。ルンビックかルーカスでもいれば、どうにか取り計らってくれただろうが、現在公爵邸に残っているのは、邸内を管理するだけの執事と従僕だけ。

 そのうえ彼らは、オヅマをほぼ無視していた。

 特に例のハヴェル奉仕隊の一人であるフーゴは、あの時オヅマにすっかりやり込められたことが、よほど屈辱だったのだろう。あることないこと(ほぼないこと)、オヅマに対しての誹謗中傷を撒き散らした。そのせいか、最近では夕食も用意してくれない。(これはオヅマが公爵邸の食事がまずいから、街で食べたほうがいいと言っていた…という噂を立てられたせいだ。無論、オヅマは一度もそんなことを言ったことはない。これまでに数回、街の食堂でエラルドジェイやラオらと食事をして帰って、その日の夕食を断ったことがあったので、それが曲解されたのであろう)

 

 ともかくも今、公爵邸内において頼りになる存在はなさそうだった。

 ブラジェナからの手紙を読んだあと、残留する騎士らに話を聞こうとしたが、まともに取り合ってくれなかった。中には話を聞いてくれる者もいたが、基本的にはティアら母娘(おやこ)と関わり合いになるのを避けた。

 ペトラが公爵邸から追放された経緯(いきさつ)を知る老騎士は言った。

 

「本当だったら、あの女は首を落とされてもおかしくなかったんだ。公爵閣下の子を身籠(みご)もっているからと、ギリギリ殺されることを免れただけだ。娘には気の毒だが、そういう星の(もと)に生まれたと諦めるしかない」

 

 まったくもって不条理だった。しかも腹立たしいことに、その不条理を一番よく理解し、耐えているのは、当のティアなのだ。

 いろいろと考えあぐねて、オヅマが出した結論は、ともかくもう一度ティアに会う、ということだった。今日の状況だけを見ても、オヅマには詳しいことはわからない。ひとまず本人から話を聞きたかった。

 

 翌日。

 どんよりと曇る空模様を気にしながら、オヅマは再びティアの家へと向かった。

 

 

***

 

 

 相変わらず門は傾いて、ひび割れた外壁には(つた)が絡まり、庭は荒れ放題。ちょっとした幽霊屋敷の様相すらある。

 オヅマは扉の横にある、一度も磨いたことのなさそうな真鍮(しんちゅう)のノッカーを叩いた。二度叩き、しばらく待っても現れる人はいない。もう一度、今度は三回叩いてみたが、館はシンと静まりかえっていた。

 

「……いないのか?」

 

 オヅマはつぶやいて、そういえば……と考える。

 ティアは普段から針子(はりこ)のエッダの家に出入りしては、何かと仕事をもらっていた。この時間ならば、エッダのところに行っているのかもしれない。

 

 最初はティアが幼いながら働いていることも、市井(しせい)に住む子供であれば普通にあることだからと気にもしていなかったが、公爵の娘であるという事実を知ると、その状況に疑問が出てくる。

 いくら公爵邸から追い出されたとはいえ、こうして家を用意され、監視されているならば、わずかであっても公爵家からの援助はあるはずだ。母親はどうあれ、ティアは公爵の娘なのだから、公爵家の体面を考えて、最低限の養育費などは渡されているだろう。公爵本人はともかく、家令のルンビックがそうした配慮をしないはずがない。にもかかわらず、ティアが働きにでなければならないほどに、生活が逼迫(ひっぱく)している……?

 矛盾の理由を考えて、オヅマは眉を寄せると、扉向こうにいるはずのペトラの姿を思い浮かべて睨みつけた。

 もう一度、確認のためにノッカーを叩こうと手を伸ばす。その時、目の前の扉がギィィと開いた。暗がりにぼうっと、まるで幽霊のようにティアが立っている。

 

「ティア?」

 

 オヅマは思わず問いかけた。「おい、大丈夫か?」

 

 ティアはまるで魂が抜けたようだった。オヅマが肩を掴むと、ビクリと震えて顔を上げる。その顔は真っ青で、今にも倒れそうだ。

 

「オヅマ……さん……?」

 

 不思議そうにオヅマの名を呼びかけてくる。オヅマは「あぁ」と返事してから、軽くティアの肩を叩いた。

 

「おい。大丈夫か? なんかあの母親にされたのか?」

 

 ティアはオヅマの言葉を聞いて、しばらくボケッと見つめ返してから、いきなりブルブルと震え始めた。

 

「ティア?」

「……お、お、お母様が……」

「なにかされたのか!?」

 

 オヅマが強い口調で問い返すと、ティアはふるふると首を振った。赤みがかった茶色の瞳(今にして思えば、その瞳の色もアドリアンや公爵に通じるものだ)から、涙がポロポロとこぼれ落ちる。

 

「お、お母様が……目を覚まさないんです。体が……冷たくて」

「…………」

 

 オヅマはすぐに事態をのみこんだ。ティアの手を掴むと、中に入っていく。暗い廊下を歩きながら、静かに問うた。

 

「どこだ?」

 

 ティアは無言でオヅマの前へと歩を進めると、廊下を曲がり階段を上っていく。動揺を見せまいと胸を押さえていたが、もう片方の手はオヅマの手をしっかりと掴んでいた。

 二階には三つの扉が並んでおり、一番奥の唯一白く優美な彫刻が施された扉の前で、ティアは止まった。

 

「ここか?」

 

 オヅマが尋ねると、ティアは頷いた。涙を必死に止めようと、きつく唇を引き結んでいる。

 オヅマが扉の把手(とって)に手をかけて開くとき、ティアはまたギュッとオヅマの手を強く握りしめた。

 

 キィィと、また扉が耳障りな音をたてて開いた。どうもこの家の扉はすべて、この数年近くいっさい油がさされていないらしい。

 部屋の中は、窓から燦々と太陽の光が射していたが、どこかどんよりと濁った空気だった。酒の匂いが充満していたからかもしれない。

 奥に置かれたベッドの上に、昨日会ったばかりの女 ―― ペトラが仰向けに寝ていた。

 

 オヅマはそろそろと近づき、ようやくベッドの近くまで来て、眠っているペトラの顔を覗き込んだ。

 瞼は閉じられ、軽く開いた口から(よだれ)が垂れている。

 その姿は飲んだくれて、そのまま眠ってしまったようにしか見えない。

 だが、白くなった顔色と固まった四肢は、それまでにオヅマが見てきた死人を彷彿(ほうふつ)とさせた。

 ラディケ村にいた頃、それこそこうした死人を(とむら)うときに、子供が死体を清拭(せいしき)するという風習があって、小遣い欲しさにオヅマは何度も死人と接したことがあったのだ。

 それでも一応、オヅマは寝ている女の口元に手をやり、手首の脈を確かめた。そっと手を下ろすと、軽く息をついて言った。

 

「死んでる……な」

 

 ティアは「う……」とうめくような声を発すると、ぺたんとその場に座り込んだ。

 とうとう耐えることができなくなって、涙があふれてくる。

 

 オヅマは何も言えず、再びベッドの上に横たわるペトラを見つめた。

 まさか昨日の今日で亡くなるなんて思わない。

 だが初対面の印象においても、ペトラの顔色は悪かった。ただでさえ身体が不調であったのに、昨夜はまた、しこたま飲んだのだろう。

 追放処分を解除されると勘違いして祝杯でもあげたか、あるいは自らの境遇を一層恨んでか……。いつもより酒量も多くなって、とうとう体が耐えきれなくなってしまったのかもしれない。

 

 だが、もはやペトラの死について考えている場合ではなかった。

 考えるべきは、ティアのことだ。

 監視しているのならば、本来、すぐにでもこのことは報告されるはずだが、オヅマの見るところ、この家内にいるのはティアとペトラだけで、使用人の姿はなかった。監視といっても、実際にはこの二人は放置されていたようだ。とはいえ、公爵邸となんら接点がないわけでもないだろう。

 

「ティア……お前の母さんが死んだことを伝えなきゃいけない人とか、いるか?」

 

 オヅマが尋ねると、ティアは目に涙を溜めたまま、しゃくり上げそうになるのを必死にこらえながら言った。

 

「サル…さんに……」

「サルさん?」

「サル…シムさんっていう人が、いつもお金を持ってきてくれていたんです。お役人さんだって聞いてます」

「役人か……」

 

 目立たぬように公爵家からの追放者を監視するには、格好の人選だ。

 公爵家にとって、ペトラの存在は『恥』だから、関係性を大っぴらにすることなく、管理下に置いておきたかったのだろう。

 

「じゃあ、そいつを呼んできたらいいんだな」

 

 オヅマが言うと、ティアはおびえた顔になる。

 

「で、でも、勝手に来るなって…怒られるから……来るまで待ってないと……」

「来るまで…って、今日来るのか?」

 

 ティアは首をぷるぷる振ると、小さくつぶやいた。「いつも十五日頃に……」

 

「そんなに待ってたら……」

 

 死体が腐っちまう、と言いかけてオヅマは止めた。

 いくら虐待されていたとはいえ、ティアは母親に対してオヅマがコスタスに抱いていたような憎悪は持っていない。むしろ、その死に衝撃を受け、悲しんでいる。酒に溺れて娘を虐待するような母親であっても、愛情はあったのだろう。

 オヅマはティアの小さな両肩に手を置くと、少しだけ身を屈めて安心させるように笑った。

 

「ティア、今回は緊急事態だ。わかるだろ? 心配すんな、俺が行ってくるから。お前が怒られるようなことはさせない」

 

 ティアはしゃっくりを呑み込み、じっとオヅマを見上げる。

 アドリアンを彷彿とさせる鳶色(とびいろ)の瞳が潤み始めると、またぶわっと涙があふれた。

 

「…ごめんなさい……」

 

 かすれた声が、必要もなく詫びる。

 オヅマはギリッと奥歯を噛みしめた。

 目の前のティアの表情は、出会ったばかりのアドリアンと同じだった。自分が悪いのだと卑下して、抗うことを諦めてしまった寂しい顔。

 どうしてこの兄妹は、会ったこともないはずなのに、こうも似ているのか。

 その理由に思い至ったとき、オヅマは心底から公爵に腹が立った。

 そもそも公爵が、自分の子供に対して少しでも気にかけてくれていれば、二人がこんな情けない顔をすることはないはずなのだ。

 

「ティア」

 

 オヅマは少しだけティアの肩を強く掴んだ。

 

「いいか? 俺は迷惑とか思ってない。助けたいと思ってるだけだ。だから謝るな」

 

 ティアはまたまじまじとオヅマを見つめてから、コクリと頷いた。蒼ざめていた顔に、少しだけ赤みが戻った。

 オヅマはペトラの遺体にシーツを被せると、気の抜けたようになっているティアを、とりあえずソファに座らせた。

 

「待ってろ。すぐに連れてくるから」

 

 ニコリと笑って言うと、不安そうに見上げてくるティアの頭をヨシヨシと撫でてやった。年齢もそう変わらないせいか、どうにもマリーと同じように扱ってしまう。

 ティアがはにかみつつも、少しだけ嬉しそうに笑うのを見てから、オヅマは足早に館を出て行った。

 

 

***

 

 

 クリマコルス・サルシムはアールリンデンの行政文官であり、アベニウス母娘(おやこ)の保護監視員であった。彼は公爵家に対して、母娘の現状を知らせる役割を持っていたが、この数年、その報告書はいくつかの文字を書き換えただけで、内容はおおむね同じだった。

 基本的には公爵の元第二夫人・ペトラの不行状を書き連ねたあとに、その娘であるティアに関しては「特に問題なく暮らしている模様」とだけ書き記して終わり。

 

 ただこの数年間は、ペトラ・アベニウスが不摂生による身体の不調を申し出てきていること、そのせいで医者や薬などの出費が増えたこと等々を記して、()()()()()、さほど()()()()()()()()()()()、あくまでも()()の生活費の増額などを要求した。

 ペトラは医者に(かか)ったこともなく、薬を処方されたこともないのに。

 そうして母娘(おやこ)が知ることなく、加算された医療費の分も()()、彼の(ふところ)を潤した。そうやって彼は、母娘に充てられた公爵家からの生計費を着服(ちゃくふく)していたのだ。

 

 だから今、ペトラの死を伝えられたときにサルシム行政官が抱いた最初の感想は、

 

『ゲッ! あの女、死にやがったのか。どうすんだよ。このまま報告したら来月分の給付がなくなっちまう。どうすんだ……ツケの支払いが……』

 

 という、あくまでも自分の取り分が減ることへの心配だった。

 しかし、そんな本音を顔に出すわけにはいかない。あくまでも最初の『ゲッ!』で表情を止めて、サルシム行政官は目の前にいる少年をジロリと見た。

 

「で……お前は、なんだ? あの娘の友達か何かか?」

「友達? まぁ、そうだな。ティアは友達だ」

「フン! 母親に似て、あの年から男を手玉にとるのが得意なようだな」

 

 サルシムは小さくつぶやいたつもりであったが、その悪意に満ちた誹謗をオヅマは聞き逃さなかった。眉をひそめると、じっとサルシムを見つめる。

 

「なんだ?」

 

 横柄にサルシムが尋ねてくると、オヅマは低く言った。

 

「あんた……公爵家からティアたちを見ておくように言われたんだよな?」

「なんだ、貴様。礼儀知らずな……まぁ、お前のような者に礼儀を求めるだけ無駄だろうが」

 

 サルシムが半ば苛立たしげに、半ば侮蔑もあらわに言う。

 オヅマは白けた顔で問いかけた。

 

「監視役とはいえ、ティアは公爵閣下の娘だろう? 人に礼儀云々(うんぬん)言う前に、あんたこそ礼儀を(わきま)えたほうがいいんじゃないのか?」

「なんだと、貴様ッ! 子供だからと大目に見てやっていたら、いい気になりおって……生意気を言うな!!」

 

 サルシムが手を振り上げると、オヅマはそのまま殴られてやった。ベシリと頬を打つ音は、うまく当たらなかったのか鈍く、大して響かない。オヅマは軽く舌打ちすると、大袈裟によろめいて尻もちをついた。コケるときに、わざと手で近くに置いてあった水差しをひっかける。ガシャン! と水差しの割れる音がして、周囲の視線が一気に集中した。

 サルシムがフンと満足げに鼻を鳴らす。

 オヅマは内心ほくそ笑んでいたが、殴られた頬をさすりながら立ち上がると、ギロリとサルシムを睨みつけた。

 

「な……なんだ?」

 

 自分の鉄拳制裁にまったく臆することのないオヅマを、サルシムは気味悪げに見つめる。

 オヅマはサルシムを睨み据えたまま、冷然と言った。

 

「俺の礼儀作法について文句があるなら、ルンビックの爺様にでも言えよ」

 

 切り出したその名前は、効果てきめんだった。サルシムの表情が一変する。周囲の役人たちもザワリとうろたえた。

 

「ルンビック様の知り合いか?」

「あの態度……そこらのガキではないぞ」

「もしかして……」

 

 コソコソと周囲が囁き合う中、サルシムは助けを求めて目線を泳がせたが、誰も目を合わせようとはしなかった。

 

「な…! 貴様……いや、お前……いや、き、君は……」

 

 途端に呼び方を変えるサルシムに、オヅマは呆れかえった。だが、今のこの状況における自分の立場については、よくわかっているようだ。

 オヅマは襟先をピンと弾いてみせた。サルシムはそこに刺繍された紋章に気付き、まじまじと確認してから、かすれた声で確認してきた。

 

「レーゲンブルト騎士団……? まさか、貴様……いや君は、クランツ男爵の……」

「さすがに行政官がこの紋章を知らないわけがないな。俺の名前を言ったほうがいいか?」

「お、オヅマ……公子」

「へぇ、知ってるのか。役所に籠もりっきりで、俺のことなんざ知らないと思ってたけど、公爵家からお喋りな雀でもやって来てるのか?」

「しっ……失礼しました!」

 

 サルシムはあわててその場に(ひざまず)くと、平身低頭して謝った。

 以前はどうあれ、今のオヅマはクランツ男爵のれっきとした息子だ。いかにサルシムが行政官であったとしても、貴族の若君に対して文句を言うなど許されない。それどころか手を上げたなどと知られた日には ――― !

 サルシムは一気に蒼ざめ、汗が噴き出した。

 オヅマはそんなサルシムを見て、無表情に問いかける。

 

「何のことに謝ってるんだ?」

「……申し訳ございません!」

 

 ひたすら平謝りしてくるサルシムの後頭部を見下ろしながら、オヅマは軽くため息をついた。

 

「俺は礼儀を尽くす相手を選ぶ主義でね。相手の身分次第で、コロコロ態度を変える人間に対しての礼儀は、生憎(あいにく)、持ち合わせてないんだよな」

「は、あ…ハイ。それはもう、確かにそう……左様にございます」

 

 (てのひら)返しとはよく言ったものだが、サルシムの変わり身の早さに、オヅマはあきれると同時に腹が立った。こういう手合いとは、まともに話すのも惜しい。

 

「それで? ティアの母親が亡くなったんだけど? まさか放っておくつもりじゃないよな?」

「ハイ! ハイ! それはもう、すぐにでも手配致します」

「手配も必要だけど、ともかくアンタが確認しないといけないだろ? 早く来てくれよ。ティアはもう一人なんだ。これからのことだって不安がってる。あんな小さい娘を一人で、あんなボロい館に放ったらかしにしておく気か?」

「も、もちろんにございます! わざわざ、気にかけていただくとは、誠にオヅマ公子はおやさしい……」

「おべんちゃらはいい。早く来い」

 

 オヅマはサルシムの挽回につき合ってやる気はなかった。さっき殴られてやったのは、これ以上、四の五の文句を言わさないためだ。

 オヅマは役人達の好奇の視線を無視して、足早に役所の通路を抜けていった。

 ヒソヒソと囁く役人らに紛れて、蒼氷色(フロスティブルー)の瞳が興味深げにオヅマを観察していた。

 




次回は2024.03.10.更新予定です。
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