昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百八十五話 令嬢達のごあいさつ

 ハンネのおしゃべりがそろそろ尽きようかという五日目にレーゲンブルトに到着すると、領主館の玄関前ではミーナやマリー、オリヴェルのほかに懐かしい面々が待ち構えていた。(むろんオヅマの帰還を歓迎していないであろうネストリも)

 

「お兄ちゃーんっ!」

 

 数ヶ月ぶりに会った妹は、すっかり『お嬢様』になっていた。だが見た目が変わっても、中身は同じ。スカートをたくし上げて、オヅマのもとへと走ってくる姿は、庭で走り回っていた頃と変わらなかった。

 

「お帰り、お兄ちゃん!」

 

 自分の胸に飛び込んできた妹を抱きとめると、懐かしい甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 

「お……これはロンタのジャムパイ!」

「残念! ライムケーキです!」

「おぉー! 久しぶりだな。母さんのライムケーキ」

「あら。作ったのは私よ」

「お前が? ……それ、食べられるんだろうな?」

「失礼ね! ちゃんと何度も練習して、お母さんのお墨付きだってもらったんだから!」

「練習……」

 

 オヅマはマリーの背後に立っているオリヴェルの苦笑いでおおよそ想像がついた。たぶん『練習』につき合わされたオリヴェルは、今日のライムケーキを食べることはないだろう。

 

「お帰り、オヅマ。なんか、また大きくなったね」

 

 オリヴェルがオヅマを見上げて言うと、オヅマはポンポンとオリヴェルの肩を叩いた。

 

「お前ね、どっかの親戚のおじさんみたいなこと言うんじゃないよ。っていうか、お前もけっこう肉がついたじゃないか。背も伸びたし。もう母さんと同じくらいじゃないか?」

 

 オヅマが尋ねると、それまで微笑んで様子を見守っていたミーナが大きく頷いた。 

 

「そうなの。もう少しで越されそうよ」

 

 マリーは近寄ってきた母のために兄から離れた。

 ミーナはふわりとオヅマを抱きしめて「おかえりなさい」と、嬉しそうに言う。

 オヅマは少し気恥ずかしくもあったが、軽く母を抱きしめ返した。昔は抱きついて見上げていた母の薄紫の目を、今は見下ろすようになっている。

 二人してそれぞれに似た感想を抱いたのだろう。目を見合わせて笑い合っていると、背後からハンネが声をかけてきた。

 

「さて。感動の再会はそれくらいにしてもらってもよろしいかしらね? とりあえず揺れない椅子に座りたくって」

 

 オヅマはあわてて母から離れると、振り返った。

 

「あ、そうだった。とりあえず紹介しないと」

 

 ミーナは馬車から降りて立っていた三人の前に進み出ると、深々と頭を下げた。

 

「ようこそお越し下さいました。レーゲンブルト領主、ヴァルナル・クランツの妻のミーナと申します。遠路お疲れでしょうから、早速どうぞ中へ……」

 

 そつなく挨拶して中へと促す母に、オヅマは少しだけ落ち着かなかった。

 ヴァルナル・クランツの妻……その言葉がすんなりと出てきたことに、ちょっとだけ動揺してしまう。事実なのだが、まだ慣れない。

 複雑な顔で立ち尽くしていると、マリーがオヅマの脇腹を突っついてきた。

 

「なーにボーッとしてるのよ、お兄ちゃん。さっ、私にも紹介してちょうだい。お兄ちゃんのガールフレンドはどの人? まさか全員じゃないわよね?」

「ばっ、馬鹿か、お前! そんなわけないだろ!」

「そうよね。じゃ、どの子?」

「全員、違うよ!」

「あらー、私が立候補してもいいわよ」

 

 ハンネがまたからかってくると、オヅマは即座に拒否した。

 

「謹んでお断りします」

「まー、失礼!」

 

 ハンネは怒ったように言って、ミーナの横に並ぶと親しげに話しかけた。

 

「お噂はたくさん聞いておりましたけど、本当に美しい方でしたのね。お会いできて嬉しいですわ。さ、子供たちは子供同士でじゃれ合わせておいて、私たちは大人の会話を楽しみましょう!」

「え? は、はい……」

 

 ミーナはハンネの勢いにややたじろぎながらも、曖昧に笑って一緒に歩き出す。

 オヅマは内心で母にエールを送った。これからしばらくは、あのおしゃべりにつき合わされるだろう。

 オヅマがぼんやりと母らの背中を見送っている間に、こちらの小さな令嬢達も挨拶を交わしていた。

 

「はじめまして。私はマリー・クランツです。えーと、九歳です。あなた達は?」

 

 明るく屈託ないマリーの質問に、カーリンとティアは目を見合わせて互いに譲り合う。ややあって、ティアが先に名乗った。

 

「はじめまして。私はサラ=クリスティア・アベニウスと言います。えっ…と、今年で十歳になります。オヅマさ……いえ、オヅマ公子様には、とてもお世話になってます。今回も急に来ることになって……迷惑をかけて、すみません」

 

 やっぱりティアはここでも「すみません」から始まるようだ。

 オヅマは嘆息した。

 

「あのなー、ティア。もう『すみません』は禁止だ、禁止。あと、俺はオヅマ公子とかいいから。今まで通り、オヅマでいい」

「あ……す、すみ……」

「『すみません』禁止!」

 

 すかさずマリーに止められて、ティアは困ったようにうつむいた。

 マリーはニコリと笑うと、ティアの手を取った。

 

「大丈夫。『すみません』が口癖の人はね、代わりに『ありがとう』と言うようにするといいのよ。ここに来てくれてありがとう、ティア」

 

 キラキラとしたマリーの緑の瞳に圧倒されて、ティアは口ごもったが、オヅマに通じる無邪気さにようやく頬が緩んだ。

 

「はい。……よろしくお願いします」

 

 ひとまず挨拶を終えて、ティアはチラと促すようにカーリンをみやる。

 カーリンはゴクリと唾を飲み込んでから、一歩進み出た。

 

「はじめまして。カーリン・オルグレンと言います。今年、十二歳になりました。あのオヅマ公子……いえ、あのオヅマさんとは、その……」

 

 言いかけてカーリンは気まずそうに口を噤んだ。

 まさか女だというのに、小公爵様の近侍になってました……なんてことを、大っぴらに言えようはずもない。

 だが、残念というべきか、有難いというべきか、ここにはオヅマがいたのだった。

 

「あ、コイツな。俺と同じアドルの近侍だったんだ」

「え?」

 

 マリーもオリヴェルもきょとんとなる。

 カーリンはすぐに訂正しようとしたが、オヅマは構わず話し続けた。

 

「来たときにはキャレって名乗ってたんだけど、女だってバレて……本名はカーリンっていうんだってさ。俺もまだ慣れてないから、いまだにキャレって言いそうになるけど」

「キャレって……確かアドルの近侍の人だったよね?」

 

 オリヴェルはアドリアンから届く手紙をマリーと一緒に読んでいて、その中に何度か出てきた名前だと思い当たったようだ。

 

「あぁ! ルビー色の髪がすごくきれいな人でしょ。アドルがとっても褒めてたわ」

 

 マリーがパンと手を叩いて思い出す。それからカーリンを見た。

 

「じゃあ、今は帽子で隠れてるけど、カーリンさんはきれいな紅毛(あかげ)なのね? うわぁ、あとで髪を()かせてちょうだい!」

 

 マリーが言うのを、カーリンは呆然と聞いていた。

 アドリアンが自分の髪を褒めていたのだということを人づてに知って、まだ嬉しく思ってしまう自分がいる。

 泣きそうになって胸を押さえたカーリンを、オヅマが不思議そうに見た。

 

「どうした? しんどいのか? 先に部屋で寝ておくか?」

「いえ、大丈夫です」

 

 カーリンは軽く目の端に浮かんだ涙を指で払って、無理矢理に笑顔を浮かべた。

 

「あの……よろしくお願いします」

「うん! よろしくね、カーリン!」

 

 こうしてひとまず、令嬢たちの初対面は終了した。

 

 

***

 

 

 初めて会った日にはぎこちなかったティアとカーリンも、マリーの奔放さに巻き込まれるように日々を送る中で、徐々に堅苦しさはなくなっていった。

 マリーは思っていた以上に、この二人の来訪を心待ちにしていたらしい。同年代の女友達がいなかったので、嬉しくてたまらぬようだった。

 

 ただ、そうなると面白くないのが、一人。

 

「……オリー、仕方ないだろ。女は女同士で集まりがちになるもんさ」

 

 オヅマがなだめると、オリヴェルはムスッとした顔のまま、絵を描く手を止めて言った。

 

「別に……怒ってるわけじゃないよ」

「いや、怒ってるよ、お前。わかりやすく」

 

 オヅマの指摘に、オリヴェルは少しだけ気恥ずかしそうにもしたが、それでも納得しかねる様子だ。

 

「……マリーだけじゃないよ。ミーナ…母様だって、ハンネさんとミドヴォア先生が連れて行っちゃうし。この前なんて女たちばっかで、みんなしてフェン(*紫蘇の一種)の葉をむしる作業とかしだしてさ。去年は僕だって一緒にやってたのに!」

「なんだよ。やりたかったなら、行けばよかったじゃんか」

 

 オヅマは言いながら、何が羨ましいのかと思う。フェンの葉をむしったあとには、しばらく手がくさいのに。

 オリヴェルはますますいきりたった。

 

「冗談だろ! 母様たちだけじゃないんだぞ? マリー達も、そこにソニヤとヘルカ婆も、ナンヌとタイミまで一緒なんだぞ?」

「うっへぇ。そりゃ、また。呼ばれても行きたくないな」

 

 オヅマは身を震わせて、首を振った。女が三人寄っただけでも、かしましいことこの上もないのに、それが十人ともなれば……。下手に一言でも口きこうものなら、百倍の勢いでやり込められそうだ。

 いつだったか、ヘルカ婆と娘のソニヤにやんやと文句を言われて、じっと黙ってやり過ごしていたパウル爺に、オヅマは訊いたことがある。なんで言い返さないのか、と。するとパウル爺は、深い深いため息のあとに言った。

 

「嵐にたてつく人間はおらん……過ぎ去るのを待つだけじゃ」

 

 パウル爺ほどの人生経験を積んではいないオヅマでも、とどまることを知らない女のおしゃべり集団を前にすると、似た気持ちになる。なんというか、もう手も足も出ないし、出したくない。

 

 まだ子供のマリー達三人であったとしても大変なのだ。

 オヅマもつい最近経験したばかりだった。発端となったのは、元近侍であったキャレ改めカーリンの発言だ。……

 

***

 

「あの、オヅマ……さん。前に気になったことがあるんですが」

「うん? なんだ?」

「あの……オヅマさんの部屋って、小公爵様の隣でしたよね。私、一度だけ小公爵様の衣装部屋に入らせていただいたことがあるんですが、そのときに小さなドアがあったんです。あのドアの先って、もしかしてオヅマさんの部屋ですか?」

 

 アドリアンの寝室から続く衣装部屋に入ったことのあるカーリンは、そこで小さなドアを見たことがあった。後で考えてみると、その先にあるのは隣のオヅマの部屋しかない。

 

「あぁ、あれな。うん、一応何かあったとき用。もしアドルの寝室に悪い奴が来ても、すぐに対応できるように……ってことらしいぜ」

「そうなんですね……」

 

 カーリンはようやくあの小さいドアの謎を解決したものの、どこか浮かない顔だった。

 アドリアンの部屋は、オヅマとエーリクの部屋に挟まれた真ん中にある。寝室と次の間と呼ばれる日常生活を送る空間に分かれており、オヅマの部屋は寝室側、エーリクの部屋は次の間側に配置されている。

 普段、近侍たちが入るのは次の間までで、カーリンも何度となく行ったことがあったが、隣のエーリクの部屋に通じるような扉はなかった。他の近侍たちの部屋も廊下を挟んでいるので、なにかあっても、アドリアンの部屋に入るには廊下側のドアから入るしかない。

 つまり、オヅマだけが廊下に出ることもなく、直接アドリアンの寝室に行ける。

 それだけアドリアンがオヅマを信頼し、同時に家令を始めとした公爵家の管理者からも認められているということだ。

 

「小公爵様は、本当にオヅマ公子のことを信頼されているんですね……」

 

 どこか沈んだ口調でカーリンが言うと、ティアもまた少しさみしそうにつぶやく。

 

「仲がいいんですね……お二人は」

 

 奇妙な沈黙が流れて、オヅマが困惑していると、マリーがいきなり叫んだ。

 

「ちょっと、お兄ちゃん! ずるいわよ、それ」

「は?」

「どうしてお兄ちゃんの部屋だけ、アドルの部屋にすぐに行けるようになってるのよ!」

「だから、なんかあったときの為だって」

「そんなのずるい。内緒で二人で夜更かしして遊べるじゃないの」

「お前なぁ……そんな暇あるか。こっちはあの部屋に戻ったら、ほとんど寝るだけだ」

「だったら何かあったときも寝てるじゃないの」

「そん時は起きるに決まってるだろ!」

 

 ギャーギャーと怒鳴り合う兄妹を、カーリンとティアはぼんやり見ていた。

 口達者な二人の兄妹ケンカはリズムよく響き、明るく滑稽で、思わず聞き入ってしまう。止めるべきなのかどうかもわからない。

 

「そういえばアドルが朝駆けの日は、お兄ちゃんに叩き起こされるから、心臓に悪いって言ってたけど、それってその扉から入って行ってるんでしょ?」

「なんでそんなこと、お前が知ってるんだよ」

「だって、アドルから手紙が来てたもん。朝駆けに行くのはいいけど、いきなり布団を剥がされて、大声で怒鳴られて起こされるから、心臓が縮み上がりそうになるって」

「それはあいつの寝起きがどうしようもなく悪いからだろ! 朝駆けに一緒に行きたいから起こせって頼んできたのはあっちだぞ! 俺だってそんな余計な用事、増やしたくもねぇよ!」

「だったらカーリンに頼めばいいじゃないの。カーリンだったら、そんな乱暴な起こし方しないわよ! ねぇ、カーリン?」

「えっ?」

 

 いきなり自分に振られて、カーリンは驚きつつも、とりあえず返事した。

 

「あ、あの……そ、そうですね。一応、そっと起こすと思います」

「ホラ見てごらんなさい。お兄ちゃんよりも、カーリンの方がよっぽど優しく起こしてくれるでしょうに。まったくアドルも……なんでもかんでもお兄ちゃん頼りはよくないわよ。もっと人をえらばないと!」

 

 わかったふうに言うマリーに、オヅマは腕組みしてフン、と鼻を鳴らす。

 

「お前らはアドルの寝起きの悪さを知らないから、そんなことが言えるんだよ。そっと、だぁ? ちょっと揺すったくらいで起きるんなら、俺だって苦労しねーわ。だいたいなぁ、カーリン。お前だって何度か寝坊してたろうが。食事時間に遅れてきて、マティに怒られてたくせに」

「そ……それは、前の日に復習をしていて……」

「言い訳すんな。お前だけが復習してんじゃねぇよ。俺だって、マティだって、エーリクさんだってやってる。テリィさんは……わかんねぇけど」

 

 近侍の中で二番目の年長者であるテリィは、すでに履修済みだといって、勉強についてはあまり真剣ではなかった。彼が本気で取り組んだのは、得意のピアノが弾ける音楽くらいだが、オヅマはあまり彼の演奏が好きではなかった。腕自慢が鼻について鬱陶しい。

 

「……すみません」

 

 結局カーリンが謝ると、マリーが猛抗議した。

 

「カーリンは関係ないでしょ! お兄ちゃんとアドルの話をしているんだから」

「お前がいきなりカーリンのことを言ってきたんだろ!」

 

 ビシリと兄に言い返されて、マリーは一瞬ひるんだように口を噤むと、チラとカーリンを窺った。垂れるようにうつむいた顔は、悲しげで、元気がない……。

 マリーは再び緑の瞳に強い光を浮かべて、キッと兄を見返した。

 

「だってアドルってば、お兄ちゃんばっかり贔屓しているじゃない。私はカーリンとだって仲良くしてほしいの!」

「別に、仲が悪くなったわけじゃねぇだろ。キャレって男だと思ってたのが、カーリンっていう女の子だってわかって、びっくりしてるだけだ」

 

 オヅマには、アドリアンとカーリンの仲がそんなに悪くなったとは思えなかった。アドリアンは元々キャレ(であったカーリン)に同情的であったし、話せばわかる人間(ヤツ)だ。今は驚いて、自分でもどう接すればいいのか掴みかねているだけだろう。

 大したことでもないように言うオヅマに、マリーはブンブンと首を振った。

 

「だって、だって、アドルってばひどいのよ。カーリンが女の子だってわかった途端に出て行け、なんて。カーリンにだって言いたいことがいっぱいあったのに。わたし、今度の手紙ではアドルにちょっと文句を言おうかと思ってるの」

 

 オヅマは眉をひそめた。

 この数日一緒にいたせいか、マリーはカーリンの境遇に同情的だ。だがカーリンのことは、一方的な話を聞いて判断していい問題ではない。

 

 レーゲンブルトに来るまでの旅程で、オヅマはマッケネンからカーリンの追放が色々と複雑な思惑のもとに決められたことだと聞いている。

 アドリアンの態度が急変したのは、当然、今まで男だと思っていたキャレが女だと知った衝撃もあったろうし、裏切られたというのもあるだろう。しかし本当は、どこかで自分を笑い者にしている存在がいるのだということが、一番腹立たしいのだ。おそらく。

 

 むしろ、オヅマにとって今はカーリンよりアドリアンが心配だった。

 マッケネンからオヅマ宛てだと託された手紙にも、アドリアンはカーリンについては一言も書いていなかった。

 皇家の園遊会に行ったことや、来年のアカデミー入学に向けての勉強がいよいよ難しくなってきたことなど……なんてことのない日常の、ちょっとした愚痴程度のものだ。

 マリーがもらったものも、同じような内容だった。違いはそこにオヅマへのちょっとした恨み節が混じっていたことぐらい。

 

 本当であれば、これだけの大騒動だ。

 アドリアンが何も書かないはずがないのに、あえて書いていないことが、アドリアンの心情を語っていた。

 つまり語りたくないくらい、怒っている。あるいは動揺している。

 今のアドリアンの状態はあまりよくない。……たぶん、とても不安定な気持ちでいるだろう。

 

「マリー、お前……そういうのはやめておけ」

 

 オヅマが真剣な顔で言うと、マリーは怪訝に兄を見つめた。

 洞察力の優れた妹は、すぐにオヅマの変化を感じ取ったらしい。じっと見つめてから、静かに尋ねてくる。

 

「どうして?」

「アドルはお前からの手紙をすごく楽しみにしてるんだ。読んでガッカリさせるな。そんなこと……しないでやってくれ」

 

 マリーは口を開きかけて、ゆっくりと閉じるとうつむいた。

 ちょっと頭に血が上ってしまったようだ。あんまり仲の良さげなアドルと兄に、少しばかり嫉妬してしまったのかもしれない。……

 

「アドリアン……お兄様は、きっと大変なんでしょうね。私なんかと違って」

 

 シンと静まりかえった中で、口を開いたのはティアだった。

 当初、ティアはアドリアンのことを「アドリアン小公爵様」と呼んでいたのだが、マリーが改めさせた。

「ティアがどうしてもイヤっていうなら、無理にとは言わないけど、アドルは素直に『お兄ちゃん』って呼ばれたほうが、喜ぶと思う」

と。

 さすがにマリーのように気安く『お兄ちゃん』とは呼べないものの、それからは話の中でアドリアンの話題になると、ぎこちないながらも『アドリアンお兄様』と呼ぶようになった。

 

「私は……公爵家からは見放されてるけど、でも、エッダさんのところで刺繍しているときは夢中になって、何も考えずにいられたし、今だってこうして楽しく過ごせているけど……アドリアンお兄様は、公爵邸にいる限り、気の休まることがないんだろうなって。あそこは綺麗だけど、冷たい場所だと……お母様がよく(おっしゃ)ってました」

 

 ティアは話しながら、亡くなった母親の姿が脳裏に浮かんでいた。

 酒に溺れ、毎日泣きながら、公爵邸に戻れる夢を見ては、同時に「あんなところは地獄同然だ」と吐き捨てていた母……。

 最後まで詳しいことを聞けずじまいではあったが、ティアにとって、公爵家は決して心穏やかに過ごせる場所ではない。オヅマや、カーリンからの話を聞く限りにおいて、兄であるアドリアンも同様のようだ。

 

「まぁ、ここみたいにとはいかないさ。今はな」

 

 少し重くなった沈黙をかき混ぜるように、オヅマがまた軽い調子で言う。ティアは思わず聞き返した。

 

「今は?」

「アドルが公爵になったら、変わるさ。あそこも」

 

 はっきりと確信したように言うオヅマを、ティアはまじまじと見てから微笑んだ。

 

「やっぱり、マリーの言う通りです」

「は?」

「ずるいです。オヅマさんとアドリアンお兄様の仲が良すぎて、カーリンじゃなくても羨ましくなってしまいます」

 

 その場にいた女子全員の総意であったのか、マリーが「そうよ、そうよ」とまた騒ぎ出すと、カーリンまでもジトっとした目でオヅマを見てくる。

 オヅマはもうこれ以上何を言っても無駄……というより、かえって勘違いが積み重ねられる気がしてきて、早々にその場から出て行った。

 出た途端に部屋の中から、三人の笑い声が響く。オヅマは振り返ってドアを睨みつけてから、ふっと頬を緩めた。

 

 ともかくもカーリンにもティアにも笑顔が戻った。それでよしとしよう。

 

 




次回は2024.04.07.更新予定です。
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