昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第百九十一話 最良の友人

 その後、アドリアンは時間を見つけては茶寮『七色蜥蜴(とかげ)の巣』を訪れるようになった。とはいっても、待ち合わせたわけではないので、必ずランヴァルトに会えるとは限らない。

 最初はランヴァルトが来ていないとガッカリして、待っている間も心許(こころもと)なかったが、そのうちスヴェンの入れてくれた蜂蜜ミルク入りの珈琲を飲みながら、一人静かに本を読んで過ごすのも悪くないように思えてきた。

 

 やがて何度か通ううちに、ここに頻繁に通い詰めている何人かと面識を持つようになった。彼らは当然、アドリアンの身分を知らなかったが、子供だと馬鹿にすることもなく、極めて礼儀正しく接してくれた。中には、その時にたまたまアドリアンが読んでいた本の著者だという人から、声をかけられることもあった。

 

 アドリアンはこの静かな空間で、徐々に心が穏やかに()いでいくのを感じた。それは反面、それまで自分の気持ちがささくれ立って、少しのことにも過敏になっていたということでもある。

 実際に、そうだった。帝都に到着してから、あちこちの茶会や朗読会などに招かれ、美辞麗句とお追従(ついしょう)ばかりを聞き、公爵邸においての夜会でも、皇宮(こうぐう)の園遊会でも揉め事続き。

 特にこの数日のカーリンの騒ぎは、アドリアンを相当に疲弊(ひへい)させていた。

 

 余裕が生まれると、アドリアンは今更ながらに、カーリンへの態度を悔いた。

 彼女がファルミナの実家において弱い立場であることはわかっていたのに、女だと判明した途端に、ひどく取り乱して冷たい態度をとってしまった。

 しかもエーリクまでも疑ってしまった。今日だって護衛としてついて来て、下の部屋で飲食もせず待ってくれている忠義者であるというのに。

 

 アドリアンは本を置くと、何度目かのため息をついた。

 窓の外、紅葉の間から見える秋の空が遠い。

 カーリンはもうそろそろ、レーゲンブルトに着いただろうか……。

 

「沈んだ顔だな、アドリアン」

 

 不意に声をかけられて、アドリアンはハッとなった。

 すぐに声のしたほうを向くと、いつの間にかランヴァルトが以前と同じように真向かいの一人掛けソファに腰掛けている。

 

「かっ……あ、いえ……先生」

 

 もう少しで閣下と言いそうになるのを、あわてて止めてここでの言い方に直す。

 ランヴァルトがニコリと笑った。

 

「結構。ちゃんと覚えていてくれてなによりだ」

「はい。あの……お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

 

 アドリアンは顔が急に熱くなるのを感じながら、ともかく挨拶した。ランヴァルトに会えた嬉しさを、素直に伝えたつもりだったが、ランヴァルトは皮肉げに笑った。

 

「ふ……なかなかに厳しいことを仰言(おっしゃ)るではないか。そう久しいほどに会っていなかったかな?」

「ち、違います! 嫌味とかじゃないです。全く!」

 

 アドリアンはあわてて否定した。ランヴァルトにだけは、自分の心を疑われたくなかった。必死で言い訳の言葉を紡ぐ。

 

「その……僕にとっては、その……とても長く感じられたということです!」

「それはそれは……ならば謝らねばな。すまぬ。いろいろと私も皇宮(こうぐう)からの呼び出しが最近、多くてな。今代(こんだい)神女(みこ)姫は老齢で、そろそろ危ういかもしれぬゆえ」

「あっ…ああ。そ…うなんですね」

 

 アドリアンは思わず声を上げてしまってから、あわてて取り繕ったものの、目を合わせることができなかった。その不自然な様子に、ランヴァルトは何かしら感じ取ったらしい。フッと視線を落とした瞳に、少しばかり暗い影がよぎった。

 しかしスヴェンが持って来た珈琲を一口飲むと、またニコリと穏やかな微笑に戻って尋ねてくる。

 

「それで、どうしてまた、物憂い顔をしてため息などついていたのだ?」

「いえ……その、少し後悔していて。近侍にきつく当たってしまったので……」

 

 ランヴァルトは驚いたように、軽く肩をすくめた。

 

「近侍への八つ当たりなど大貴族の若君であれば、よくあること。若君の我儘につき合わされるのも、近侍の役割だ。そもそも君が理不尽に怒ることなどなかろう。きつく言ったのも理由あってのことでは?」

「それは……そう、なんですが。でも、彼にはどうしようもなかったんです。それはわかっていたはずなのに……」

「ふむ……」

 

 ランヴァルトは頷くと、珈琲をまた一口含んでから問いかけてきた。

 

「その近侍というのは、我が息子に暴力をふるわれていた、あのルビーの髪の者か?」

 

 アドリアンはうつむけていた顔をパッとあげる。笑みを浮かべるランヴァルトと目が合った。

 

「否定せぬところを見ると、図星というわけか」

「…………はい」

「それでこの前も暗い顔をしていたのだな。フ……近侍ごときのことに頭を悩ますなど、君らしいことだ。いや、失礼。馬鹿にしたのではない。我が息子との違いに、感心していたのだ」

「……感心されるようなことはしておりません。結局、僕は彼を傷つけてしまったのですから」

「私には、むしろ傷ついているのは君であるように見えるがな」

 

 アドリアンは虚を突かれたように、またランヴァルトを見つめた。

 穏やかで、温かく包みこむような眼差しに、すべてを打ち明けてしまいたい衝動にかられる。だが、もちろんすべてを言うようなことはできない。

 アドリアンは膝の上で固く拳を握りしめた。

 

「僕のことは、いいのです。僕は……慣れています」

「それは違うな、アドリアン」

 

 ランヴァルトは即座に否定した。紫紺の瞳が強い光を帯びる。

 

「人は……傷つくことに慣れはしない。心の痛みは、ひととき(しの)げても、沈殿して奥底に(おり)をつくる。長く積もれば…………人を闇とするだろう」

 

 最後の小さなつぶやきが、重く、深く、響く。

 一瞬、訪れた沈黙は、そのままランヴァルトの心に巣食う闇の世界であるかのようだった。自らの内奥を見ているかのように、伏せた瞳は暗く、空虚だ。

 だが、ランヴァルトはハッと我に返ると、心配そうなアドリアンに微笑みかけた。

 

「そうならぬために、人は時折、相談ということをするのであろうな。それが解決できるかどうかではなく、誰かに胸の内を知ってもらうことが、慰めとなる」

「…………」

 

 アドリアンは少し考えた。

 オヅマがいれば、少しは違っていたのだろうか。だが、もしオヅマがいてくれたとしても、アドリアンのこの煩悶(はんもん)をすべて理解してもらえると思えなかった。

 オヅマは快活で、明朗で、いつも正直で……すべてのことに答えをくれる。だが、アドリアンが欲しいのは解答ではない。

 

「僕は……自分でも整理できなかったんです。何が起こったのか、どうするべきか、ちゃんと考えられないまま、自分の気持ちだけで、彼の事情も悩みも聞かずに、突っぱねてしまった……」

 

 話しながら、アドリアンは心底自分が不甲斐なかった。

 キャレの不遇を思い、あれこれと気にかけてはいたが、結局、自分という人間はキャレに信頼されていなかった。自分にもし、目の前のランヴァルトほどの安心感があれば、キャレも……いやカーリンも、自らの秘密を告白してくれていたのかもしれない。

 情けなくてアドリアンは泣きそうだった。

 それでもランヴァルトの前でこれ以上ぶざまな姿をさらしたくなくて、必死で唇を噛みしめる。

 また沈黙がしばし流れ、ランヴァルトが言った。

 

「君は、強いな」

 

 朗らかな、深みのある声が、アドリアンの胸をうつ。それはズキリと痛くて、けれど沁み入るように優しかった。

 アドリアンは顔をうつむけた。目からこぼれ落ちるものを見せたくない。

 いっそ、軽蔑されたほうがよかった。小公爵であるというのに、情けないことばかり言っている自分を、突き放してくれたほうがよかった。きっと父であれば、そうしただろう。

 だが目の前の人は、そんなアドリアンに最も欲しい言葉をくれる。……

 アドリアンは必死に嗚咽(おえつ)を押し殺し、肩を細かく震わせていた。

 

 時折、強く吹いてくる風がガラス戸を叩く。ボーンと階下の時計が朱の二ツ刻(*午後四~五時頃)を告げる。

 

 静かな時間を妨げたのは、意外な生き物だった。

 

「レーナ。……勝手に来たのか?」

 

 ずるずると絨毯の上を這ってくる白い蛇に、ランヴァルトが困ったように言いながら、だらりと肘掛けの向こうに腕を下ろす。勝手知ったるように、白蛇はランヴァルトの腕を這い上ると、首の後ろから肩のあたりで止まり、耳下から真っ黒な瞳でアドリアンを見ていた。

 

 アドリアンは呆気にとられて、声も出なかった。激しく(またた)きして、何度も目の前の光景を確認する。

 ランヴァルトは慣れた様子で、その白い蛇の頭を軽く撫でてから、アドリアンに笑いかけた。

 

「すまぬな。いつも屋敷に置いていくのだが、今日は気がついたら、服に紛れこんでいてな。下でゾルターンに預けたのだが、抜け出してきたようだ」

「あ……いえ」

 

 アドリアンは驚いてはいたものの、蛇を愛しげに撫でるランヴァルトの姿を見ると、フッと心が和んだ。

 

「先生にとてもなついていますね。噛んだりしないのですか?」

「噛まれていたら、今ここで君と話をしていることもなかろうよ。こやつの持つ毒はなかなかに強力らしいからな」

「毒蛇なのですか?」

「あぁ、一応な。だから迂闊(うかつ)に手は出さぬがよかろう。私には慣れてはいるが、こやつが他人になつくことは滅多とない」

「そうなんですね……」

 

 アドリアンは言われた通り、手を出すことは控えたものの、興味深くその蛇を見遣(みや)った。

 窓からの光に反射して、つややかな黒い瞳が虹色に煌めく。

 

「君は……嫌悪せぬのだな」

「え?」

「多くはこやつを見た途端に腰を抜かすか、耳が潰れるような悲鳴を上げるか……卒倒した者もいたな」

「それは、仕方ないかもしれません。まして毒蛇であるのならば、普通は驚かれるのでは?」

 

 いや、実際にはアドリアンも驚いていた。ただ、驚き方が見た目にわかりやすく派手ではないだけで。このときばかりは、幼い頃からの厳しい修養 ―― みだりに人前で動揺を見せてはならないという教えが役に立ったようだ。

 ランヴァルトはチロチロと割れた舌を出す蛇を、愛しげに見つめながら言った。

 

「フ……では君もわずかな例外というわけだ」

「僕のほかにも、例外の方はいらっしゃるのですか?」

「そうだな。男はそういう者も少なくない。だが、誰も触れることはできぬ。私以外でこやつに触ることができたのは、一人だけだ」

「……()()()?」

「あぁ。もはやおらぬ。前に話したであろう? 君が今飲んでいる、その珈琲にミルクを入れることを考えた娘だ」

 

 その答えに、アドリアンはまた驚いた。思わず聞き返す。

 

「娘? 女の子が蛇を?」

「あぁ。元々はその娘が、こやつを助けたのだ。うまく脱皮できずにおってな……一晩、ぬるま湯につけて、面倒をみておった。それでなつかれたようだ。レーナという名も、その娘がつけたのだ。蛇を操るなど不吉だと申す者もいたが……あれは一種の能力ともいえような。生き物の声なき声を聞くような……そんな不思議なところがあった」

 

 話しながら、ランヴァルトの声が徐々に暗く沈む。

 いつもであれば、アドリアンはそれ以上訊くことは控えただろう。だが、さっきのランヴァルトの言葉が思い出された。

 

  ―――― 誰かに胸の内を知ってもらうことが、慰めとなる……

 

 それはランヴァルト自身もそうなのではないのか……?

 アドリアンは思いきって尋ねてみた。

 

「あの……その女の子は……もしかして、亡くなられたのですか?」

 

 ランヴァルトはしばし蛇の喉元を撫でていたが、フッと笑みを浮かべるとゆっくりと首を振った。

 

「ある日……急に姿を消した。それこそ君ではないが、私もその娘に非情なことを言ったのだ。そればかりが理由ではないが……。いずれにしろ情けないことだな。もういなくなって、十年以上が過ぎるというのに、いまだ……忘れ得ぬ……」

 

 寂しげに目を伏せるランヴァルトに、アドリアンは励ますように言った。

 

「じゃあ、もしかしたら生きているのかも……しれない、ですよね?」

 

 少しでも希望を持ってもらいたかったのだが、ランヴァルトは自嘲気味なため息をもらして、ソファに背を(もた)せかけた。

 

「生きて……か。あのような状況で生きて、幸せであってくれるのかどうか……。むしろ、死んで苦難から逃れていてくれた方が、まだしも私の気持ちも穏やかでいられるというものだ」

「あ……」

 

 アドリアンは自分の短絡的な考えを()じた。ランヴァルトがそんなに大事に思っている娘であったのならば、この十年近くの間、何もしなかったはずがない。きっと手を尽くして探しても見つからなかったからこそ、そんな諦観(ていかん)を抱くようになったのだろう。

 言葉を詰まらせたアドリアンに、ランヴァルトは微笑んだ。

 

「君が気にすることではない。私を慰めようとしてくれたのであろう? その心だけで十分だ」

 

 アドリアンは自分の未熟さがうらめしかった。自分は所詮は子供で、ランヴァルトのように経験に根ざした助言や励ましなどできるはずもない。

 今のアドリアンにできることは、この話題から離れ、ランヴァルトの気を紛らせるために、ほかの話をすることくらいだった。

 この茶寮で新たに出会った人のことや、最近読んだ本のこと、来年に控えたアカデミーの入学試験の勉強法について訊いたりして、またあっという間に時間は過ぎた。

 

 その後も何度か、アドリアンは茶寮『七色蜥蜴(とかげ)の巣』を訪れ、ランヴァルトと交流を持った。会うほどに親密さは増してゆき、そのうちに茶寮以外でも、ランヴァルトの案内で、主に庶民らが集う居酒屋に連れて行ってもらうこともあった。そこではランヴァルトはアドリアンを息子だと偽って、隣の酔客相手に自慢し、アドリアンは恥ずかしさと嬉しさで顔を真っ赤にしていた。

 

 このアドリアンの頻繁な外出については、普段から無口なエーリクと、サビエルの機転によって徹底的に公爵邸内の人々 ―― 特にルーカスや家令のルンビック子爵には伏せられた。

 折しも彼らのほうでは、いよいよ間近に迫った帝都出立の準備のほかに、にわかに亡くなった公爵の元第二夫人とその娘の生活費横領に関する捕り物に忙しく、公爵邸内においては穏健に暮らしているアドリアンを気にしている余裕もなかった。

 

 マティアスやテリィも当初は怪訝(けげん)な顔をしていたが、皇太子殿下に特別に招かれているのだと嘘をついた。皇宮においては検閲(けんえつ)が厳しく、従者なども変更すると、入念な身体検査が行われる。その煩雑(はんざつ)さをなくすために、度々行くようなときは、同じ従者を連れて行くことが多かった。

 真面目なマティアスを騙すのは心苦しかったが、大公殿下に会っていると知れば、公爵家の体面を重んじる彼のことだ。早々にルンビックに報告するのは間違いない。それだけは避けたかった。

 

 

 そうこうするうちに帝都の秋も深まり、いよいよ領地に帰参する貴族も増え、アドリアンがアールリンデンに戻る日も近付いてきた。……

 

 

***

 

 

 いよいよ帝都を去る二日前のこと。

 

 アドリアンは今日が最後になると思い、少し早めに『七色蜥蜴(とかげ)の巣』にやって来た。いつも通り二階で本でも読もうかと階段を上ると、珍しくランヴァルトでない人がいた。

 

「おや、坊ちゃん。こんにちは。熱心だね」

 

 気軽な様子で挨拶してきたのは、トーマス・ビョルネだった。

 彼とこの茶寮で偶然再会したとき、双方ともにびっくりして大声を上げ、ゾルターンに叱られたのは記憶に新しい。

 元はオリヴェルとオヅマの数学の家庭教師で、ヴァルナルの結婚式のためにアドリアンがレーゲンブルトに訪れたときに紹介された。まさかこの茶寮で出くわすとは思わなかったので驚いたが、ここを訪れるアカデミーの学者は多いので、トーマスがいても不思議ではなかった。なにしろ彼は十歳でアカデミーに入ったばかりではなく、その中枢とも呼ばれる『賢者の塔』所属の研究員でもあるのだから。

 

 トーマスはここでの決まりに従って、アドリアンの身分について口外することなく、ただ「坊ちゃん」とだけ呼んだ。アドリアンがアカデミーに来年に入学する予定であることを話すと、受験に出てくる問題の傾向などを教えてくれたりして、ランヴァルトの次に、ここでの話し相手になってくれている。

 

「今日も()()に会いに?」

「はい。明後日には僕、帝都から領地に戻るので……トーマスさんはまた、調べ物ですか?」

「うん。僕も近々、帝都から出る予定でね。また、久しぶりにレーゲンブルトに行かないといけなくって」

「レーゲンブルトに?」

「うん、そう。黒角馬(くろつのうま)の原生種の調査。これでもいろいろと忙しくてねー」

 

 そう言うわりには、トーマスはどこかウキウキした様子だった。

 

「なんだか嬉しそうですね、トーマスさん」

「えっ? わかる? やっぱり顔に出ちゃってるかなー? いやー。向こうでさー、愛しい彼が待っててねー」

「……愛しい……彼?」

 

 アドリアンは首をひねった。愛しい()とは? 動物か、なにかの比喩だろうか?

 しかしトーマスは既に心ここにあらずといった様子で、鼻歌なんぞを歌いながら本を探している。アドリアンが詳しく意味を尋ねてよいものかどうか迷っていると、ランヴァルトが現れた。

 

「おや……久しいな。ロビン」

 

 その名前にトーマスがすぐに反応した。

 

「嫌だなぁ、先生。僕はトーマスですよ」

「おや、そうだったかな? これは失礼。そのような格好をしているから、てっきり弟のほうかと」

「まさか。あの品行方正な弟が、こんな格好するわけないですよ」

 

 言いながらトーマスは、ゆったりとした上衣の袖をつまんでヒラヒラさせる。

 学者でありながらも、やや奇抜なところのあるトーマスは、格好も独特であった。西方民族衣装(ドリュ=アーズ)からヒントを得た独特のデザインの服を、自ら型紙をつくって針子に頼んで作ってもらい、それを好んで着ていた。自ら言う通り、品行方正な人間であれば、そんな服を着て街中を歩いたりはしないだろう。

 ランヴァルトはそんなトーマスのくだけた物言いにも、相変わらず鷹揚だった。

 

「あぁ……そうか。確かにそうだな。トーマス、君のほうだったな。そういう格好をするのは」

「そうです、そうです。弟は今、レーゲンブルトにいますからね」

「レーゲンブルトに?」

「えぇ。オリヴェルっていう……クランツ男爵の息子の専属医師なんです」

「クランツ男爵? それは確か……」

 

 思い出したランヴァルトがアドリアンをチラと見てくる。アドリアンはニコリと笑って言った。

 

「はい、そうです。この前、言っていた近侍の弟です。彼も僕の大事な友人の一人です」

 

 ランヴァルトは「ほぉ」と感心したように頷いた。

 

「そうか。まさかここでそのような縁が繋がるとは、()しきこともあるものよ。で、トーマス。本は見つかったのか?」

「はい。ちょうど見つかりました。すみません、どうしても下の階の本棚になかったもので。お邪魔しました」

 

 トーマスは数冊の本をかかえて、そそくさと階段を降りていった。

 

「フ……トーマスも少しは空気を読むようになったようだな。まったくあやつは頭はキレるが、少々軽はずみであるから……なにか困ったことでも言われてないか? アドリアン」

「いえ……特に」

 

 少々気になる言葉はあったが、それはトーマスの極めて私的なことである気がしたので、アドリアンは特に言わなかった。そもそも興味もない。

 それよりも今日はこの前、途中になっていたランヴァルトの行った攻城戦について、すべて聞かせてもらわねばならない。いつものようにスヴェンの持って来たミルク入り珈琲を飲みながら、アドリアンはランヴァルトの話に聞き入った。

 

 

***

 

 

 その日もやはり時はあっという間に過ぎた。

 窓からの光がだんだんと薄れてゆき、暗くなっていく様子に、アドリアンは切ないため息をもらした。

 

「君は……本当に素晴らしいな」

 

 不意にランヴァルトが言う。アドリアンは一瞬、何を言われたのかわからず、ポカンと目の前の人を見つめた。ランヴァルトはもう一度言った。

 

「以前にも言ったが……君は強く、やさしい……本当に素晴らしい子だ」

「そんなことは……」

 

 アドリアンは思わずいつものように否定しかけたが、自分を真っ直ぐ見つめる紫紺の瞳に言葉が止まった。

 ランヴァルトの眼差しは真摯(しんし)で、そこに虚言はない。それは瞳が訴えてくるものだけではなく、これまでの約一月(ひとつき)に及ぶ短いながらも濃密な交流を重ねた中で、アドリアンに芽生えたランヴァルトへの強い信頼感が、そう思わせた。

 

「君は気付いていたか? 私があえてゾルターンやエリュザリオンを、君に会わせたことを」

「え?」

 

 思いもよらぬ質問に、アドリアンはキョトンとなった。聞き返す暇もなく、ランヴァルトは話を続ける。

 

「あの者らが社会において……特に貴族社会においては、忌避される存在であることは、君もわかるであろう?」

「……はい」

 

 ゾルターンは平民で、エリュザはあの個性的すぎる風体も、喋り方も、およそ貴族社会において認められる存在ではなかった。

 あれからランヴァルトが語ってくれたが、やはりエリュザは元貴族で、伯爵家の次男であったが、あの趣味 ―― 見てくれのことだけでなく、男女区別なく服を作るということも含めて、父母兄弟姉妹から非難され、最終的には勘当されてしまったのだという。ただの平民であったとしても、男が女の格好をするなど、馬鹿にされ後ろ指さされるであろうに、まして貴族であれば、社交界から抹消されるに十分な瑕疵(かし)であった。

 

「だが、君は彼らに対して嫌悪を見せるどころか、十分すぎるほどに礼節をもって接していた。これは誰もに出来ることではない。レーナにも驚いてはいたが、やさしく見守ってくれた。人であれ、動物であれ、君は偏見を持たない。私のことも……知っておったのであろう?」

 

 アドリアンの顔がハッと固まる。しまったと思ったが、明敏(めいびん)なランヴァルトに今更ごまかしようもなかった。そもそも既に見抜かれていたのならば、意味もない。

 

「……皇宮(こうぐう)に鼠はつきものであろうからな。君が知っていてもおかしくない。むしろ、知っていながら、君の態度が変わらなかったことが、私には不思議だった」

 

 ランヴァルトはそう言って、ニコリとアドリアンに微笑みかける。

 アドリアンは()っとランヴァルトを見つめてしまった。その笑顔は、どこかで見たことがあるような、妙ななつかしさを含んでいた。深みのある声が胸の奥底にじんわりと沁みて、ゆっくりとアドリアンの心が(ほど)けていく。

 

「……君のような子はそう居はしない。君は本当に誠実で、強く、やさしい心を持っている。偶然ではあったが、私はこうして君と知己(ちき)となれたことを、本当に幸運であったと思っている」

「それは……僕にとってもそうです。閣下と……先生と知り合えたことも、こうして親しくお話ができるような仲になれたことも、とても……本当にとても光栄に思います」

「そうか。ではこれで、我々は友になれたと思ってよいかな?」

「友……?」

 

 アドリアンはその言葉に固まってしまった。あまりに意外で、あまりに嬉しすぎて。

 

「嫌か?」

 

 返事をしないアドリアンを、ランヴァルトは不思議そうに見て、問いかけてくる。アドリアンはあわててブンブンと強く首を振った。

 

「そんなわけないです! 閣下にそんなことを言ってもらえるなんて思ってなくて……あの、すごく、とても、本当に、嬉しいです!」

「そうか。では、これからも長くつき合っていこう」

 

 ランヴァルトはにこやかに言って、手を差し出してくる。

 アドリアンはすぐさま握手し、胸がいっぱいになった。

 今日、別れて領地に帰れば、あるいはランヴァルトとの縁も終わってしまうかもしれないと、少し心配だったのだが、それも杞憂(きゆう)となった。

 

 だんだんと日が暮れて宵を迎える前に、エーリクが呼びに来た。アドリアンはランヴァルトと一緒に階段を降りながら、ずっと気にかかっていたことを一つ、切り出した。

 

「あの……イェドヴェリシア公女様に、すまなかったとお伝えください」

「……イェドヴェリシア?」

 

 ランヴァルトはその名前を聞き返してから、怪訝(けげん)な様子で尋ねた。

 

「公女に会ったのか?」

「はい。この前の皇太子殿下主催の新年の園遊会で」

「あの者が何かしたか?」

「いえ、違うんです。むしろ僕が悪かったんです。あの日はいろいろあって……。公女様がせっかく気遣ってくださったのに、僕が冷たいことを言ってしまって……きっとご気分を害されたと思います」

「何を言ったのかは知らぬが……まぁ、君がそうも気にするのであれば、公女に伝えておこう」

 

 ランヴァルトはニコリと笑って請け負ってから、不意に笑みを消し、固い声で言った。

 

「アドリアン。君は後悔してはならぬ」

「……え?」

「君は以前、言ったな。近侍に冷たく当たって、後悔していると。だが、君が後悔する必要はないし、してはならぬのだ」

 

 ランヴァルトの断固とした言葉に、アドリアンは自然と姿勢を正す。

 

「君も私も……我々のような地位にある者は、後悔することは許されぬ。我らのする決断は、数多(あまた)の民の命数(めいすう)を握るもの。後悔して簡単に(あがな)えるものではないゆえ、どのような選択をしても後悔してはならぬのだ」

 

 毅然と、ランヴァルトは言った。そこには大公として、帝都の守りの(かなめ)としての重責を担う者の矜持(きょうじ)があった。

 それまでアドリアンは漠然と、将来自分が負うべき責務の重さを感じて途方に暮れることがあったが、ランヴァルトに見透かされたかのように感じた。

 

「……はい。肝に銘じます」

 

 アドリアンは頷き、もう一度差し出された手を握った。

 手の豆が何度も潰れたであろう固く、強く、大きな手だった。

 

「……お元気でいてください。必ず、お手紙を書きます」

「あぁ、待っている」

 

 そう言うランヴァルトの顔には再び温かな笑みが浮かんでいた。紫紺の瞳は、穏やかで優しい。

 アドリアンは心の中で誓った。

 ランヴァルトの『友』として、()じることのない人間になろうと。

 この人にとって、自分は最良の友人であろうと。

 

 




引き続き更新します。
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