昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

206 / 259
第六章
第百九十四話 ケレナと姉


 ―――― あなたのお父上は、本当に冷たい方です!

 ―――― 私がこれまであなたを育ててきたというのに……

 ―――― こんなことなら、いっそ最初から面倒なんて見なければ良かった……!

 ―――― ひ弱で泣くばっかりの、役立たずのお前を一生懸命世話して……

 ―――― 無駄だった!

 ―――― アンタなんか母親にも父親にも捨てられた、いらない子だ!

 

 

 オリヴェルはベッドの中でカタカタと震えていた。

 その夢はもうしばらく見なくなっていたのに、久しぶりに夢魔に呼び起こされたらしい。薄い眠りの中に生々しい残滓が残り、寝間着はぐっしょりと濡れていた。

 

「……はぁ」

 

 大きく深呼吸して、薄暗い部屋の中を眺め見る。

 重苦しい創世神話を描いた天井画が、あの頃と変わらずオリヴェルを押し潰さんばかりに圧迫してくる。オリヴェルはブンブンと頭を振って立ち上がると、バルコニーへと向かった。重たいカーテンを押しのけると、晩秋の柔らかな曙光が目に入ってくる。ようやくそこで夢だと人心地ついた。ふぅと深呼吸して自分に言い聞かせる。

 もう昔のこと。今の自分は幸せなのだ、と。

 だがそう考えると、今度はなんとなく夢の中で自分を罵ったあの女のことが、少しだけ哀れに思えてきた。

 

「……あのひとは、幸せになったのかな……?」

 

 誰にともなく、オリヴェルはつぶやいた。

 

 

 その日はそんな目覚めであったので、やはりどこかオリヴェルの気分は沈みがちだった。

 とうとう午後からのルティルム語の授業の前に、オヅマから指摘された。

 

「オリー、どうしたんだ? 具合悪いのか?」

 

 言われてオリヴェルは自分がボーッとしていたことに気付き、あわてて笑ってごまかそうとしたが、うまくできなかった。当然、オヅマが見逃すはずもない。

 

「なんだよ。また、マリーがかまってくれないって愚痴か?」

「ち、違うよ! 最近は僕だって、そんなにマリーとばっかり遊んでるわけじゃないさ。絵だって描いてるし」

「おぅ、あれな。パウル爺、喜ぶぞ~。きっとみんな大笑いだ」

 

 オリヴェルはしばらく風景や静物画を描いていたが、ここ最近は神殿で舞っているオヅマたちを描いて以来、久しぶりに人物を描いていた。それがパウル爺で、午後の休息時間になると勝手口の脇のベンチでコックリコックリ舟を漕ぐ姿を描写したものだ。初めにラフ画を見せてもらったときに、すぐにオヅマにはそれがパウル爺だとわかって、あまりにも上手に特徴をとらえた姿に大笑いした。

 

「で、なんだ? なんか嫌なことでもあったか?」

 

 オヅマに再び尋ねられて、オリヴェルは少し迷いつつ今朝の夢のことを話した。

 オヅマは以前にも、オリヴェルから幼いオリヴェルを育ててくれた侍女について聞いたことはあったが、姿を消した経緯(いきさつ)については詳しく知らなかった。

 今、その去り際に残していったひどい言葉を聞くなり、オヅマは激昂した。

 

「なんだ! その女!! なんつー勝手な奴だ。ふざけんなッ!」

「オヅマ……」

 

 オリヴェルは自分のことのように怒るオヅマを見て、少しだけ気持ちが楽になった。

 

「いいんだ。もう昔のことだし……僕も今日、夢で思い出すまでは忘れてたくらいだから」

「俺は今聞いてムカついてる」

「僕は今、すごく恵まれてるから……だから、ちょっと申し訳ない気がしてたんだと思う。だからあんな夢を見ちゃったんだ、きっと」

「なんだ、それ。意味わからん。なんでオリーが申し訳ないんだよ。悪いのはその女のほうだろ」

 

 怒りが収まらないオヅマに、オリヴェルは穏やかに微笑んだ。

 

「僕は今、とても幸せだから……あの人が不幸なままなのかなって考えると、少しだけ可哀相な気もするんだよ」

「なに言ってんだ、お前。同情なんかする必要ないだろ。そんなひどいこと言う女」

「僕は大丈夫だよ。オヅマみたいに、叩かれたりしたわけじゃないし。たまにお尻をぶたれたりしたけど」

「叩かなきゃいいって問題じゃないだろ! 俺なんかいいんだよ。別に。クソ親爺に何されようが、クソだと思ってたんだからな。今だって変わらねぇ。あんな親爺、川で溺れて死のうが、殺されようが、一切同情なんかするもんか。お前だって同じだ。そんな女に同情なんかするな! 野垂れ死んでろクソババァって思っとけ!」

「それはさすがに……ちょっと」

 

 オリヴェルはあまりに口汚く罵るオヅマに閉口した。

 困ったように口ごもるオリヴェルを見て、オヅマはチッと舌打ちしつつ頭を掻いた。

 

「……悪い。ちょっと頭に血がのぼった。なんか、すごく腹が立つんだよ。だってお前、その女のこと信じてたんだろ? 母親代わりだったんだろ?」

「…………うん」

「母親みたいに思ってる相手に、そんなこと言われたら……いくらお前がチビで、まだ言葉もよくわかんないとしても、絶対、嫌な気持ちになっただろ。だからいまだに覚えてんだ。言葉よりも、なんか、気持ちがえぐられてさ……」

 

 言いながらオヅマの胸の奥に、重く、暗い(おり)が溜まっていく。

 信じていた……信じ切っていた人間に裏切られることは、どんな痛みよりも鋭く、深く、重く……いつまでも、消えない。

 

 オリヴェルは顔をうつむけ言い淀むオヅマに、またニコリと微笑んだ。

 

「ありがとう、オヅマ。怒ってくれて」

「……そうだぞ。お前がしっかり怒らないから、俺が代わりに怒ってやってんだ」

「ハハ。そうだね」

 

 オリヴェルは笑って認めてから、また少し寂しげな表情になった。

 

「僕は、自分が悪いんだって思ってたんだ。小さい頃の僕は今よりももっと体が弱かったから、面倒をみるのも大変だったろうし、僕の我儘もずっと我慢してきたんだと思う。何があったのかはよくわからないけれど、あんなに一生懸命、僕の世話をしてくれたのに、彼女の望むようにならなかったのなら、僕が悪かったんだろう……って」

 

 いまだにオリヴェルの中に、自分を傷つけて去った女への恨みはなかった。確かに小さなオリヴェルにとって、女の態度の急変や、唐突な別れは衝撃ではあったが、彼女を単純に非難することはできなかった。あの頃の自分にとって、彼女は唯一の味方だったから。

 

 一方、オヅマにはそのオリヴェルの優しさが歯痒かった。

 

「馬鹿! そんなわけないだろ! お前が悪いことなんか、一つもねぇよ」

「うん。でも、いいんだ。だって、もうあの人はいなくなっちゃったんだし……きっと僕のことなんて忘れて、のんびり暮らしてるだろうから」

「ふん。罰が当たって、道ばたで這いつくばって暮らしてるかもな」

「そんなふうになってたら嫌だよ、僕。僕と同じくらい幸せになっててくれたら、そのほうがいいよ」

「あー……まったく、このお人好しが! 俺にはしょっちゅうマリーと二人して憎たらしいこと言いやがるくせして……」

 

 

 

「…………」 

 

 少しだけ開いた扉から漏れるオリヴェルの笑い声を、ケレナは固い表情で聞いていた。

 

「ミドヴォア先生? どうしたんですか?」

 

 不意に背後から声をかけられて、ケレナは思わずビクッと振り返る。

 そこにはマリーと、最近になってレーゲンブルトにやって来た二人の少女 ―― サラ=クリスティアとカーリンら三人が立って、不思議そうにケレナを見ていた。

 

「あの……大丈夫ですか?」

 

 カーリンが気遣わしげに問うてくる。

 一歩近寄られて、ケレナはあわてて一歩退()がった。ドンと扉に背がぶつかって、その音に気付いたオヅマが、扉を開けて顔を出す。

 

「あれ? 先生、来てたの?」

「あ……ええ」

 

 ケレナは取り繕うように笑ってから、どこか落ち着かない様子で言った。

 

「あ、ごめんなさい。授業に必要な本を忘れてたわ。ちょっと取りに行ってくるわね」

 

 返事する間もなく、ケレナはあわてたようにその場から走り去っていく。

 

「……なんだ?」

 

 オヅマはケレナの態度に首をひねった。

 

「どうしたのかしら? 先生。なんだか、つらそうだったけど」

 

 マリーも同じように小首を傾げる。

 

「なんだ? 具合悪かったのか、先生」

「私たちの授業のときは、特にそんなふうには見えませんでした」

 

と、言ったのはティアだった。

 レーゲンブルトにやって来てから、ティアとカーリンはマリーと一緒に、ルティルム語の授業を受けている。マリーも一応、男爵令嬢となった以上は、必要最低限の素養として主たる外国言語の習得が求められた。当人はその独特の発音に四苦八苦で「舌が曲がってしまいそう」だとぼやいていたが。

 

「今日はルティルム語の歌も歌ってたし。ぜんぜん、ご機嫌だったわよね?」

 

 マリーが二人に言うと、カーリンもティアも頷く。

 

「あの……私にはここで先生が何か、その……立ち聞きしていたような気がするんですけど」

 

 カーリンがおずおずと言うと、オヅマは眉を寄せた。

 

「立ち聞き? 先生が?」

「あっ、いえ。そう見えただけで。あの……本がないことに気付いて、立ち止まってただけかも」

「ちょっとぉ、お兄ちゃん。まさか先生の悪口言ってたんじゃないでしょうね?」

 

 マリーに睨まれ、オヅマはすぐさま言い返した。

 

「違うよ。まぁ、悪口を言ってたのは言ってたけど……先生のことじゃないぜ」

「あ……だったら、もしかしたら勘違いされたのかも」

 

 ティアに言われて、オヅマはうーんと思案したが、いつの間にかオヅマの隣に来ていたオリヴェルが頷いた。

 

「そうかもしれないね。先生が戻ってみえたら、謝るよ」

「そうしてね、オリー。ミドヴォア先生って、とっても面白いけどとっても繊細なの。この前もネストリさんとちょっと喧嘩したって、泣き出しちゃうし」

「あのオッサンとミドヴォア先生ってのがなぁ……元々合ってないような気がするんだよな」

「だから、そういうこと言わないの! お兄ちゃん!!」

 

 その後にケレナが戻ってきて授業が始まったものの、結局途中で「気分が悪い」と、いつもより早くに終了してしまった。オヅマとオリヴェルはケレナの言葉をそのまま受け取った。

 

 

 この些細な違和感の理由を彼らが知るのは、まだまだ先の話だ。……

 

 

***

 

 

 ケレナは眠れずにいた。

 勉強室の前でオリヴェルの話を聞いて以来、ずっと心は重いまま。ベッドに横になって目をつむり、ひとときの眠りが訪れても浅く、夜中に何度も目を覚ます。

 その日は久しぶりにぐっすり眠れるかと期待したが、やはり目が覚めた。隣に眠る男の体温に安らぎを感じながらも、深いため息がもれる。

 男を起こさないように起き上がると、ベッド脇に置かれた椅子に無造作にかけられた夜着を羽織った。カーテンの間から漏れてくる月明かりを頼りに燭台の蝋燭に火を付けると、水差しを手に取る。陶器のコップに水を注いで、ゴクリと一口飲んでから、ふぅーっと長く吐息をついた。

 

「……どうした?」

 

 蝋燭の明かりで目を覚ましたのか、男 ―― ネストリが声をかけてきた。

 

「あら、ごめんなさい。起こしてしまったわね」

「いや……もうすぐ起きる時間だから勝手に目が覚めただけだ。君は珍しいな。いつもはぐっすり寝てるのに」

 

 言いながらネストリの口元が少しにやける。

 ケレナはクスッと笑って、再びコップに水を注ぐと、ネストリに持って行った。

 

「そうね。今日はよく眠れると思ったのよ。そのつもりだったのだけど……自分の心に嘘はつけないわね」

 

 ネストリはコップを受け取って、ケレナの暗い表情に眉を寄せた。

 

「なにかあったのか?」

 

 ケレナは力なくベッドに腰を下ろした。蝋燭の明かりに照らされた横顔は、憂いが濃い影を落としている。

 

「どうしたんだ? なにか言われたのか? 君にひどいことを言ってきた奴がいたのか?」

 

 ネストリは激しくその架空の誰かを攻撃するかのように言い立てたが、ケレナは力なく首を振った。

 

「違うの。姉のことよ」

「姉? 帝都にいる?」

 

 ネストリは聞き返しながら、まだ会ったことのないケレナの姉についての情報を思い出していた。

 ケレナの姉は病気で、既に二人の両親は他界しているため、今は帝都近郊に住む伯母夫婦の家に住まわせてもらっている。そのためケレナは定期的に伯母夫婦に姉の世話代も含めた仕送りをしていた。だが伯母夫婦も老齢で、年々働くのも難しくなってきており、彼らには子供もいないので、ゆくゆくはケレナが彼らの面倒をみねばならないのだという。

 ネストリはヴァルナルらが結婚したあとに、実はケレナに求婚していた。すぐにも了承してもらえると思った彼女からの返事は「できない」。ネストリは納得できず、渋る彼女に何度も問うて、ようやく得た答えが姉のことだった。

 

「私は姉のことも、伯母夫婦のことも世話する義務があるんです。もし私と結婚すれば、あなたにも迷惑をかけてしまうことになる」

 

 そう言われて、ネストリは情けないことだが尻込みしてしまった。

 執事の給料はそこそこある。ケレナと二人で暮らす分には、彼女が教師の職を辞して家庭に入っても十分だった。いずれ子供ができたとしても、そこは自分の子供だ。張り合いにもなる。

 だが、会ったこともないケレナの伯母夫婦と姉とやらにまで、自分の汗水たらして働いた金を仕送りせねばならないとなると、それは別の話であった。いっそケレナが教師の職を続けて、彼らをこのまま養うのであればいいが、彼女は結婚したら教師を辞めたいと思っているらしい。

 最近ではそうでもないが、昔ながらの考えからすれば、結婚した女が働くのは夫に甲斐性なしと見られて、世間体が悪い。他人からの評価を気にするネストリも、本来ならば彼女の意見に賛同しただろう。

 だが、自分も含めた大人五人を養えるほど、ネストリの給金は高くなかった。ケレナと結婚することで、彼らのために自分の生活水準を下げねばならないのは納得がいかなかった。

 そこで彼らの結婚話については暗礁に乗り上げ、どっちつかずのまま関係を続けていたのだが、またその姉の話が出てきて、ネストリは一気に不機嫌になった。

 

「また催促か」

 

 吐き捨てるように言ってしまうのは、彼らからケレナに対して度々、金を無心する手紙が送られてくるのを知っていたからだ。

 ケレナは「違うの」と言うと、ネストリの手にあったコップを取って、ベッドサイドのテーブルにコトリと置いた。

 

「私、まだあなたに話していないことがあるの」

「なに……?」

「私の姉の名前、言ってなかったでしょう。姉の名前は……メリナ。メリナ・バルトン」

 

 その名前を聞いて、ネストリはしばし固まった。一拍置いて「あっ」と声を上げる。

 

「メリナ・バルトンだって?」

 

 思わず大声で聞き返してから、響いた自分の声に驚いて、ネストリはすぐに声をひそめた。

 

「それは、オリヴェル様の世話係だった……」

 

 ケレナはコクリと頷いた。

 ネストリはにわかに信じられなかった。

 

「で、でも……君の名前はミドヴォア」

「ミドヴォアは亡くなった夫の姓よ。そのまま使ってただけ」

 

 ケレナにあっさりと答えられて、ネストリはそのことについて納得しつつも、まだ信じられなかった。

 

 メリナ・バルトンは、元男爵夫人であったエディトの侍女としてレーゲンブルトにやって来た女だ。

 彼女らがやって来た当初は、まだネストリは公爵邸で働いていたが、その元男爵夫人が男と一緒に出奔するという、世にも破廉恥な行動を取った後に、執事候補としてレーゲンブルトに来ることになり、そのときに紹介された。

 本来であれば、お互いに帝都からこんな辺境に来たことについて、いくらでも意気投合できそうなものであったが、ネストリは正直この女が苦手だった。というより嫌っていた。

 確かに貴族夫人の侍女をするだけあって、そこそこの美しさはあったが、そうした女にありがちなように、メリナもまた高慢ちきであった。新米のネストリなど目もくれず、まともに相手するのも無駄だと言わんばかりの態度だった。

 メリナは基本的にはオリヴェルを甘やかした。

 だが彼女は情緒の波が激しく、衝動的に叱りつけることもあったし、子供相手に愚痴をひたすら言い続けることもあった。

 こうした世話係の精神的な不安定さは、当然世話されたオリヴェルにも伝播し、彼は病気がちという身体的不自由さもあって、癇癪(かんしゃく)の発作がたびたび起こった。(この発作はオヅマたちがやってくるまで、長らく使用人一同を悩ませることになった。)

 彼女は最終的に男爵夫人の座を狙っていた。それは言わずとも、領主・ヴァルナルに対する彼女の態度をみれば一目瞭然だった。ヴァルナルの前でだけは、わかりやすく化粧なども濃く、オリヴェルが自分になついていることをこれみよがしに見せていたから。

 だがあまりにヴァルナルが鈍感で、まったく彼女を相手にしなかったために、とうとうしびれを切らしたのだろう。

 ある日、愚かにも領主の寝室に忍び込んで、関係を持とうとしたらしい。当然、ヴァルナルが彼女を受け入れることはなく、厳しく叱責して戻らせた。

 この話を聞いたときに、ネストリは大笑いした。

 ネストリだけでなく、領主館の使用人のほとんどは、彼女の行動の顛末(てんまつ)を知って嘲笑(あざわら)った。

 次の日になって、ヴァルナルは彼女を解雇すべく呼び出したのだが、そのときには既に彼女は館から姿を消していた。

 さすがに自分でも自分のした行為が恥ずかしかったのだろう。

 

 ネストリが知っているメリナのことはここまでだったが、ケレナはメリナのその後のことも含め、彼女の身上について語った。

 

「私と違って、姉はどこに行っても評判の美人だった。いきいきしていて、自信があって、気配りもできて。最初は女中だったのに、伯爵家の奥様に気に入られて、とうとう男爵夫人の侍女にまで抜擢されたのよ。意気揚々と旅立ったのに……」

 

 レーゲンブルトからまるで夜逃げするように出て行ったメリナは、その頃ちょうど家庭教師の仕事が途切れて、しばしの休暇を楽しんでいたケレナの元にやって来た。

 久しぶりに会う姉の、あまりに変わり果てた姿にケレナは驚いた。

 

「姉は……すっかり気が滅入ってしまっていて……髪も白髪が多くなっていて、まるで疲れきった老婆みたいになってた。私は姉から事情を聞いて……そのときには、姉はクランツ男爵に騙されたと言っていて、私もそれを信じたの……」

 

 それからメリナは何度も自殺未遂を繰り返し、どんどんと気鬱がひどくなっていった。

 そうした狂疾(きょうしつ)の者を預ける施設に入れることも考えたが、一度だけ見学に行ったケレナは、そこに姉をやれば数日もせずに死んでしまうと思った。

 施設はひどく不衛生で、ろくに掃除もされておらず、中にはベッドに(くく)り付けられたまま糞にまみれた人間もいた。こんなところに姉を預けられるはずがない。

 

「私は、そのときちょうど間借りしていた伯母夫婦に頼み込んで、そこで姉に療養してもらうことにしたの。それからレーゲンブルトに行って、姉のことで文句を言ってやりたかったけど、ちょうど子爵家のお嬢様たちの家庭教師の仕事も入って……それからは姉への仕送りのためにただひたすら働いて……そうしたら、まるで神様が私を憐れんでくださったみたいに、本当に偶然、ここでの仕事を紹介してもらえたの」

 

 ケレナはすぐさま推薦状と一緒に自分の身上書を書き送った。

 もしこれで自分が家庭教師となれば、直接領主に物言える機会は確実にある。

 会ったら絶対に文句を言ってやって、慰謝料も請求してやろう! それくらいの気持ちではいたが、一方で現実的に考えたときに、自分が領主の息子の家庭教師になれる可能性は低いだろうと思っていた。帝国において、貴族の跡継ぎとなる息子の家庭教師に、女をつけることなど考えられなかったからだ。

 ケレナにとっては、(はなは)だ分の悪い賭けだった。これで雇われなければ、もうこのことについて考えるのはやめようとも思っていた。

 姉に再会したばかりの頃には同情していたケレナも、何度も会ううちに、だんだんと姉の相手をするのに疲れてきていたからだ。姉の話は度々飛躍し、なんのことを話しているのか判然としないこともあった。

 

 だがケレナの予想を覆して、ヴァルナルはケレナをオリヴェルと新たな息子となったオヅマの家庭教師に任じてくれた。

 初めての顔合わせでヴァルナルに会ったとき、ケレナはいよいよ長らく溜め込んできた文句を言ってやろうと意気込んでいたが、いざ目の前にした男爵の立派な姿に圧倒され、何も言えなかった。オリヴェルのことも、姉からは我儘きわまりない、癇癪(かんしゃく)持ちの泣き虫の男の子だと聞かされていたのだが……

 

「クランツ男爵も、オリヴェル様も、姉から聞かされていたのと違っていて、とても穏やかできちんとした印象だった。私は混乱したわ。姉と、自分が実際に会って話す彼らの姿があまりにも違っていたから。私は詳しい事情を知りたくて、それからは注意深く、この館での二人のことを観察したり、人づての評判を聞いたりしたわ」

 

 そうして事情を探っていくうちに、多くの使用人がメリナに対して反感を持っていたことを知ると、ケレナはもはや姉の言葉をそのまま受け入れることはできなくなった。

 

「おそらく……きっと、姉は病のせいで極端な考え方に(とら)われてしまうようになったのだろうと……残念ながらそう考えるしかなかった。いつだったか、あなたも話してくれたでしょう? 若君の世話をしていた女が、畏れ多くも領主様の寝室に忍び込んで、情けを受けようとしたって。あれを聞いたときには、もう私、恥ずかしくて恥ずかしくて……」

「いや……その……」

 

 ネストリは自分の軽率な発言にあわてたが、今更撤回もできない。

 ケレナはかなしげに首を振って言った。

 

「いいの。あなただけじゃない。ほかの使用人もそれとなく聞いてみたら、みんな教えてくれたわ。姉がこの館でとても傲慢(ごうまん)に振る舞っていたことも」

 

 ケレナとしては姉に裏切られた気分であったが、あの当時の姉の心境を考えると、それはそれで仕方なく思えた。

 

「姉さんは……自分勝手な思いであったかもしれないけど、男爵のことを好いていたの。それだけは本当なの。おかしくなる前、ずっと昔から姉さんと文通していて、このレーゲンブルトでの出来事を書いてきていたわ。領主様がとても素敵な人だって、あの頃は誉めていたし、母親に捨てられた哀れなオリヴェルのことも可愛いと言っていたんだから。あの気持ちがすべて、男爵夫人になりたいがためのものだったなんて……それは、違うはず」

 

 姉に過ちがあったのだとわかっても、それでもケレナには一つだけ納得できないことがあった。

 それはミーナのことだ。

 ミーナが確かに皆の言う通り、よくできた人間であることはわかっていた。

 彼女は平民の出だというのに、簡単なルティルム語の読み書きもでき、礼儀作法については専門のジーモン教授すら舌を巻くほどに完璧だった。立ち居振る舞いも、教養も、淑女として十分で、なにより眩しいほどの美しさがあった。

 それまでケレナの中では姉は美人の部類であったが、彼女を前にすれば霞んでみえた。領主の目に留まるのも無理はない。

 けれど結婚するとなれば、話は別だ。

 

 ケレナは何度となくミーナにヴァルナルとの結婚について尋ねた。

 心の中では、以前は厨房下女でしかなかったような卑賤の女が、領主様の奥方 ―― つまりは男爵夫人になるなど、あり得ないという思いがあったからだ。

 自分の出自について誇示するつもりは毛頭ないが、ケレナの母方の祖父は准男爵で、父は富裕な商人の出だった。一方、ミーナなどは異民族の血を引き、あまつさえ小作人風情の未亡人。貴族の正妻になるなど、不釣り合い極まりない。

 だから牽制したのだ。

 ヴァルナルがグレヴィリウス公爵の亡くなった夫人に『格別な想い』を持っていたことなど言ったりもして。それは姉から度々聞いていたことでもあったから。

 

 だがそんなケレナの意地悪な性分を神様は見ていたのだろうか。

 ミーナがあのぺたんこ頭の行政官に襲われたと知ったときには、ケレナは心底驚いた。

 何気なくミーナが朝、(ほこら)に礼拝に行くことをギョルムに話したせいで、危険な目に遭わせてしまった。これが領主のヴァルナルに知られれば、きっと叱責され家庭教師の職も失うかもしれぬと、ケレナは気が気でなかった。

 だから早々にミーナに謝罪したのだ。謝罪を受け入れて、領主にも黙ってくれたミーナに感謝もした。

 ただ、同時に、ホッとしていた。

 ギョルムに襲われたという醜聞によって、ヴァルナルがミーナを(めと)ることなど有り得ぬと思ったから。

 だが結局、ミーナはヴァルナルと結婚。しかも彼女は愛妾ではなく、正式なる妻と認められた。

 

「もちろん祝福しているわ、私。オリヴェル様にも、彼女はやさしい母親でいてくれるのだから、彼らが幸せであることに、文句を言える資格なんてないのよ。でも、どうしても……姉が哀れで、惨めで、可哀相でたまらない……」

 

 ケレナは結婚式で花嫁衣装に身を包んだミーナを見たときに、心底から美しいと思った。その神々しいまでの美しさに、一瞬、姉のことも忘れるくらいだった。

 けれど祭りが終わってしばらくすると、脳裏に甦るその姿と、伯母夫婦の家の小さな部屋で縮こまっている姉の姿を比べて、ひどく心がざわめいた。

 

 同じ世話人として、姉だってオリヴェルに愛情を持って面倒をみていたはずだ。なんであれば幼かった分、ミーナよりもずっと大変な思いをして、それこそ母親代わりに育ててやったのに……どうして姉は選ばれず、ミーナは選ばれたのか。

 

「私は、結局、ミーナさんが美しいから……なんだかだと言って、男はそういうことなんだろうと思っていたの。領主様だけじゃなく、オリヴェル様も……どうせ母親になるのなら、美しい女のほうがいいと思ったんだろうと……でも」

 

 この間、オヅマとオリヴェルが姉の話をしているのを聞いて、ケレナは衝撃を受けた。まさか姉が、オリヴェルにそんなひどいことを言っていたなどと思わなかったからだ。

 

「あのときのオリヴェル様はまだ五歳だったのに、いくら自分の長年の片思いが叶わなかったからといって、幼い子供にひどいことを言って、しかも謝りもせずに出て行ったなんて……もう私は情けなくて、悲しくて……だからずっと悩んでいるの。今からでも正直に領主様に打ち明けて、姉のことを正式に私から謝ったほうがいいのかどうか……」

「馬鹿なことを!」

 

 ケレナの迷いを断ち切るように、ネストリは叫んだ。

 

「そんなことを今頃になって言ったところで、領主様だって困惑されるだけだ! ミーナ……様だって気まずくて、これまで通りになど接することはできなくなるだろう」

「……でも」

 

 迷いを浮かべるケレナの肩を掴み、ネストリは厳しく言った。

 

「いいか。今更謝ったところで、もう済んだことだ。何も変わらないどころか、皆が嫌な気分になるだけなんだよ」

「…………」

「君は謝ってすっきりするかもしれないが、領主様もミーナも、いい気分になることはない。若君だって、昔の嫌な気持ちを思い出すだけだ。本当に申し訳なく思うのならば、メリナのことは君の胸に秘めておきなさい。下手をすれば、君はここから追い出されるかもしれないぞ。そうなってもいいのか?」

 

 強い口調のネストリに、ケレナは困惑した。

 

「そんな……領主様やミーナがそんなこと」

「随分とのんきだな、君は。いいか? 君がメリナの話を出して、何か言えば、それは謝罪どころか、脅迫にだってなる可能性があるんだぜ」

「脅迫?!」

 

 驚いて息を呑むケレナを、ネストリはより追い詰めるように言い立てる。

 

「そうだ。姉の心神(しんしん)耗弱(こうじゃく)の原因をつくったのは、領主様だと責め立てているのと同じだよ」

「そんな……」

 

 ケレナは愕然とした。自分としては誠意を表すつもりであるのに、そんなふうに曲解されるなんて。

 

「ともかく、このことは絶対に言うんじゃない。厄介事は御免だ」

 

 ネストリはイライラしたように言うと、ベッドから出て(せわ)しなく着替え始めた。

 ケレナは悄然と、ネストリの部屋から出て行った。

 




次回は2024.06.02.更新予定です。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。