昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第二百五話 母という名の禁忌

「皆、よく来た。ゆるりと過ごせ」

 

 相変わらず短い挨拶を終えると、公爵は座ってすぐにワインを注がせた。

 公爵の登場と同時に起立していた面々もまた、ガタガタと再び椅子に座って、ようやく食事が始まる。

 もっとも、まだ公爵は本調子でないのか鈍い目をしていて、ワインを飲むだけでも物憂げな表情だった。

 

 基本的にこうした晩餐においては、(あるじ)が話さないうちに、招かれた者だけで会話することはマナー違反である。公爵が話すまでの間、カチャカチャとナイフが食器を小さく打つ音が響いた。

 なんともいえぬ沈黙に、誰もが気詰まりを感じていると、ティアが不意に「あっ」と声を上げる。

 カシャンとフォークが一つ床に落ちた。

 どうやら置かれてあったフォークの先を袖のレースで引っかけたらしい。

 

「す、すみませんっ」

 

 あわてて屈み込んで取ろうとするティアを、アドリアンが制止した。

 

「ティア、取らなくていい」

「えっ……あ……すみません」

「そうしたことは召使いがする。落ちても知らんぷりしておくんだ」

「……はい、すみません」

 

 ティアは身をすぼめて謝ったが、その時、公爵が鋭く言った。

 

「ずいぶんと仲良くなったようだな」

 

 一瞬にして緊張が走る。

 その声音だけで、公爵の機嫌がよろしくないであろうことは、その場にいた者すべて ―― それはテーブルについている者だけではなく、給仕を行う執事、従僕に至るまで ―― がすぐにわかったからだ。

 アドリアンは姿勢をただすと、軽く息をついてから言った。

 

「はい。ティアがレーゲンブルトよりこちらに帰還したときに、公爵様……父上の計らいで一緒に食事したので」

「フ……ルンビックが気を利かせたのであろう。()()()()()には長年悩まされておるゆえ」

 

 その皮肉に気付いたのはルーカスぐらいで、さすがに腹心であればクスッと笑みを浮かべることもできたが、それ以外の者にそんな余裕はなかった。

 

「食事を一度した程度で、そう仲良くなることなど有り得ぬであろう。聞けば最近は、頻繁に街に出ているようだな。アカデミーの受験も迫っているというのに、悠長なことだ。まさか入学さえすれば良いなどと考えているのではなかろうな?」

 

と、公爵が問うたのは、アカデミーに入学すること自体は、たとえ試験があるとはいえ難しいことではなかったからだ。

 一定以上の家格の貴族子弟であれば、入学はほぼ確実にできる。

 アカデミーの維持や研究資金は、多く貴族からの寄付によって成り立っており、その見返りとして貴族子弟を受け入れるのは慣習となっていた。まして毎年高額寄付者として名を連ねるグレヴィリウスにあっては、アドリアンだけでなく、その近侍も含めて、全員合格するのはわかりきったことだった。

 それでもアドリアン始め近侍らに学習が課されたのは、受験に合格するためではない。

 

「試験において【一葉(いちよう)】を手に入れる程度でなければ、恥となろう」

 

 アカデミーにおいては習熟度、学習態度、調査・考察などの総合力を、九つの【葉】で評価される。最上位にあたる【九葉(くよう)】などは、よほどの研究成果を残さぬ限り与えられるものではなく、【五葉(ごよう)】以上で卒業条件を満たすとされた。最長七年の在籍の間に【五葉】を手に入れることができなかった場合、あるいは教授や老師らからの特別推薦などがなかった場合には、強制的に退学となる。

 アカデミーは有力な貴族子弟を受け入れはするが、その成績について斟酌(しんしゃく)することは全くなかったので、生半(なまなか)な気持ちで入って、卒業できない貴族の若君は毎年一定数いた。

 公爵はそうした事情を十分にわかった上で、アカデミーの入学試験において【一葉】を取ることを要求している。これはつまり、その年の受験者の中で上位を取れと言っているに等しい。

 

「……試験とは別に小論文を提出する予定です」

「予定? まだ出来ていないということか?」

「……今はまだ主題(テーマ)が決まっていません」

 

 公爵はハッとあきれた笑みを浮かべた。

 

「まだ書くことも決まっておらぬうちから街に出て、下々の者らと遊興に(ふけ)るとは……自覚のないことよ。そのような怠惰を許すのは、公女か? それとも……そこにいるヴァルナルの義理の息子か?」

「この場にいる誰のせいでもありません!」

 

 アドリアンは公爵が言い終わるやいなや、すぐに立ち上がって叫んだ。斜め前に座っているオヅマが公爵を睨みつけているのがわかったからだ。今にも怒鳴りつけそうなオヅマを目で制して、アドリアンは公爵(ちち)に向き合った。

 

「確かに街に出て、下町の子供たちと交流を持ちました。けれどそれを遊興であるように言われるのは心外です。彼らのような貴族ではない人々、世間からは下賤と呼ばれる身の上であっても、秀でた人間はいます。彼らと話をすることは有用なことです。母上も……」

 

 アドリアンは言いかけて、息を呑んだ。それはヴァルナルやルーカスも同様に、()()()を示す言葉が出た途端に、顔を強張らせた。

 口を噤んだアドリアンの前で、公爵は冷たい面のまま、鳶色(とびいろ)の瞳に怒りを滲ませている。睨む先にいるのは自分の息子であるのに、まるで仇であるかのように恨みのこもった目だった。

 いつもであれば、アドリアンはそのまま口を閉ざして「すみません」と頭を下げていただろう。いつもはそうしていた。そうして父の怒りを(しの)げば、また無関心になることはわかっていたから。

 

 けれどその日、アドリアンはとうとう()()()のことを、自らの口から述べた。

 

「母上も、貴賤に関係なく人々に尽くされておいでだったと聞いております」

 

 言い終わると同時に、公爵は立ち上がり、持っていたワイングラスを机に叩きつけた。パリンと乾いた音が響く。

 飛び散ったグラスの破片の一部が、アドリアンの眉上をかすった。

 

「お前に……()と呼ぶ資格はない」

 

 呪詛(じゅそ)のような、公爵の怨念の籠もった低い声が響く。ゆらりと一歩、アドリアンに近付いて ―――

 

「アドル!」

 

 凍り付いた場で動いたのはオヅマだけだった。アドリアンの前に立つと、振り上げた公爵の手にバシリと頬を打たれた。

 

退()け」

 

 空洞のような公爵の鳶色の瞳がオヅマを脅す。

 だがオヅマは退()かなかった。ギロリと公爵を睨み、怒鳴りつける。

 

「一体、どういうつもりだッ!?」

「場を(わきま)えよ。お前が私に無礼を働けば、お前が庇っているその小公爵が罰を受けることになるぞ」

 

 公爵は冷然と言い放つ。

 オヅマは怒りが沸騰して我を忘れそうであったが、握りしめた拳を止めるようにアドリアンが腕を掴んでくる。

 アドリアンはもう片方の手で眉上の傷口を押さえていたが、頬を伝い流れる血で、白いシャツの襟は真っ赤に染まっていた。

 

 目の前で起きている異様な光景に、ティアは心臓が潰れそうだった。自分のせいだと叫びたかったが、胸が苦しくて声を出すこともできない。

 ミーナはあまりに痛々しいアドリアンを放っておけず、また同時に息子をどうにか止めようと一歩進んだが、ヴァルナルに止められた。

 ヴァルナルはミーナを制したまま、直立不動で黙っている。

 ルーカスも立ち上がってはいたが、公爵からは一番遠いその場所からじっと見ているだけだった。

 

 オヅマは浅い呼吸を繰り返した。

 本当は目の前の自分勝手で横暴極まりないこの男……アドリアンの父であるのに、息子を恨んでいるかのように睨むこの男を、今すぐにでもぶちのめしたかった。

 だがその腹立たしい男の言うように、ここで手を出したらアドリアンが罰せられ、今度こそオヅマは公爵邸を追い出されるだろう。

 この場合、公爵や周囲がオヅマを追い出すのではなく、ヴァルナルが無理にでもオヅマを連れ帰るに違いない。

 

「本気で……思っているんですか?」

 

 オヅマは必死で怒りを押し殺し、公爵に尋ねた。

 

「……なに?」

「本気で、アドルが生まれたから奥様が死んだと思っているんですか? アドルが閣下の奥様を……自分の母親を殺したと思っているんですか?」

 

 公爵の表情はますます固く、凍り付いた。酷薄さすら感じる無表情だった。

 だがオヅマはそんな公爵の表情にもたじろがなかった。

 

「奥様が死ぬときに言ったんですか? アドリアンを恨めって。この子を生んだせいで自分が死ぬから、息子を憎めと」

「…………」

「もしそうなら……その奥方ってのも、閣下とそう変わりないですね。やたらと賢夫人だの何だのと評判だけはいいが、夫婦二人して……クソッタレだ」

 

 吐き捨てたオヅマの言葉に、公爵の鳶色の双眸(そうぼう)が、暗く、赤く閃く。自分だけでなく妻のことまでも()(ざま)に言われたことで、公爵の怒りは一気に飽和した。

 

「貴様……我が妻を誹謗(ひぼう)するか……!」

「あぁ、そうだよ! あんたにとっちゃご立派で美しい奥方でもなぁ、俺にとっちゃ、息子に理不尽なことをする旦那を止めることもできねぇ、ただの死人だ!」

「…………」

 

 公爵は蒼白になった。

 逃れようもない現実を突きつけられて彫像のように固まり、息することすらままならない。

 オヅマは迷い子のように狼狽(うろた)える公爵を見て、ますます苛立った。

 

「あんたがそうやって、死んだ奥さんのことばかり考えて、悲しんでいる間に、どれだけアドルが我慢してきたと思ってる? ティアも…………どれだけの人間が、傷ついてきたと思ってるんだ?!」

 

 オヅマは怒りつつも、一方で冷静だった。視界の隅で自分に近付こうとするヴァルナルを捉えて、鋭く言った。

 

「ここにいる大人は、全員同じだ! 全員がアドルに我慢を()いてきたんだ! ティアに母親の罪をなすりつけたんだ! なにが大人だ。本当に大人だって言うんなら…………親だとか抜かすんなら、子供に甘えんなよ!!」

 

 その場の誰一人として声を発することもできず、動くこともできなかった。

 特に、長く公爵の側にあって、その悲しみを見てきていたヴァルナルとルーカスは、あまりにも正しいオヅマの言葉に、ただ目を伏せた……。

 

 オヅマは言いたいことを吐き出して、ようやく落ち着きを取り戻した。ふぅ、と一度深呼吸してから、目の前で茫然と立ち尽くす公爵を冷たく見つめた。

 

「……アドルに大人の顔をさせて、いつまでもメソメソ泣いてるのは、あんたの方だ」

 

 オヅマは公爵に一片の同情も与えなかった。

 そのまま誰を見ることもなく、スタスタと扉の方へと向かう。

 扉を開くと、警護にあたっていたカールともう一人の公爵家騎士団の騎士が、オヅマを止めた。

 

「北の塔に……連れてって下さい」

 

 オヅマは無表情に言った。

 北の塔は公爵邸の北端に(そび)える塔で、そこには公爵家内における反乱分子などが収監される。

 カールは眉を寄せ何か言いかけたが、そのとき再び扉が開いてルーカスが顔を出した。

 

「……連れて行け」

「よろしいのですか?」

「当人が頭を冷やすと言うんだから、そうしろ」

 

 カールは無言で騎士礼を行うと、オヅマを促した。

 チラ、とオヅマはルーカスを見たが、その顔にいつもの薄笑いはなかった。怒っているのか、あきれているのか、判然としない。見事なまでの無表情だ。めずらしく茶化すこともなく、ルーカスは扉を閉めた。

 

 オヅマはカールの後に()いて歩き出した。

 

 

***

 

 

 アドリアンはオヅマが去ったあと、しばらくその出て行った扉を見つめていた。

 ふと、うつむいて長く息を吐く。置いてあったナプキンを手にすると、眉上の傷に押し当て、再び父に対した。

 だがそこに立ち尽くす父は、いつもの冷厳たる公爵ではなかった。途方に暮れた迷い子のように、ひどく困惑して見えた。

 アドリアンはゴクリと唾をのみこんで、静かに言った。

 

「謝るつもりはありません」

 

 公爵が顔を上げて、アドリアンを見つめる。その目はどこか虚ろだった。自分の前にいるのが息子だともわかっていないかのように。

 

「公爵様に向かって、オヅマが無礼な態度をとったことは認めます。けれど彼は、あれでも耐えてくれていたんです。僕は彼を責めることはできません。本当であれば、彼が言ったことはすべて、僕が言うべきことでした」

 

 公爵はかすかに唇を動かしたが、言葉にはならなかった。

 アドリアンはすぅと息を吸うと、ジロリと給仕のために立っていた先程の従僕を見た。

 

「あの従僕は先程、公女に対して無礼を働きました。それを注意した僕に対しても、謝罪はしましたが、本心からのものでないことは明らかな態度をとりました」

 

 いきなり自分の話題に及んで、従僕はあわてて弁解した。

 

「なっ……そのような事は……小公爵様の思い違いにございます!」

 

 しかしアドリアンは冷たく従僕を見てから、その目と同じ温度で、父である公爵を見つめた。

 

「この従僕だけでなく、この公爵邸本館において僕を軽視する者は後を絶ちません。僕はそれらのことを受け入れてきました。甘んじて……自らの矜持(きょうじ)を折って、受け入れてきたのです。そうすることが僕の務めだと思っていたから。公爵様から母上を……公爵夫人を(うしな)わせた元凶である僕への罰なのだと」

 

 アドリアンは言いながら情けなくて仕方なかった。

 どうしてこうまで自分と父はこじれてしまったのだろう。

 母とも呼べぬその女性がいてくれれば、幸せであったのか?

 だとすれば、その女性(ひと)を殺して生まれてきた自分は、やはり不幸の種でしかなかったのか……?

 

 再び深呼吸して、アドリアンはきっぱりと告げた。

 

「けれど今日、オヅマが教えてくれました。僕がこの屋敷の使用人にすら見くびられる原因をつくったのが公爵様であるように、あなたを不幸にしたのはあなた自身です。僕ではない」

 

 息子の冷ややかな視線に、公爵の顔は凍り付いた。

 その前にアドリアンが母のことを『公爵夫人』と言ったときから、公爵の胸の中に、感じたことのない痛みが生じていた。

 

 そんな父の心裡(こころうち)など知ることなく、アドリアンは淡々と話す。

 

「僕を本当に憎み、嫌い、疎ましく思うのなら、この公爵邸から追い出せばいい。二度と顔を見ることすらも(いと)わしいなら、殺せばいい。僕の父であることが苦しいならば、もう……僕を棄ててください」

「……私を」

 

 公爵は小さくつぶやいた。

 

「父と……認めぬということか?」

 

 その言葉にアドリアンは一気に怒りが沸騰した。

 

「父であろうなどと、思ったこともないくせに!」

 

 苛立たしげに眉を押さえていたナプキンを公爵に向かって投げつける。血の染みついたそれは、公爵の胸に当たって足元に落ちた。

 

 アドリアンは力なく立ち尽くす父の横を、足早に通り過ぎた。 

 食堂の扉を開くと、残っていた警護の騎士に尋ねる。

 

「オヅマは?」

「……北の塔に」

「わかった」

 

 頷くと自らも北の塔へと向かった。

 

 歩きながら涙があふれてくる。

 結局、父とはわかりあえない。

 きっと永遠に、理解し合うことなどないのだ……。

 

 

***

 

 

 二人の少年が去ったあと、公爵は無言のまま出て行った。

 

 ふっと空気が緩んだと同時に、ティアがその場にくずおれた。

 

「ティア!」

 

 ミーナがあわてて駆け寄って、ティアの肩を抱く。

 

「部屋にお連れしたほうがいいだろう」

 

 ルーカスが言うと、ティアはふるふると首を振った。

 

「ごめんなさい、私が悪いんです。私がここに来なければよかった……」

「何を言うの、ティア」

 

 ミーナが泣きじゃくるティアの手をギュッと握りしめる。

 それでもティアは申し訳なくて、ひたすら謝った。

 

「私が来たから、きっと公爵様もアドリアンお兄様も、ずっと我慢していたのに……私が、私が、悪いんです。きっと、この髪も……きっと、私の姿が気に障ったんです」

 

 目の前で繰り広げられた騒動に、ティアはすっかり気が動転していた。その脳裏には、晩餐前に行われた公爵との初対面の光景が浮かぶ。

 

 

「きっとティアは気に入られるよ」

 

 公爵との対面を控えて、緊張するティアにアドリアンは言った。

 

「僕の母上に似ているからね。最初は驚かれるだろうけど、きっと、お喜びになるだろう……」

 

 アドリアンは微笑んでいたが、その表情がどこか暗いことをティアは感じていた。きっと兄にとって、ティアのこの姿は、あまり好もしいものではないのだろう……とも。

 それでも励まされたことは嬉しくて、兄の言葉を信じて公爵との対面に臨んだが、いざティアを目の前にしても、公爵の顔に何ら変化はなかった。

 

「サラ=クリスティア様であられます」

 

 家令のルンビックからの紹介に対して、公爵の発した言葉は、ただ一言。

 

「そうか」

 

 ティアからの挨拶も、どんよりとした鈍い瞳で聞いていただけだった。

 挨拶が終了して軽く公爵が顎をしゃくると、そのまま退出を命じられた。

 一言も口をきいてもらえなかった。

 チラリと公爵の背後の壁に架けられていた女性の肖像画が見えたとき、ティアはすぐにそれが亡き公爵夫人だとわかった。兄からも聞いていた通り、鴇色(ときいろ)の髪の穏やかな笑顔の人だった。

 確かに自分と髪の色は同じであったが、とても似ているとは思えなかった。痩せっぽちの自分が、あんなに美しい人になれるわけもない。

 であればこそ、公爵である父は自分に失望したのだろう。髪の色だけ似ているのが、いっそのこと苛立たしいほどであったのかもしれない。

 それくらい公爵はティアに関心を示した様子がなかった。

 

 

 それだというのにティアの存在は父子(おやこ)にとって、()らざる対立を招いたのではないか。

 今まで蓋して穏便に暮らしていたのに、ティアが来たことによって、彼らの関係に(ひび)が入って、今こうして割れてしまったのではないのか……?

 

 ティアは泣き濡れた目で、粉々になったグラスの欠片を見ながら思った。

 やっぱりここに来てはいけなかった。

 自分はあのアールリンデンの館で ―― 陰鬱で、母の泣く姿が亡霊となっていつまでも染みつくあの家で、一人、小さく生きていかねばならなかった……。

 

 ティアは泣き続けた。泣いて泣いて、そのまま眠ってしまったことにも気付かないまま、夢の中でも泣き続けた……。

 

 

***

 

 

 北の塔の牢は、冷たく暗い、そこにいるだけで陰鬱な気分になりそうな場所だった。窓もなく、北向きのこの場所では、たとえ石の隙間から光がはいるとしても、弱々しいものだろう。ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎が一つあるきり。光から離れた隅の暗がりには、何かがいそうなほどに色濃い影が落ちている。

 

 オヅマはぺたんと壁際に座り込んでから、ごろんと横になった。

 今更だが、お腹が空いた。

 怒鳴ったからなのか、今まで知らず知らず溜め込んでいたものを吐き出したせいなのか、すっきりして腹が減る。我ながら暢気(のんき)なものだ。

 

 今頃、母は必死になって謝っているのだろうか。いや、ヴァルナルであれば、母を謝罪させるよりも前に、自分から頭を下げているのだろう。息子の無礼を許してほしいと。

 その想像をすると、少しだけ胸の奥に焦げたようなチリチリした痛みが走った。

 

 言い過ぎたのはわかっている。

 アドリアンに対する公爵の態度について注意したかっただけなのに、必要以上に責め立てた。しかもアドリアンを盾にして。

 

 本来、あの言葉を言いたかった相手は、公爵じゃない。

 本当に言いたかったのは、かつての養父・コスタスに対してだ。

 

 物心ついたときから、乱暴で傍若無人な、何ら父らしいところのない男であったが、それでもまだ祖母が ――コスタスの母 ―― が生きていた頃はマシだった。あの男も自分の母親にだけは、威張り散らしながらでも、息子として(いたわ)っていたから。元々、(ミーナ)を望んだのも、病がちになってしまった自分の母親の世話をさせるためだったという。

 祖母は優しくて、弱い人だった。

 どうしてあんな父が生まれたのかと不思議になるくらいだったが、祖母の夫 ―― コスタスの父 ―― も息子同様に横暴で身勝手な亭主であったらしいから、きっとコスタスはその父の悪いところを受け継いだのだろう。嫌なことがあったら、酒に溺れることも含めて。

 祖母が死んだ途端、コスタスは悲しさから逃げるように、毎日泥酔し、ひたすら酔い続けた。

 オヅマはほんの少しの、かけらのような期待をしたのかもしれなかった。

 コスタスがまともになることを。

 自分を息子として認めてくれることを。

 だから黙って耐えた。我慢した。殴られても蹴られても、いつかこの苦しい日々に、笑い声が満ちることを祈っていた。

 けれど……

 

 ―――― 我慢して、我慢して……誰かの為に、自分を押し殺して生きても、結局裏切られるのならば?

 

 その想像に、オヅマは固まる。

 それはもうずっと前に、オヅマにしみついた恐怖であり、底知れぬ諦めであった。

 ()()()()に、父としての情愛を求めること自体、愚かなことだ。

 そうして心は冷えて、凍って、やがて何も感じなくなる……。

 

「……はぁ」

 

 オヅマは大きく息を吐いた。わずかに感じる温かな吐息に、ホッとする。

 また()に引きずられそうだった。

 軽く額を叩いて、かすかに残るその恐ろしい感覚を追い払った。

 大丈夫。きっと大丈夫だ。母は生きてる。マリーも元気でいてくれる。それに……

 

「やぁ、いたな」

 

 コツコツと響いてきた足音に目を向けると、そこに立っていたのはアドリアンだった。

 




次回は2024.07.14.更新予定です。
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