そうしてカールがマッケネンに宛てた手紙は今、オリヴェルの手の中にある。
すべてを読んでから、オリヴェルは少し笑ってしまった。
カール・ベントソン卿は一応気を遣って、『それとなく』オリヴェルに知らせるように記していたというのに、預けた人間がマッケネンとオヅマであったので、もう
オリヴェルは立ち上がると、隅に置かれた机の
ミーナはこれを「お父上からのプレゼントですよ」と嬉しそうに渡してくれたのだが、貰った時から妙な気はしていたのだ。
白の文筥。しかも蓋には紫に色付けされた
その事をミーナに言うと、ミーナは苦笑して言い繕った。
「おそらく領主様はそうしたことは詳しくご存知でないのでしょう。若君の雰囲気に合わせた愛らしいものをお選びになったのだと思いますよ」
今にして思えば、ミーナは相当に鈍感だ。それともわざとわからないフリをしているのだろうか。
「なに? これが文筥ってやつ?」
オヅマはオリヴェルが持ってきた文筥をしげしげと眺める。
「なんかこれ…キラキラしてねぇ?」
「貝殻を砕いて作った塗料を塗ってるからだと思う」
「へぇ。なんかスゲーんだな。兵舎で見たのなんて、ただの箱にしか見えなかったけど」
「まぁ…贈り物だからね」
言いながらオリヴェルは、オヅマの薄紫の瞳と、蓋に描かれた菫を見比べる。
オヅマの瞳の色はミーナと同じだ。おそらくこの文筥を選んだ理由も、そういうことだろうと…オリヴェルは訳知り顔に笑みを浮かべた。
「じゃ、これは中身も含めてミーナに渡したらいいんだね?」
「おぅ、そうみたいだな。っつーか、母さんとマリーはどうした?」
「マリーは庭にお花を摘みに行ってくれたんだよ。ミーナは食事の下準備があるんだって」
未だにオリヴェルの食事だけは、ミーナが作っている。最近はマリーやミーナとも一緒に食べるので、オリヴェルの食欲もますます増していた。
「オヅマも一緒に食べればいいのに…」
「えぇ? だって、俺はこの後も一人で訓練する予定だし。あんまり腹に入れてると、動きにくい」
「そっか…」
オリヴェルは少しだけ寂しそうに返事してから、机の上に置いてあった
二ヶ月前の
「年が明ければ、多少は涼しくなります。気候が穏やかになるまでは、しばしお控えください」
ミーナだけでなく、マッケネンにまで頭を下げられてはオリヴェルも無理を通すことはできなかった。騎士達の邪魔になることだけはしたくなかったから。
それからはオヅマが気を遣って、頻繁にオリヴェルの部屋を訪れるようになっていたのだが、最近では二人ともすっかり
「ねぇ…オヅマ」
オリヴェルは盤の上の駒を動かしながら、それとなく尋ねた。
「ん? なんだ?」
「もし…さ…ミーナと、僕の父上が結婚することになったらどう?」
オヅマは返事をしなかった。
聞こえてはいたが、盤上に集中していて、オリヴェルの話が頭に入ってこなかった。
「オヅマってば!」
オリヴェルが少し強い口調で呼びかけると、眉を寄せて顔を上げた。
「なんだよ?」
「もしミーナと、僕の父上が結婚することになったらどう思う?」
「はぁ?」
オヅマは大声で聞き返してから、すぐに笑い出した。
「ハハハハッ! 何言ってんだ、お前? いくら母さんがお前の世話するようになったからってさぁ…」
言いかけてから、マッケネンが領主様が結婚すると言っていたことを思い出す。
「そうだそうだ。だいたい、領主様は近々結婚するらしいし」
「えっ!?」
驚いたのはオリヴェルだった。そんな話は聞いたことがない。ミーナに宛てて一緒に送られてくる手紙でも、そんな事は言ってきたことがなかった。無論、父がいちいちそんなことで、自分にお伺いを立てる必要はないが。
「そうなの? 本当に?」
「おぅ。らしいぞ。…って、聞いた。あ…でも安心しろよ。なんか優しい人だってさ」
「………そんなのわからないじゃないか」
オリヴェルは警戒した。
今の時期に父が結婚相手を選ぶということは、おそらく帝都にいる貴族の誰かだろう。田舎暮らしを敬遠した母のように、ここを臭いと言って出て行くことは大いに有り得ることだ。
「こんな田舎に喜んで来るような優しい人が都にいるとは思えないよ」
トゲトゲしく言うと、オヅマはあっけらかんと言った。
「あ、なんかな。俺も知ってる人なんだって」
「………へ?」
「誰なのかなぁ~? マッケネンさん、肝心なこと教えてくんないから…気になるよなぁ」
腕を組んで駒を見ながら、オヅマは考え込む。正直、今のオヅマの気がかりは、領主様の結婚相手のことより、あと一手でオリヴェルの守りを破れるか…ということだった。
しかし目の前のオリヴェルはもはや盤上の勝負にはさほど興味がない。オヅマの話を頭の中で纏めた後、おずおずと尋ねた。
「一応聞くけど…オヅマ、君、帝都にいたことないよね? 知り合いが帝都にいるとか…」
「あるわけないだろ。あんなとこ行きたいとも思わない」
吐き捨てるように言うオヅマに、オリヴェルは少し違和感を覚えつつも、その先を冷静に推理する。
どうやら父が結婚するかもしれない…ということを言い出したのは、マッケネンであるらしい。その上で、
「ねぇ、オヅマ。
オリヴェルは思いきって尋ねた。
「はいぃ? さっきからなんでそういうヘンなこと言うの? お前」
オヅマは想像もしないのか、オリヴェルを怪訝に見た。
しかし、オリヴェルは言い重ねる。
「ヘンなことじゃないでしょ。だって、オヅマも知っている人で、僕にも優しく接してくれて、父上と結婚するならミーナぐらいしか思い当たらないよ」
「………」
真剣な顔のオリヴェルに、オヅマはヒクヒクと頬を引き攣らせた。
そんな訳がないと思いつつも、オリヴェルの説明を聞いていると、実際にそうであるような気もしてくる。
その上でオリヴェルは例の文筥を指さして、オヅマに示した。
「この文筥だって、元はミーナに贈るものだったんだって…ベントソン卿も言ってきたじゃないか。こんな綺麗な文筥を贈るんだから、父上はミーナのことが好きなんだよ」
「はぁぁ!?」
オヅマは大声を上げた。
その時にちょうどマリーが入ってくる。
「ちょっとぉ…お兄ちゃん。うるさいわよ」
手にはラベンダーとマーガレットの花束が握られていた。マリーは慣れた手付きで、適当な大きさの花瓶にそれらの花を活ける。それからハイ、とオヅマに水差しを渡した。
「なんだよ?」
「この水差しに水入れてきて」
「お前な…」
「行ってきてくれたら、ソニヤさんから貰ったクッキーあげるから」
オヅマは不承不承ながらも無言で水差しを持って出て行く。
オリヴェルはホゥと溜息をついた。
「いつもながら…オヅマは本当にマリーに優しいよねぇ」
「えぇ? そうかなぁ…?」
マリーは首をかしげつつ、ポケットからクッキーを取り出した。ヒマワリの種と胡麻の入った香ばしいクッキーだ。
「ねぇ、マリー」
マリーから貰ったクッキーをかじりながら、オリヴェルは尋ねた。
「もし…ね。もしかして、ミーナ…マリーのお母さんと、僕の父上が結婚することになったら、どう思う?」
「えぇ?」
マリーにとっても寝耳に水だったらしい。驚いてゴホゴホとむせるので、あわててオリヴェルは自分のコップに入っていた水をあげた。
マリーは水を飲んで、ホッと一息つくと、コップとクッキーをテーブルに置く。
「ね、ね、ね、本当? 本当に、本当?」
キラキラと目を輝かせて聞いてくるマリーに、オリヴェルは安堵した。嫌がられるかもしれないと、ちょっと心配だったのだ。
「まだ…わからないけどね。でも、そうなったらいいと思う?」
「思う! だって、そうなったらオリヴェルはお兄ちゃんになってくれるんでしょ?」
すっかり舞い上がった様子で、マリーはオリヴェルの両手を握る。
「そうなるね」
「やったぁ!!」
ちょうどその時にオヅマが戻ってくる。マリーはぴょんとソファから降りると、オヅマに向かって走っていった。
「ねぇ、お兄ちゃん! 私達、きょうだいになるのよ!」
「あぁ?」
オヅマは聞き返しながら、水差しの水を花瓶に注いだ。半分まで注いだところで、水差しをベッドのサイドテーブルに置く。
「なに言ってんだ、お前は。元から俺らは兄妹だろうが」
「違うの! オリヴェルと私と、お兄ちゃんがきょうだいになるの!」
「…………」
オヅマは複雑な顔でオリヴェルを見た。その表情に、オリヴェルの不安がまた立ちのぼる。
「おい…いい加減なこと言うなよ」
「いい加減なことじゃないよ。オヅマだって…わかるでしょう?」
オヅマは拳を握りしめた。
オリヴェルが嘘や冗談で言っているのではないのはわかる。それにマッケネンのあの意味深な話も、オリヴェルの説明で納得できる。
しかも、今になってまたソニヤのあの予言が脳裏をかすめた。
―――――ミーナはいずれ領主様の奥方となるであろう…
オヅマは乱暴に首を振った。
有り得ない。絶対に、有り得ない!
「お兄ちゃん、嫌なの?」
マリーが下から不安そうに覗き込んでいた。
「嫌って……なにが」
「オリヴェルときょうだいになるの…嫌なの?」
オヅマはハッとしてオリヴェルを見た。マリーと同じような顔をして、じっとオヅマを見つめている。
「嫌じゃない。別に…オリヴェルときょうだいになるのが嫌とかじゃないけど…」
「じゃ、嬉しいよね!」
「………」
オヅマは唇を噛み締めた。本当にオリヴェルと兄弟になるのは、嫌じゃない。むしろ、嬉しいと言っていい。ただ…その前提として……
「俺は…父親はいらない」
オヅマはポツリとつぶやくと、オリヴェルの部屋から出た。
マリーはオリヴェルと目を合わせて首をかしげた。
「どうしたんだろう、お兄ちゃん。ご領主様のこと大好きなのに…」
◆
父親―――――。
オヅマにとって、それは忌避すべき存在だった。
コスタスにせよ…誰にせよ…
―――――さすがだ…オヅマ……
脳裏に見知らぬ男の声が響く。
途端に頭痛が走り、胸が引き絞られるように痛む。同時に訪れるのは吐き気がしそうなほどの嫌悪感と憎悪だ。
一体…この声の男は何なのだろう? できれば一生会いたくない…。
暗い顔で階段を下っていると、オリヴェルの夕食の下拵えを終えたミーナが上ってくるところだった。
「あら、オヅマ。若君に会いに来たの?」
「…………」
声をかけられて、オヅマは憂鬱に母を見つめた。
薄い金髪に、オヅマと同じ
コスタスと一緒であった頃から、ミーナは村でも美人で通っていた。それは知っていた。そのせいでコスタスがますます傍若無人になり、ミーナに寄ってきた男の中には、足の骨を折られてその後びっこをひく羽目になってしまう者もいた。
それからはミーナに迂闊に声をかける者はいなかったが、コスタスがいなくなった途端に、村長の息子のように狙う男共は多かったことだろう。
そのことも含めて、オヅマはあの村を出てこの領主館に来ることを選んだのだが、結局、母の美しさは誰の目にも止まるのだろうか。
オリヴェル付きの侍女となって以来、それらしい服を着るようになって、いつも身綺麗にしている母は、確かに清楚で美しい部類なのだろう。
オヅマはミーナの立っている踊り場まで降りてから、目の前の母を見て、ものすごく大きな溜息をついた。
ミーナが目を丸くする。
「どうしたの? 随分、疲れているみたいね」
「………母さん、一つ訊きたいんだけど」
オヅマは自分でもこんな質問をするのが嫌だった。しかし、ちゃんと聞いておかないと、この後の自分の気持ちの整理がつかない。
「まさかと思うけど、領主様と結婚する…とか…ないよね?」
ポカン、とミーナは口を開けたまま言葉を失っていた。目をパチパチと瞬かせた後で、プッと吹いた。
「な…何を言い出すかと思ったら……」
クスクスと小刻みに肩を震わせて笑う母の姿に、オヅマはようやくホッとなった。
「だ…だよねぇ?」
「当然でしょう? そんなこと有り得ないわよ」
ミーナはようやく笑いをおさめると、そっとオヅマの頬を両手で包んだ。
「私はここで働けて幸せよ。それで十分。オヅマのお陰ね、ありがとう」
今更ながらに言われて、オヅマは顔を赤らめた。
「俺も、ここに来てよかったと思ってる。母さんとマリーに…ずっと幸せに生きててほしいから」
ミーナはいきなり大層なことを言う息子を不思議に思ったが、軽くおでこにキスした。
「おかしなこと言ってないで。そういえば、勉強は進んでいるの?」
「あぁ……もういいや」
オヅマはあわてて逃げ出した。
階段をダダッと降りると、残りの五段をぴょんと跳んで、下に着地する。そのまま駆け去ろうとするオヅマにミーナが声を張り上げた。
「オヅマ! たまには一緒に食べましょう。若君も楽しみにしているのよ」
「うーん。また、雨になったらね!」
雨の日にはさすがに自主訓練もできないので、その時はミーナ達と夕食を食べることもあるのだ。
「待ってるわ」
ミーナは手を振り返し、跳ねるように走っていく息子を愛しく見つめた。
まだまだ子供だと思っていたら大人のような素振りをするし、大人だと思っていたら子供のようなことを言う。
振り子のように行ったり来たりしながら、オヅマは大きくなっていく…。
「そうね。まだまだ子供よね…」
願いを含んで、ミーナは小さくつぶやいた。
次回は2022年6月5日20:00頃の更新予定です。