昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第二百十二話 試験準備

 薄墨空(うすずみそら)の月を過ぎて、いよいよ本格的な冬となる遠陽(とおび)の月を迎えると、雪も深くなり、一年のうちでこの一ヶ月間だけは朝駆けもなくなる。レーゲンブルト騎士団は恒例の雪上野営に向かい、オヅマら近侍の面々は留守番を言い渡された。

 

 今回、一応表向きは小公爵アドリアンを始めとする近侍らへの(いまし)めとして、レーゲンブルト騎士団での特訓が言い渡されてはいたが、実質上は帝都のアカデミーに向けての学習が主な目的であった。

 

 こちらに来てからみっちりと、文字通り朝から晩まで授業が行われ、いよいよアカデミー試験まで半年をきる頃になると、教師らは学習の総括を終えてレーゲンブルトを去った。

 彼らは彼らで、次の家庭教師先を見つけるための就職活動もせねばならないから……ともっともらしい理由を言ってはいたものの、実際にはこれ以上雪が深くなる前に、この帝国最北の地から逃れたかったというのが本音のところだろう。

 

 現在はおよそ半月に一度のペースで、課題を送って添削してもらい、同時にまたたっぷりの課題を受け取って解いていく……という指導方法がとられている。

 普通の貴族の若君であれば、それで十分な試験対策と言ってよかった。よほどに品行に問題があったり、学習意欲が極端になかったりしない限り、貴族子弟は合格することになっているから。

 だが、グレヴィリウス公爵家においては、先の晩餐でも公爵が言っていたように、ただ入学すればよい、とはならない。

 

「なーんで一般試験まで受けないといけないんだよぉ」

 

と、テリィがこぼすのは、緑清(りょくせい)の月に行われる貴族子弟向け試験だけでなく、平民にも門戸が開かれた一般入試までも受験せねばならないからだ。

 こうした一般入試に臨む者達のレベルは相当に高かった。

 というのも身上書(しんじょうしょ)自薦書(じせんしょ)(あわ)せて、教師からの推薦書、アカデミー認定の各種試験の成績表、あるいは自主研究論文等の書類を送って認可を受けないと、受験資格すら与えられなかったからだ。

 

 この一般入試を受験することなく、公爵の言っていた『一葉(いちよう)をとる』ほどの成績を修めることは不可能だった。

 貴族子弟は優先的に入学できても、勉学における優劣については考慮されない。

 多くの場合、受験者の中で高等クラスと呼ばれる百位以内に入るのは、なべて一般入試における成績優秀者で、その上で『一葉をとる』のであれば、その中でも五十位以内の高等上位に入らねばならない。

 そのためアドリアンなどのように、貴族であっても実績を必要とする者は、一般入試を受けねばならないのだ。

 

「だったらもう一般試験だけ受ければいーじゃんかよー」

 

と、オヅマがげんなりして言うと、マティアスがいつもの鹿爪らしい顔ですげなく返す。

 

「馬鹿者。貴族子弟には専門の試験項目があるだろうが。キエル式礼法に、礼文辞(れいぶんじ)筆麗術(ひつれいじゅつ)は必須だ」

 

 礼文辞は貴族的なマナーに則った挨拶、儀典における文章のことで、手紙を書く際の初頭の時候挨拶などに代表される。筆麗術というのは、文字通り美しい文字を書く技術のことだ。

 

 オヅマはケッと吐き捨てた。

 

「……礼儀作法はともかくとしたって、字なんか読めりゃいいじゃねぇか」

「やかましい! 先生も仰言(おっしゃ)っておられただろうが! お前の書く字が下手くそなせいで下の者たちが読み間違えたら、領内の混乱を招くこともあるのだぞ! 古くは……」

「ハーイハイハイハーイ」

 

 大きい声で返事して、オヅマは早々に切り上げた。

 仕方なく筆写作業を続けるが、やっぱりまったくやる気がでない。同じ字を何回も何回も書いて、もうなんか字が虫か何かに見えてきそうだ。

 

「君らまで巻き込んですまないね」

 

 アドリアンは申し訳なさそうに言った。

 近侍らは必ず小公爵と同じ試験を受けねばならない。

 これはもうそういうものと、問答無用で決まっていた。アカデミー側が小公爵自身だけではなく、近侍らまで受け入れるにあたっての絶対条件と言ってよい。

 だから小公爵である自分がこだわらずに、貴族試験のみで良しとすれば、近侍たちの負担も減るのだ。

 そうとわかっていてもアドリアンには、一般入試を受けねばならない理由があった。

 それは公爵(ちち)からの命令という以上に、二番目の継嗣であるハヴェルもまた一般入試を受け、五十位には入らないまでも、そこそこの成績だったからだ。

 

「ハヴェル公子は何位だったんだ?」

「八十二位」

「うっわ、微妙。これでお前が七十位とかだったとしても、なんか威張れねぇな」

「当然、五十位以内だよ。それ以外、考えてない」

 

 アドリアンがめずらしく敵愾心(てきがいしん)剥き出しに言うので、オヅマは少しだけ驚いた。

 

「ははーぁ。なんかお前、小公爵様らしかったぜ、今」

「どういうことだよ、それ」

 

 アドリアンは苦笑しつつも、手を止めない。

 既に課題はやり終えて、今は試験とは別に、一般入試において提出する予定の小論文の資料に目を通しているところだった。

 

「もうなんか……お前のその資料とか見てるだけで吐きそう……」

 

 オヅマはうんざりしたように言ったが、アドリアンは五歳の頃から後継者教育を受けてきていたので、細かい文字で綴られた難しげな文章も慣れたものだった。

 

「そう? 僕のはわりと簡単だよ。幸いレーゲンブルトに来たお陰でテーマも決まったし。資料も豊富だし」

 

 アドリアンはこちらに来てから行政官などの案内で領地の視察もして、ドゥラッパ川の氾濫(はんらん)について調べることにしたという。

 定期的に起こるこの氾濫による被害と、反面、耕作における利点などについて、残された記録の比較や実地検分なども行った上でまとめるらしい。

 行政官も小公爵がこうしたことに興味を持ってくれたことが嬉しいようで、毎日のように資料を持って来ては、長いこと話し合っていた。

 

 この小論文はアドリアンだけでなく、マティアスやエーリク、テリィも提出することになっており、それぞれにテーマを決めて取り組んでいたが、帝国史について書いていたマティアスとエーリクは、思うように進まず嘆息する日々だった。

 

「ジーモン先生に聞いてなかったっけ?」

 

とアドリアンが尋ねたのは、オリヴェル付きの家庭教師のジーモン教授は歴史学の大家(たいか)でもあり、元はアカデミーで教鞭をとっていたので、きっと力になってくれるだろうと思っていたからだ。

 アドリアンらを教えていた教師らが去ったあと、歴史とルティルム語、それに数学については、それぞれオリヴェル付きの家庭教師にも勉強をみてもらっていた。

 

 だが、問われたマティアスはムッと顔をしかめた。

 

「そのジーモン教授が話にならないのです」

「なんだよ? 偏屈だけど、面白い爺ちゃん先生だぜ。アップルパイとアップルティー好きの」

 

 オヅマの中でジーモン教授は既にアップルティーのお爺ちゃんになっている。

 マティアスの顔がますます渋くなった。

 

「アップルティーについてはともかく、こちらが意見を求めても、まったく相手にしてくれないのです。挙句の果てには、正史を(ないがし)ろにするがごとき発言をして……エドヴァルド大帝のことも、呼び捨てになさるのですよ!」

 

 オヅマにはすぐわかった。

 最初の授業のときからそうであったように、ジーモンにとっては建国の英雄にして偉大なる大帝も「たかがエドヴァルド」であった。これは場所が場所なら、不敬罪でそのまま牢屋にしょっ引かれても文句が言えないくらいの非行だ。

 

 そもそも他の先生から教えてもらうようになってからわかったが、普通、歴史を現在から遡っていくような教え方はしないらしい。小公爵付きの歴史教師のオーケンソンはジーモンの弟子を自任していたが、こと教育に関しては、師の考え方とは違っていた。

 

「ジーモン教授の言っていることも(もっと)もなのですが、いかんせん、我らは小公爵様を始めとする皆様には、きちんとアカデミー試験が受けられる状態にもっていく必要がありますので……」

 

 要はジーモンの教育法は特殊で理想が強く、オーケンソンの方が普通で現実的であるのだろう。

 

「エーリクさんは? 確かエドヴァルドのザンラーム攻城戦についてだろ?」

 

 オヅマはもう一人、歴史を題材にして書こうとしているエーリクに尋ねた。

 騎士らしく、史実から戦術についての考察をしていくらしい。

 だが、エーリクもやや困ったように首を振った。

 

「いや。そちらはあまりにも語られすぎて、目新しくもないだろうから、どうせならばこの土地にいることを活かしたほうがいいと言われて……オルガス元帥の北伐(ほくばつ)でのレーゲンブルト城塞奪還について書こうかと」

「あぁ! そうだな。それだったら、そこらにいくらでも書けそうなこと転がってるだろ」

「オヅマ……いくらなんでも、崩れた城塞の石をスケッチすればいいってことじゃないんだよ」

 

 アドリアンは苦笑いしてから、エーリクに尋ねた。

 

「じゃあ、エーリクはジーモン教授から添削は受けてるの?」

「いや、それが……研究が忙しいみたいで、あんまり見てくれません」

 

 実のところ「あまり」というより、全くその方面の本についてすらも、教えてくれていないのだった。

 

「それは困ったな……じゃあ、僕のほうで頼んでみようか」

「えっ? いえ、それは……ご迷惑になるので結構です」

 

 エーリクは正直、学者のジーモンの偏屈さに辟易(へきえき)していたので、()の老人が小公爵であるアドリアンにすらも無礼なことを言いそうで、すぐに固辞した。

 

 だがアドリアンはエーリクの懸念を取り払うように笑って言った。

 

「いや、ジーモン教授じゃなくてね。ミラン行政官に紹介されたんだけど、このレーゲンブルトで、個人的に地元の歴史を調べている人がいるんだよ。けっこう詳しくて、本なんかも自費で出版されてるんだ。北伐についてもご存知だろうと思うし、一度話を聞くだけでも参考になると思うな」

「それは、願ってもないことです」

 

 エーリクはようやく論文作成の糸口を見出した気がして、有難くアドリアンの申し出を受け入れることにした。

 一方で、青い顔であったのはマティアスだった。

 

「……私のほうは、もう絶望的です」

「マティは課題と一緒にオーケンソン先生に添削を頼もう。大丈夫だよ、まだ時間はあるから」

 

 アドリアンは半年後に迫る試験に戦々恐々となっている近侍らを励ますように言った。もっともこの中で一番熱心に勉強しているのがアドリアンであるのは、自他共に認めるところであったが。

 

 ちなみに。

 まだ先の話ではあるが、ジーモン教授は結局、自分の研究に没頭するあまり、オリヴェルの授業内容についても不備が目立つようになり、そのことについてヴァルナルが苦言を呈すと、激昂して突如()めてしまった。

 困ったヴァルナルが次の教師を探す頃合いで、小公爵の家庭教師の職をなくしたオーケンソンが、アドリアンの推薦もあって、そのままオリヴェル付きの家庭教師となった。彼は師父としてジーモンを慕っていたが、彼の教授法を踏襲(とうしゅう)することはなかったので、オリヴェルはようやく基礎的な歴史学の講義を受けることになった。

 

 一方、オヅマは。

 

「小公爵様は川の氾濫について、マティはエドヴァルド大帝の建国過程と都市計画、エーリクはレーゲンブルト城塞の攻防戦、僕はルティルム語の成り立ちと変遷について。皆、忙しくやってるってのに、オヅマ、君は何してるんだ?」

 

 テリィの問いかけに、オヅマは「さぁ?」と首をひねる。

 

「さぁ? じゃなかろうがッ。いい加減、主題(テーマ)を決めてまとめていかないと、清書の時間もなくなるぞ!」

 

 やかましく言うのが誰なのかは、もはや言うまでもない。

 

「清書ォ? なに、そんなのもしないといけないのかぁ?」

「当たり前だろうが! 論文はアカデミー規定の原稿用紙(*けっこう高級)で提出のうえ、誤字脱字は減点対象なんだ! しっかり、きっちり見直さねばならん!!」

「へぇぇ~、タイヘ~ン」

「オヅマ・クラぁンツっ! その態度は何だあァァッッ!!」

 

 自分は関係ないとばかりに気のない返事をするオヅマに、マティアスの雷が落ちるのは、もはやお決まりの流れだった。予想していたアドリアンと他二名は既に耳を塞いでいる。

 

「おぅおぅ。これ以上、怒りん坊マティに怒鳴られちゃ耳が潰れちまう。では皆様、ご健闘をお祈りいたします~」

 

 雷を落とされた当人は、ヒラヒラと手を振って出て行った。

 

「まったく……あやつは何を考えて……」

 

 マティアスは腹立たしいのが八割、心配が二割くらいの気持ちであったのだが、当然ながらオヅマはそんなマティアスの心情など知る由もない。

 アドリアンは怒るマティアスをなだめた。

 

「まぁ、心配しなくてもいいよ。なんだかよくわからないけど、オヅマにはトーマスさんから特別問題が出されているらしいから」

「トーマス……というのは、時々、図書室にフラリとやってくる、()()身なりに問題のある男のことですか?」

 

 マティアスは話しながら、また眉間に皺が寄る。

 

 現在、黒角馬(くろつのうま)の原生種についての研究のため逗留(とうりゅう)しているという学者、トーマス・ビョルネ。

 彼は以前、オリヴェルとオヅマに数学を教えていて、アカデミーの俊英(しゅんえい)であるとは紹介されたものの、第一印象から良くなかった。

 大グレヴィリウスの若君であるアドリアンに対しても、まったく臆することもないどころか、ふてぶてしく、しかも自分の優秀さをひけらかすがごとき言動。身だしなみも西方民族衣装(ドリュ=アーズ)を着崩したようなだらしなく、おかしな格好。

 正直、ジーモンといい、トーマスといい、どうしてこんな()()()()()()()()人物を家庭教師になどしたのか……と、ややクランツ男爵の人物眼を疑いたくなるくらいだった。

 

 アドリアンはマティアスの表情で、だいたい何を考えているのかわかった。

 

「まぁ、色々と気になるところのある人だけど、頭がいいのは間違いないよ。あれで『賢者の塔』に在籍しているんだから」

「けっ……『賢者の塔』??」

 

『賢者の塔』。

 それはアカデミー……いや、正式名称であるところの『キエル=ヤーヴェ研究学術府』の象徴ともいうべきものだった。元々は数人の学者らの研究の場であったのが、いつしか豊富な知恵を求める者たちが集い来る場所となり、やがて塔を中心に(まな)()が作られていった。

 月日が流れても『賢者の塔』は、アカデミーにおける知の中心だ。

 その『賢者の塔』に入るということは、()()らに認められるだけの研究成果を出しているということだ。

 

 マティアスはトーマスが英明(えいめい)だとは聞いていても、そこまでとは思っていなかったので、さすがに驚いて、唖然と口が開きっぱなしになった。

 

 アドリアンは思っていた通りの反応に、クスッと笑って言った。

 

「そうだよ。彼に気に入られている時点で、オヅマなんて推薦で入れそうなものだよ。当人はさっぱりわかってないみたいだけど」

 

 

 さて一方のオヅマは、マティアスの小言から逃れて、そのトーマスのところへと向かっていた。

 

 黒角馬(くろつのうま)の原生種の生育環境について追加で調査するということで、再び帝都からこちらに来ていたトーマスは、以前研究班が根城にしていた東塔の一部屋に仮住まいしている。

 

 数人の研究班の面々と一緒にやって来たトーマスは、オヅマと再会した途端、ニヤニヤ笑って宣告してきた。

 

「よぉ、オヅマ氏。君、今年はいよいよアカデミーを受けるらしいじゃないか。しかも付随(ふずい)論文(ろんぶん)を送るんだって? 坊ちゃん……アドリアン小公爵様から聞いてるよ。そんな君のために、僕が問題を出してやろう」

「は?」

「どうせ君のことだ。あれやこれや調べ回って論文なんて書くよりも、とっとと答えの出るような問題をこなすほうが楽だろう?」

「まぁ、それはそうだけど」

「だろう? じゃ、明日から毎日、僕の部屋に来るように」

 

 ということで、オヅマは毎日一度トーマスの部屋を訪ねて、トーマスの出す問題をひたすら解くという謎の授業を受ける羽目になっていた。

 もっともトーマスが研究に没頭している間は相手してもらえないので、実際は毎日というよりも不定期ではあったが。

 

 廊下を歩いていると、トーマスの部屋から何やら怒鳴っているような声が聞こえてきた。

 

「いい加減にしろ! ()()僕を研究対象にする気か!?」

 

 オヅマは眉を寄せた。

 トーマスと似た声だが、トーマスではない。馴染みのある声……となると、可能性のあるのは一人しかいない。

 オヅマがその人物の姿を思い浮かべるのとほぼ同時にトーマスの部屋の扉が開いて、その人が現れた。

 

「ビョルネ先生……どうしたんですか?」

 

 オリヴェル付きの医者であるロビン・ビョルネが、険しい顔でギロリと睨みつけてくる。だが、すぐにオヅマだと気付いたのか、あわてたように無理矢理な笑顔をつくった。

 

「あぁ、いや。オヅマ……公子。すみません。少々、興奮してしまいまして」

「いや。兄弟ゲンカ?」

「ハハ……まぁ、そんなものです」

 

 ロビン・ビョルネは引きつった笑みを浮かべて去ろうとしたが、オヅマの横を通り過ぎたところで扉が開き、トーマスがヒョッコリ顔を出す。

 

「あー、ロビーン。せめてさぁ、本だけでも読みなって」

 

 ロビンはしばし固まってから振り返った。

 その額には青筋が浮かび、表情も再び剣呑としたものになっている。

 

「人の気も知らないで……」

 

 怒りを押し込めた声は小さかったが、トーマスには聞こえたらしい。

 ふてぶてしいくらいにのんびりと、トーマスが言い返す。

 

「そんなことないよー。俺はお前のことは、お前以上に知ってるさー。小さい頃からずっと、何であれば母さんの腹の中から一緒なんだからさー」

 

 わざとなのか間延びした口調で言うトーマスに、ロビンは瞬時に怒りが沸騰したようだった。

 

「あぁ……だから嫌いなんだよ! そういうところが大っ嫌いなんだ!!」

「おや、まぁ……ひどい言われよう」

 

 激昂するロビンに対して、トーマスは悠然としていた。その余裕綽々たる態度も、ロビンには業腹(ごうはら)ものだったのだろう。それでもオヅマのいる前だと思うのか、ブルブルと握りしめた拳を震わせて怒りを押し込める。

 

「そうやって人のことを決めつけてかかって……せっかくここに来て、平穏に過ごしていたっていうのに……お前が来たせいで、滅茶苦茶だ!」

 

 最終的には怒りを抑えられず、ロビンはトーマスに怒鳴りつけて去って行った。

 

「……怒られちった」

 

 トーマスはあれだけ弟から怒りをぶつけられても平然としたものだった。肩をすくめると、部屋に入っていく。

 オヅマも後に続いた。

 トーマスはロビンに渡そうとしていた本を、そこら中に積み上がっている本やら書類やらの上に適当に置いたが、すでに高く積み上がって崩れそうになっていたせいで、ドサドサと落ちた。オヅマは何気なく落ちた本を拾って、チラと表紙に目を落とした。

 

「『多面性理解の方策』……なに? また新しい研究?」

「うん? そうねぇ……」

 

 トーマスは思案しつつ、オヅマの持っていたその本を取り上げると、自分の頭の上に乗せた。そのまま器用に歩いて、いつも通り冷めた紅茶の入っている、大きなカップを手に取る。

 

「図形の本?」

「ハハッ、そうだな。ま、ある種、図形だよ。図形だと思って見たら、それもまた発見があるのかもね」

 

 トーマスは本を書棚に戻すと、「さて」と机に置いてあった一枚の紙をオヅマに渡した。

 

「今日の問題。例題読んで、解いてね。明日までに持って来て」

「うわ……証明かよ」

「苦手だよねぇ、オヅマ氏。いや、苦手というよりも面倒くさいんだよね、きっと。頭の中でどんどん進んでいくのに、手が追いつかないから、苛々しちゃうんでしょ?」

「そんなんじゃねぇけど。まぁ、面倒臭いのは面倒くさい」

「ま、お頑張んなさい。全部やりきったら、全部の解答をまとめて人物考査票と一緒に提出すればいいから」

「こんなんで、アドル達のやってる小論文の代わりになるのか?」

「なるんだよねぇ、これが」

 

 トーマスはニヤニヤ笑って、長い髪をまとめた三つ編みをいじる。

 オヅマはやや白けた目でトーマスを見て言った。

 

「そういう感じが嫌われるんじゃねぇの?」

「うん? ロビンのこと? 大丈夫だよ。あれはちょっとした癇癪(かんしゃく)みたいなもんだから。もっと困ってることは別なんで」

「……マッケネンさんのこと?」

 

 オヅマが尋ねたのは、ここに来てからというもの、トーマスはわかりやすくマッケネンに付きまとって、しかもちゃっかりヴァルナルにヘルミ山に同行する騎士として任命させたりしているからだ。

 前に、それこそさっきのロビンではないが、「職権乱用をするな!」とマッケネンにも怒鳴られていた場面に出くわしたことがある。

 

「あの人、温厚だけど……怒ったら本当に怖いんだぞ。あんまりフザけ過ぎないほうがいいと思うけど」

「おやまぁ、心配されちゃったよー。ま、大丈夫。ケンカするほど仲がいいって言うでしょー?」

「そういうのはね、当事者が言っちゃ駄目なんだよー。トーマス先生」

「ハハハ。それ、僕の真似ぇ? 上手だねー。誰かさんよりずっと……」

「はぁ? 誰かさんって……」

 

 オヅマが聞き返そうとすると、トーマスはぐいぐいとオヅマの背を押して、扉へと追いやった。

 

「ハイハーイ。今日のトーマス先生は終了致しましたー。明日のお越しをお待ちしておりまーす」

 

 いつもながら茶化したように言って、トーマスはバタンとドアを閉める。

 問答無用だ。

 こうして邪魔者を追い出したあと、それこそ何かに取り憑かれたように研究とやらに打ち込むのだろう。食事するのも忘れる勢いで。

 

「っとに……双子だってのに、こうも極端かね」

 

 オヅマはあきれたように言うと、トーマスからもらった問題の紙をピラピラ振りながら、学習室へと戻っていった。

 

 




次回は2024.09.08.更新予定です。
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