時間は二十日ほど前に戻り、帝都近郊ガルデンティアにて ――――
ランヴァルトはアドリアンに手紙を送ったあとに、ふと思い出して家臣の一人を呼びつけた。
「ベネディクト・アンブロシュ。お呼びと伺いまして、
大きな執務机の向こうに座っている大公ランヴァルトは、それでもしばらく声もかけず、何かの報告書を読み進めていた。キリのいいところまで読み終えると、顔を上げて、ベネディクトを見るなりフッと顔をゆるめる。
「あぁ、アンブロシュ卿。帰ってきたばかりで、わざわざすまぬ」
「いえ。大公閣下にご報告もございましたので、近々伺おうと思っておりましたゆえ」
「あぁ、コズンのことか」
ベネディクトは大公からの命を受けて、この数ヶ月、大公領のコールキアから旧イェルセン公国、そのままコズン王国まで巡歴していた。
「そうだな。詳しい話は会同の際にでも聞くが、ひとまず卿の見たところの感触はどうであった?」
ランヴァルトは立ち上がって、来客用のソファへと足を運ぶ。ベネディクトも促されて、ランヴァルトの前のソファへと腰掛けた。壁際に立っていた小柄な従僕がそっと出て行く。
「コールキアにおいては、閣下の
「アンブロシュ卿にはそのような権限などないものを……よほど切羽詰まっておるようだ」
「はい。彼らも必死なのでしょう。一度などは救済所にまでも
ランヴァルトはフッと頬を歪めた。
「アンブロシュ卿のいるときに襲うとは、運のない賊もいたものよ。奴らの背後は?」
「一応、取り調べましたが、特に問題ある繋がりはないようでした。貧しさゆえ、徒党を組んで物品のあるところを狙っていたものと思われます。その後、
「それは
ランヴァルトが頷いたところで、コツコツと扉の打つ音がする。そのまま
ランヴァルトは一口珈琲を含んでから、話を続けた。
「コズンについては?」
「王は病によって威権が弱まり、宰相ヒビデオ=ル・ムサイの影響が王宮内において強くなってきております。首都ジャレドゥの界隈においても、そのうちクーデターが起きるのではないかという噂がございます。本来であれば、王太子が摂政として王に代わって政務をすべきところですが、
「素行に問題のある息子だとわかっていて廃位せぬのであれば、先の孫に望みを託したいといったところか」
ランヴァルトが先を取って言うと、ベネディクトは驚いたように顔を上げてからクスリと笑った。
「さすがはご慧眼にございます。王太子の長子であられるボホルド=ア=デンン王子は、父とは違って聡明な方でいらっしゃいます」
「その言い方であれば、会ったのか?」
ベネディクトはまるで心を見透かしたかのように相槌を打つランヴァルトにやや驚きつつも、もはや主の非凡なることは当然であったと納得して頷いた。
「一度、お忍びでコズンに開設した救済所にもいらっしゃいました。『祈りの手』の活動をご覧になられて、大層感銘を受けたようで……お手ずから
「年はいくつだ?」
「本年、十五歳と聞き及んでおります」
「十五か。……二年は待つかな」
ランヴァルトのつぶやきに、ベネディクトはしばし考えた。二年後といえば、ボホルドが成人となる。
「王子の成人を待って、コズン王が譲位なさるとお考えでしょうか?」
ランヴァルトは返事せず、かすかに笑うのみだった。珈琲をまた一口含み、急に話を変える。
「ところで一つ聞きたいことがあって、卿を呼んだ。確か卿は先年、レーゲンブルトに行っていたな?」
ベネディクトはいきなりまったく違う話題になって、多少戸惑いつつも頷いた。
「はい。
「では領主のヴァルナル・クランツにも会っておろうな。そういえば、一度手合わせをしたとも言っていたな」
「はい。『
「あぁ、そうだ。私もリヴァ=デルゼとの立合の際に触れたことがある。
「左様でございますね」
ベネディクトは傲慢な女戦士を脳裏に浮かべ、やや冷淡に返事した。同じ
「そこで、クランツ男爵の息子には会ったか?」
「クランツ男爵の息子……ですか?」
ベネディクトはしばし考えた。
確か病気がちで、ほとんど館にいるという話だった。もしかすると晩餐に招かれた際にでも顔を合わせたかもしれないが、あまり印象はない。
「申し訳ございません。会ったやもしれませんが、あまり覚えておりません」
「おかしいな? クランツ男爵の新たな息子は、相当に腕が立つと聞き及んでいるのだが」
ランヴァルトに言われて、ベネディクトはすぐに思い至った。
「あぁ! あの小僧……あ、いえ、そうでした。確かにあの少年も息子となったのでしたね。申し訳ございません。私が最初に紹介されたときには、まだ見習い騎士ということでしたので」
「名前は知っておるか?」
「はい。確かオヅマと申しておりました。クランツ男爵と手合わせしたときに、男爵からの頼みで、彼とも一度立ち合っております」
「ほぉ」
ランヴァルトは楽しげに頷いてから、軽い調子で尋ねた。
「どうであった? 卿の感触では」
「さすがは男爵の秘蔵っ子というだけあって、なかなか
「そうか。……それで実の息子は病弱である故、男爵もその子を正式な息子としたかったのだな。わざわざ身分違いの女を妻としてまで」
単純な養子となるよりも、その子の母と婚姻を結んだ上での子となれば、嫡出子とみなされ、当然、相続と後継の権利を得ることにもなる。貴賤結婚においては、多くが何かしらの目論見があってなされることが多いため、ランヴァルトの推測はいわば一般的な見解としては当然のことだった。
だが事情を知っているベネディクトは苦笑して、やんわり否定した。
「いえ、確かにオヅマ少年の才能に惚れ込んで……という部分があるのは否めませんが、それ以上に男爵においては、オヅマ少年の母親のことがお気に召したようですよ。以前に報告致しました、あの不行状を働いた行政官 ―― ギョルムでしたか……あの件においても、相当な怒りようでしたから」
その名前から連想される一人を思い浮かべて、ランヴァルトはあきれたように吐息をもらした。
「ソフォルの
ギョルムの伯父にあたるソフォル伯爵は、地位はただの侍従長であるが、皇帝からの信任厚く、いまや宮廷内において
「確かにギョルムの罪はファトム使用による職務
「
嫌悪も露わなランヴァルトの言葉に、ベネディクトは頷いた。
「幸い、
「成程。つまり卿が見るところ、クランツ男爵が身分卑しき女を妻として迎えたのは、才ある息子欲しさだけではなく、その女自身にも執着があったということだな。存外、
ランヴァルトが
「ところでどうしてクランツ男爵の息子のことを?」
「あぁ。
「シモン公子に?」
ベネディクトはすぐさま頭の中で、オヅマとシモンの姿を思い浮かべ、あぁ……と得心した。
「確かに……似ていると言われれば、そうですね。
ベネディクトは慎重に言葉を選んだが、ランヴァルトはにべなく言い捨てた。
「あれは豪放ではなく、無能無策ゆえの空回りというのだ」
「……厳しゅうございます、閣下」
ベネディクトは苦笑いであったが、否定もしなかった。
ランヴァルトが軽く手を上げる。会話の終了を告げる合図であった。
ベネディクトは立ち上がると、再び恭しく礼をして立ち去ろうとしたが、扉を開いたところで呼び止められた。
「そういえば、アンブロシュ卿。そのクランツ男爵の新たな妻の名前は知っているか?」
「は? 確か……ミーナ、という名であったと記憶しております」
「…………そうか」
返事に少しだけ間があったが、ランヴァルトの態度に変化はない。
ベネディクトはしばし立ち尽くして、
扉がパタンと閉まると、ランヴァルトからスッと表情が消える。
ややあって、ベネディクトが出て行った扉の斜め向かいにある扉から、ヴィンツェンツェが現れた。
「ミーナとは……さても
ヴィンツェンツェはニタリと笑って、ランヴァルトを見上げたが、主の表情は変わらなかった。
ランヴァルトはしばらく何かの様子を窺うように沈黙して、ややあって静かに言った。
「先程の従僕、近いうちに連絡をとるであろう」
「おや。鼠でしたか」
「この前からやたらと探り回るのがいると思ったら……。ヤーヴェの
「御意」
ヴィンツェンツェはそれだけで主の意図を察して、早速、
二日後の夜、従僕は大公の第二夫人であるビルギットの使いと言ってガルデンティアを出たところで、ある女に呼び止められた。
「誰と会う気かな? 従僕殿」
従僕はまともに応戦もできなかった。
背後で酒焼けした
女は従僕を悠々と片手で持ち上げ、
「畏れ多くもこのガルデンティアの中で嗅ぎ回って、大公家の秘密を盗もうとは……大胆なる盗人もいたものだ」
と、いかにも愉しげに話す。
セピアの瞳は久しぶりの獲物に、舌舐めずりせんばかりの獰猛な狂気を帯びていた。
「あ……あぁ……」
従僕はまさしく猛獣の前の家畜に等しかった。助けを乞う間もなく壁に叩きつけられ、気を失った。
その後、その従僕(になりすましていた者)がどのようにして真相を話すに至ったか、
最終的にヴィンツェンツェから報告を受けたランヴァルトはつぶやいた。
「鹿のほうであったか……。今頃になって
「よき
ヴィンツェンツェはいつものごとく
「やはり爺めの申す通り、あの娘の孕んだのは閣下の
「…………」
ランヴァルトは黙した。
暗い翳りを帯びた紫紺の瞳に、苦いものが
「さて、さて。せっかくの有難い
ヴィンツェンツェは不気味な笑みを貼り付かせてランヴァルトを見上げた。
「急がずともよい」
ランヴァルトは無表情に言った。
「仔鹿(=アドリアン)の近侍となっておるのであれば、いずれ二人同時に手に入る。いらぬ手出しすれば、あちらも何かと反発してくるであろう。そのためにこそ、先々のことを考えて手を打っておるのであろうからな」
クランツ男爵との結婚も含め、新たな息子を近侍にすること、男爵夫人となったミーナを公女の世話係として後見の役目を与えたこと。これらは既に内外に発表されていることだ。この既定事実を無視して、こちらの権利を主張すれば、公爵家側も黙ってはいない……という暗黙なる警告だ。
「グレヴィリウスと我らが争って喜ぶは
言ってから、ランヴァルトは急に襲ってきた頭痛にうっと顔をしかめた。両手で頭を押さえつけて、しばらく痛みに耐える。こめかみを強く押す親指の爪先は皮膚を破き、血が一筋、腕を伝った。
「…………最近、また痛みが
ヴィンツェンツェは
「近きうちに再び手術を……」
「いらぬ!」
ランヴァルトはヴィンツェンツェの言葉を遮り、長く、ゆっくりと息を吐いた。痛みが徐々に緩やかになっていく。ゴロリと寝台に横になると、スルスルと白い蛇が天蓋の柱を伝って降りてきた。
ヴィンツェンツェは無表情に主を見ながら尋ねた。
「では、レーゲンブルトはあのままに?」
「そうだな……」
ランヴァルトはしばしぼんやりと天蓋裏の幾何学模様を見つめてから、ポツリと言った。
「一度、確かめさせてもよいかもしれぬ。本当に使える
「では、またリヴァ=デルゼでも行かせましょうか?」
「いや、アレは騒ぎを作る。それよりも……」
胸を這う蛇を撫でながら、ランヴァルトはうっすらと嗤った。
「……ちょうど面白がりそうなのがいる」
次回は2024.10.27.更新予定です。