「お前自身を護るものだ」
そう言って差し出された銀色の液体。
つやつやと光を浮かべたそれは、ひどく
他の人間に勧められたものであれば、その液体が入ったゴブレットを持つことすら、ためらったことだろう。
だが今、目の前にいるのは、誰よりも尊崇する人であった。本能が危険と知らせても、無視するだけだ。
「有難く、頂戴いたします」
恭しく受け取って、一気に呷る。グラリと視界が歪んだ。
「ヒャッハハハハハ!!!!! チビッコ騎士様が飲んだわいのォ! 飲んだわいのォ! 清き毒が巡る、巡る、巡る、巡るゥゥゥゥ~」
道化がオヅマの周囲を跳び回って踊り出す。
忌々しい道化。
いつも主君の側に付き従って、離れない
昨日、確か怒られて両足を斬られていたはずなのに……いつの間に足がくっついたんだ……?
だんだんと意識が混濁してくる。
―――― 道化が回る。
吐き気がしてくる。
―――― 道化が回る。
頭が痛い……。
―――― 道化が回る。
痛い、痛い、痛い……。
―――― 回る、回る、回る……。
こんな道化のことなど考えたくないのに。
苛立たしいだけの存在。
消えろ。消えろ。消えろ……。
「お目覚めになりましたかな?」
本城に与えられた一室でオヅマが目覚めると、道化が立っていた。
水をいれた木の椀を差し出してくる。
オヅマは道化を睨みつけながらも、受け取った水をゴクゴク飲み干した。どれくらい眠っていたのか、喉がカラカラだったのだ。フゥと一息ついてから、異変に気付く。
「あ……う……」
喉が、熱い。
焼けているかのように、熱くて、痛い。
カランと椀が床に転がった。
オヅマは喉元を押さえながら、よろよろと立ち上がる。
「なに……を……」
「ホゥ、ホゥ。これはこれは、この毒を
「ど……く……?」
オヅマはかすれる声で問うた。
道化の首を掴もうとして、スルリと避けられる。
オヅマはバタリとその場に膝をついた。
「グッ……」
必死で吐き出そうと喉を絞る。だが上手く出来なかった。ゴホゴホッと激しく咳き込むと、道化がまた笑い出す。
「ヒャッハハハハッ!! 毒が巡る、巡る、巡る、巡る~ゥ。さぁて……生きるやら、死ぬやら。死ねば間抜けと
愉しげに道化が歌って、四つん這いになったオヅマの周囲を回る。
冷たい床の上についた両手の先、爪の色が黒く変わっていく。
何かが這っているかのように背中あたりがムズムズする。
吐き出す息が熱い。
火を吐いているかのように。
自分で自分が恐ろしい。
まるで全く違う生き物になったかのように思える。
「やめ……ろ……この……」
やかましく鈴を鳴らして自分の周りを跳びはねる小さな道化が苛立たしかった。引っ捕まえてやろうと思っても、伸ばした手は虚しく空を掻き、ペタリと床に落ちる。
惨めに藻掻くオヅマを見て、道化がまたけたたましく大笑いした。
「クソ……道化……」
オヅマは悪態をつきながら、ドサリと冷たい床の上に倒れた。
額に触れるひんやりとした感触。
その心地よい冷たさに、フワリとオヅマは目を覚ました。
ボンヤリとした視界に、穏やかな微笑を浮かべた
途端に安堵が押し寄せた。
「閣下……」
呼びかけて、喉の痛みや熱が消えていることに気付く。あれほどに苦しかったのが嘘のように、少しさっぱりした気分だ。
「よく頑張ったな、オヅマ」
額に乗せた手が、柔らかくオヅマをいたわってくれる。
一瞬だけ、オヅマはその優しさに甘えた。
そっと目をつむって、主君の硬く大きな手の感触を確かめる。
だがすぐにその手は額から離れた。
オヅマは再び目を開き、目の前にいる人に問うた。
「あれはどういうことですか? 道化は毒だと言っていました」
「あぁ……最初から少しキツめのものを与えられたようだな。ヴィンツェもお前には期待をかけておるのであろう」
「ヴィンツェ……?」
「あの道化はヴィンツェンツェという名だ。覚えておく必要もないが……これから、お前の世話もしてもらうことになる」
主君の言葉であれば無条件に従うのが常であるのに、そのときのオヅマには道化のけたたましい哄笑が脳裏に残って、今も甲高い声がいやらしく鼓膜を引っ掻いていた。
「……
眉を寄せて、きっぱりと断るオヅマに、
「オヅマ。私はお前に、与え得る最高のものを与えたいのだ。地位や財産などといった軽薄なものではない。誰もが手に入れようとしても、手に入らぬ……特別なものだ」
「そのために、ヴィンツェの試練を受けろと?」
「……嫌か?」
「…………」
「嫌ならば、無理は言わぬ」
優しい言葉であるはずなのに、それは冷たい刃のように、オヅマの忠誠を刺した。
途端に息が荒くなり、心臓が激しく鼓動を打つ。
オヅマはあわてて主君の服の端を掴んだ。
「閣下……ランヴァルト閣下、お願いです。見捨てないでください」
「何を言っている?」
主君 ―― ランヴァルトはやわらかく微笑み、いつものように囁きかけた。
「私は決して、お前を見捨てはしない。案ずることはない、オヅマ」
その言葉が本当に信じられるのであれば、オヅマは拒否できただろう。
毒を服み、苦しみながら、自らの肉体を作り変えていくことは恐ろしかった。自分が削り取られていくようで……。
だが結局、オヅマは受け入れた。
それがランヴァルトの望みであるのならば、オヅマの為になるのだと、あの人が言うのであれば、疑問など持つ必要もない。
「ハハハァ~ハァ~。やれやれ。ご主人様はわずか六つの時分から清毒を入れられたというのにのォ~。お前なぞ、地べた這う虫のごとき、卑しくもしぶとい、醜い、浅ましき、半端モノが……。や~れ、やれやれ……なんとも情けなや。この程度でヒィヒィ哭きわめきよる」
再び毒を服まされてのたうち回るオヅマを、ヴィンツェンツェはいかにも汚らしいものであるかのように見下ろし、嘲弄する。
オヅマはギリッと歯軋りして、熱い息を吐きながら
「……誰が……泣いて、なんか……ない」
「たわけ! みっともなく声上げて、哭くを言うぞ! えぇい、この馬鹿め。阿呆め。暗愚め。
毒で身動きが取れぬとわかっていて、ヴィンツェンツェは絶え間なくオヅマを鞭で打ち据え、ひどい言葉で責め立てる。うち続く誹謗と侮言、痛みが、徐々にオヅマの気力を奪っていく。
こんな小男相手に、項垂れている自分が情けなかった。
所詮は虎の威を借る狐に過ぎない小物。
それでもオヅマはこの
***
「つらかろうな……オヅマ。なれるまでの間ぞ」
ヴィンツェンツェの試練は拷問でしかなかったが、毒を服用して休んでいる間にランヴァルトとわずかに話すことができる時間は、オヅマにとってかけがえないものだった。
日頃、大公としての職務や皇宮での行事、領地視察などで忙しい彼と、一介の騎士見習いでしかない自分が、ゆっくり話せることなど滅多にない。だが、どんなに多忙でも、それこそ遠方の領地視察から帰ってきたその日であっても、ランヴァルトはオヅマが試練に耐えた日には必ず来てくれた。優しい言葉で慰め、ねぎらってくれた。
「あともう少しだ。身体が耐性を持てば、そうも苦しむことはなくなる。いずれ心地よき刺激にすらなるだろう……」
その言葉は同じ苦しみを味わった者にしか言えないものだった。
ヴィンツェンツェに
「閣下も……
「……あぁ」
やや間があって答えたランヴァルトは、視線を伏せ、苦い微笑を浮かべる。
オヅマは思わず怒鳴った。
「誰が?! 誰が、こんなものを閣下にッ」
「怒らずともよい、オヅマ。もはや昔のこと……言うても詮無きことよ」
「でも、俺だってこんなに苦しいのに! 閣下はまだまだ小さくていらしたのに!!」
「……優しいな、オヅマ。お前はきっと
落ち着かせるように、ランヴァルトはオヅマの頭を軽く撫でる。そうして手を離すと、ふっと無表情になった。
「
「…………」
固まって言葉を失うオヅマの前で、ランヴァルトは淡々と話す。
「自ら腹をいためて生んだ子が、死なぬようにと……母の
そう言って、ランヴァルトは視線の先にある可愛らしく装飾された小さな瓶へと目を向けた。そこにはアーモンドの
「母親が、なんで……そんなこと……」
オヅマは信じられなかった。
母は ―― ミーナは、絶対にこんな苦痛を子供に与えるようなことはしない。
あの日、
だがランヴァルトにとって、実母に毒を与えられていたという事実は大したことではないようだった。
「仕方がない。
薄い微笑を浮かべて話すランヴァルトを、オヅマは痛ましげに見つめた。
どれほどの苦難の末に、この人はこの寂しい笑みをたたえるまでになったのだろう……。
だがランヴァルトはオヅマの憐憫を必要としない。
「今は砂糖菓子をもらわずとも、皇宮に行けば
皮肉げなつぶやきに侮蔑と嫌悪が混じる。
現皇帝・ジークヴァルトは、ランヴァルトにとって忠誠を誓った唯一の相手であったが、それが表向きの関係であることは、誰もが知るところであった。
わかりやすい例でいえば、呼び名。
ランヴァルトの正式なる姓名はランヴァルト・アルトゥール・シェルバリ・モンテルソン。
本来であればモンテルソン大公と呼び習わせるのが通例であったが、人々は彼をランヴァルト大公と呼んだ。気さくに名前で呼んでもらいたい……というのは方便で、実のところは皇帝より与えられた『モンテルソン』の名を嫌ってのことだ。
『モンテルソン大公』は、ランヴァルトがそれこそ現皇帝擁立のために掃討した後継者候補の一人だった。自ら殺した男の名、しかも一時的にであれ、その名は逆徒として史録に記載されている。そんな汚名のついた姓を冠することは、誇り高いランヴァルトにとっては恥辱であったのだろう。
また、騎士にとって最上の名誉である黒杖を与えられたことも、ランヴァルトにとっては忌々しいことだった。
騎士とは主君に仕えるもの。
皇帝がランヴァルトに黒杖を下賜するということは、すなわち皇帝配下の騎士であると周知させるも同然であった。
後継争いに巻き込まれぬために、ジークヴァルトの配下となることを了承はしたが、当然それは忠誠によるものではない。ジークヴァルトもわかっていればこそ、あえてランヴァルトに黒杖を与え、新皇帝としての威権を示したのだった。
「栄誉というは、与えられた者を祝しているのではない。与える者の権威を示すために作られた、まやかしの賞賛に過ぎぬ」
以前、オヅマが憧憬をこめて黒杖の騎士の話をしたとき、ランヴァルトは冷たく言い放った。
オヅマにとって皇宮は遠い世界だった。
そこに暮らす人々は、それこそ雲の上に住む隔絶した存在だった。
彼らは飢えも寒さも知らず、花に囲まれた美しい場所で笑顔に満ちた日々を送っている。
そのことを羨望することもなかった。
けれどランヴァルトからの話を聞く限りにおいて、彼らの多くは ―― 最も人格者であるべき皇帝ですらも、冷たく無情であった。まして実母までがそうであるならば、どうしてランヴァルトがこんなにも優しい人柄であるのか、不思議なほどだ。
「……母もいまや痴呆となって、息子の顔すら忘れたようだ」
自らの惨めさを嘲るように、ランヴァルトは皮肉げにつぶやく。
オヅマにはランヴァルトが孤独に見えた。
「俺は……僕は、閣下のそばにいます。ずっと。必ず閣下のお役に立てるよう……閣下を守れるように、頑張ります!」
オヅマが宣言すると、ランヴァルトは嬉しそうに笑った。
「あぁ……。お前が私の傍らにいてくれるのであれば、これほど心強いことはない」
その言葉を聞いて、オヅマは自らに誓った。
自分は必ず強くなり、この人の
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