昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第二百三十二話 帝都を前に

 

  ―――― オヅマ……おかえり……

 

 懐かしい声は、胸が痛くなるほどの愛着と同時に、ひどく気分が悪くなる。

 どうして自分がこんな気持ちに陥らなければならないのかと思うと、歯痒さと苦しさと苛立ちが募り、意味もなく憎しみがあふれ出しそうになる。

 とうの昔に消えたはずの感情だ。

 もはや思い出すことなどなかったはずの感情だ。

 それなのに、まだ、しつこく呼びかけてくる。

 

 

  ―――― オヅマ……待って……る……

 

 

 知らない。待つ者などいない。

 帝都など知らない。なにひとつも。

 消えたんだ。

 すべては消えた。

 あぁ ―――

 それなのに、どうして。

 また、手を伸ばそうとしてしまうのか…………

 

 

 

 

「…………」

 

 誰かの名を呼びかけて、ふと、オヅマは目を覚ました。

 

 まだ天幕の向こうに朝日の光はない。夜明け前なのだろう。川べりに住まうアオサギのギャーと鳴く声が遠く聞こえてくる。

 オヅマはしばらく闇をボンヤリと見つめてから、ゆっくりと起き上がった。寝ている間に泣いていたのか、目の端から耳へと流れた涙で、少しだけ耳元の髪の毛が濡れていた。なんとなく恥ずかしい気もして、ゴシゴシとこする。

 

 長い吐息をついたのは、自分でも整理できない奇妙な気分を少しばかり落ち着けたかったからだ。ゆっくりと今の夢(のようなもの)について考えようと思ったのに、意識がはっきりしてくると、もはや茫漠としたものになってしまった。ただ、胸苦しさだけが残る。

 

 オヅマは頭を振ると、椅子に放り出してあった狸の毛皮のベストを着た。

 ラディケ村にいたときに世話になった、薬師(くすし)の婆の形見だ。

 正直、あれだけ薬草の採取を手伝ったわりに、死に当たっての遺産がこれ一つとは、まったくケチな婆だ、と当時は文句を言っていたが、今となってはあの婆が教えてくれたことはとてつもない財産となっている。金目のものはほぼなかったが、あの婆の教えが役に立ったことは多い。黒角馬(くろつのうま)のことも含め、あの北の山々の生態系などにも詳しく、昔の話もよくしてくれた。

 

 考えてみればあの婆は結局いくつであったのだろう?

 後になって歴史で学んだ百年以上前の戦のことについても、まるで昨日あったことのように語っていた。オヅマが知り合ったときには既に年寄りで、年寄りのまま死んでいったから、結局あの薬師の婆がいくつであったのか、判然としない。

 

『まぁ……どうせ聞いたところで、素直に教えるはずもない……』

 

と思うのは、あの婆のひねくれた性格をわかっていたからだ。

 

 口の達者な頑固者で、当人も偏屈なことをわかってか、村外れに住んで、進んで人と交わることもなかった。ただ、薬師としての腕は良かったようで、薬を求めて隣の領地から山を越えてやって来るなんてこともあった。それなりの信用はあったのだろう。

 オヅマをこの婆に引き合わせたのは、亡くなった血の繋がらぬ祖母 ―― 養父であるコスタスの母 ―― だった。

 

 オヅマはまったく覚えていないが、物心つく前の幼い時分、寝ているときに「頭が痛い」と泣いて起きることが頻繁にあったのだという。針子の仕事や家事に忙しい母親(ミーナ)の代わりに、祖母がオヅマを薬師の婆のところへ連れて行ってくれた。二人は長年の茶飲み友達で、気安い仲だったようだ。

 

 だが薬師の婆は、初対面であったはずのオヅマを見て、ひどく動揺していた。どんな顔をしていたのか今はもうはっきりと思い出せないが、そのときに言われた言葉は、あの家の独特の香りと共に、オヅマの記憶にしっかりと残っている。

 

 

  ―――― 懐かしや……オヅマ……

 

 

 オヅマはおそらく首を傾げただろう。今でも思い出しては首をひねる。

 記憶は続き、祖母もまた不思議そうに婆に問いかけていた。

 

 

  ―――― おや? ■■■さん、オヅマのことを知っていたのかい?

 

 だが薬師の婆は、皺の間から覗く小さな眼を懸命に見開いて、じぃとオヅマを見つめた後に、ゆっくりとその目を(すが)めて言った。

 

  ―――― あぁ……。いや、違う。ちょいとばかり昔のことを思い出したのさ。似たのがいてね。名前? あぁ、そうだね。偶然、同じ名前だったかねぇ? 不思議なこともあるものさ……

 

 

 婆の勘違いであったと ―― そのときはそれで終了した。

 だが、あの婆のことを思い出すと、なんだかおかしな気持ちになる。

 婆が時々オヅマを見つめるとき、いつもオヅマではない違う何かを見ているかのようだった。オヅマがそのことを尋ねても、笑ってはぐらかすばかり。

 そういえば……今の思い出の中においても、あの婆の名前は分からずじまいだ。いつも「婆さん」とぞんざいに呼んでいたからだろうか。聞いたような気もするが、まったく思い出せない。

 

 

  ―――― 心配しなくてよいさ、オヅマ

 

 

 そう言って、薬師の婆はリウマチの強張った手でオヅマの頭を撫で、簡単な薬湯を作ってくれた。それが効いたかどうかはわからないが、原因不明のオヅマの頭痛は治った。その後も祖母に連れられて、祖母が死んでからは一人で、婆の家を訪ねるようになった。

 

 干した薬草の匂い。

 時々淹れてくれた不味(まず)いカモミールティー。

 立て付けの悪い寝室のドアはいつも少しだけ開いて、ギィギィ鳴っていた。

 

 

  ―――― お前がここにいることは、きっと主母神(サラ=ティナ)(おぼ)し召し…………

 

 

 今、こうしてやけにあの婆のことを思い出すのは、らしくもなく気分が落ち着かず、夜明け前の中途半端な時間に起きてしまったからだろうか……?

 

「なにを今更……ビビッてんだよ」

 

 オヅマは自分に苛立った。歯噛みしながら穹廬(テント)を出ると、ちょうど雲間から青白い月が出てきて、辺りを白く照らす。

 

 オヅマはフゥと息をついた。

 帝都に入る為の北大門(サザロニアーザ)がもう近い。

 明日……いや、今日にはあの門をくぐって帝都に入る。

 もう十分に覚悟はしていたはずなのに、こうして起き出してしまうほどに、やはり自分はどこか浮き足立っているのだろうか。

 

「情けねぇ……」

 

 バシリと両頬を打って、右手を流れるテュルリー川のほうに目を向けると、同じように一人夜中に起き出して歩いている酔狂がいる。オヅマは少し迷ってから、その人物に近寄った。一応、歩きつつ腰の剣を確かめる。だがすぐに、それが必要のない相手だとわかった。

 

「ビョルネ先生! 何してんのさ、こんな時間に、こんなところで」

「うわぁっ!!」

 

 いきなり声をかけられたロビン・ビョルネ医師は驚きのあまり思わず大声を出したが、月の光で、そこにいるのがオヅマだとすぐにわかったらしい。

 

「オヅマくん! あ、いや……オヅマ公子、どうしてそのようなところに?」

「そりゃこっちの台詞だよ。ビョルネ先生も寝られないのかい?」

「君もですか? 睡眠用の薬香をお渡ししましょうか?」

「いらない、いらない。たまたま夢見が悪かったのかして起きてみたら、なんか気分が落ち着かなくて……どうでもいい昔のことばっか思い出しちまって」

「ハハ、同じようなものですね」

 

 そう言ってビョルネ医師は少し寂しげに微笑んだ。

 

「同じって、先生も嫌な夢でも見たのか?」

「…………えぇ。昔の夢を。川の音がするせいでしょうかね」

「それって」

 

 オヅマは言いかけて、一瞬止まった。

 レーゲンブルトでトーマスから聞いたことを思い出し、口を噤む。だがビョルネ医師はオヅマのその反応で、なんとなく察したようだった。

 

「もしかして、トーマスが言ったんでしょうか? ……エドガーのことを」

「あ……うん」

 

 帝都に行くことが決まって以降、また例の()を見ること数度。()に出てきた『エドガー・ビョルネ』のことが気になって、オヅマはトーマスに尋ねた。

 

 

 

 

「なぁ、トーマス先生。もしかして、エドガーって人と親戚か何か?」

 

 そのとき、動きを一瞬止めたトーマスがどんな顔をしていたのかはわからない。だが振り返った彼に、いつものふてぶてしさはなく、めずらしくひどく困惑している様子だった。

 

「どうして君がエドガーのことを?」

「あ、いや……その……ちょっと聞くことがあって」

「誰から?」

「うーん……誰だったかな」

 

 濁すオヅマを、トーマスはじぃぃと追求するように見つめてきたが、結局オヅマは何も言えなかった。まさか夢で見たのだと言ったところで、信じてもらえるはずもない。

 黙りこむオヅマに、トーマスはため息まじりにつぶやいた。

 

「エドガーは弟さ。僕ら、三つ子だったんだ」

「三つ子!?」

「僕もよくわからないけど、母さんがなかなか出来なくって、神様みたいに有能な先生にいっぱいお願いしたら、三人も子供を授けてくださったらしいよ。だけど僕らを産んだ母さんは死んじゃって、エドガーも……死んじゃったよ」

「えっ!?」

 

 オヅマは驚き、思わず声を上げた。

 快活で楽しい変人であった、エドガー・ビョルネ。彼と、もはや会えなくなってしまったというのか?

 呆然となるオヅマに、トーマスは怪訝(けげん)に尋ねてくる。

 

「ねぇ、エドガーのこと……ロビンから聞いたの?」

「えっ? いや……」

 

 否定してからオヅマはしまったと思った。ロビン・ビョルネから聞いたというほうが、この場合、一番すんなり信じてもらえそうなものだ。しかし……

 

「ま、ロビンが言うわけないか。できれば、彼にはエドガーの話はしないでおくれよ」

「……どうして?」

「エドガーは川で死んだんだ。溺れてね。三人で遊んでいた……けど、気がついたらエドガーは流されてた」

「川で……死んだ?」

 

 オヅマは聞き返しながら、()で見た奇抜な男がもはやこの世にいなくなっていることに、ひどく胸が痛んだ。彼の死の原因が直接、自分にあるわけではない。でもこれもまた、もしかしたらオヅマが()と違う選択を行ったことによるものなのだろうか……?

 

「ロビンはエドガーのことを思い出すと、ひどく気鬱になるんだ。一緒に遊んでいたのに、自分が気付かなかったことを、いまだに悔やんでいてね……」

 

 

 

 

 だからロビンにはエドガーのことは言ってくれるな……と、オヅマはトーマスから頼まれていたのだが、意外にもそのロビン・ビョルネ医師の方からエドガーの話題を持ち出してきた。大丈夫かと、ビョルネ医師の顔色を窺ったが、月光に照らされた顔にあまり変化はない。

 オヅマは迷いつつ、思いきってビョルネ医師に尋ねた。

 

「あの、トーマス先生から聞いたんですけど、エドガー……さん、は川で死んだ、って」

 

 ビョルネ医師は一瞬、何かをのみ込むかのように唇を噛みしめてから、オヅマの視線を避けるように、川の方へと顔を向けた。

 

「えぇ、そうです。夏の日に……川エビを釣りに行ったんです。まだ幼い日のことです。昔、私達の住んでいた家の近くには、小さい川があって、よく三人で遊びました。エドガーはいつもちょっと変わったことを思いついて、面白がってやるんです。あの日もきっと、何か思いついたんでしょう。一人で少し離れて行って……私は、また彼が何かやろうとしているんだろうと思って、わざと気付かないフリをしました。驚いてやらないと、機嫌を悪くするんですよ。誰かを驚かせるのが大好きないたずらっ子でした」

「へぇ……なんか、トーマス先生に似てるな」

 

 オヅマが何気なく言うと、ビョルネ医師はいきなりクルリと振り返った。その顔はひどく切羽詰まって見える。

 オヅマは思わず問いかけた。

 

「どうしたんですか?」

「……いえ」

 

 ビョルネ医師はすぐに顔を伏せたが、かすかな動揺が声に含まれていた。

 

「ビョルネ先生? 俺……いや僕、何か悪いことを言いましたか?」

「いいえ。オヅマ公子……違うのです。僕は、時々わからなくなるんです。昔のトーマスは、あんなではなかった……」

「え?」

「昔はもっと真面目で、あんなフザけたことを言うような子ではなかったんです。エドガーが死んで……変わってしまった。あの日、何があったのか……僕は、いまだに聞くことができない」

「どういうことです? エドガーさんは、川で溺れ死んだんでしょう? 先生も近くにいたんじゃないんですか?」

「違うッ! 僕は……」

 

 ビョルネ医師は気色ばんだ様子で顔を上げたが、当惑するオヅマと目が合って、すぐにハッとしたように口を噤んだ。顔を見せたくなかったのか、クルリと背を向ける。

 

「あぁ……トーマスがそう言ったのですね」

 

 つぶやくように言って、ビョルネ医師はまたしばらく、川を眺めていた。その背に示された明らかな拒絶に、オヅマは何も言えず、同じように月の光を映す川面を見つめるしかない。

 

 アオサギの声が響き、無言の時間を切り裂くと、ビョルネ医師が静かに言った。

 

「オヅマ公子。今の……エドガーの話は、忘れてください。僕にもトーマスにも、二度とその名を出さないでください」

「え……と、はい。……わかりました」

 

 オヅマはおとなしく頷くしかなかった。それくらいビョルネ医師の表情は暗く、苦しげに歪んでいた。

 

「では、失礼」

 

 ビョルネ医師はそれでもきちんと折り目正しく挨拶をして、穹廬(テント)へと戻って行った。

 

 オヅマは迷ったが、とりあえずエドガーについては忘れることにした。

 もはや彼は()でしか見ぬ住人となってしまった。この先、会うこともないのであれば、これ以上、考えたところでどうしようもない。それに……たぶん会わぬほうがいいのだ。彼にはどこか得体の知れぬところもあったから。

 

 アオサギが暗い川面を横切って飛んで行く。その姿を追えば、東の空が白み始めていた。

 帝都が朝を迎えようとしている……。

 

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