「助かったよ、オヅマ」
ヘルフリッドが出て行った途端に、アドリアンはぐったりしたようにソファに背を
オヅマはニヤリと笑う。
「あぁ……お前、あのオッサンの舌先三寸に丸めこまれそうになってたろ?」
途中から気付いた。
ヘルフリッドがあの巧み(?)な弁舌でもって、小公爵の近侍になることを既成事実化していこうとしていることに。だからオヅマはあえて嫌味を言って、ヘルフリッドの
「それにしても、一体、何を考えているんだろう……?」
アドリアンはつぶやいた。ただ近侍になりたい……ということではないだろう。ヘルフリッドの目的とするところがわからない。
しかしオヅマはあっけらかんと言った。
「別に難しく考える必要ねぇだろ。当人も遊びたいから近侍になりたいって、言ってたじゃねーか」
「そのまま受け取る気か? 本当にそれだけの理由だと?」
「それだけじゃないにしろ、多分、理由の一つであるのは間違いないだろうぜ」
完璧な嘘というのはつきづらいものだ。巧みな嘘というのは、多少の本心を混ぜる…… という話をしてくれたのは、確かエラルドジェイだったろうか。
自分の本業が非合法なものとは言えないので、エラルドジェイはいくつもの偽の顔を持っている。偽だからといって、すべてを嘘で作り上げると、自分で自分の首を絞めることにもなりかねないから、そうした処世が身についたのだろう。
それはさておき。
オヅマは再びヘルフリッドに話を戻した。
「多分、オッサンにはオッサンの事情があって、ここを出たくないんだろう」
「だからその事情だよ。僕の近侍になって、自由に遊んでいたい……なんて。よっぽどここを出て、子爵家を継いだほうが好きにできそうなものだ」
「じゃあ、子爵家を継ぎたくないのかもな」
「どうして?」
「知らんよ。仲良くなって聞けば?」
「他人事みたいに。もしヘルフリッド公子がハヴェル公子の思惑で動いていたらどうするんだ?」
「だとしたら、お前にわざわざ近侍にするよう頼む前に、ハヴェルの野郎が上手いこと裏で動いて、ここに来た途端に『新たに近侍を命じられました!』って、問答無用で近侍になってそうなもんだけどな。ま、そうだったら俺らが信用する訳ないから、そこんところの疑いを持たせないために、あえて頭下げてきたのかもしれないけど」
「あぁ……」
アドリアンは嘆息して、額を押さえた。
「オットー公子みたいなのだったら、わかりやすいのに」
「ああ、あの出歯鼠な。ハハッ! 確かにあれはわかりやすいよなぁ。馬鹿が顔に出てる安心感がある」
「…………そこまでは言ってない」
アドリアンはオヅマの屈託ない悪口にやや閉口気味になったが、問題はヘルフリッドである。
「一体、どういうつもりなんだ……?」
通常、侯爵家の子息を近侍にすることなどない。もし、そんなことをアドリアンが頼んだら、非常識だと小公爵の噂話にまた一つ新たな悪口が加わることだろう。
「それが目的だろうか?」
「もしそうなら、こっちはこっちで、侯爵家の子息をも心酔させるほど魅力溢れる小公爵様でござーい、と言い回るだけのことさ。もちろん、ヘルのオッサン当人に」
「うーん……」
アドリアンは文字通りお手上げになって、思いきり伸びをする。
ちょうど見計らったように、サビエルがお茶を運んできた。
「あぁ、サビエル。君も部屋に案内された?」
「はい。前の廊下の突き当たりにある使用人扉から出てすぐの部屋です」
一応、このグレヴィリウス寮に限らず、多くのアカデミー内の寮においては、貴族子弟が自らの屋敷の使用人を連れてくることは禁じられている。だが、大グレヴィリウス公爵家においては、例外的に小公爵の身の回りの世話をする従僕を一人、連れてくるのは許されていた。そうした従者専用の部屋も用意されている。
「意地悪そうな奴、いなかったか?」
オヅマの問いに、サビエルは安心させるように笑ってみせる。
「まだ初日ですので慣れないところもありますが、特に問題のありそうな方はいらっしゃいませんでしたよ。あとで寮管理を行っておられるラチェスター氏がご挨拶に伺いたいと……」
「あぁ、わかった。そちらの手が空いたら、来るように言っておいてくれ」
「畏まりました」
サビエルが出て行くと、アドリアンは紅茶を飲み干してからハァーッと長い溜息をついた。
「あーあ。結局、勉強できそうにないな。今日は」
「っとに、真面目なんだからな、ウチの小公爵様は。引っ越しの日くらい休めよ」
「あんな爆弾発言されたら、休むに休めないよ。気になって」
まさか入寮日に、扉を開いた途端に土下座で待ち構えられてお願いされるなど、想像もしていない。どちらかといえば、侯爵家の息子ということで、何かしら嫌味を言われるだろうと多少構えていたくらいなのに。
しかしオヅマは全く意に介していなかった。
「なんでお前が悩むんだよ。どっちかつーと、あのヘルのオッサンが今頃、頭抱えてんだろうぜ。どうやったら近侍にしてもらえるかーって」
「だから、そのヘルのオッサ……ヘルフリッド公子の思惑が」
「奴の思惑なんか、気にする必要ねぇよ。決定権はお前にあるんだから。信用できなきゃ、近侍にしなきゃいいだけのことさ」
「でもここにいる限り毎日顔を合わせるわけだし、あの調子でこられたら、なんか……なし崩し的に近侍みたいになっていそうな気がするんだよ」
アドリアンは自信なげに言った。さっきもオヅマがうまく話を変えてくれなかったら、そのままヘルフリッドを近侍にするのを認めてしまうところだった。
「いいじゃねぇか。奴が俺らに近付くほど、奴の思惑だってわかりやすいだろ」
「彼がハヴェル公子の手先だったら? ヘルフリッド公子が入学した年は、ハヴェル公子が卒業した年だ。入寮するのは今くらいだろうから、顔を合わせている可能性はあるよ。おそらくハヴェル公子は当時は寮長だったろうし、次の寮長になるヘルフリッド公子とは引き継ぎとかで話すこともあったかもしれない」
「そりゃますます都合がいいな。奴からハヴェルの話を聞くことができれば、ハヴェルのことも、奴がハヴェルをどう思ってるかも、ある程度知ることができる」
アドリアンは唖然とした。
自分の不安をすべて肯定に変えてくれるオヅマの視点に、今更ながら感心してしまう。
「やっぱり君を近侍にして良かったよ」
「へっ? なんだよ、いきなり」
「僕一人だったら、ヘルフリッド公子を疑うことしかできなかっただろう」
溜息と、少しばかりの悔しさを滲ませて言うアドリアンに、オヅマは紅茶を一口含んでから、軽い口調で言った。
「まぁ、そんなに警戒しなくてもいいと思うぜ。確かにさっきの出歯鼠野郎(=オットー)みたいなのと毛色が違うもんだから、お前もやりにくいかもしれないけど、ヘルのオッサンもある意味わかりやすい人間だろ」
「そう? 僕にはさっぱり理解不能だよ」
「何を考えてるかまでは、俺だってわかんねーよ。でも、あのオッサンはたぶん自分が得するかどうかで判断するタイプだよ。損得勘定っていうのか……見た目も商人っぽいもんな。なんか……悪徳商人っぽい顔してる」
アドリアンはヘルフリッドの
「確かに、そうかもしれない。じゃあ、今は僕に利用価値があるってことか」
「ま、そういうことだろうな」
「で、利用価値がなくなったら、あっさり捨てる。……より良いものがあれば、そちらにつくことも有り得るってことだ」
アドリアンがやや自嘲を滲ませて言うと、オヅマは冷たく言い放った。
「その場合は、そういう選択をしたオッサンが後悔するだけのことさ。安易にお前を利用したツケは支払ってもらわないとな」
薄紫色の瞳に酷薄な光が宿る。
アドリアンは困惑して口を噤んだ。
最近のオヅマは時々こんな目をする。容赦のない、冷酷な、処刑人のような目。
「……そんなこと、しなくていい」
息苦しさに喉が詰まりそうになりながらアドリアンは言ったが、オヅマの眼差しは冷たいままだった。
「どちらかに
「先走りしすぎだよ、オヅマ。…………なんだか君、最近、時々おかしいぞ」
「うん?」
「毒見の当番だって、全部自分がするとか言い出すし」
毒見の当番は近侍が交替ですることになっていたのだが、レーゲンブルトでの『腐った茶葉騒動』以後、オヅマは毎回自分がすると言い出した。当然、昔ながらの慣習を重要視するマティアスと、珍しく本気の、つかみ合いの喧嘩になったのだが、結局、オヅマは意見を通してしまった。
「俺はさっさと食いたいんだよ。ちんたらちんたらと、テリィさんが毒見のときなんて、せっかくのスープも冷めちまってるじゃねぇか。俺はな、お前らと違って
それでもマティアスは反対していたのだが、食事時になったら、それこそ毒見用の皿を
実際のところ、現状において食事に毒が盛られる可能性は低い。もしそんなことがあれば、まず疑われるのはハヴェル一派で、彼らとしてもそんなわかりやすい工作を仕掛ける愚行は避けるはずだ。
先だっても、カーリンを利用したオルグレン家の策謀と、ティアら母子の養育費横領のことで、ルーカスから
ルーカスは詳しく語らなかったが、アドリアンは事件の顛末を聞いて、おおよその事情を推察した。
普段は軽妙洒脱な女好きの騎士団長代理は、いざとなれば手段を選ばない冷酷非情な男でもある。彼が頼もしい味方であることに安堵しつつも、同時に敵となった場合を仮定するとゾッとなった。
グレヴィリウスの『真の騎士』であり、公爵の右腕。
彼はオヅマの
本来であれば、先々のことを考えてくれるルーカスに感謝し、オヅマの存在に安堵すべきなのだろうが、正直なところアドリアンとしては複雑だった。
「君に近侍になってほしいと頼んだけど、無理はしないでくれ。僕は君に、そういう……不穏なことを頼みたくはない」
「お前が命令する必要はない。奴の運命は、奴が決めるだけさ」
オヅマが軽い口調で答えるのが、アドリアンには一層不気味で、不安だった。
あのとき ―― 誘拐されたマリーとオリヴェルを助けるために、ダニエル・プリグルスを殺したとき、初めての殺人に身を震わせていたオヅマ。
「オヅマ……なんだか、君が心配だよ」
「…………なにが?」
「…………」
アドリアンは黙りこくった。
オヅマの薄紫色の瞳は澄んでいて、いつも真っ直ぐな正しさを示す。けれど自らの欲得を映さぬ瞳は無情だった。いざとなれば敵対者を葬ることも厭わない。そんなオヅマの硬骨とした信念は頼もしくもあったが、同時に痛々しくて、苦しい。しかもその覚悟をさせたのは、他ならぬ自分なのだ……。
一方、オヅマはオヅマで、沈んだ表情のアドリアンを見ているうちに、奇妙な既視感に眉を寄せた。
またユラリと
―――― 貴方は性急過ぎます。時々……ひどく心配になります……
「うッ!」
バチンと目の前で火花が
「どうした!?」
アドリアンが驚いて立ち上がる。
オヅマはすぐさま手で制した。
「何でもない。ちょっと……頭が痛くなっただけだ」
「医者に診てもらったほうがいい」
「大丈夫だよ。勉強のし過ぎだな、たぶん。ちょっと寝るわ。
オヅマはそれ以上アドリアンに何か言われる前に、さっさと隅の小部屋へと向かうと、ベッドに倒れ込んだ。
アドリアンはしばし呆気にとられていたが、あわてて自分の寝室から毛布を取ってきて、寝ているオヅマに掛けてやる。眠っている表情は落ち着いていたが、顔色はあまり良くなかった。
「…………本当に、心配だよ」
アドリアンはつぶやいて、そっとその場を後にした。