その夜、久しぶりに息子との夕食を終え、行政官の持ってきた収穫についての資料に目を通していたヴァルナルは、控えめなノックの音にすぐさま反応した。
扉が開く前から、そこに立っているのが誰かわかった。
「入るとよい、ミーナ」
声をかけると、扉が静かに開いてミーナが入ってくる。
その手にはヴァルナルの贈った箱があった。手紙でも申し伝えてきたように、律儀に返還しに来たらしい。胸の前でその箱を持ったまま、深く頭を下げる。
「帰着されたばかりの忙しい中、お時間をとらせて申し訳ございません」
相変わらず丁寧で、品のある言葉遣いだ。
オヅマは母親は時々、生まれ故郷の西方の訛りがあると言っていたが、ヴァルナルに対するミーナの言葉はちゃんとしたキエル標準語で、その上で洗練された貴族的古語まで使いこなしていた。
ヴァルナルは立ち上がると、執務机の前にあるソファに座りミーナも座るように促した。
「その箱を受け取る気はないぞ」
ミーナがテーブルの上に箱を置く前に、ヴァルナルは言った。
今しも箱を置こうとしていたミーナの手が止まり、困惑したようにヴァルナルを見た。
ヴァルナルはニコリと笑う。
「中身が気に入らないなら捨ててもらってもいいし、誰かに……マリーにやってもいい。ただ、マリー以外の女性にあげるのはやめてもらいたいな。一応、選んだ身としては、
ミーナは箱を膝の上に置いて、再び頭を下げた。
「申し訳ございません。気を遣っていただいたのに…無下なことをと…ご気分を害されたことでしょう」
「私が? まさか、気分を害したりはしない。貴女が奥ゆかしい人物だと尚のこと感心するだけだ」
ミーナはゆるゆると首を振ってから、しばらく黙り込んだ。
ヴァルナルは蝋燭の炎に揺らめくミーナの艶やかな褐色の肌と、耳元に垂れた淡い金の髪を見つめた。
何かを考え込む伏せた薄紫色の瞳の、長い睫毛すらも美しい。
「……迷惑だったか?」
ヴァルナルが自嘲気味に言うと、ミーナは顔を上げてヴァルナルを見てから、少しだけ笑った。
「迷惑ではございませんけど…少し……困りました」
「…正直だな」
「申し訳ございません。でも、このような贈り物を一介の召使いが頂いて…その前にも
ヴァルナルは一気に渋面になった。今更だが、恥ずかしい。
あんなものを女に最初の贈り物で贈る男なんぞいないと…ルーカスにも馬鹿にされ、公爵閣下までが苦笑していた。
「あれは、こちらこそ申し訳なかった。勘違いさせるようなものを贈って…」
「いいえ。とても嬉しゅうございました。あのインクは珍しいものですね。時間が経つと、色が紫に変わって…並んだ文字が
「あぁ! そうなんだ、店主が見本を見せてくれてな。時間が経てば経つほどに、色が薄紫色になっていって、ちょうど……」
嬉しげに話すヴァルナルを、その薄紫の瞳が微笑んで見ている。
ヴァルナルは言いかけた言葉を呑み込んだ。一気に顔が熱くなる…。
ミーナは急に黙り込んだヴァルナルに、改めて礼を言った。
「心遣い、感謝しております。けれど、そこまでして頂かなくとも、私はオリヴェル様のお世話を
ミーナがそう言う理由に、ヴァルナルはすぐ思い至った。
オリヴェルには元々、乳母代わりとなってずっと面倒みてくれた女がいた。
彼女は元々、オリヴェルの母であるエディットの侍女の一人として帝都からやって来た。
最終的にヴァルナルとエディットの関係が破綻して、彼女がレーゲンブルトから去った後も、エディットに命じられたのか、自分から志願したのかは知らないが、オリヴェルの世話を一手に引き受けて面倒を見てくれていたのだ。
しかしそこには魂胆があった。
オリヴェルの世話を焼くことで、ヴァルナルと親密な関係になり、ゆくゆくはエディットの後釜として男爵夫人となることを目論んでいた。
ヴァルナルはオリヴェルの世話をしてくれる彼女に感謝はしていたが、女性としては何らの魅力も感じていなかったので、とうとうしびれを切らした彼女がヴァルナルの寝室に忍び込んできた時に、はっきりとそのつもりがないことを言ったのだ。
すると、彼女は翌日には出て行った。
しかも子供のオリヴェルに、何かしらひどいことを言い残していったようだ。
オリヴェルは熱を出して寝込んだ後、何も言わぬ子供になっていた。
ちょうど春の種播きが終了した頃の、公爵邸へと向かう時期であったため、ヴァルナルは医者と女中頭にオリヴェルを任せて出立してしまったのだが、そこから親子の隔絶が始まったのは否めない。
ミーナはおそらくオリヴェルから彼女の話を聞いたのだろう。
そうであればこそ、尚の事、オリヴェルに対して心を込めて、慎重に接してくれていたに違いない。
この数ヶ月の間のオリヴェルの劇的な変化は、ただオヅマとマリーという友を得た以上に、ミーナという安心できる存在があればこそ、だろう。
「貴女がオリヴェルのことを、我が子同様に責任を持って面倒をみてくれていることは知っている。貴女の職務の熱心さを疑う気は微塵もない」
ヴァルナルは一気に言ってから、軽く息をついた。
こんなに緊張するのは、いつぶりだろうか。ある意味、皇帝陛下への挨拶以上に…いや、それとは全く違う緊張感だ。
「あの文筥も、その髪飾りも…オリヴェルの世話をしてくれているお礼として贈ったのではない。貴女に私の気持ちを伝えたかったからだ…その……好意を持っていることを…だ」
我ながら口下手な言い様にヴァルナルは情けなかった。
ルーカスならもっと気の利いた台詞が出てくるだろうに。……
ミーナはヴァルナルの言葉を聞いて、膝の上で手をギュッと握りしめた。
寄せた眉に憂いが滲み出る。
自分はそういうことからは遠ざかりたかった。
既に二人も子供のいる
けれど、目の前にいる
だとすれば、彼がもっと納得できる理由で断るしかない。
「領主様、失礼ですが…見てもらいたいものがございます」
急に決然とした口調で言うミーナに、ヴァルナルは目を丸くしながら、問いかけた。
「なんだろうか?」
ミーナは唇をキュッと閉じると、クルリと後ろを向く。
それからシャツの衿紐を取ると、グイと衿を大きく引っ張った。
「ミッ…ミーナ?!」
ヴァルナルは慌てたが、ミーナは静かな声で告げた。
「肩を、見て下さい」
言われてヴァルナルは少しだけ目を細めながら、蝋燭の灯りに照らされたミーナのか細い線の肩を見つめた。
そこには菱形が三つ並んだ、青黒い入れ墨のような痕がうっすらとあった。
ヴァルナルは言葉を失った。
「それは……」
「今まで黙っておりましたこと…誠に申し訳ございません」
顔を俯けて謝ってから、ミーナはすぐに衣服を元に戻した。
再びヴァルナルと向き合い、深く頭を下げる。
「ご覧いただいておわかりのように、私は昔は奴隷でございました」
顔を上げたミーナは静かで無表情であったが、告げる言葉は少し震えていた。
ヴァルナルは今見た光景にまだ呆然としながらつぶやく。
「………確か、以前は帝都近郊の…ルッテアの商家で働いていたと…前に聞いたが」
「はい。けれどその商人が不正で逮捕され、私は幼いオヅマと一緒に職を失って路頭に迷いました。その時に、人に騙されて…奴隷商人に捕まってしまったんです」
ヴァルナルは眉を寄せ、拳を握りしめた。
奴隷売買は帝国においては建国当初から禁止されているが、周辺では未だに残っている国もある。そのせいでか、そうした悪徳商人が帝国内にも隠然と存在していた。
奴隷という存在が支配欲をくすぐられるのか、上流階級の中には隠れて
「私も、オヅマも…奴隷としての
奴隷は身体(多くは肩)に無数の針で出来た判子を押されることで、束縛される。その針には一種の麻薬のような薬が塗られており、この作用で奴隷は主人に服従することになる。その後は、定期的にこの判子を主人が奴隷に
「…でも、売りに出される前に、夫が私を見初めてくれて……結婚を条件に私を奴隷から解放してくれました」
実際にはコスタスはミーナから一時的にオヅマを取り上げたのだった。
その上で飲み仲間だったその奴隷商人に、田舎の母から渡されていた嫁探しの費用をすべて支払って、ミーナとオヅマを買った。
コスタスはミーナを脅したのだ。
自分と結婚すれば奴隷身分から解放し、オヅマも返してやる、と。ミーナに選択肢はなかった。
「奴隷から解放され、
淡々とミーナは話す。
解放時には奴隷印の麻薬を中和するためのハグルの根から作られた薬が渡され、それを服用することで押された印も薄くなる。
建国以来から奴隷を持つことを禁止されている帝国においては、奴隷を嫁にしているなど恥とされるため、コスタスはミーナを結婚と同時に解放したが、オヅマには
オヅマは禁断症状によって、ひどい熱と嘔吐を繰り返し、一時は生死をさまよったが、ミーナの懸命な看護によってどうにか一命をとりとめた。その後は順調に成長したものの……
「自然解役(*
ヴァルナルは一度見かけたオヅマの背中の火傷痕を思い出した。
そういえばその時に、平気な顔をして言っていた。
「あぁ、ちょっと竈の火で火傷しちゃって…」
それ以上は言いたくなさそうだったので、あえて聞かなかったが……
ヴァルナルはギリと歯噛みした。
聞けば聞くほど、腸が煮えくり返る。
主を失って困り果てた親子を騙して奴隷にしたその商人も、金で買って無理やり結婚した元夫も、この場にいたら叩き斬ってやりたい。
「僅かな期間であったとはいえ…奴隷であったような女は、領主様に
ミーナは微笑みを浮かべて、はっきりと断った。
「こうしてお仕事をいただけるだけで、十分にありがたいことだと思っております。どうかこのまま……お仕えすることをお許し下さいまし」
ヴァルナルはミーナの下げた頭の、耳元から垂れた淡い金の髪に手を伸ばしかけて、やめた。
「………その箱は受け取らない」
もう一度、最初の言葉を繰り返す。
ミーナはゆっくりと顔を上げると、箱にそっと手をやって仕方なさそうに微笑んだ。
「では…マリーがもう少し大きくなったら、あげることに致します」
「…………」
ヴァルナルが黙り込んで考えていると、ミーナは静かに立ち上がった。
「失礼致します」
箱を持って丁寧にお辞儀をし、出て行こうとする。
ドアノブを掴んだミーナの背後で、ヴァルナルがはっきりと言った。
「あきらめるつもりはない」
「…………」
扉を開きかけて、ミーナは止まった。
凍りついた心にピシリと亀裂が入る。
固く引き結んだ唇が震えた。
じわじわと温かな何かが自分を満たしていく。もうとっくに枯れ果て、置き忘れていた場所に……。
ヴァルナルは立ち上がると、ミーナの背後までゆっくりと歩いていった。
開きかけた扉に手をかけながら、そっとミーナの右肩にもう片方の手を置く。
「私達が出会って、まだ一年も経っていない。貴女の心がそう簡単に私を許すとは思っていない。受け入れられるまで…いくらでも待つ」
ミーナは無礼だと承知しながらも、返事ができなかった。
振り払うように出て行くと、廊下を走り去った。
ヴァルナルはまだ手に残るミーナの肩の感触を握りしめた。
「こんな年で…情けないな……」
苦く笑うヴァルナルは知らなかった。
角を曲がったミーナが、紅潮した顔を手で覆いながら、泣いていたことを。
次回は2022年7月2日20:00に更新予定です。
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