昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第三十二話 レーゲンブルト騎士団の朝

 翌朝。

 

 久しぶりに衣装ケース三つを連ねた上に軽く藁を敷いて、その上からシーツを被せただけの即席ベッドで寝たオヅマは、横にある()()()ちゃんとしたベッドで寝ているアドリアンを苛立たし気に見下ろしていた。

 

「おい! 起きろ!」

 

 横向きに寝たアドリアンの尻を容赦なく蹴りつける。しかし、アドリアンはまったく目を覚まさない。

 

「起きろ起きろ起きろ起きろ、起・き・ろーっ!!」

 

 体を揺すって、耳元で怒鳴りつけて、頬をつねっても、まったく効果がない。多少、眉を寄せたがやっぱり寝ている。

 オヅマは呆れた。

 こんなんでこいつ、騎士としてやってけるんだろうか。戦場で敵が来ても寝ていそうだ。

 

 オヅマは昨日ミルクを入れていた鍋を持つと、もう片方で火かき棒を持ってガンガン打ち鳴らした。

 

「……う…」

 

 ようやくアドリアンが反応した。それでも目を覚まさない。

 

「ったく…この朝の忙しい時に…」

 

 自分はさっさと厩舎に行って馬に餌をやらないといけないのに、このままではアドリアンを起こすまでに朝駆けが始まってしまう。

 

 その時、ギィと扉が開く音がした。振り返ると、マリーが眉を寄せながら入ってくる。

 

「もぅ、お兄ちゃん。外にまで聞こえてるわよ。まだ皆寝てるのに」

「なんだよ。この忙しい時に…お前、なんで来た?」

「お母さんがお兄ちゃんがちゃんと新しい子の面倒見てるか心配してたから見に来たの」

「はぁ? なんで俺が心配されないといけないんだよ。っつーかコイツ起きないんだけど」

「ふーん」

 

 マリーはトコトコとベッドまで行くと、毛布にくるまっているアドリアンを見て笑った。

 

「蓑虫みたーい」

「うるさい。邪魔すんなら出てけ」

「なによぅ、起こすの手伝ってあげようと思ったのに」

「ほーお。じゃ、起こしてみせろよ。その寝太郎、つねったって起きねぇんだからな」

「あら、本当だ。赤くなってる」

 

 マリーはアドリアンの白い頬につねられた痕を見つけて、ツンツンとつついた。

 それぐらいになると、アドリアンはどこからか聞こえてくる話し声に少しずつ意識が覚醒しつつあった。

 

「ねぇー、起きて下さい。起きないと、お兄ちゃんがちこくして怒られちゃうんですよー」

 

 マリーはアドリアンの頬をペチペチと叩いた。

 うっすらとアドリアンが目を開く。

 

「あ、起きた」

 

 マリーが言うと、靴の紐を結んでいたオヅマは「えっ?」と立ち上がる。

 

 一方、アドリアンは目を覚ますと同時に自分を見つめる生き生きとした緑の瞳に、しばらく混乱した。

 自分がどこにいるのか、この目の前の小さな女の子は誰なのか。

 

「おはよう。今日はお天気だって」

 

 ニッコリ笑って言われて、アドリアンは掠れた声で尋ねた。

 

「誰? 君」

「私はマリーよ。はじめまして。南の方から来たんでしょ? 寒くない? 起きられる?」

 

 アドリアンはゆっくり起き上がった。

 そこでようやくマリーの背後に仏頂面で腕を組むオヅマの姿をみとめて、あぁ…今日も怒鳴られるのかとゲンナリした顔になった。

 

「なんだ、その顔。とっとと靴履け。朝は忙しいんだよ」

「もう、お兄ちゃん。来たばっかりなんだから…やさしくしてあげなさいよ」

 

 マリーがオヅマに向かって叱りつけるのを、アドリアンはまだボンヤリとした意識で見ていた。

 

「え……お兄…って……妹?」

「あぁ」

「…………」

 

 マリーと名乗った少女の、ニコニコと笑う顔は愛嬌たっぷりだった。兄と違って。

 

「じゃあ、私、お手伝いできたし、帰るね」

「おぅ、明日も頼むわ」

「もー、明日は自分で起きてね……えーっとなんて名前だっけ?」

 

 帰ろうとするマリーに、アドリアンはあわてて名乗る。

 

「アドリアン・オル……」

 

 全ての名前を言いかけて、はっと口を噤むと、オヅマが面倒そうに言った。

 

「アドルだ、アドル。とっとと帰れ」

「じゃあ、アドル。またね」

 

 手を振って帰るマリーに思わず手を振り返していると、隣からものすごく冷ややかな視線を感じた。

 

「ヘラヘラ笑って手なんぞ振ってんじゃねぇよ。とっとと靴はいて、行くぞ!」

「笑ってなんか…」

「いいから、早くしろよ! 朝駆けに間に合わなくなるだろ!!」

 

 アドリアンは一気に目が覚めた。

 

 朝駆け。

 それはグレヴィリウス公爵家配下の騎士団であれば、必ずやっている修練の一つだ。

 公爵邸にいる時に直属騎士団の朝駆けには何度か参加したことがあるが、神速を持ってなるレーゲンブルト騎士団の朝駆けとなれば、どれほどのものであるのか気になる。

 

「待って、すぐに」

 

 アドリアンはあわてて靴を履いて紐を結ぶ。

 途中でオヅマはもう出て行った。追いかけて外に出た途端に、寒さに身が縮んでくしゃみが出る。オヅマが獣の毛皮でできたベストを放り投げてきた。

 

「着ろ。行くぞ」

 

 まさかの心遣いにアドリアンは驚きながらも、すぐさま着た。随分と暖かくなったが、前を走っているオヅマはシャツ一枚の軽装だ。

 

「オヅマ! 君は? いいのか?」

「いるか。まだ秋だってのに」

 

 アドリアンの感覚だと吐いた息が白くなっている時点で秋ではないと思うのだが、オヅマはやはり北国の人間なのか寒さに強いらしい。

 

 厩舎に行くと、例の黒角馬(くろつのうま)が何頭か並んでいた。

 

「うわぁ…」

 

 アドリアンは感嘆の声を上げた。

 

 ツヤツヤと磨かれた黒光りする角、綺麗に編みこまれた長い鬣。

 帝都にはヴァルナルの騎乗するシェンスと、カールの騎乗するストラマという二頭しか黒角馬はいなかったが、ここでは十数頭が餌を食べていた。

 

「おぅ、来たか」

 

 同じく馬当番のアッツォがオヅマに声をかける。アドリアンをチラとだけ見て、軽くお辞儀した。アドリアンは頷いて、まだ子供らしい角のない小ぶりの黒角馬の前に立った。

 この馬が大きくなる頃には、自分にも与えてもらえるだろうか。

 

「コラ」

 

 オヅマは憧れの眼差しで黒角馬を見上げるアドリアンの尻を蹴りつけた。両手には餌の入ったバケツを持っている。

 

「のんびりすんな。あそこに置いてあるバケツ、隅の二頭の飼い葉桶に入れとけ」

「あ…はい」

 

 アドリアンはあわてて指示通りに並んでいるバケツから二つを持って、指し示された馬の飼い葉桶に入れる。随分と量は少なかった。これで足りるのだろうか。他の普通の馬についても、アドリアンが聞いていた馬が一日に食べる量からすると、随分少なく思えた。

 

「なぁ、これで足りるのか?」

 

 心配になって尋ねた。まさかレーゲンブルト騎士団に馬の餌をケチらなければならないような事情はないだろうが。

 

「朝駆けの前はこれで十分なんだよ。やり過ぎたら、途中でへばるか疝痛(せんつう)で止まっちまうから」

「あ…そう…なのか」

「まさか、いっぺんに一日量やるとでも思ってたのか?」

 

 オヅマにあきれたように言われて、アドリアンは赤くなった。毎日世話をしているオヅマなどからすれば、机上の学問だけで身につけた知識は浅いと思われても仕方ない。

 

「ま、おいおい覚えてけよ。俺もそうだったし」

 

 意外にもオヅマはこの事に関しては、さほど馬鹿にすることもなかった。無知であっても馬を気遣ってのことであれば、それは別に怒ることではない。

 

 それから馬房の掃除や水を運んだりして、あっという間に時間は過ぎた。

 起き出した騎士達がやって来て、それぞれ自分の馬に鞍をつけていく。

 

「おはようございます」

 

 騎士達は、すれ違うたびに頭を下げて挨拶をして、馬の糞を外の肥溜めに運んでいる小公爵様を見て驚くと同時に感動した。まさかそんなことまでなさるとは思ってなかったのだ。

 反面、やらせているオヅマを引き攣った顔で見比べたが。

 

「おはよう」

 

 ヴァルナルが現れると、一気に場が引き締まった。

 オヅマを見つけて声をかける。

 

「オヅマ。アドリアンも行くから、鞍をつけるように」

「え? そうなんですか?」

 

 オヅマは多少イラっとした。自分は馬に乗り始めてから、朝駆けに連れて行ってもらえるまで数ヶ月かかったのに、アドリアンは来た翌日から許可されるのか。

 

「不満そうだな。しかし、アドリアンは騎乗に関してはお前よりも先輩だぞ」

 

 信じられないように見てくるオヅマを、アドリアンは澄まし顔でフイと目線を逸らした。

 ようやくここへ来て、オヅマより秀でたものがあるのだとわかって、正直、アドリアンとしてはこれまでの『ポンコツ』で、『役立たず』の汚名を返上したい。

 

 しかし、オヅマはアドリアンのツンと気取った顔が腹立たしかった。

 

「フン。経験があるのと、才能は別だからな」

 

 わかりやすく牽制してくるオヅマを、アドリアンは鬱陶しそうに見つめた。いつもならそうした輩は相手にしないのに、おそらく昨日からさんざやられっぱなしで、アドリアンの堪忍袋もそろそろ限界だったのかもしれない。

 

「そうだね。少なくとも経験に裏打ちされた才能の方が、経験のない才能よりは上だろうね」

「なにィ? どういう意味だァ!?」

 

 少年二人のやり取りに、ヴァルナルはフッと笑った。

 

 どうやら順調に仲良くなっていっているようだ。

 

 

 

 

 初めてレーゲンブルト騎士団の朝駆けに参加したアドリアンは、なだらかに続く丘陵の中途でいきなり止まった一団の中で、首を傾げた。

 

 ここで終わり? 随分と中途半端な気がする。

 まだ、ようやく馬の足がのびのびと動くようになってきた…ぐらいなのに。

 

 隣でオヅマも当たり前のように馬首を東に向けるので、同じようにしてアドリアンは並んだ。

 それから一列に並んだ騎士団は静まり返って東の空を見つめていた。

 

 まだ太陽が昇る前の朝焼けの空は、澄んだ空気の中で朱色や紫の雲が空に滲んでいた。頭の上ではまだ星が光っている。朝と夜が交代しようとしている隙間の、静かで、美しい変貌の時間。

 やがて山と地平の間から、眩い光がカッと閃いたかと思うと、真っ赤な塊が現れる。

 

 ふと、隣からの視線を感じて向くと、オヅマが見ていた。

 目が合ってニヤと笑ってから、真面目な顔になって太陽の方へと向き直り、頭を下げる。

 見れば、オヅマの向こうに連なる騎士達も太陽に向かって頭を下げていた。まるで礼拝するように。

 

 アドリアンは不思議な光景を見ているように思った。

 馬の嘶き、小鳥の囀りですらも、この儀式の一部であるかのようだ。

 自然と自分も太陽に向かって頭を垂れる。

 誰の命令でもない。自由意志とも違う、何らかの、ただただ感謝を捧げたくなる静謐で豊饒なる時間。

 

 幼いアドリアンはそこまで難しく考えられなかったが、後になってこの時のことを思い出すと、そんなふうに評した。

 

 終わりも特に誰が号令をかけることもなく、騎士達は再び馬首を目的地へと向けて走り出す。

 

 オヅマは隣で走っているアドリアンを何度か窺った。

 なるほど、確かにヴァルナルの言った通り、馬の騎乗には慣れているらしい。

 

 領主館を出て、町を静かに走る時もまったく上体がブレることなく、初めて乗る馬をうまく操縦していた。城門を出て麦畑の間の道を早駆けしていく時も、全く遅滞なく()いてくるし、長く走っているのに姿勢が崩れない。

 

 馬の方も慣れている人間だとやはり疲れない。体重移動が上手なので、走る馬に負担がかからないからだ。アドリアンの乗る馬は人によく馴れた馬ではあったが、それでも最初にオヅマが乗ったときよりも楽そうに見えた。嘶きも少ない。

 

 今日はサジューの森に入って、アラヤ湖で軽く休憩した後に戻るコースらしい。

 オヅマのかつて住んでいたラディケ村に行くためには、この辺りの小さい山々の峠道を三つほど越えていかねばならない。ヴェッデンボリの山々の手前にあるので、小ヴェッデンボリとも呼ばれるが、高さも含めた峻険さにおいては、国境を隔てる本家の山々とは比較にもならない。

 

 サジューの森はそうした小ヴェッデンボリの一つ、ゴゴル山の山裾に広がる森だ。騎士団の演習用にある程度の整備がされているので、馬を思い切り走らせることが出来る。

 

「なかなかやるじゃねぇか」

 

 アラヤ湖で()()()()()休憩に入ると、オヅマは水の入った革袋をアドリアンに投げつけた。

 

「ちゃんとついてきたな」

「当然だろう」

 

 アドリアンは澄まして答えてから、袋の結びを解く。

 しかし、実のところはあまり余裕はなかった。

 

 さすが神速をもって鳴るレーゲンブルト騎士団だけあって、町中はともかく、丘陵に入ってからの速さと言ったら……。

 普段、公爵家の直属騎士団と一緒に朝駆けを経験していても、どうにかついていけた程度だ。

 

 しかもあの速さでありながら、ヴァルナルの指揮で途中、編成まで変えていた。

 例の黒角馬などは、森の中に入って勾配の厳しい坂をあっという間に駆け上がっていった。

 普通の馬でついていくのすら必死であったのに、これで黒角馬を操ってあの速さを制することなどできるのだろうか。

 

 手が震えていたせいか、うまく革袋を持てずに、飲もうとした水がバシャリと顔にかかった。

 

「あーっ!」

 

 オヅマが声を上げる。

 

「なにやってんだよ、お前! ヘッタクソ!!」

 

 アドリアンはカチンときた。

 いつもならそれでも表情を変えないのだが、やはり昨日レーゲンブルトに来てから、どうにも感情の制御がうまくできない。

 

「いつもはちゃんと出来るんだ!」

「どうでもいい! 服、濡れちまったろうが。とっとと脱げよ」

「これくらいどうってことない!」

「その狸の毛皮は俺んだろうが!」

「あ……」

 

 アドリアンは気付くと、静かに謝った。「すまない」

 




引き続き更新します。


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