神殿への参詣からひと月が過ぎ―――――
オヅマとアドリアンは見習いではあったものの、大の大人の、しかも屈強な騎士をもってしても『地獄』と言わしめる、この過酷な訓練への参加は認められなかった。下手をすれば凍死の可能性もあるからだ。
当然ながらオヅマは不本意だった。カールにも参加を認めるよう頼んだが、鬼副官はにべなく「駄目だ」の一言で片付けた。
騎士団が野営に向かう前日、ぶぅぶぅ文句を言っていたオヅマに、アドリアンは何気なく尋ねた。
「文句ばかり言ってるが…オヅマ、君、大丈夫なのか?」
「なにが?」
「野営の時は、寒さで死なないように、
「……嘘だろ」
オヅマは唖然となった。
ついさっきまでは明日一緒にコッソリついていこうか…とすら考えていたのに。
思わぬ難問にオヅマは唸った。どうにかしてそれは回避したい。いずれ自分が訓練に参加する、その時は。
だが真剣な顔で
「なにをつまらんことを。実際、行ってみればわかるさ。それこそゴアンであろうが、トーケル
「寝袋に入ってりゃ、一人でも十分温かいよ、俺は」
オヅマはそれでも強がったが、サロモンがヘッと鼻で笑う。
「言ってろバーカ。たまにいるんだよな、お前みたいな奴。そういう奴に限って、行軍の後に飯も食わずに対番を無理やりに
いきなり呼ばれたヘンリクは、食べかけていたパンを喉に詰まらせそうになりながら、サロモンを睨みつけた。
「俺…ッ…は……『どうにかして温かくならないのか』って、聞いただけだ! 足の指が凍りついて凍傷になりそうだったんだからな。そうしたらアルベルトが、テントに帰ればどうにか出来るって言うから……」
「行く前には散々、誰が男となんぞ一緒に寝るかー!って、大口叩いてたくせになぁ。一日目であっさり陥落だよ」
からかう同輩達に、ヘンリクは居心地悪そうに小さくなりつつも、ムッと睨みつけた。
「仕方ないだろ。アルベルトなんだぞ、俺の対番。あんたみたいにゴアン相手でも腕っぷしじゃ負けない人はいいけど、俺なんざとても敵うわけない。警戒だってするさ…」
「馬鹿じゃねぇのか、お前。あのクソ寒い中で汗でもかいた日にゃ、次の朝には二人揃って凍ってら。だいたい寒さで縮み上がって、
そこまで言いかけたサロモンを、マッケネンが強めに小突く。すぐにサロモンは目の前で耳を赤くして俯いているアドリアンに気付いて口を噤んだ。
しかしオヅマはまったく気にしない。パンをブチリと千切って飲み終わったスープの皿を拭きながら、斜め前に座って静かに食べているアルベルトに尋ねた。
「それじゃ、その時はヘンリクさんと寝たの? アルベルトさん」
「そーいう誤解されるような言い方すんなよ、オヅマ」
ヘンリクは渋い顔で抗議するが、アルベルトは無言で頷いた後、
「あの時はとにかく腹が空いていたから、ヘンリクを温めながらパンを食べていたな…」
と、相変わらずの無表情でつぶやく。
オヅマはその様子を思い浮かべて、あきれたように言った。
「どんなけ寒がりなんだよ、ヘンリクさん」
「うるせぇ! 俺は南の生まれなんだよ。こんな寒さ有り得ねぇんだよ!」
「寒いってわかってたのに、なんでレーゲンブルトなんて希望したんだ? 元々、ファルミナの騎士団だったろう、お前」
ファルミナは公爵領の南の飛び地だ。レーゲンブルトよりも大規模の騎士団が駐在している。ヘンリクは元はその騎士団に代々勤める騎士一家の出だった。
マッケネンが問うと、ヘンリクは口をとがらせつつも、小さな声で白状した。
「そりゃ……ヴァルナル様がいらっしゃるから」
「最終的にはそれなんだよなぁ」
サロモンはさもありなんと頷いてから、ヘヘッとニヤけた表情で軽口を叩く。
「いっそ、ご領主様が全員まとめて
「やめろよ! そういうの!!」
いきなり立ち上がり、大声で怒鳴ったのはオヅマだった。
サロモンらだけでなく、食堂にいた騎士達の視線が集中する。
オヅマは我に返ると、ごまかすようにカチャカチャと音をたてて皿を重ね合わせ、洗い場の水樽に放り込んでその場から立ち去った。
「……なんだ、あれ?」
サロモンがあっけにとられていると、アドリアンも釈然としない顔で話す。
「神殿の参拝の後から、ちょっと妙なんです」
「妙って?」
「なんだか…ヴァル……クランツ男爵に対して、他人行儀というか。稽古中とかはそうでもないんですけど、前は男爵の手柄話なんかもよくしていたんですけど、最近はあまり気乗りしてこないから、話すこともなくなって…」
サロモンとマッケネンは目を見合わせた。
「……領主様ってソッチの趣味あったっけ?」
「どうしてそういう話になるんだ、お前は。だいたい、好きな女の息子なんだぞ、オヅマは」
「好きな女?」
アドリアンは聞こえてきた言葉に敏感に反応した。
「好きな女って…男爵が…好意を寄せる相手がいるってことですか?」
その質問については、アドリアンだけでなく、その周囲にいた騎士達全員が聞き耳をたてた。全員の脳裏に一人の女性の姿が浮かんでいたが、誰がその名を言うのかと、皆が顔を見合わせている。
口を開いたのは、アルベルトだった。
「ミーナだ」
簡潔な答えに、アドリアンは聞き返した。
「ミーナ? オヅマのお母さんですか?」
アルベルトはパンを口に含んで頷く。
アドリアンはしばらく考えて、ハタと思い至った。
領主館の中で、元々公爵家で働いていた執事などを除いて、
無論、それはオヅマやマリーも、ヴァルナルの息子であるオリヴェルでさえ知らされていなかった。
しかし、オヅマの母親だけは例外的に知っている。なぜなのかと思っていたが……
「そういう事だったんだ…」
アドリアンはつぶやきながら、オリヴェルの部屋で何度か会ったオヅマの母親の姿を思い浮かべた。
淡い色の金髪に、オヅマと同じ薄紫色の瞳。西方からの血が混じっているという、やや褐色の肌は、いつも艷やかだった。確かに美人である。帝都の貴婦人達の中にいても、おそらくちょっと目立った存在になるだろう。
それに容貌の美しさだけでなく、折々ににじみ出る所作の典雅さは、正直、こんな田舎にいるのが不思議なくらいだ。
「オヅマはおそらく、領主様の気持ちを知ったのだろう。それで自分はどうすればいいのか、決めかねているのかもしれない」
普段は無口なアルベルトは、実のところ人の観察に長けている。その結論にマッケネンは内心で頷いたが、アドリアンは首を傾げた。
「どうすれば…って、オヅマは男爵のことを尊敬しているのだから、自分の母がその男爵の妻になるなら、喜ばしいことじゃないのですか?」
その問いに答えたのはマッケネンだった。
「騎士として憧れるのと、自分の父親になるってのは、少々勝手が違うからな」
「そう…なんですか?」
「オヅマの死んだ父親はロクでもない男だったらしいからな。子供相手に平気で暴力を振るうような奴だったそうだ。そのせいでオヅマは父親ってやつに、どうも疑心暗鬼なところがある」
「アドル、一緒に暮らしているのだから、オヅマの背中の火傷痕を見たことがあるだろう?」
アルベルトが珍しく尋ねてくる。
アドリアンの脳裏に、すぐにオヅマの痛ましい火傷痕が浮かんだ。背中の右上半分の引き攣った赤い肌。理由を聞いたが、オヅマは小さい頃に転んで竈の火があたったのだ…としか言わなかった。
頷くと、アルベルトはこれまた珍しく顰め面で言った。
「あれはオヅマが妹を庇った時の火傷痕だ」
「マリーを?」
「そうだ! あろうことか、そのロクデナシの父親の野郎が、赤ん坊のマリーをぶん投げようとしやがったのを、止めた時に竈の火に当たって火傷したんだと! っとに、胸糞悪い親父だ! 死んで当然だな!!」
激昂して言ったのはサロモンだった。
アドリアンは驚いた。普段のオヅマとマリー、ミーナの様子からはそんな壮絶な過去があったことなど露ほども感じられない。むしろ、亡くなった父親も含め、ごく当たり前の平和で穏やかな家庭を想像して、自分との違いに少しばかり嫉妬していたぐらいだ。
「まぁ、領主様のことは確定事項でもないから、あまり騒ぎ立てない方がいいだろうな。オヅマも、変声期が来ているようだし、そろそろ難しい年頃に入ってるのさ」
マッケネンが穏やかに言いながら、周囲で聞いている騎士達にそれとなく釘をさす。
その上で、アドリアンには難題を出してくる。
「
アドリアンが返事しないうちに、重ねて「おう、頼むぞ」とサロモンが言うし、鉄面皮のアルベルトも無言で頷く。
……そんな訳で、騎士団が雪上野営に向かった後、アドリアンはひとり悩んでいた。
誰かの相談なんて乗ったこともないし、そもそもオヅマは相談なんてしてくる人間でもない。それに悩みを打ち明けてくれるほど、自分が信頼されているとは思えなかった。
むしろやたらため息をつくアドリアンに、オヅマの方が尋ねてくる。
「なんだよ? なんか気になることでもあんのか?」
「いや…特に何も」
「…っとに、最近はなくなったと思ってたのに、またひしゃげたパンみたいな顔しやがって」
「…………」
アドリアンはぎりぎりで苛立つ感情を抑えた。
どうして素直に同情させてくれないんだろうか……
引き続き更新します。
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