「エラルドジェイ、仕事だ」
その声を聞いた途端、エラルドジェイと呼ばれた男は、紺色の髪を物憂さげに掻き上げた。髪と同じ濃紺の瞳がジロリと赤毛の男を見つめる。
「さっきの客?」
「そうだ」
赤毛の男は、青年の前の笑顔が嘘であったかのように、強面を微動だにさせない。
エラルドジェイはふあぁ、と大あくびをして、床に直に置かれた皿からナッツをつまんだ。ボリボリ食べながら、いつの間にかとりだした胡桃の実を二つ、ゴリゴリと掌で回す。
「珍しいな、ニーロ。あんたがあんな阿呆そうな客の依頼を請けるなんて」
「どうせ、勘当でもされた下級貴族の放蕩息子か何かだろうが、一応、念のために調べとけ。今はピグルボにあるアーケンシの親爺がやってる
ニーロ、と呼ばれた赤毛の男は命令して、どっかと椅子に腰掛けた。
ピグルボはここから大通りを挟んだ、運河沿いに東西に長く伸びた街の一画だ。
帝都を流通するあらゆる荷物をここで荷分けするため、広大な集積地の周囲に商人や、運河を行き来する
壺宿はあまり金のない商人や、冬から春の間だけやってくる季節労働者達が宿泊する簡易な宿泊施設で、小さい部屋にはベッドが一つきり。あくまで寝るだけの部屋で、虫や鼠が這い回るような、ありがちな安宿だった。
「なんだよ、
エラルドジェイが面倒そうに言うと、ニーロはジロリと睨んでぼそぼそ言い訳する。
「生憎、尾行が精一杯だ。新入りだからな、
三ヶ月前に、ちょっとだけ見どころがありそうな孤児の坊主を雇って養成しているようだが、三ヶ月してまだ尾行が精一杯とか言うなら、あまり役に立ちそうもない。
エラルドジェイは大きなため息をついて尋ねた。
「いくらで請け負ったんだよ?」
「とりあえず、前金で三十」
「
「
エラルドジェイは目を丸くした。
「三十
ニーロはニヤリと笑って、無精髭の生えた顎を撫でさする。
「大した仕事じゃねぇ。殺しでもないんだからな。坊やの誘拐さ」
「
「知ったことか。相場を知らない馬鹿が悪いんだよ。向こうが言ったんだからな、今は三十。後金で百七十だ」
エラルドジェイはナッツをガジリと噛み砕いて、渋い顔になった。
「嫌だなぁ…そんなので二百
「泣き言言ってんじゃねぇよ、エラルドジェイ。この平和ボケした国じゃ、俺らみたいな商売を必要とする貴族なんぞ、そうそういやしねぇ。来るのはゴミみたいな街で、お山の大将気取ってケチな勢力争いばっかりしている奴らの、ケチでしみったれた依頼だけさ。親分連中の暗殺ごっこで、チマチマ稼ぐしかないのに比べりゃ、ガキ一人誘拐して二百金。こんないい仕事ないだろうぜ」
「ンなこと言って、貴族相手の仕事にゃ用心に用心を重ねないといけない…って言ってたのは、どこの誰だよ」
現皇帝の即位に至るまでの政争で、こうした暗殺や誘拐、時に汚職の捏造なども行う闇ギルド組織は、貴族間において大いに利用されたのだが、皇帝即位で事態が終了すると同時に、現在の宰相であるダーゼ公爵によって、徹底的な闇ギルド狩りが行われ、帝都に大小合わせて五十近くあったこうした組織は根こそぎ壊滅させられた。
そのためニーロは貴族が関わる案件については、非常に慎重だった。
皇帝の代替わりから数年後に発足した、自分のような後発の弱小闇ギルドでさえも、帝都の治安維持部隊―――通称、鷹の目―――に目をつけられたら、その時点で徹底的に叩き潰されることは間違いない。
「だから、調べてこいと言っているんだ。ちょっとでもあの、白髭宰相と関わりがあるようなら、手を引くさ」
帝国宰相のダーゼ公爵は当年取って五十歳になるが、見事な白髭の持ち主で、庶民からは白髭宰相と呼ばれている。そこには皇帝を支えて長く平和な施政を行っているダーゼ公への尊敬や好意と一緒に、一部の不満分子からの皮肉も込められている。
「誘拐するのが宰相閣下の一人娘なんてことじゃないだろうな?」
「そんなもん千
「長たらしい名前だな」
「お前が言うな」
「で、下級貴族のお坊ちゃんがなんだって、その公爵家の坊やを誘拐したいのか…ってのを、
依頼人に対して、その依頼の動機を訊くことはタブーである。
そもそもそこに関心などもないし、依頼人の言葉が
そのため、依頼があった場合、ある程度の情報は自分で探るのが鉄則だ。
貧民街にたむろする連中の縄張り争い程度のことであれば、普段からの情報で概ねわかっているので、特に調査する必要もないが、今回のように新規の、まったくこれまでとは違う貴族相手となれば、それなりに調べる必要が出てくる。
あるいは治安組織の罠である可能性もあるからだ。
エラルドジェイはようやく立ち上がると、手早く白い布を紺の頭に巻きつけ、パチリと端を猫の形のブローチで留めた。
そのまま出口へと歩きかけて振り返る。
「その男のシュミは? 女? 男?」
「おそらく女の方がいいんじゃないか?」
「じゃあ、
ニーロはニヤリと笑って頷いた。
「いいともさ。俺ゃ、今気分がいい」
◆
その後、エラルドジェイに言い含められた娼婦によって、その青年の目的が大まかには知れた。
彼の名前はダニエル・プリグルス
どうやらダニエルはグレヴィリウス公爵家に連なる家門の女性と婚約していたそうなのだが、グレヴィリウス公爵の逆鱗に触れた為に、婚約は破棄され、隠居していた父が伯爵位を再承継して、自分は実家からも追い出されたらしい。
その原因をつくったのが、十歳になるアドリアン・グレヴィリウスだと信じきっているようだが、
「どー考えても、たぶん、八つ当たり? みたいな感じよね」
と、エラルドジェイに報告してくれた娼婦は呆れたように言った。
「ふぅん…なるほどねぇ」
「ただ、金回りは良さそうだったわよ。勘当されたけど、お金はたんまり持たされたみたいね。私、チップで一
「そりゃあ、御大尽だね」
ぼんやりした様子で相槌を打ちながら、エラルドジェイは素早く考えを巡らせる。
勘当された貴族のお坊ちゃんが金を持たされた? 少々、奇妙な話だ。
もっとも、父親は勘当を言い渡しても、甘い母親なんかが憐れんで、自分の指輪なんぞを息子にやることもないではない…。
疑問を解消するために、エラルドジェイは次の日にはダニエルを勘当した(正確には伯爵身分を剥奪されて追われた)というプリグルス伯爵家についても調べたが、当主は確かに彼を放逐したが、母親は既に十年前に亡くなっていた。
そもそも伯爵家ではあっても、特に後ろ盾となる有力貴族の傘下にあるわけでもなく、あまり金回りはよくないようだ。
羽振りの良いダニエルの金の出処が実家である可能性は低い。
その上で、今回の
「冗談じゃないぜ。あんなクソ寒い田舎に行って、しかもガキ連れて、えっちらおっちら帰ってくるなんぞ! 途中で公爵家の騎士団にでも見つかって打首だ!」
大声で喚き立てるエラルドジェイに、ニーロも頷く。
「そうだな。さすがにレーゲンブルトからこっちに連れてこいというのは、面倒だ。失敗の確率が高くなる」
「そうだろ!? そうだよな? じゃ、この仕事はご破算―――…」
「というわけにもいかない。三十はもらってるからな。しかし、後金の百七十が貰えるかどうかは微妙だな。金の出処があの若様じゃないとなれば、少々、面倒くさいことに巻き込まれる可能性もある」
「なんで面倒だってわかってる仕事に手を出すんだよ」
「………うまくいきゃあ、大口の取引先になるかもしれん。しかも、この先ずっとな」
エラルドジェイはしばらく黙り込んで、首を右、左にカクンカクンと動かして、ニーロの思惑を探る。それから渋い顔になった。
「おいおいおい…勘弁しろよ、オッサン。公爵家に恩売って、取り入ろうってのか?」
ニーロは自分の思惑を探り当てたエラルドジェイを見て、ニヤリと笑った。
「エラルドジェイ。皇家でなくたって、この国の貴族…大貴族ともなりゃ、そりゃあ…色んな輩が集まってくるんだろうぜ。うまいこと立ち回りゃあ、
「そう上手くいくかねぇ…?」
ニーロの思惑としては、天秤にかけて
今回の依頼をしてきたダニエルの背後には、おそらく現在の公爵家に敵対する勢力がある。公爵の跡継ぎであるアドリアンを始末すれば、彼らには有利になるのだろう。詳細は不明としても、現公爵を狙うよりは、小さな後継者を狙う方がやり易いと思うのは当然だ。
だが、問題は奴らがさほどに
本当に小公爵を片付ける気でいるのなら、自身で優秀な暗殺者を仕立てるはずだ。
公爵の逆鱗に触れて婚約破棄された、およそ頭がいいとは言い難い甘ったれたお坊っちゃんに、いかな子供とはいえ公爵の継嗣をどうにかできるはずもない。
ダニエル自身もそれがわかっているから、ここに頼みに来たのだろう。
その上で、ニーロとしては、もし今回の誘拐が失敗した場合には、誘拐した小公爵を助けた
「『
エラルドジェイが言うと、ニーロはフッと笑った。
「まぁ、そうだな。昔なら尻込みしてたかもしれん。けど、もう俺の人生の折り返し地点はとうに過ぎてんだ。勝負に出るなら、今かもしれん」
「何言ってんだ、アンタ」
巻き込まれるエラルドジェイはたまったもんじゃない。吐き捨てたが、じっと見つめてくるニーロの目に負けた。
「俺はそんなに器用に立ち回れるかわからんぜ」
「逃げる時にゃ、全速力で逃げな。俺も、そうする」
「……ったく。なんだってここへきて勝負に出るかねぇ、オッサンは」
「オッサンにはオッサンの浪漫があるのさ。若造にゃ、わからんて」
そう言って、ニーロはいつものように無精髭を撫でさする。その楽しそうな様子を見て、エラルドジェイはため息まじりに腹をくくった。
奴隷として売られ、気まぐれな主人の折檻で半殺しにされ、汚泥の中で死にかけていたエラルドジェイを拾って育ててくれた恩人だ。まともなことは教えてくれなかったが、それでも無事に十八になるこの年まで生きてこれた。
このまま捨てて逃げても、きっとこの男が文句を言うことはないだろう。だが、恩人を捨て去るような薄情者に自分はなれない。
そう育てたのも、この男だ。
「仕方ねぇ。とりあえず、あの馬鹿若様を連れて、レーゲンブルトまで行くさ」
次回は2022.07.20.更新予定です。