エラルドジェイがレーゲンブルトに到着して、すぐに小公爵の所在は知れたが、手出しするのは難しかった。
勇猛果敢をもってなるレーゲンブルト騎士団は、ただの力自慢の集まりでなく、団長であり領主のヴァルナル・クランツの下、よくまとまった隙のない集団だった。
領主館内で小公爵を誘拐することは難しい。
そう考えていたエラルドジェイには有難いことに、季節は大帝生誕月を迎えて、レーゲンブルトのような田舎町でもそれなりに賑わう祭りが行われるようだった。
「五日の前祭に、領主のヴァルナル・クランツが子供らと一緒に祭りの広場に来るようだ。その中にアドリアンもいる」
ダニエルが領主館内にいる協力者から情報を得たのは、到着して三日後のことだった。どうやらダニエルが本腰を入れて、レーゲンブルトに行くことを知ると、黒幕の方から協力者の情報を教えてくれたらしい。
エラルドジェイは詳しく訊くことは避けた。過剰な情報は、身を滅ぼす。仕事に必要なことだけわかればいい。
「そうですか…」
エラルドジェイはその日は動かなかった。
注意深く領主達一行を観察して、じっくり手筈を練る。
領主ヴァルナル・クランツをどうにかせねばならない。
あの男は相当の
離れた場所から、仲睦まじい領主一行の話に耳を澄ました。
常人であれば不可能な集中力で、周囲のざわめきを消して、彼らの声だけを聞き取る。
どうやら彼らはまた十五日の本祭の日にやって来るらしい。
少年の小気味よい口ぶりが、エラルドジェイには面白かった。この少年はきっと目の前の黒髪の少年が、公爵の継嗣だと気付いていない。
グレヴィリウス公爵は息子を一騎士見習いとして扱うように言ったらしいが、ヴァルナル・クランツは馬鹿正直にそれを実行しているらしい。
子供達四人がとても親しげに会話するのを聞いて、エラルドジェイはうっすらと笑った。どうにか…やれそうだ。
手ぶらで戻ってきたエラルドジェイに、ダニエルは一気に苛立った。
「なんだ、収穫なしか? 大口を叩いていたわりに、なにもできないんだな」
「………そう思います?」
低い声で問いかけたエラルドジェイと目が合った途端、ダニエルは娼館での出来事を思い出したようだった。さっと顔色が変わって、卑屈な笑みを浮かべた。
「いや…その……き、期待していたんだ。それでついカッとなった……」
依頼する者と、請負う者。―――――
ダニエルはこの関係性を度々、勘違いする。
最初の忠告から、旅の間も何度か言い聞かせてやったというのに、まだわからないらしい。本当に、馬鹿すぎて虫酸が走る。
「構いません。期待されているのは、嬉しいですからね。さて、色々と準備が必要になってきました。まず金が要りますので、用意して下さい」
「ま、またか?」
「必要経費です。ここまで来て、失敗してもよろしいので?」
軽蔑するほどに、エラルドジェイの口調は丁寧になった。
内心で吐き捨てる。
くどくどと文句を言わずに、お前は金だけ出せばいいのだ。
ダニエルは不承不承に頷いて、荷物の中から小袋を一つ取り出す。中には金貨が入っていた。エラルドジェイは確認してから、ダニエルに指示する。
「領主館の方に伝言しておいて下さい。十五日の日に、領主が子供達と一緒に外出できぬようにしろ、と」
「は? どういうことだ?」
「言ったことを言ったままやってもらうだけです。領主と子供達を離すように……そうだな……半刻(30分)ほどでいいです。とにかくヴァルナル・クランツを領主館に足止めして、子供らだけで祭りに行くようにさせて下さい」
領主館で、ダニエルからのその伝言を受け取ったのは、ネストリだった。
◆
ひと月ほど前のこと。
ネストリは、いつも世話になっている帝都の商人から手紙を渡された。差出人の名前は自分の兄であったが、中に入っていたのは別人からの手紙だった。
アルビン・シャノル。
元グレヴィリウス公爵家の継嗣であったハヴェルの乳兄弟で、今は執事として彼のそばについている。当然、ハヴェルの従僕であったネストリとは知己であり、懐かしい友でもあった。
小公爵がレーゲンブルトに来たことで、何かしら自分に言ってくるだろうとは思っていたが、果たして書かれていた内容の曖昧さにネストリは首をひねりながら、考え込んだ。
アルビンが要求してきたことは一つ。
『これから人がそちらに向かう。頼みを聞いてやってほしい』
それだけ。
それからしばらくして、領主館近くの両替商にあるグレヴィリウス公爵家が所有する私書箱に書簡を取りに行った中に、ネストリ宛の私信が入っていた。
緑色の封筒には、両替商の手を経た時に押される印判がない。おそらく誰かがここに来て、直接入れたのであろう。私書箱を借りている商人は多いので、なりすまして両替商に入り込むことは難しくない。
その手紙には、今後のやり取りの方法が書かれてあった。
曰く、あちらからの手紙は今後もこの私書箱に届くこと。ネストリが連絡をとる場合は『十一番』の私書箱に手紙を入れること。
十一番の私書箱は公爵家の私書箱の左隣一つ下だった。
私書箱には投函用の口と、鍵で開ける受取口があったが、ネストリが公爵家の私書箱の手紙を取るついでに、その十一番の私書箱に投函するのは容易であった。
ちなみに両替商にはこの時、簡易な郵便設備も併設されていた。
使用は富裕商人や貴族に限られていたが、彼らにとって各自に点在する両替商の持つ伝達能力は極めて有用であったので、為替などの取引以外にも、私信を頼むようになった。
領主館における執事の仕事の一つに、この両替商にある私書箱の手紙を取りに行くことも含まれていた。(受取口の鍵はネストリとヴァルナルだけが持っていて、ヴァルナルのそれはほぼ保管用であった。)
そんな訳で普段からネストリは五日に一度は両替商を訪れてはいたのだが、ここ最近は、ほぼ毎日訪れる羽目になっていた。
というのも、どうやら帝都の方で黒角馬の研究を行うことが決まったらしく、その関係の学者らがレーゲンブルトに来ることになったのだ。準備のための書類などが頻繁に届き、中には翌日に返答しろ、などという無理難題をふっかけてくる輩もいた。
余計な仕事が増えたネストリはすこぶる機嫌が悪かったが、おかげで、私書箱を見に行くこと自体は怪しまれなかった。
私書箱の手紙は、当初、ヴァルナルについての簡単な質問であった。
日が経つにつれ、領主や子供達、騎士団の動静について教えるように…と、だんだん具体的な内容を尋ねてくる。
それでもネストリはさほど悩みもせずに彼らのことを教えた。別にそれらはネストリでなくとも、誰でも知っていることで、秘密を漏洩していることにはならない。
だが、とうとう相手はネストリに選択を迫ってきた。
『十五日の日、領主を館に足止めし、子供達と一緒に祭りに行くことを阻害せよ。方法はそちらに任す』
これは確実に十五日の本祭りの日に、何かしら行うことを示唆している。
しかも、おそらく小公爵に対して。
まだ日があったので、ネストリは一度断った。すると、筆跡の違う字で書き送られてきた内容は苛烈だった。
『こちらはこれまでの貴方の手紙をすべて保管している。脅されたと訴えても、貴方の罪が消えるわけでない。己が立場をよくよく考えよ』
ネストリは頭に血が昇った。
忌々しげに手紙を破り、暖炉に
これまでのやり取りについても、ネストリとしては自分に余計な疑いがかかるのを恐れて、読んですぐに燃やしていたのだが、相手の方は自分の書いたものを残していたのだ。
卑怯だ! とネストリは憤慨したが、自分の浅慮を恨んでも既に手紙は全て灰になっていた。
ネストリはしばらく考えた。
天秤にかけたのは、小公爵とハヴェル公子ではない。
このまま辺境の田舎の一領主館の執事としてくすぶったまま終わる自分と、帝都もしくはアールリンデンで執事長となりうるかもしれない自分。
そこに思い至れば、ネストリの決断は早かった。
了承の意を伝えてから、具体的な方法を考えようとしたが、まったく浮かばないまま十五日を迎えてしまった。
何をするにしろ、自分が協力者だとバレてはならない。その場合、ヴァルナルが容赦なく自分を尋問する前に、アルビンが暗殺者にネストリを始末させる可能性もあるからだ。
ネストリはひと月前の手紙を忌々しく思った。
あの手紙は捨てていないが、読み返しても、アルビンは特に妙なことは書いてないのだ。もしネストリが手紙を公表して、アルビンが詰問されたとしても、どうとでも言い逃れできる言葉を使っている。
一緒にいた頃には頼もしかったアルビンの狡猾さが、ネストリを苦しめていた。どうして一度でも友だなどと思ったのだろう…。
数日来、ネストリは胃薬を手放せなかった。その日もシクシクと痛む腹を押さえながら、いよいよ祭りに向かう領主を見送るため、廊下を足早に歩いていたが、ふと、ネストリの視界の隅に、薄汚れた掘っ立て小屋が映った。
それはオヅマの住む小屋だった。
この前の大風で穴が空いた屋根には板が打ち付けられ、窓硝子にも罅が入っている。
「………」
ネストリはどんよりとその汚らしい小屋を見つめた。
考えてみれば、オヅマがこの領主館に来てからというもの、ネストリがいい具合に整えてきた環境が全て崩れてきている。
たかだか辺境の片隅の貧相な村で暮らしていただけの小僧のせいで、領主館の平穏はめちゃくちゃだ。
その上、今のこのネストリの忙しさは、オヅマが見つけてきた黒角馬も原因なのだ。あんなものを見つけてきて、鼻高々と領主様に献上して、取り入って騎士見習いになるなど、まったくもって嘆かわしい!
しかもその母や娘までもが、領主様とその息子を
こうなると、今、自分の置かれている不本意な状況までもが、オヅマに遠因があるような気がしてくる。
そう…全ては、あの小生意気なガキのせいだ!
ネストリはふらつきながら小屋の前まで来て、小屋の脇に置かれた薪を見つめた。すると不思議なことに、小屋が燃え盛っているような光景が脳裏に浮かんだ。
「…………」
心臓が早鐘を打つのと同じ速度で、ネストリは思考した。
この小屋が燃えれば…少しだけでもいい。
邸内で火事が起きたとなれば、一応、
ネストリは小屋の中に入って、消えた暖炉の火を起こした。
暖炉から火のついた薪を一本取り出してベッド近くに放り出す。チロチロと燃える火がシーツを燃やしていくのを見て、ネストリは満足気に微笑んだ。
自分は間違っていない。間違ったことはしていない。あの生意気な小僧が、火の後始末をしっかりしなかったのが悪いのだ……。
外に出てから素早く辺りを見回し、誰もいないことを確認する。
この日はヴァルナルが一部を除いて領主館で働く者達に特別休暇を出していたので、元々、人は少なかった。
ネストリは澄まし顔で少し乱れた衣服を整えると、平然と玄関ホールへと向かった。
しばらくしてから、オヅマの小屋から上がる黒い煙を見て、大騒ぎしたのは下男のオッケだった。
「うわぁ! 火だぁ! 火だぁ!! オヅマの小屋が燃えてるゥ」
次回は2022.07.23.に更新予定です。