オヅマは抗いながらも、目を開くことができない。
見たくないのに…。
どうして安らかな眠りが
◆
温室で倒れ、意識を失ったオヅマが目を覚ますと、そこには穏やかな微笑を浮かべた男がいた。はっきりと顔がわからない。
「大丈夫か? オヅマ」
優しげに声をかけてきて、額に乗せた手拭いを盥に入れて絞り、オヅマの額の汗を拭う。
いつの間にか運ばれていたらしい。天蓋のある豪奢なベッドに横たわる自分に、オヅマは眉を寄せた。
「……ここは?」
「私の部屋だ」
「閣下の…?」
オヅマはざっと部屋を見回して、そこが自分の部屋でないとわかるとすぐに起き上がった。だが、男はオヅマの肩をそっと押して寝かしつける。
「気にせずともよい。疲れているのだろう。ゆっくり休むとよい」
「閣下……先生が…リヴァ=デルゼが…子供を殺せと」
オヅマは言いながら、涙を浮かべて死んでいた女の子を思い出し、声が震えた。
あの子は、自分が殺した。リヴァ=デルゼがオヅマの腕を掴んで、無理に殺させたが、あの子の死の慄えをオヅマは感じた。手に、彼女の重みが残っている。
男はそっとオヅマの頭を撫でた。
「あぁ……つらい思いをしたのだな、オヅマ。可哀相に…」
「閣下、すみません。すみません……閣下」
「なぜ謝る?」
「期待に添えなくて…きっとお役に立つと…言ったのに」
男はにっこり笑うと、ゆるゆると首を振った。
「
深みのある声はじんわりと胸に染み込んでいく。オヅマは泣きそうになったが、次に男の放った一言に凍りついた。
「マリーは、残念がっていたよ。お前に会えないことを」
「………え?」
「今回の課題が済めば、久々に妹に会いに行くのもよかろうと思っていたのだ。それで伝えてあったのだが、今回は仕方がないな」
心臓を氷の手で鷲掴みされたかのようだった。
オヅマは言葉を失い、そのまま出て行く男を見送った。
―――――信用するな。
遠くで冷たく言い放っている
―――――これが、アイツのやり方だ。
オヅマの目から涙がこぼれ落ちた。
マリー。
懐かしいマリー。
一体、いつになったら、お前に会えるんだろう……。
泣きながら眠り、再び目を開くと、再びあの温室にオヅマは立っている。
背後でリヴァ=デルゼが前と同じように言う。
「五体だ。お前が大層嫌がるから、獣にしてやった。今度はしくじるな」
オヅマはホッとした。
やはり人を…子供を殺すなんてことしたくない。
地面に膝をついて、意識を集中させていく。
教えられた通りに、焦らず、ゆっくりと、確実に。
ポタポタと罅割れた天井から雨粒が落ちてくる。
今日は朝から雨で、重苦しい雲が空をずっと覆っていた。ザアァと絶え間なく降る雨の音が、この温室を世界から隔絶する。
その中心でオヅマは静かに、気配をなくしていく。
閉じかけた半眼が開くなり、その場にオヅマはいなかった。
網にかかった最初の獲物は、朽ちて半分屋根の落ちた
地面を這いずり回るその茶色い獣に向かって、オヅマは躊躇なく剣を突き刺した。
「…こはっ!」
声がした。明らかに獣ではない声が。
剣を抜くと同時に、獣の皮がめくれる。
まくれあがった茶色の毛皮の下から、人の腕が見えた。
オヅマがすぐさま毛皮を掴んで剥がすと、自分と変わらぬ年頃の少年が背中から血を流して倒れていた。
「…………」
オヅマはカランと剣を落とした。
目の前の少年の死体を茫然と見つめる。
「…あ……」
自分が殺人という行為を行ったのだと自覚して、オヅマは叫びたかったが、何かが喉を塞いで声が出ない。
「閣下に感謝しろ」
立ち尽くして動けないオヅマに声をかけてきたのは、リヴァ=デルゼだった。
「お前が
「……獣…?」
オヅマは死んだ少年の横に落ちた茶色の毛皮を見た。それから少年を見ると、大声を出せぬように
「今回は一度で仕留めたじゃないか。次もその調子で
リヴァ=デルゼが楽しげに言うのが、オヅマには理解しがたい。
プルプルと首を振ると、リヴァ=デルゼは即座にオヅマの横腹を蹴りつけた。
ザザッと、石畳の上を転がりつつ吹っ飛ばされ、オヅマは水たまりにベシャリと顔を打ち付けた。
ギリ、と奥歯を噛みしめて、脇腹を押さえながら叫ぶ。
「嫌だ! こんなこと……したくない!!」
リヴァ=デルゼはコツ、コツと硬い靴底の音を響かせて、オヅマの所まで来る。
また蹴られることも覚悟しながら、オヅマはリヴァ=デルゼのセピア色の瞳と対峙した。
ニィィ、と彼女は三日月のような微笑を浮かべた。
オヅマの髪を引っ掴んで、グイと顔を寄せる。
「いい
オヅマはもはやリヴァ=デルゼという人間に不快感しかなかったが、それでも必死に訴えた。
「先生……できません。閣下に報告してもらっても構いません」
「オヅマ」
リヴァ=デルゼは半笑いを浮かべ、奇妙なほど大きく首を傾げて、オヅマに問いかけた。
「何が違うというのだ? この奴隷の
その言葉はオヅマの中で反芻され、拭いがたい真実として積もっていく。
ガク、ガクと震えながら、オヅマは視線の先にある少年の死体を見た。
さっきまで死の恐怖に怯えながら、隠れていたのだろう。必死で、生きようとしていたのだろう。
その命を奪った気味悪さが、はっきりと手の中に残って、赤黒く染み付いていく。
リヴァ=デルゼの言う通り、オヅマはこれまでに数多くの動物を殺してきている。その声なき者達の、理不尽な死をもオヅマの責任であるなら、もうこの両手は真紅に染まっているのだろう。
リヴァ=デルゼはつまらなさそうに、オヅマを
濡れた地面に尻もちをついて、オヅマは呆けたように虚空を見つめた。
リヴァ=デルゼはオヅマの前で腕を組み、しばし無言だった。
硝子の
葉を濡らす雨の音。
木々の間を飛ぶ鴉の羽音。
微かに聞こえた小さな咳。
冷たい静寂の後に、ボソリとリヴァ=デルゼは言った。
「…
その言葉の意味を、オヅマはすぐに理解できなかった。
見上げたオヅマと目が合ったリヴァ=デルゼは、しばらく無表情だったが、やがてニヤリと嗤ってもう一度言った。
「
オヅマはぼんやりとリヴァ=デルゼを見つめながら、その言葉の意味を理解するよりも早くに、彼女の服を掴んで訴えていた。
「やめて…くれ。マリーは……マリーは関係ない」
「そうかな? そう思うか? いかな閣下とはいえ、何の役にも立たぬ兄妹の面倒を無償で見て下さるほど優しくはない。閣下が許しても、周囲の人間が許すかどうか…。
「何を言ってるんだ!? やめろよ!!」
リヴァ=デルゼは必死なオヅマの姿を見て、セピアの瞳をうっとりと細めた。恍惚とした愉悦に酔いながら、歌うように話す。
「知っているか? オヅマ。閣下が目をかけて育てているのはお前だけではない。奴らも今日のお前と同じように、課題を与えられている。奴らの課題の
オヅマの薄紫の瞳は絶望に覆われた。
顔色の変わったオヅマを見て、リヴァ=デルゼは満足そうに微笑む。そして、無情に命令した。
「立て」
「………」
言われるままにオヅマは立ち上がる。
「剣を持て」
少年の死体の側に落ちていた剣を拾う。
「残りは四体だ。漏らさず
「…………はい」
―――――時間はかからなかった。
五人目の少女の首を裂いて殺した後、オヅマは吐いた。
胃が空になって酸っぱい胃液だけになっても、吐き気は収まらなかった。青ざめた顔で浅い呼吸を繰り返す。
強さを増した雨が、オヅマの全身を濡らしていく。
ふと視線を感じて横を見ると、少女の緑の目がオヅマを見ていた。
マリーと同じ緑の瞳だ……。
次回は2022.08.06.更新予定です。