領主館に来て、もうすぐ
オヅマは仕事にも慣れて、他の使用人や騎士達ともすっかり打ち解けていたが、ある日信じられない光景を目にする。
◆
バシッと鈍い音がして、怒鳴り声が響いた。
「こんなところまで来るとは、何を考えているのだ、貴様ッ!!」
メソメソと泣く声にオヅマはすぐにそれがマリーだと気付き、走って向かう。
角を曲がって、ようやく姿を確認すると、泣いて床に倒れたマリーの前には領主館の執事であるネストリが今しも足を上げて蹴りつける寸前だった。
オヅマが加速してマリーを庇ったと同時に、ネストリの革靴がオヅマの顔にめりこむ。
「……ッ貴様……!!」
ネストリは急に現れた人影に驚いたが、それがオヅマだとわかるとフンと鼻をならして、軽蔑もあらわに見下した。
「お前も、何用でここに来た?」
「俺は…」
「僕は!」
ネストリが嫌味ったらしく訂正する。
オヅマはグッと苛立ちを呑み込んだ。
「僕は…マリーの声が聞こえたから」
「つまり声が聞こえるような場所にいたということだな。こちらの棟には入るなと、聞いてなかったのか?」
ネストリはじっとりとした目でオヅマを睥睨する。
確かにこの先に続く棟には近づかないようにと釘をさされてはいた。
だが、ここはまだ禁止されていた場所ではなく、中間地点だ。
「そんなこと言ったって、兵舎にはこの廊下をいつも通ってて…」
ネストリは手を振り上げると、当たり前のようにオヅマを殴った。
「口答えは許さない」
言いながら、殴った手にフッと息を吹きかける。いかにも汚いものを触ったかのように。
「貴様らごとき、領主様の御厚意でここにいるということを忘れるな。貴様らを追い出すなど訳もないのだ」
そのままネストリはオヅマの反論を聞くこともなく、その棟の奥へと向かっていった。
「大丈夫か?」
オヅマはマリーを立ち上がらせると、軽く服についた埃を払った。
「私…あのおじさん嫌い」
マリーがポツリとこぼす。
オヅマは笑った。
「そうだな。俺も嫌いだ」
ネストリは基本的には優しい人の多い領主館にあって、極めて異質な人物だった。
彼は多くの使用人と違い、この地方の出身者ではなかった。
元は公爵家の従僕であったらしく、そのことに誇りを持つあまりに他の使用人を下に見ているきらいがあり、正直、領主館のほとんどの使用人から好かれていなかった。
男爵は時々ネストリのその堅苦しいまでの態度に苦言を呈したが、自分の主家たる公爵家からわざわざ派出されてきたので、強くは言えなかった。
ダークブロンドの硬質な髪にオイルを塗ってすべて後ろになでつけ、皺一つない執事服に身を包み、表情を崩すことなく使用人に的確な指示を与える。
そつなく領主館の雑事をこなすネストリは、一見すると理想的な執事であった。
だが、緑灰の瞳はいつも酷薄な光を浮かべていた。
彼のオヅマ達一家に対する態度は、他の使用人に比べてもひときわ棘のある厳しいものだった。
それは彼の承諾を得ずに、ヴァルナルが雇用を決めてしまったことが主な理由で、通常、使用人の人事は執事が行い、主人は執事からの意見をもって雇用の可否を決めるのみ。
(一般においてはそれすらも形骸化していて、主人は執事からの人物調査書と紹介文書の内容を概ね聞いて、了解するだけ)
直接、主が雇用を決定するなど、ネストリからすれば職権侵害であった。
しかしヴァルナルにそうした前例に拠った抗議は通じない。
彼はネストリの言い分を聞くことはしたが、自分の決定を覆すことはしなかった。
ヴァルナルにとっては、ネストリの領分よりも、少年との約束を守ることの方が大事だった。
だからオヅマ達が領主館を訪れた時、ネストリは仕方なく受け入れるしかなかった。
冷たい面をピクリと動かすこともなく、彼はオヅマ達に領主館の扉を開いた。
「でも、なんでこっちに来てたんだ?」
オヅマは不思議に思った。
さっきネストリにも言ったように、騎士団の兵舎はこの先にあるのでこちらに来る必要がオヅマにはあるのだが、マリーは来る必要もなかったし、そもそも大人の男が苦手なマリーが好んで騎士団に行くことはなかったのだ。
「だって…声が聞こえたの」
「声?」
「男の子が叫んでるみたいな声」
「男の子?」
オヅマは聞き返して首をひねった。
ここに自分達以外に子供がいるのだろうか? そんな話は聞いたことがない。
「風の音がどこかに反響してそう聞こえただけだろ?」
マリーは首をひねった。
「そうかなぁ?」
「とにかく、またゴチャゴチャ言ってくる前に厨房に戻っとけよ」
オヅマはマリーの背を押して、追いやった。
マリーは釈然としないながらも、やはりネストリに怒られたのがよほど怖かったのか、チラとだけ禁止された廊下の奥を見てから、小走りに厨房の方へと戻っていった。
◆
領主館において、一番の早起きはオヅマだった。
夜明け前から起きて、馬の餌やりをせねばならない。
朝駆けに行く一刻前*1までには済ませておく必要があるのだ。
本来、それは新米騎士であるフレデリク、アッツオ、ニルス、タネリら四人の役割であったが、オヅマが見習いとはいえ騎士団の末端に加わったことで、彼らの労働は随分と楽になり、四日に一度は誰か一人が長めに眠れるようになった。
(この事は後に副官カールの知るところとなり、彼らは大目玉を食らうことになるのだが)
例のヘルミ山で見つけた黒角馬も元気に過ごしていた。
仔馬は時々騎士達も乗っているようだったが、親馬の雄はどうやら人を選ぶらしく、最初にオヅマが乗った以外ではヴァルナルしか乗せなかった。
試しに副官二人が乗ってみたが、見事に振り落とされたらしい。
雌の方は気まぐれで乗せてくれることもあれば、いきなり機嫌が悪くなって振り落とすこともあった。
雌であっても通常の馬よりやや大きいので、落馬して骨折する騎士も出て、その後は無理な調教はせずに、まずは徐々に環境から慣らしていっているらしい。
オヅマはあの時以来、黒角馬に乗ることはしなかった。
一度、騎士の一人が乗ってみろよと囃したが、運悪くちょうど背後に立っていた副官パシリコにしっかり聞きつけられ、その騎士は即座に拳骨の制裁を受けた。
「オヅマ。言っておくがな、お前が見つけたとはいえ、この馬達は既に領主様の馬だ。勝手に乗ることは許さないぞ。もし勝手に乗って、馬の脚が折れるようなことがあれば、即座にお前の首は胴から離れることになる」
馬は重要な乗り物だった。
それは貴族でない平民であっても、持っていればその一頭の働きだけで家族四人を養ってくれるくらい、大事なものだった。
まして騎士の乗る軍馬ともなれば、その価値は
「はい!」
オヅマが返事すると、パシリコは少し言い過ぎたと思ったのか、ポンと軽く頭を叩く。
「領主様もいい馬が手に入ったとお喜びだ。また今度ヘルミ山に行って、新たな黒角馬を捕らえたら、公爵様にも献上する予定だからな。お前、しっかり世話をしてくれ」
その数日後には、また新たに十頭の黒角馬が捕獲された。
無論、オヅマが例の馬の耳と角の間のツボを教えたのも役に立ったのであろうが、元々、良質な野生馬を捕らえて繁殖させることは騎士団の仕事の一環でもあった。
多少風変わりな馬であったとしても、馬である以上、さほど大きく性質は変わらないらしく、一度経験してしまえば捕獲作業は慣れたものだった。
「おはよう」
ヴァルナルはやってくると、必ずオヅマにも挨拶してくれる。
そうして今から乗る最初に捕らえた黒角馬(この馬はシェンスと名付けられた)の腹をやさしく撫でてから、ヒラリと跨る。
「では、行くぞ」
オヅマは騎士団が一斉に馬に乗り走り出す光景を見送りながら、いつもあの日のことを思い出す。
領主館から出て、寝静まった街中を静かに行進し、古く城塞都市であった名残の城門を抜ける。
そこから騎馬の足並みは早まり、なだらかに続く丘陵を超えたその中途で、一旦行進が止まる。
整然と並ぶ騎馬の列。
畑の向こう、遠く見えるグァルデリ山脈の間から昇る太陽。
何の号令もなく、騎士達はその曙光に礼拝する。
あの荘厳で美しい戦列の中に自分が騎乗して佇む姿を想像するたび、オヅマは背筋がゾクゾクした。
早く大きくなりたい、と切実に思う。
騎士団が朝の訓練に行った後は、残った黒角馬達のグルーミングを行いながら体調を観察する。
どの馬も食欲があり、便の状態も問題なかった。
馬の中には神経質なのもいて、環境変化で腹を下す馬などもいるらしいが、この種の馬は図太いようだ。
もっとも黒角馬にしてみれば、厳しい環境下であるヘルミ山に比べると、毎日食うに困らず、のんびりと柔らかい土の上を歩いて過ごす方が居心地がいいのかもしれない。
今日も長い鬣をブラシで丁寧に梳いた後、編み込んでいたら、不意に子供の叫び声が風にのってうっすら聞こえてきた。
「……?」
オヅマは手を止めて、しばらく耳を澄ませた。
早朝の忙しい気配の中に響く、異質な声。
はっきりとではなかったが、確かに甲高い子供の声がした。
しばらく考えてからオヅマは歩き出した。
幸いにも騎士団が出て行った後の兵舎周辺は人気《ひとけ》がない。
例の禁止されている棟の、この前マリーが殴られた廊下のところまで来ると、はっきりと子供の叫び声が聞こえた。
ひどく悲しくて不安をかきたてる。
いったい、誰がどうしてあんな声を上げているのだろう?
素早く辺りを見回す。
いくつかの柱や窪んだ壁を確認してから、気配を殺して歩きつつ、誰か来たら瞬時に身を隠せる場所を転々として近付いていく。
叫び声は途中で止まった。
代わりに聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえてくる。
「いい加減になさいまし! そのように泣いてどうなるものでもございませぬぞ!!」
ネストリだった。
苛立たしげで耳障りな声。階段の上から聞こえてくる。
深い臙脂色の絨毯が敷き詰められた人気のない階段の上を見上げていると、バタンと乱暴にドアを閉める音がした。
オヅマはあわてて階段下に隠れた。
すると先客が声を上げそうになって、あわてて口を手で押さえている。
「………マリー」
オヅマは小声で言ってから、口を閉じた。
足音も荒々しく降りてくる音が頭上で響く。
二人で息を潜めていると、足音はだんだんと遠ざかっていった。
マリーが出て行こうとするのをオヅマは止めた。
もう一度、周囲の気配を探る。
全身にピリピリと痺れにも似た刺激がはしる。
周囲の音や、ささいな空気の流れさえも感じ取ろうと、新たな感覚が神経の糸を伸ばしていこうとする。……
そばで見ていたマリーは、兄がいきなり不気味な生き物になったように見えて、思わず腕を掴んだ。
「……お兄ちゃん」
不意に遮られて、オヅマは我に返る。
心配そうなマリーを見て、強張りながらも微笑んだ。
「どうした?」
「……なんかヘンよ」
「え? あぁ…いや」
そう言われると、自分でもおかしかった。
周辺の音を耳以外の全身で感じ取るなんてことは、騎士でも相当に訓練を積んだ高位の者しかできない。
どうして自分にそんなことができるなんて思ったのだろう…?
騎士になりたいと思うあまりに、すっかりその気になってるみたいだ。
オヅマは安心させるようにマリーの手を握りしめ、耳を澄ませた。
気配がないのを確認した上で、ひょっこりと頭を出してキョロキョロと確認する。
誰もいないことが確実であるとわかってから、そっと階段下から出た。
「お前、戻っておけよ」
小声で叱ってマリーの肩を押すと、マリーはプゥとふくれっ面になった。
「わたしが先に聞いたんだもん」
「そういう問題じゃ…」
言っていると、階上からまた悲しげな声が響く。
今度は叫んでいるというより、泣いているようだった。
マリーは大股でタッタと階段を上がっていく。
絨毯が敷かれていたお陰で、体の軽いマリーの足音は響かない。
オヅマはあわてて後に続いた。
二階は案外と部屋が少ないようで、ドアは三つしかなかった。
声は廊下の右奥のドアから聞こえてくる。
もう一度オヅマは辺りの気配を探ったが、働いている大人はいないようだ。
だがマリーは頓着せずに手前のドアに耳をあてて首を振り、奥のドアへと近寄っていく。
「おい、マリー…待て」
オヅマが止めるよりも早く、マリーはそのドアから声がするとわかった途端にキィと開いた。
その部屋からは変な匂いがした。
嗅いだことのない、喉が少し噎せるような感じになる匂い。
臭くて鼻が曲がるというのでもないが、かといっていい匂いでもなかった。
大きな窓には、重たそうなカーテンがかかっていた。
わずかな隙間からの光と、ベッド横のサイドテーブルに置かれたランプだけが、暗がりの部屋の中にいる人の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。
天蓋ベッドの上で、男の子が突っ伏して泣いている。
マリーはベッドの側まで寄ると、そっと声をかけた。
「どうしたの?」
その声にびくっと震えて、男の子は顔を上げた。
ヴァルナルと同じ赤銅色の髪。青みがかったグレーの目。
怯えを浮かべながらも、その目は興味深そうにマリーを見つめていた。
「………………………誰?」
長い間、黙ったまま観察した後、彼は問うた。
「私はマリーよ」
オヅマはこういう時の妹の度胸にあきれつつ感心した。
よくにっこり笑いながら挨拶できるものだ。
こちらは招かれたわけでもなく、ここに来ることを許されてもいないのに。
「マリー……?」
彼がつぶやくと、マリーは矢継ぎ早に質問した。
「ねぇ、どうして泣いてるの? どうしてさっきまで叫んでいたの? ネストリさんに怒られてたけど大丈夫? あの人、怖くない?」
「おい、マリー」
オヅマが声をかけると、彼はそれまで暗がりに静かに立っていたオヅマに気付いていなかったのか、ヒッと短く喉をならして後ずさった。
「あっ、ごめんなさい。お兄ちゃんなの」
マリーがあわてて言うと、ジロジロとオヅマを見ながらつぶやく。
「お…兄…ちゃん……?」
「俺は、オヅマって言うんだ。勝手に入ってごめん。なんか叫んでるのが聞こえてきたから気になって…」
「君達は…この館にいる人?」
男の子は少しだけオヅマ達の方に寄った。
「うん。そう。領主様に来ていいよ、って言われて来たの」
マリーがとても簡単な説明をすると、男の子は意外そうに聞き返した。
「父上が?」
オヅマはこの時になってようやく、自分達がネストリに怒られた理由がわかった。
「すいませんでしたッ!」
あわてて頭を下げると、マリーの手を引っ張る。
「行くぞッ、マリー」
「えっ?」
「待って!」
男の子がもう片方のマリーの手を掴む。
そのままオヅマが気付かず歩き出そうとして、「痛ぁいいぃ」と、マリーが大声を上げた。
バタバタと廊下から誰かが走ってくる。
オヅマは見回して、咄嗟にベッドとサイドテーブルの間の暗がりへとマリーを連れて隠れた。
「どうかされましたか? 坊ちゃま」
姿を現したのは女中頭のアントンソン夫人だった。
「………なんでもない」
男の子は沈んだ声で言った。「なんでもないんだよ。あっちに行って」
「でも、痛いと
「痛いのはいつだって痛いさ! いいからもう放っておいてよ!」
いきなり癇癪を起こす男の子にアントンソン夫人は溜息を隠そうともしなかった。
「それでは失礼します」
とりあえず形式的なお辞儀をして、早々に部屋から出て行った。
再びシンとなって、男の子はベッドから降りてくると、テーブルの下にうずくまっていたオヅマ達をじっと見つめた。
「あなたはなんていうの?」
マリーは緊張した空気を感じていないのか、ひょっこりとテーブルの上に顔を出して質問した。
男の子はさっと顔を赤らめ小さな声で早口に言った。
「え? 聞こえなかった」
マリーは這いながらテーブルの後ろから出て行く。
オヅマはものすごく気まずい思いで、立ち上がり頭を下げた。
「すいません。あの…オリヴェル坊っちゃん」
マリーがオヅマを振り返る。
「オリヴェル?」
それから目の前の男の子を見た。
「オリヴェルっていうの?」
男の子は頷いてから、反対に質問してきた。
「君たちは、いつからここに?」
マリーは首をかしげてオヅマを見上げる。
オヅマは頭の中で暦を繰った。
「えぇーと確か1ヶ月…くらい?」
男の子はどんよりした顔になった。
「そんなこと、僕聞いてない…。誰も、教えてくれない…」
オヅマはあわてて弁明した。
「いや。ただの使用人が入ったぐらいのこと、いちいち教えないって! マリーなんてこの通りだから、手伝いにもなんないし…」
「そんなことないもん! この前だってパウルお爺さんと一緒に草抜きして、肥料を花壇に撒いて…ヘルカお婆さんだって食器を拭いたら助かったよって言ってくれたわ」
「わかったから…大声だすなって。あの野郎が来たらどうすんだよ?」
「…あの野郎って?」
首を傾げて尋ねてくるオリヴェルにマリーは「ネストリさん」と事も無げに言う。しばらく狐につままれたような顔になった後、オリヴェルは笑った。
「わぁ! やっと笑ってくれた!」
マリーが手を合わせて嬉しそうに言うと、オリヴェルは少しはにかみつつ微笑んだ。
それから窓の方へと歩いていき、カーテンを開ける。
眩しい光が一気に暗い部屋に入ってきた。
窓の外は広いバルコニーになっていた。
オリヴェルはカーテンを久しぶりに開けただけでなく、バルコニーへ出て行く掃出窓も開けた。
しばらくぶりであったせいで、ギギと軋む。
オリヴェルがバルコニーに出て行くので、オヅマとマリーはついていった。
柵のところまで来ると振り返り、妙なことを聞いてくる。
「君たちって木登り得意?」
「うん! 大好き!!」
オヅマが答えるより早く、マリーが言った。
ミモザの木が葉を茂らせて、バルコニーにまで枝を伸ばしている。
「このミモザ、降りることはできる? 下はたぶん誰も来ないから」
オヅマはバルコニーから少しだけ身を乗り出してみた。
囲まれた木々と壁の間から、少しだけ修練場が見える。
おそらく向こうから気付かれることはないし、館の裏側になるのか出入り口がさほどにないせいか人気はない。
ミモザの幹はちょうどいい太さで、マリーでも難なく降りていけそうだ。
「いけそうだ」
オヅマはバルコニーに伸びた枝にヒラリと飛び乗った。
マリーも乗ると、四つん這いになって幹の方へと向かう。
そのまま降りようとして、オリヴェルが言った。
「ねぇ、また来てくれる?」
「………」
オヅマは即答できなかった。
ここに来てからは聞いてなかったが、まだ村にいた時に領主館の話をしていた大人が言っていた。『領主様の息子は体が弱いらしい』…と。
すっかり忘れていた。
そもそもこの館の人達も、誰もヴァルナルの息子については教えてくれなかった。
「うん、いいよ」
返事をしないオヅマの代わりに、あっさりとマリーが了承してしまった。
正直、この事態はあまりよくない。
下手すれば領主館から叩き出されるかもしれない。
しかしどこか諦めたような目で、それでもじっと見つめてくるオリヴェルに否定的な言葉を言いたくなかった。
「……またな」
小さく言って、オヅマはするするとミモザの木を降りていった。
下に辿り着いて上を向けば、もうオリヴェルの姿はなかった。
「マリー、お前…なんで『いい』なんて言うんだよ!」
オヅマが怒ると、マリーはまた口をとがらせた。
「だって、可哀想だったんだもん」
「可哀想ってなぁ…あっちは領主様の息子なんだぞ」
「領主様の息子は可哀想じゃないの?」
そう言われるとオヅマは口を閉じるしかなかった。
食べる物にも着る物にも苦労しないで済む恵まれたお坊ちゃんであっても、不幸でないわけではない。
今になって気付く。
オリヴェルの部屋に充満していたニオイは、きっと薬か何かなのだろう。
ずっとあの陰気な部屋で暮らして、自由のきかない体に支配されるのは、きっと辛い。
自分がそうであったと考えるだけでも、憂鬱になる。
「お兄ちゃん、あの子が叫んでいる声を聞いた?」
マリーがとても悲しそうな目でオヅマを見上げてくる。
「……聞いた」
「私あの声を聞いたときに、リッツォを思い出したの。ホラ、村にいたヌオレラさん家《ち》の子。時々、みんなで遊んでた…」
ヌオレラさんはオヅマの父であったコスタスと同じ小作人だった。
元は別の領地にいたらしいが、飢饉でこちらに移住してきた人で、あまり村人と馴染んでいなかったせいか、家族は皆いつも暗い顔をしていた。
家族の中の末っ子であったリッツォは、オヅマ達が遊んでいるのを遠くから見ていたので、声をかけて一緒に遊んだりしたものだ。
だが、そうやって仲良くなって一月もしないうちに、リッツォはいきなり死んでしまった。
死因はよくわからなかった。
ただ、ヌオレラさん一家はいつの間にか村から去っていった。
「リッツォ? なんで?」
オヅマはいきなりマリーがリッツォのことを言い出したのがよくわからなかった。
オヅマとそう年も変わらぬように見えるオリヴェルに比べ、リッツォはもっと幼い。二人に共通点があるようには思えなかった。
マリーは顔を俯け、スカートをギュッと掴んだ。
「私、ヌオレラさんの家の前を夕方くらいに通ったことがあったの。そうしたら、中から大きな音がしたわ。それからリッツォが泣いていたの。叫んで泣いていたの。とても悲しそうな声だった。……怖かったの。私、怖くて逃げちゃった。そうしたら次の日にはリッツォが死んだって聞いたの」
「………」
オヅマは無表情になった。
大人の虐待で子供が死ぬのは、そうあることでもなかったが、珍しいことでもなかった。
オヅマだって父からの暴力で死にかけたことは二度や三度ではない。
雪の吹き荒ぶ冬の真夜中に外に放り出されたことだってある。
「マリー」
オヅマは膝をついてマリーの視線に合わせた。
泣きそうな顔になっている。
「そんなことはお前のせいじゃないんだぞ」
「でも、
「わかったけど、無茶したら駄目だ。とりあえず大丈夫だってわかったろ?」
「……でも、寂しそうだったよ」
「そうだな」
「今度、行ってあげようよ。私、お花見せてあげたい。あのお部屋のお花、枯れてたわ」
「………考えとく」
脳裏にチラチラとネストリの顔が浮かぶ。
あの男に見つかったら最後、領主様に言い訳もできないうちに領主館から叩き出されそうだ。
オヅマはマリーを厨房まで送り届けた後で、あわてて騎士団の馬場に戻った。
そろそろ皆が朝駆けから戻ってくる。
厩舎の掃除をしておかねば、大目玉をくらうことになる。
馬場を軽やかに駆けている黒角馬達の姿を見て、オヅマはホッとした。
朝からえらいことになったが、とりあえず今日も仕事するだけだ。
「さて、やるか」