オリヴェルの部屋を出て執務室に入ってから、ヴァルナルは護衛のパシリコに外に出るように命令した。
二人きりになった部屋で、ヴァルナルはテーブルを挟んで向き合うミーナをしばらく見ていた。
そういえば、この状況はレーゲンブルトに戻ってきた時以来かもしれない。
ヴァルナルの頼みもあって、ミーナと再び話す機会は増えていたが、いつもは食事後に茶話室などで談笑するのが常だった。
「オヅマのことだ」
ヴァルナルがオヅマの名前を出すと、ミーナは顔を強張らせて目を伏せる。
「医者からはどういった説明を受けた?」
「……身体に非常に深刻な負荷がかかって、今は重度の貧血状態だと…」
「その深刻な負荷の原因は、『千の目』と呼ばれる
ミーナはギュッと膝の上で両手を握りしめた。眉間に寄った皺は深く、動揺する心を静めるためにふぅと微かな吐息をつく。
「ミーナ、『千の目』を知っているか?」
ヴァルナルが問うと、ミーナはしばらくしてコクリと頷く。
「……言葉には…聞いたことがございます。見たことは、ございません」
「騎士であればある程度、相手の気配を読むという基礎的な能力を伸長させることで、『千の目』に近い技能は身につく。だが『千の目』と呼ばれる稀能の域まで高めることができるのは、ほんの一握りの人間だ。私の知る限り、帝国においてこれを稀能として扱いうる人間は五指に満たぬ。ミーナ、オヅマは誰かの教えを受けたことはあるのか?」
「いいえ」
ミーナの返事は早く、強かった。
「そんなことを知っているわけがありません。オヅマはただの……小さな村で育っただけの子供です」
ヴァルナルはいつにないミーナの頑なな態度に困惑した。彼女はいったい何を恐れ、何を隠そうとしているのだろう…?
「…オヅマの治療の為もあって、私も少々『千の目』について調べた。それでわかったのは、『千の目』というのは独学で修得できるような技ではないということだ。人並み外れた才能があったとしても、手順を踏んで、専門的な教育を受けなければ、そもそも技として発現させることすら不可能なのだ。だからこそ、おかしい。オヅマにあそこまで反作用の症状が現れることが。あれは確実に『
ミーナはかたく口を引き結んだまま、しばらく黙り込んでいた。やがて視線を彷徨《さまよ》わせてから、小さな声で尋ねてくる。
「その『千の目』というのは…血による承継があるのでしょうか?」
「うん?」
「血族に、同じような稀能を持つ人間がいれば、その子供にも受け継がれたりするのでしょうか?」
「………」
ヴァルナルはじっとミーナを見つめた。
ミーナの言いたいことはわかる。要はオヅマの稀能が遺伝によるものなのか…ということだろう。
だが稀能において遺伝はまったく関係ない。
ヴァルナルなどは父祖の代から商人であったし、反対にベントソン三兄弟など曽祖父は二つの稀能を扱った強者であったらしいが、今のところ子孫にその稀能を持つに至った者は出ていない。
すぐにも否定すればいいのに、ヴァルナルは反対に問うてしまった。
「心当たりがあるのか?」
「…………」
ミーナは再び押し黙った。
愁いを帯びた薄紫色の瞳が遠くを見つめている。
ヴァルナルは眉を寄せた。苦い気持ちが胸に広がる。
この一年の間、ミーナは自らの身の上についてある程度語ってくれたが、決して口に出さなかったことが一つだけある。
それはオヅマの実の父親のことだ。
正直、興味がないと言えば嘘になる。ヴァルナルの中では一年前に亡くなった元夫よりも、オヅマの実父の方がより心を波立たせる存在ではあった。
ミーナが容易に口にしないこと、それ自体が、彼女の心に占めるその男の度合いの大きさ、深さを感じさせたからだ。
だが今はそんなつまらない
「稀能は遺伝ではない。血縁はあまり意味を持たない」
ヴァルナルが答えると、ミーナはホッと息をつく。それからようやくヴァルナルの顔を見た。
「すみません。私にもオヅマがいつの間にそうしたものを身に着けたのかはわかりません。村にいる頃に、頻繁に薬師のお婆さんの手伝いをしてはいましたが…」
「そうか…」
これ以上、ミーナからオヅマの稀能について聞くのは無理そうだった。
ヴァルナルはひとまず疑問を封じた。このことはオヅマの
「よし。ではこの話はこれまでだ。次はミーナ、君の休養について話そうか」
ヴァルナルが急に話を変えたので、ミーナは一瞬、何と言われたのか、わからなかった。
「え?」
戸惑っていると、ヴァルナルは腕を組んで、少し怒ったような口調で言う。
「この数日、まともに寝ていないだろう? これは領主としての命令だ。ここでしばらく体を休めるか、自分の部屋に戻って休むか、どちらがいい?」
「そ…そんな…大丈夫です」
「悪いが、二択だ。どちらかを選びなさい。選ばなかったら、ここで寝てもらう」
らしくない強引なヴァルナルの態度に、ミーナは唖然となった。
しかし、ふとヴァルナルの耳が真っ赤になっていることに気付く。
他方、ヴァルナルは厳しい表情を作るのに必死で、自分の耳が赤く熱くなっていることなど、まったくわかっていなかった。
あの誘拐騒ぎ以降、ヴァルナルは何度となくミーナに休むようにと声をかけているのだが、ミーナは事件の原因が自分であるとでも考えているのか、まるで赦しを求めるがごとく、子供達の看病をほとんど寝ずにしていた。
また、オリヴェルが紅熱病に倒れた時のように、無理が祟って倒れでもしたら…と思うと、ヴァルナルは気が気でない。
ということで甚だ不本意ではあるが、目上の者には従順なミーナに、命令という形での休養を迫るしかなかった。
あえて二択にしたのは、ただ休めと言っても、これまでの事例から
ミーナはヴァルナルが睨むように自分を見てくるのが、必死に懇願されているような気がしてきた。
考えてみれば、そのつもりはなかったが、自分はずっとこの寛大な領主の言葉を無視してきた。こんなに心配させていたのかと思うと、なんだか申し訳ない気分になってしまう…。
「申し訳ありません…ご心配をおかけして」
ミーナが頭を下げると、ヴァルナルはふっと固めていた顔を緩めた。
「……謝るのではなく、少しは言う事を聞いてもらいたい」
「はい。では、しばらく自室にて休ませて頂きます」
「わかった。じゃあ、行こう」
ヴァルナルは立ち上がると、ミーナに手を差し出した。ミーナがキョトンとしていると、ヴァルナルは咳払いして言った。
「このまま途中で倒れてしまいかねない顔色だ、ミーナ。一応、部屋まで送らせてもらう」
それは本当にミーナが倒れそうで心配だというのもあり、またミーナが何かしらの理由をつけて、オリヴェルらの待つ部屋に戻るかもしれないので、防止の意味もあった。(まぁ、実際にはそれも言い訳だということはヴァルナルもわかっている。)
ミーナは微笑むと、ヴァルナルの手を取った。
執務室を出て部屋に向かうまでの間、二人はあくまでも一般的な礼儀の範疇で、腕を組んで歩いた。
「お優しい領主様に、こんなに心労をおかけして本当に申し訳ないことです」
ミーナは恥ずかしさを紛らすように、少しおどけたように言った。しかしヴァルナルは大真面目な顔で答える。
「君のことを考えるのは嫌ではないが、できれば別のことで考えたいものだな」
「別のこと? どんなことをですか?」
ミーナは首をかしげた。
「それは……」
ヴァルナルは何と言おうか考えながら、視線をミーナに向ける。
こちらを窺っているミーナと目が合うと、薄紫の瞳にライラックの花が自然と思い浮かび、その満開の花の下で佇むミーナの姿を想像した。
細かな刺繍の施された白地のドレスに、真珠の髪飾り。
花嫁衣装を着た美しいミーナ……。
ヴァルナルはあわてて視線を逸らした。
こんな妄想をするなんて、本当に自分はどうかしている…。
困ったように黙りこくって、また耳を赤くするヴァルナルを見て、ミーナもなぜか顔が赤らんだ。二人はそのまま何ともいえぬ沈黙の中を歩いてゆき、ミーナの部屋の前で立ち止まる。
「あ…それでは…」
ミーナはヴァルナルの腕から手を離したが、その手をヴァルナルがいきなり掴んだ。
「……あ」
掴んでしまってから、ヴァルナルは自分でも驚いてしまったが、戸惑いを浮かべるミーナの表情に少なくとも嫌悪がないとわかると、ギュッと力をこめた。その手を口元に持っていってから、そっと離す。
「ちゃんと、寝るように」
「はい…」
ミーナは挨拶もそこそこに部屋に入ると、そのままベッドに倒れ枕に顔を
「……馴れ馴れしくしては駄目よ。ちゃんと…自分の立場を弁えないと……」
つぶやいた独り言を必死に心に刻み込む。
そうせねばならないほどに、自分が動揺しているのを、ミーナは認めたくなかった。
次回は2022.08.20.の更新予定です。
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