その日、領主館の門は宵の頃を過ぎても閉じられなかった。グレヴィリウス公爵家の使者が訪れるとの先触れがあったからである。
その後、使者が到着したのは、夜半に近い時間だった。
「久しぶりございます、小公爵様」
執務室に呼ばれて、グレヴィリウス公爵家直属騎士団の団長代理であるルーカス・ベントソンの姿を見た途端に、アドリアンの顔は固まった。
――――とうとう来た…!
アドリアンの予想通り、ルーカスはアドリアンを迎えに来たのだった。アドリアンの従僕であるウルマスも一緒だった。
「大変な目に遭われたようで、公爵閣下も心配しておられます」
ウルマスは言ったが、まったく心が籠もっていなかった。この場面に合わせて言っただけの、三文芝居の台詞に過ぎない。
「………いつ出る?」
アドリアンは簡潔に尋ねた。
「明朝には」
ルーカスが答えると、アドリアンはビリッと眉を寄せる。
隣で聞いていたヴァルナルが思わず聞き返した。
「明朝? こんな夜遅くに着いたばかりだというのに?」
「出来得る限り早く帰還するようにとのお達しでな。しばらく視察で
「それは勿論だが…」
ヴァルナルは公爵家からずっと走ってきた馬の交換に応じつつ、少しばかり意外だった。
いつも息子に対して、ほとんど無関心な公爵閣下が心配しているとは。
初めての長期に渡る息子の不在が、あるいは公爵にもいいように作用したのかもしれない。
だが、アドリアンの顔は暗かった。
そんなわけがないことは、息子のアドリアンが一番よくわかっている。
父は怒っているのだ。こんなことに巻き込まれ、ヴァルナル達に迷惑をかけた
だからしばらく領地を離れる前に、
「この帰還は僕が赦されたということか、それとも…今回の事件のせいか?」
アドリアンが尋ねると、ルーカスは淡々と答えた。
「公爵閣下は特に何も
「今回のことで、男爵が咎められることはあるのか?」
アドリアンが強張った顔で尋ねると、ルーカスはチラとヴァルナルを見てから、すげなく言った。
「それは無論。あれだけ大言壮語しておいて、小公爵様を危険な目に遭わせたのですから、それなりの罰は生じることでしょう」
「ヴァルナルは関係ない! 彼に何も言わずに行ったのは、僕の独断だ」
アドリアンが激すると、ヴァルナルは首を振った。
「小公爵様。此度のことは、ひとえに私の不徳の致すところ。あなたに
「おぅ、そうだ。こんな騒ぎになって、レーゲンブルトの狼軍団の首領としては、不徳の上、面目丸潰れだ。皇帝陛下から黒杖を返せと言われても文句は言えないな」
ルーカスが重ねて茶々を入れると、ヴァルナルはやれやれと溜息をついて微笑む。
「ま、このようにベントソン卿が仰言るからには、さほどに心配なさることはございませんよ」
「うん? どういう意味だ?」
「
「フン」
と、ルーカスは鼻をならしてから「ま、そういうことだ」と軽く肩をすくめる。
それでもアドリアンの顔は曇ったままだった。
「オヅマが……まだ、治ってないのに…」
小さな声でつぶやくと、ルーカスは首をひねった。
「オヅマ?」
「小公爵様と
ヴァルナルが尋ねると、それまで黙っていたウルマスがようやく出番だとばかりに口出しする。
「ビョルネ医師であれば、来て早々にクランツ男爵の世子君の診察に赴かれました。なんでも誘拐されたというではありませんか。このような
ヴァルナルは心中でかすかに苛立ったが、何も言わなかった。
実際のところ、そう考える人間は公爵家に多いことだろう。
ルーカスもまた、来るまでにこうした非難を幾度も聞いていたので、今更わざわざ否定する気にもなれなかった。
彼らが公爵の真意を勝手に
譜代の家臣でないヴァルナルへの風当たりは昔も今も強い。
まして公爵の信頼も厚く、継嗣の小公爵までもが彼を
「ウルマス、お前、この数日の馬車旅で腰が痛いと言ってなかったか? 今日は早くに寝た方がいいだろう。明日の早朝…
ルーカスは言葉だけ丁寧に、言外に「とっとと出てけ」と退出を促す。ヴァルナルとアドリアンからも白い目で見つめられ、ウルマスはきまり悪そうに身じろぎして、そそくさと執務室から出て行った。
「で? その目端のきく坊主がどうしたって?」
ルーカスはすぐにヴァルナルに向き直る。ヴァルナルは目を伏せた。
「血を吐いて倒れたんだ。
「稀能? ガキが?」
ルーカスはさすがに驚いたが、すぐにいつもの皮肉げな顔になる。
「まったく。黒角馬だけでも妙な代物拾ってきたと思ったのに、なんだってお前ばっかり、そんな面白そうなモンを見つけてくるんだ?」
「見つけたんじゃなくて、向こうから来たんだが…ルーカス、この周辺で『千の目』を教授できるような老師はいるだろうか?」
老師、というのは『先生』という意味で、必ずしも老人というわけではない。だが『練達の師』といった意味合いが強く、その場合、多くは経験豊富な老人であるため、たいがいの人は年寄りを思い浮かべるだろう。
ルーカスはどちらの意味で取ったのかはわからないが、何名かを脳裡に思い浮かべながら尋ねた。
「『千の目』? なんだ…まさか、そのガキの稀能が『千の目』だとか言うんじゃなかろうな?」
「そのまさかなんだ…おそらく」
「おそらく?」
「実際にその場に立ち合った訳じゃないからな」
ルーカスはしばらく黙り込んでから、ハハハと乾いた声で笑った。
「ないない。ある訳がなかろう。ガキに扱えるような代物じゃない。『千の目』を一度行使しただけで、失明した、足が使い物にならなくなったなんて話もあるくらいだぞ? 老師だって?『千の目』の遣い手なんぞ、ほとんどが隠棲して行方不明だよ。今、所在がはっきりしていて、しかも確実に『千の目』を遣える人など大公殿下しかいない」
「……やはり、そうか」
「あの御方が弟子をとったなんて話は聞かないし、まして、そのガキいくつだ?」
「今年で十一になる」
「ハッ! あるわけがあるか。十一のガキがまかり間違って『千の目』なんぞを発現したら、血反吐はいて死ぬか、良くて一生寝たきりだ」
アドリアンはその言葉を聞いた途端、執務室から飛び出した。
オヅマの寝る部屋に向かう途中で、オリヴェルの主治医のビョルネ医師に会った。
「あ…小公爵様」
小さく声をかけてきたビョルネ医師の腕をひっぱって、アドリアンは部屋まで連れてくると、必死に頼み込んだ。
「オヅマを診察してくれ! 頼むから、治してくれ!」
ビョルネ医師は目を白黒させながらも、寝台に眠る青い顔の少年が、いつも少々尊大なくらいに生意気で元気だったオヅマだと気づくと、顔色を変えた。
「どうしたことでしょうか、これは」
「稀能を発現したんだ。それで血を…大量に血を吐いたんだ。血溜まりができるほどの」
ビョルネ医師は眉を寄せたものの、鞄から聴診器を取り出すと、まずは心臓の音を聞いた。それから脈をとり、全身の状態を確認する。
もう一度、聴診器の大きな逆三角錐を心臓の上あたりにあてて、小さな逆三角錐に耳を当てた。
「うーん…」
ビョルネ医師はしばらく考え込んだ。
アドリアンは切羽詰まった顔で尋ねる。
「治るのか? 治るよな? ………頼む、治してくれ」
「はぁ…えぇ……うーん。それは…どうしたものか…」
もごもごと口の中で言葉を選んでから、ビョルネ医師はきっぱり言った。
「寝てます」
「は?」
「ですから……よく寝てるなーって」
「フザけてるのか!?」
アドリアンは珍しくイラっとなって怒鳴ったが、ビョルネ医師は小鼻を少し掻いて冷静に説明した。
「いえいえ。フザけてなどいません。病人を前にして、そんなことは。しかし、オヅマを診察して僕が言えるのは、『よく寝てる』ってことだけです。眠ることで身体を回復させているのでしょう」
「それだけなのか? 失明とか…足が動かなくなってるとか……」
「瞳孔も一応光に反応していますし、足の筋肉に
アドリアンはビョルネ医師をじっと見つめた。
必死な眼差しに、ビョルネ医師はたじろぎながらも繰り返す。
「た……たぶん、問題はないと…」
アドリアンは急にオヅマの眠るベッドに突っ伏すると、戸惑うビョルネ医師に静かに言った。
「問題ないならいい。…下がってくれ」
ビョルネ医師は「はぁ」と頭を下げて、部屋を出た。
出たところで、ヴァルナルとルーカス二人に囲まれる。
「どうなのだ? オヅマの状態は?」
ヴァルナルに尋ねられ、ビョルネ医師はアドリアンに言った言葉を繰り返す。
「特に、重篤な症状は見受けられません。呼吸も落ち着いておりますし、心臓も脈も正常です。関節などの異常や、筋肉の強張りや弛緩もないですし、瞳孔の反応も正常です」
「つまり?」
ルーカスが結論を促すと、やはりビョルネ医師はこう言うしかなかった。
「よく寝てます」
「…………」
「…………」
男三人は顔を見合わせて黙った。
ビョルネ医師は心の中で、この
「あの~…オリヴェル様の診察も行いましたが、微熱が続いておられるようですので、薬を処方いたしておきました。いつも通りミーナ殿に頼んでおきましたが…」
ミーナの名前が出て、ヴァルナルはハッと我に返った。
「あぁ…すまない。来て早々に診ていただいて、感謝する」
「いえ。では私はいつもの部屋に下がらせて頂きますので…もし、何かございましたら、いつでもお呼び下さい」
ビョルネ医師はそれ以上、何か言われる前に部屋に引っ込むことにした。
ルーカスの指揮で、けっこう強引な行程でここまで来たせいで、さすがに疲れていた。
ビョルネ医師を見送った後、ルーカスとヴァルナルは部屋の扉をそっと開いて中を覗き見た。
燭台の灯りに照らされ、ベッドに眠るオヅマのかたわらで、アドリアンが突っ伏しているのが見える。かすかに、
ルーカスは扉を閉じると、フゥと溜息をつきながら歩き出す。
「随分、ご執心じゃないか。我が小公爵様は」
「あぁ…対番だったし…」
ヴァルナルは言いかけて、フフッと笑った。
「なんだ?」
「最初は険悪だったんだ。オヅマに対番になるよう言った時なんて、二人して睨み合っていたよ」
「ほぅ?」
「喧嘩もして、一緒に剣舞も舞って…こちらが何かを言わなくとも、友になるんだな。オヅマにとっても、小公爵様から吸収することは多かったようだ。色々大変なことがあったが、あの二人が仲良くなったことが、私には一番喜ばしい。これで罰を受けて放逐されても、私には十分な収穫だ」
満足気に言うヴァルナルに、ルーカスはフンと鼻を鳴らす。
「よく言う。放逐などされないことがわかってるくせに」
「それなりの罰が生じると言ったのは
「罰を与える前に、事件の詳細を聞く必要がある。どうやら馬鹿が首謀者になってるようだが……」
言いながらルーカスは執務室まで戻ってくると、勝手にキャビネットからブランデーを取り出した。
「で? なにがあった?」
ブランデーを口に含んで訊ねるルーカスの青い瞳が鋭さを帯びた。
ヴァルナルは気を引き締め、一連の出来事を話し始めた。
更新が一日遅れました。大変申し訳ございません。
引き続き、更新します。