騎士団が帰ってくると、ようやく朝食の時間になる。
兵舎の横に備えられた食堂には、厨房から当番兵が運んできた大鍋が三つと、大きな籠の中に山盛りのパンが石積みの台の上に乗っている。
兵士達はめいめいで皿に料理を盛り、一人につき二個までのパンをとって食べる。
オヅマもこの中で食べることになっているが、子供ということで、パンは一つまでとされていた。
「えらくあわててたな、オヅマ。サボってたんじゃねぇだろうな」
ドカンと前に座って声をかけてきたのは、サロモンという騎士だった。
オヅマと同じ年くらいの息子がいるらしく、何かと声をかけてくる。
「いや、途中でお腹が痛くなって…」
「腹が痛いィ? お前、腹減ったからって、馬の餌でも食べたんじゃないだろうな?」
「そんな訳ないだろ」
サロモンは大笑いした後で、握り拳二つ分はあろうかというパンを三口で食べてしまう。
オヅマからすると勿体ない食べ方だが、なにせ迅速を尊ぶ騎士団においては貴族よろしくゆっくりと食べる習慣などない。
「あの、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」
「なんだ?」
「領主様に息子がいるって聞いたことがあるんだけど…ここにいるの?」
サロモンはチラっと隣にいたゴアンを見て、ゴアンはオヅマの隣に座っていたアルベルトに目配せする。
彼は副官カールの弟で、騎士団の中では一番の弓使いだ。
「お前ぇ~、その話誰から聞いたんだよ?」
サロモンがムッと怒ったように言ってきて、オヅマはキョトンとする。
「村で前に大人が話してたのを聞いたよ」
「なんだ、村でか」
わかりやすくサロモンはホッとした顔になった。
「箝口令がひかれてるってのに、誰が言いやがったのかと思った」
「かんこうれい?」
「余計なことをしゃべるな、ということだ」
アルベルトは静かに言った。
「執事殿からお前達兄妹に領主様の若君については話すな、と指示された」
「なんで?」
「さぁな」
澄ました顔でアルベルトはスープを啜る。
カールとアルベルトは、ヴァルナルの主筋にあたるグレヴィリウス公爵家に代々仕える騎士の出らしく、傭兵崩れや平民からの志願者が多いレーゲンブルト騎士団の中では際立って作法が良かった。
「大方、汚らしいガキが領主様の息子に興味持って会いに行ったりしたら面倒クセェと思ったんじゃねぇの?」
サロモンが適当に言うと、ゴアンがうんうんと頷いた。
「子供同士ってのは、引き合うからな。気がつきゃ勝手に遊び始める。それが身分違いであっても関係ないもんなぁ、子供の時は。俺も帝都で昔……」
自分の話を始めるゴアンを無視して、アルベルトはオヅマをジロと見た。
「どうしていきなり若君の話をするんだ?」
「えっ? いや…その…」
「村で聞いた話を今頃聞いてきたのは何故だ?」
この弱味を徹底的に突いてくるあたり、カールの剣術と似たものがある。やはり兄弟だ。
「えー…っと、その…声が…聞こえてきて」
「声?」
「その、なんか叫んでる…ような、声?」
オヅマはとりあえず嘘はつかないことにした。
下手な嘘をついたところで、アルベルトは誤謬を見つけたら容赦なくそこを詰めてくるだろう。嘘はつかないが、全ては話さない。
「あぁ…あれか」
ゴアンが思い当たったのか溜息をつく。
「なんなの、あれ? あの…叩かれたりとかしてるんじゃないよね?」
思わず聞いてしまったのは、マリーの話のこともあるし、階段に上がる前にネストリが叱責していたのを思い出したからでもある。
「領主様の息子を叩くような人間がいるわけないだろう。あれは…癇癪だ」
「癇癪?」
「母君もいらっしゃらなくて、領主様もお忙しい身だ。世話人の女も長く続かないし、色々と思うことがどうにもならなくて叫びたくなるのだろう」
アルベルトが丁寧に説明してくれる。
「母君…って、領主様の奥方様?」
「…でいらした方、だ」
オヅマが首を傾げると、サロモンがあけすけに言う。
「別れたからな。ま、別れて良かったさ。ここにいた時だって、なんかっ言ったら、田舎だの臭いだのと当たり散らして散々だった。一年持たずに都に帰って、男作りやがって、領主様に離縁状なんぞ送りつけてきやがった」
「はぁ…?」
オヅマはいきなり怒り出したサロモンにキョトンとなった。
アルベルトがパンをちぎりながら冷静に訂正する。
「正式には奥方から直接離縁状を送ってきたわけではない。その男が別れてほしいと言ってきたのだ」
「同じこったろ」
「女ごときが離縁を申し出て領主様が受けたなどと噂されてはならぬ。言葉は正確に伝えろ」
領主様とその元奥方に関してはさておき、つまるところオリヴェルは母親に捨てられたも同然ということだ。
オヅマの脳裏にオリヴェルの諦めきったような寂しい目が浮かんだ。
ヴァルナルは今はこの領地に戻ってきているが、一年の半分以上は公爵の本邸か帝都にいるらしい。
おそらくわざわざ病弱な息子を連れ回すようなことはしないだろうから、オリヴェルはほとんど一人ぼっちだ。たとえ、領主館に人がたくさんいても家族はヴァルナルしかいないのだから。
「オヅマ」
アルベルトが声をかけてくる。
こちらを見ずに、ほとんどきれいになったスープの皿をパンでキレイに拭っていた。これは貴族の作法でないが、食事を残さずに食べて、なるべく洗うのに水を使わないようにすることは、騎士団では戦に備えた行動規範とされていた。
普段から行うことで、即座に戦時体制に対応できるようにしている。
オヅマはまた痛いところを突かれるかもしれないと、内心で戦々恐々としつつ、平静を装って返事する。
「はい?」
「興味を持つくらいは構わないが、若君に会おうなどとは思わぬことだ。ネストリが知れば、面倒なことになる。あの執事は……色々と厄介だからな」
アルベルトには珍しく不満げな表情だった。
いつも表情を崩さないので、鉄面皮と騎士達が渾名するくらいなのに。
「……気をつけます」
既に会ってしまった…とは口が裂けても言えない。
口が裂けたらもっと言えない。
オヅマは愛想笑いを浮かべてそう言うしかなかった。
◆
どうやら母は領主に息子がいることは知っていたらしかった。
その上で、やはりネストリから子供には教えるなと命令されていたのだという。
ネストリは嫌味たらしい鬱陶しい人間ではあるが、人物観察には秀でているようだった。
オヅマとマリーを見ていて、好奇心旺盛で無鉄砲なところがあるのを見抜いていたらしい。……実際、そうだった。
オヅマはマリーに今日、オリヴェルに会ったことは絶対に大人には言わないこと! と、約束させた。
その上で、母のミーナには騎士達に聞いたのと同じように、朝に子供の声を聞いたんだけど…と話して、教えてもらえなかった理由を聞き出した。
「若君はお体が弱くていらっしゃるから…あなた達から風邪でももらったら大変なことになるの。だから、ね、もしお見かけしたとしても、近くに寄ってはいけませんよ」
「えぇぇ!?」
不満そうにマリーが声を上げる。
オヅマは机の下でマリーの足を軽く蹴る。マリーはオヅマを睨みつけたが、口をとがらせて黙り込んだ。
オヅマはミーナを安心させるように言った。
「大丈夫だよ。若君なんて身分が違い過ぎて、さすがに一緒に遊ぼうなんて思わないよ」
「……そうよね。ここは村みたいに子供がいないから、あなた達には少し寂しいかもしれないけど」
「俺は騎士団で馬の世話もしなくちゃいけないし、館でだって雑用もあるんだから、遊んでる暇なんてないからいい。マリーは…ちゃんとパウル爺の言うこと聞いて、うろつき回らないようにしろよ」
それとなく釘をさすと、マリーは俯いて少し涙を浮かべた。
オヅマが「マリー…」と手を伸ばして頭を撫でようとすると、げしッと思いっきり太腿の辺りを蹴られる。
「
そのままマリーはベッドに潜り込んだ。
「まぁ、どうしたの?」
「いや。なんか…今日嫌なことがあったみたいで、機嫌が悪いんだ」
オヅマは笑って誤魔化すと、溜息をついた。
マリーとしては約束したのに、行かないでいるのはオリヴェルに嘘をつくみたいで嫌なのだろう。
しかし、今ここで言い聞かせるのは難しい。明日、ちゃんと説明すればわかってくれるはずだ。
その日はぐっすり眠って、朝からはまた忙しかった。
だから、探してもマリーが見つからないことに気付いた時、オヅマは仕方なしにミモザの木に登るしかなかったのだ。
「……やっぱり」
バルコニーの窓から覗いてマリーの姿を見つけた時、オヅマは頭を押さえた。
マリーは馬鹿ではないのだが、たまに頑固なくらい自分を曲げない。
軽く溜息をついて、オヅマはコツコツと窓を叩いた。
マリーと話していたオリヴェルがこちらを向く。ニコリと笑って、歩いてくると窓を開けた。
「やぁ、いらっしゃい」
なにがいらっしゃい、だ。
こちらは下手すりゃ
「………どうも」
「本当に来てくれるとは思わなかったよ」
何気なく言われてオヅマは引き攣った笑みを浮かべつつ、チラリとマリーを見る。マリーはオヅマと目が合うと、プイとそっぽを向いた。
オヅマは内心でマリーに拳を突き上げていたが、まさかオリヴェルの前で叩くわけにもいかない。
「マリーが花を持ってきてくれたんだ。庭に咲いてるんだって。なんて言ったっけ?」
「桜草よ。可愛くてキレイでしょ?」
「本当だね。マリーみたいだね」
「…………」
なんだ、このおとぎ話ごっこは。
オヅマはげんなりしながら、素早く部屋の中を見回した。
油断なく辺りの気配を探って誰かいないか、じっと聞き澄ます。
「大丈夫だよ」
オリヴェルは朗らかに言った。
「さっき眠たいから寝るって言ったから、しばらくみんな休憩して来ないよ」
「そっか…あ、いや……そうですか」
オリヴェルはクスッと笑った。
「いいよ。無理しなくて」
日差しのある中で見ると、オリヴェルの目の下にほくろがあるのがわかった。
それにしてもずっと暗い中にいたからなのか、肌が白くて透き通って見えそうだ。
「じゃあ言うけど…本当は今日ここに来るつもりはなかったんだ」
オヅマははっきりと言った。
マリーが走ってきて、オヅマの足にしがみつく。
「やめて! 言わないで!!」
オリヴェルはびっくりしていたが、オヅマと目を合わせると何となく事情は察したようだった。
フッとさっきまでの明るい顔が翳る。
「マリー! ここを追い出されるかもしれないんだぞ」
強い口調で言うと、マリーはいつにないオヅマの真剣な顔にビクリと震えて後ずさった。
オヅマはオリヴェルに深く頭を下げた。
「すいません。俺…僕らは、坊っちゃんと遊んじゃいけないんです。余計な病気が移ったりなんかしたら大変なことになるから…ネストリさんに禁止されているんです」
「………いまさら僕が病気になったって、別に心配もしないくせに」
オリヴェルは幼い顔に皮肉な笑みを浮かべてつぶやいた。
「いいよ。もう行くがいいさ。そうして二度と来ないで忘れればいい」
そんな憎まれ口をききながらも、オリヴェルの目には涙が浮かんでいる。
下ではマリーが容赦ない力でオヅマの下腹をポカポカ殴りまくっている。
オヅマは嘆息して天井を見上げた。
漆喰で塗られた白い天井には、ところどころ剥げてはいたが、創生神話の絵が描かれていた。オヅマ達の住む元物置小屋と違い、なんとも豪華だ。
―――――領主様の息子は可哀想じゃないの?
屈託なく尋ねてきたマリーの言葉がよみがえる。
こんな暖かい部屋で、綺麗な絵のある天井で、食うにも寝るにも困らない生活をしていても、オヅマから見てオリヴェルが幸せであるようには見えなかった。
おこがましいかもしれないが、自分がその身分になりたいかと問われても、今のままでいいと答えるだろう。
母親は自分を置いて去り、忙しい父からは放任され、多くの召使いにかしずかれながらも、一人ぽっちのオリヴェル。
泣き叫んでいたのは、一体なんのためだったのだろう?
ぼんやりと天井の絵を見ながら、オヅマはもうなんだか考えるだけ無駄な気がしてきた。
「……わかった」
オヅマは二人の説得を諦めた。
だいたい不条理なことを言っているのは大人の方だ。
どうしていつも従わねばならない?
「でも、バレないようにしないと駄目だ」
オヅマはコソッとつぶやくように告げる。
オリヴェルの泣きそうになっていた顔がみるまに笑顔になり、マリーはオヅマに抱きついた。
「秘密だね」
オリヴェルが言う。
「おう」
オヅマが頷く。
「三人だけの秘密」
マリーが楽しそうに言う。
この日から三人の子供による秘密結社が出来た。
やることは遊ぶことと、大人には秘密にすること。
◆
オヅマはそれでも雑用や騎士団での訓練などもあって忙しく、そう毎日行くことはできなかったが、マリーは厨房が忙しくなる時間帯を除いて、昼過ぎにはミモザの木に登ってオリヴェルの部屋へ向かった。
幸いにもちょうどこの時、一番の難敵であったネストリは不在だった。実家で不幸があったらしい。
おかげで子供達はわりと気楽に遊ぶことができた。
オヅマ達と遊ぶようになってから、オリヴェルは確実に変化していった。
まず、食べる量が増えた。
マリーはオリヴェルの食事を母のミーナが作っていることを教え、
「この前アーモンドのブラマンジェが出たでしょ? いいなぁ。私、一回だけ食べたことがあるの。とってもおいしいでしょう?」
なんてことを言われると、俄然、そのアーモンドのブラマンジェが楽しみになったりする。
他にもマリーがパウル爺と菜園で野菜を育てていて、夕食の具材になっていることを話すと、やはり嫌いな人参であってもがんばって食べるようになった。
おかげで多少、顔色もよくなってきたようだった。
主にオリヴェルの世話をしていた女中頭のアントンソン夫人は、その変化を訝しんだ。
「最近では、好き嫌いもなくされたようで…結構でございますね」
夫人が微笑みながらも探るような目で、自分を見ていることにオリヴェルは気付いた。
三人で約束した秘密がバレれば、マリーもオヅマも領主館を追い出される。
オリヴェルはすぐにオヅマに相談した。
話を聞いたオヅマはふとあることに気付いた。
「そういや、お前、最近あんまり叫ばないよな?」
「え? ……あぁ…うん」
以前は五日に一度くらいは癇癪を起こして叫んでいたのが、最近はマリーやオヅマと話すことで不安な気持ちもなくなって、叫ばなくなっていた。
「時々、やっとけ。怪しまれるから」
オリヴェルは言われた通り、オヅマが去った後、すぐ大声で叫んだ。
ここ数日はなかった癇癪がまた始まったと、召使い達が慌てて走り回る。
オリヴェルはその様子を内心、面白がった。
こうした巧妙な工作によって、彼らの秘密はどうにか保たれていたが、実はこの時、一人だけ気付いていた大人がいた。
◆
庭師のパウル爺は最近、めっきり自分のところに来なくなったマリーが昼過ぎになるとどこかに出かけているらしいことに気付いた。
その日、注意深く辺りを見回してから走っていくマリーを見かけて、後を追ってみれば、西棟の裏手にあるミモザの木をするする登っていく。
その先が領主の若君の部屋だというのは知っていたので、そこでようやく合点がいったのである
そういえば何日か前に、マリーが桜草をとっていいのかと聞いてきたことがある。
てっきり自分たちの部屋にでも飾るのかと思ったのだが、もしそうであればミーナは必ず礼を言ってくるだろうし、息子のオヅマだって何かしら言ってくるはずだった。
マリーがこっそり領主の若君に会いに行っていることを知って、パウル爺はしばし思案の後に何も見なかったことにした。
うるさい執事が妻であるヘルカ婆を通じて何か言ってきたことがあったが、知ったことではない。
パウル爺はこの領主館において、ヴァルナルが領主となる前からいた古参の使用人だった。
彼の言うことに従うのは、尊敬する領主様が彼を執事として任用しているから、それだけだった。
パウル爺はずっと思っていた。
領主の息子が病弱なのは、ずっと部屋に引き籠もってばかりで、周囲の大人が彼に対して無関心であるからだろう、と。
世話はしても、若君に親身になってやれる人間は彼の周囲にいないようだった。
と言っても、たかが庭師の自分が若君の部屋を訪問できるわけもない。
内心、赤ん坊の頃に一度だけ見た若君を気の毒に思っていたのだが、マリーが彼の友達となってやれるのであれば、喜ばしいことではないか。
あの元気なマリーと一緒にいれば、きっと若君も元気になられるだろう…。
パウル爺はそう思って、マリー達の秘密を見守った。
時々、マリーにそれとなく温室の花を渡したりしつつ。