昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第七十四話 今はお別れ

 アドリアンは顔を上げて、しばらくオヅマの寝顔を見つめていた。

 

 きっと今の自分はひどい顔をしているだろう。

 オヅマが元気であれば、なんと形容するだろうか? 塩漬けキュウリ? 湿()けたクッキー?

 本当に、いつもひどくて、意味のわからない誹謗だ…。

 

 

 ――――はぁ? ヒボー? 言っとくけどな、これはただの悪口。怒るんだったら、もうちょっと気の利いた返ししてこいっての。

 

 

 前にオヅマに言われたことを思い出して、アドリアンは少し笑った。

 

「君、後で調べたけど『誹謗』も『悪口』も同じ意味じゃないか……」

 

 返事をせぬオヅマに向かって話しかける。

 考えてみれば、悪口を言った当人が悪口だと堂々と認めた上で、逆に気の利いた返答を求めるなど、何とも尊大極まりない。

 しかし、アドリアンは今、その『悪口』が聞きたかった。その上で今度はこう言ってやりたい。

 

「よくも次から次に考えつくものだね。あと三つほど悪口とやらを述べてみたらどうだ? いい悪口だったら、僕の分のピーカンパイを差し上げるよ」

 

 考えてから、アドリアンは首を振る。

 どうもあんまり気の利いた返しじゃない。

 

 静まり返った部屋で、アドリアンは昏々と眠り続けるオヅマを見ていた。

 明日の今頃にはもうオヅマのそばにはいられない。

 

「……ねぇ、起きてよ。もう、体は大丈夫だってビョルネ先生だって言ってたじゃないか。もうあれから十日以上経ったんだ。起きて、せめて見送ってくれよ…」

 

 言っているうちにアドリアンはボロボロと涙を流した。

 こんな形でオヅマと別れねばならないのかと思うと、どうしても悲しくて仕方がない。

 

 再び突っ伏して、うっうっ、と(むせ)び泣いていると、不意に呼ばれた。

 

「………アドル…?」

 

 アドリアンはヒクッと喉を引き攣らせてから、顔を上げた。

 オヅマの目がうっすらと開いていた。

 

「オヅマ!」

 

 大声で呼びかけると、オヅマはぼんやりしつつも顔を顰めた。

 

「……ぅるせぇ」

「ご、ごめ…」

 

 謝ろうとすると、まだ引っ込みのつかない涙のせいでヒクッと喉が鳴る。

 

 オヅマはボゥっと天井を見つめたまま尋ねてきた。

 

「お前、泣いてんの?」

「…………悪いか」

 

 アドリアンがきまり悪くなって小さく言うと、オヅマはフッと笑った。

 

「いいや。やっと…」

「え?」

「お前さぁ…いつも……しかめっ面して誤魔化して…っけど、ずっと泣きそうだったろ? ……だからシケたクッキーなんだよ」

「………」

 

 アドリアンは返事ができなかった。

 いつもわからない悪口だと思っていたが、そんな意味があるとは思わなかった。

 

 公爵家の跡継ぎとして、感情を表に出してはいけない、と言われ続けてきた。だからその通りにした。その通りにすることが当たり前で、理由なんて考えなかったし、その方がラクだった。

 少しでも疑問を持てば、惨めに傷ついた自分に気付かされる。悲しくて泣きたくなる自分が溢れそうになる。

 だから、押し籠めた。誰にも、自分にすらも見えない心の奥底に。

 

「……諦めんな」

 

 オヅマは掠れた声だったが、強く、怒ったように言った。

 

「悟った顔して…諦めんな。もっと…足掻(あが)けよ。俺は……抗う。もう…諦めない……絶対に…もう…二度と……」

 

 まるで自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、オヅマの瞼は再び閉じた。

 アドリアンはちょっと怖くなって、オヅマの胸にそっと手をやった。ゆっくりと上下する心臓の鼓動を確かめて、ホゥと息をつく。

 

「ありがとう、オヅマ」

 

 アドリアンは立ち上がると、礼を言った。

 

 ただの偶然かもしれない。

 それでもアドリアンはオヅマが自分の声に応えてくれたのだと信じた。

 

 

 

 

 

 

 オリヴェルは真夜中に密かにやって来たアドリアンに目を丸くした。

 

「どうしたの?」

「起きてたのか。ちょっと顔だけ見ようと思ってたのに」

 

 アドリアンは深夜にもかかわらず起きていたオリヴェルに少し驚いたようだった。

 ミーナはヴァルナルからの再三の指示もあって、自室で休んでいる。次の間では侍女のナンヌが仮眠をとっていた。

 

「ビョルネ先生に診察してもらってから目が冴えちゃって」

「そうか。体はもう大丈夫?」

「うん。ちょっとだけ熱があるからって、薬をもらった。マリーは寝てたから、明日見てもらうんだ」

「……オヅマも診てもらったけど、とりあえず大丈夫みたいだ。今は寝て回復させてるんだって」

「そっか。良かった」

 

 オリヴェルはホッとしてから、アドリアンの顔をじっと見つめた。

 

「なに?」

「………帰るの? アールリンデンに」

 

 その質問で、アドリアンはオリヴェルが自分の正体に気付いていることを知った。

 オリヴェルは黙り込んだアドリアンに「やっぱりそうか」と、少し笑みを浮かべる。

 

「いつから…?」

 

 アドリアンがかすれた声で尋ねると、オリヴェルは首をかしげた。

 

「さぁ? いつからだったか…色々あり過ぎて忘れちゃったよ。あぁ、でも、最終的にはあの時のことを思い出したんだ。君があの地下の部屋に入ってきた時さ。仮面を被った男が言ったろ?『アドリアン・グレヴィリウスを連れて来てやったぞ』って。あの時は恐ろしくてそれどころじゃなかったけど、ゆっくり思い出してみたら、やっぱりそうなのか…って」

「すまない。騙すつもりとかじゃなくて…」

 

 アドリアンが謝ろうとするのを、オリヴェルはあわてて止めた。

 

「違うよ! 別に怒ってないよ。理由もないのに、アドルが僕らに嘘をつくはずないって、わかってる」

 

 それに…と、オリヴェルはまたアドリアンの顔を見つめる。

 普段の貴公子然としたアドリアンからは想像できないほどに、泣いたあとが、腫れぼったい目にも、紅潮した頬にも残っていた。

 

 オリヴェルは安心させるように、ニコリと笑った。

 それに……そんなことは大したことじゃない。

 

「もう、帰るの?」

 

 オリヴェルはもう一度尋ねた。

 コクリと頷いたアドリアンに、唇を噛み締める。

 

「いつ?」

「明日の朝……黒五ツ(どき)(*午前五時前後)には出るらしい」

「そんなに早く!? 公爵家の使者は今日着いたばかりだろう!?」

 

 オリヴェルは思った以上の性急さに、思わず大声を上げたが、マリーがうーんと唸って寝返りをうったので、あわてて声をひそめた。

 

「なんだって、そんなに急ぐのさ。せめて金の三ツ(どき)(*午前七~八時頃)くらいだったら、マリーだって見送りできたのに」

 

 アドリアンは苦い笑みを浮かべて言った。

 

「これ以上、不甲斐ない息子を男爵に預けておくのが申し訳なくなったんじゃないかな。実際、迷惑ばかりかけたしね」

 

 オリヴェルはアドリアンの寂しげな顔を見て、胸がしめつけられた。

 

 どうしてグレヴィリウス公爵家のただ唯一の後継者である彼が、この帝国において皇子と同じくらい恵まれた環境にいる人が、こんなに悲しい顔をしなければならないのだろう。

 

 そう考えたときに、オリヴェルは自身を振り返った。

 

 自分もまた周囲からの圧力に耐えられず、息することも苦しくなっていたではないか。そうしてたまらなくて泣き叫んでいた。

 オヅマとマリーが来てくれなかったら、自分はずっと悲しい存在のまま、死んでいくだけの子供だった。

 

「アドル…また、来てよ」

 

 オリヴェルが言うと、アドリアンはやっぱり悲しそうに笑って頷かなかった。

 オリヴェルはアドリアンの片腕を掴んで、繰り返した。

 

「来てよ。来なきゃ駄目だよ」

「……どうして?」

 

 オリヴェルの必死な目に、アドリアンは聞き返した。

 

 自分だって本当はもう一度、ここに戻ってきたいとは思ってる。

 だが、こんな事件が起きてしまったのは自分の()()なのだ。そう簡単に父が許すはずがない。

 

 オリヴェルはキッと強い目でアドリアンを見つめた。

 

「僕は…言わないよ」

「え?」

「君が小公爵様であるとしても、ここではただのアドルだ。マリーもオヅマも君の正体を知らない。僕から彼らには言わない。君自身の口から、オヅマにもマリーにも告げるべきだと思う。いずれ…そうしてくれるよね?」

 

 オリヴェルの真摯な眼差しに、アドリアンはまた泣きそうになった。

 あんなに最初は自分を嫌っていたオリヴェルが、また来てくれと懇願するなんて。

 

「そうだね…二人には僕から言わないと……」

 

 アドリアンが頷くと、オリヴェルはまたにっこりと笑みを浮かべた。

 アドリアンの手をギュッと握る。

 

「また、会おう」

「あぁ……必ず」

 

 そうしてアドリアンはオリヴェルとの別れを済ませたのだが、明朝になっていざ出ようとしたときに、領主館から飛び出してきた小さな人影に再び驚くことになった。

 




次回は2022.08.28.に更新予定です。

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