オリヴェルはまだ夜も明けないうちから、遠くから聞こえる馬の
昨晩、アドリアンとまた会うことを約束して別れたものの、オリヴェルにはどうしても気にかかることが一つだけあった。
マリーだ。
朝…日が昇って起きたマリーに、アドリアンが帰ったことを伝えたら、きっと驚くだろう。そして、きっとひどく悲しむに違いない。
オリヴェルにはマリーが
チラ、とヴァルナルが帝都で買ってきてくれた小さな振り子時計を見る。黒の四ツ
オリヴェルは決心すると、マリーに呼びかけた。
「マリー、マリー。起きて。起きて、マリー。アドルが帰っちゃうんだよ、マリー!」
マリーは元々早起きであったので、さほどにくずることもなく目を覚ました。ぼんやりと、まだ夢見心地のマリーに、オリヴェルは少し強い口調で繰り返した。
「マリー、アドルが帰っちゃうんだ!」
マリーは急にハッと瞳を大きく開いた。
信じられないようにオリヴェルを見つめる。
「アドル、朝早くに…今、もうすぐここから出発しちゃうんだ。お別れに行くなら……」
オリヴェルが話している途中で、マリーはベッドから降りて駆け出した。
寝間着のまま、靴も履かずに。
――――嫌だ!
マリーは走りながら、心の中で叫んだ。
涙がこみ上げてくるたびに、ゴクンと唾を飲み込む。
――――嫌だ! 嫌だ! どうして? どうしてこんなに急なの? どうして今なの?
疑問があふれる。
言いたいことはいっぱいあった。
せっかく覚えた祭りの踊りのことだって、春になったら川べりのれんげ草を摘みに行くことだって、勧めてもらった少し難しい本を、今、一生懸命読んでることだって。
玄関ホールが見える場所まで来ると、ちらほらと大人が集まっているのが見えた。
まだ夜明け前で、ほとんどの使用人は寝ている時間だ。
薄暗い中、ランタンを持ったネストリの姿を見つけて、マリーの足が竦んだ。いつもは怒鳴りつけるように命令するのに、今は静かにコソコソとなにやら指図している。
やがてコツコツと固い足音が聞こえてきて、マントを羽織った大柄な金髪の男が玄関の扉へ向かって歩いて行く。その後に付き従うように、黒髪の少年が歩いて行くのを見て、マリーはあわてて走り出した。
階段を駆け下りながら、心の中で何度もアドリアンの名を叫ぶ。
「お気をつけて」
扉の前にはミーナが立っていた。優しい笑顔を浮かべて、アドリアンを送り出す。
「ありがとう」
アドリアンの声が聞こえる。
マリーはようやく玄関ホールまで降りてくると、一旦、苦しくて立ち止まった。ハァハァと激しく肩が上下する。スゥと息を吸い込むと、また走り出した。
「おゥッ!」
ネストリは脇をすり抜けていった小さな突風に、思わず声を上げた。
「あっ…待て」
あわてて手を伸ばしたが、なるべく他の使用人に気づかれないよう静かに送り出すこと…と、ヴァルナルに厳命されているので、大声で怒鳴ることもできない。
ミーナは自分の前を走っていった小さな影を、一瞬驚いたように見送ってから、飛び出していったのがマリーとわかると、あわてて後を追いかけた。
「マリー!」
ミーナが叫ぶと、馬車の前でヴァルナルに挨拶していたアドリアンが気付く。
マリーは心の奥底から必死に叫んだ。
「アドル!」
泣きながら自分の胸に飛び込んできたマリーに、アドリアンは心底驚いた。
同時に、ホッと笑みが浮かぶ。
「良かった。声が…戻ったんだね」
しかし、せっかく戻ってきたマリーの声は、泣きじゃくってまともに発することもできなかった。
アドリアンはマリーが寝間着姿で寒そうだったので、すぐに自分の
「嫌だ! どうして帰っちゃうの!?」
マリーはどうにか
「お兄ちゃんだって、まだ治ってないのに! お祭りの踊りだって踊ってないよ! 約束したじゃない!」
小さな女の子が、しゃくり上げながら真っ赤な顔で小公爵に怒鳴りつける様子を見て、ルーカスはニヤニヤと笑っていた。
ヴァルナルは突然過ぎて驚くばかり。
ミーナがマリーの肩に手をかけて、やさしく諭した。
「マリー。アドルはおうちに戻ることになったの。だから、ちゃんとお別れを言いましょう」
言いながらマリーをアドリアンから引き剥がそうとしたのだが、マリーは「
「まったく…なんと無礼な」
ウルマスが眉間に皺を寄せてつぶやくのを聞くと、アドリアンは黙るように目で制してから、マリーにやさしく言った。
「ごめんね、マリー。急に決まって、驚いたよね。踊りもせっかく教えてくれたのに、踊れなくなってごめんね。オヅマのことも……ごめん」
アドリアンの声は震えていた。
そっと自分の背中をさするアドリアンの手に、マリーは落ち着いてくると、手を緩めた。
少しだけ離れて、じっと涙に濡れた目でアドリアンの
アドリアンに会ったばかりのころ、この鳶色の目が少しだけ怖かったのをふと思い出した。
悲しくて、辛い気持ちを押し殺した、硝子のような瞳。
日が経つにつれ、その瞳はやさしい光をともすようになった。
今ではマリーはこの鳶色の瞳が大好きだった。
「マリー」
アドリアンはマリーと目線を合わせるように立膝になると、そっとマリーの濡れた頬に手をあて涙を拭った。
「ありがとう。友達になってくれて」
マリーはコクンと頷くと、また涙がボロボロこぼれた。
アドリアンはやっぱり行ってしまうのだと、マリーにだってわかっていた。だからもう何も言えなかった。
アドリアンは喉奥からこみ上げてくるものを押さえて唇をブルブル震わせたが、それでも懸命にマリーの前で笑顔を浮かべた。
「きっと…………また、来るよ」
「本当!?」
「うん。必ず、来る。その時には皆で祭りで踊ろう。今度こそ」
「絶対よ! 絶対に約束よ!! アドル!」
マリーは大声で叫んでアドリアンに抱きついた。
返事の代わりにアドリアンはマリーを抱きしめて、そのまま持ち上げる。今になって気付いたが、マリーは裸足だった。
「ヴァルナル」
呼びかけると、ヴァルナルがすぐに腕をのばしてアドリアンからマリーを引き取った。
「世話になった。でも、また必ず来る。今、約束したからね。マリーと…オリヴェルとも」
「……お待ちしております」
ヴァルナルは何も言わなかった。
今回のことがあって、またここに来るのは簡単なことではない。だが、アドリアンがそう決意するのであれば、自分も出来得る限りのことはしよう…。
アドリアンは馬車に乗ると、窓越しに手を振った。
ヴァルナルに抱きかかえられたマリーが、両手で手を振っていた。
馭者が声をかけて馬が走り出す。
まだ夜明けの前の暗い道を、ゴトゴトと進んでいく馬車にマリーはいつまでも手を振っていた。
ずっと振っていれば、早くにアドリアンがまた戻って来るような気がして。
◆
馬車の中でアドリアンはまた無表情に戻って、暗い窓の外を見るともなしに見ていた。
領府を抜け、街道を走り出すと、徐々に夜が明ける。
アドリアンの脳裡に、初めての朝駆けのときのことが浮かんだ。
金の曙光が地平線を貫くように光って、やがてドロドロと滴り落ちそうな赤の太陽が空へと昇っていく。
東の空にたなびく雲は紫や橙に光り、西の空には輝きを失っていく三日月が、しずかに地平に沈んでいく。
――――なかなかやるじゃねぇか。
ニヤリと笑ったオヅマの顔が懐かしい。
もう、懐かしいものになっていることに、アドルは途端に胸が苦しくなった。
血がにじむほどに唇を噛み締めて泣くのをこらえていると、昨夜のオヅマの声が聞こえてくる。
――――ずっと泣きそうだったろ?
「うっ…」
アドリアンは耐えきれず、
目の前に座っているウルマスがギョッとして、声をかけてくる。
「ど、どうなさいました?」
「………」
アドリアンは両手で顔を覆うと、もはや悲しみを押し殺すこともなく、声をあげて泣いた。今はひたすら泣きたかった。
たった数ヶ月。
なのに長く暮らしてきたアールリンデンにいた頃よりも、思い出は深くアドリアンに刻まれていた。
――――この子は、しばらくお前の
――――えっ?
互いに嫌悪感しかなかった初対面。
――――だからぁ、返事っ
理不尽なくらいに横柄で、尊大な対番。
絶対に仲良くなるなんて、有り得ない。
――――おはよう。今日はお天気だって
傍若無人な兄とは対照的な、笑顔のかわいい、エメラルド色の瞳の少女。
慣れない生活の中で、唯一彼女だけが最初からずっと変わらず、やさしかった。
――――オリヴェル・クランツ。
なぜか初対面で好戦的だった、尊敬する騎士の息子。
仲良くなれるかもと想像していたのに、思っていたよりも子供っぽくてがっかりした。
それでも彼の描く絵の見事さを褒め称えると、顔を真っ赤にして小さく礼を言った。
――――あ…あり…がとう
そういえば、その時にマリーに言われたことが意外だった。
――――アドルは素直で物知りだから…
今までに『素直』な子供だと言われたことは、一度もなかった。むしろ周囲の人間が言うように、妙に老成したつまらない部類の子供だと自覚していたし、そうあろうとしてきた。
でも嬉しかった。
後で何度も思い出しては噛みしめた。彼らの前でだけは、自分は子供でいいのだと、許された気がした。
優しい妹と違って、天邪鬼な兄の方はいつも人を怒らせるようなことばかり言ってきた。
――――お前に出来ないことがあったって、別に問題ないから~
思い出してもムカっ腹がたつ。あの言い方。完全に馬鹿にしている。
幼い頃から完璧であることを求められて、いつも応えてきた。大人しく降参することなどできなかった。
そうやってムキになって対抗する自分が新鮮だった。
けれど、いつも憎まれ口を叩いていた彼の痛々しい姿に、言葉を失った。
――――見え…ない…
その声は、普段の傲岸不遜な彼からは想像できないほどに弱々しかった。
蝋のような白い顔で、それでも彼が言ったのは一言。
――――たすけたかった…
ただひたすらに、守るもののために戦ったオヅマ。
――――君は、僕たちを助けたんだよ、アドル
自分を責めるばかりのアドリアンを勇気づけてくれたオリヴェル。
――――『ありがとう、アドル』
声を失うほどの恐怖を味わいながら、それでも笑って励ましてくれたマリー。
「……うぅ…うぅッ…!」
アドリアンは涙を堪えなかった。
つらいことを乗り越えるために、今はひたすら悲しみたい。自分を憐れみたいのだ。
ポカンと見ていたウルマスは、ゴホンと咳払いすると鹿爪らしい顔で注意する。
「小公爵様、そのようにみっともなく泣くものではございません。公爵閣下が見れば情けなく―――」
「うるさい! 黙っていろ!!」
アドリアンが一喝すると、ウルマスは言葉を詰まらせウヒっ! と妙な音を出した。
それからはなるべく小さくなって沈黙する。
ガタゴトと音をたてながら、馬車は朝焼けの空の下を進んでいた。
アドリアンは洟をすすると、窓の外へと目をやった。
だんだんと温かさを帯びてきた早春の光が、まだ種蒔き前の雪の残る畑に燦々と降り注いでいる。
流れゆく朝の景色が美しいほどに、涙がこぼれる。
アドリアンはさめざめと泣きながら思った。
父は確かに
それも、とてつもなくつらい罰を。
彼らに別れを告げなければならないことが、心が引き千切られるみたいに痛む。
こんなに苦しい気持ちになるなら、いっそ鞭打ちでもされた方がマシだ。
だが―――――
もしオヅマ達に会えないままに、公爵邸で過ごしていたら…?
アドリアンはゾッとした。
あのまま泣くこともなく、つらい気持ちを押し殺して生きていくなんて、今ではもう考えられなかった。
―――――諦めんな。もっと…
血の気の失せた顔で、それでもオヅマはアドリアンを励ます。
―――――俺は…抗う。
「…う…クッ…!」
アドリアンはまた喉を這い昇ってきた嗚咽を飲み込んだ。
きっと、また来る。
約束したのだ。
誰であっても約束は破ってはならないが、彼らを裏切ることは絶対にできない。
だから、また戻ってくる。必ず、会いに行く。
そのためには、父とも向き合う。
ギリ、と奥歯を噛み締めてアドリアンは顔を上げた。
決然とした
次回は2022.08.31.更新予定です。