第七十六話 慈悲深き死神
湖畔の都とも呼ばれる帝都・キエル=ヤーヴェは縦横に運河がはしっている。だから水死体が上がるのは珍しくなかった。まして貴族の住まうような上層地区でなく、下層の掘っ立て小屋の並ぶ貧民街であれば、酔漢や、ならず者同士が喧嘩で水路に落ちて命を失うのは日常茶飯事であった。
その日、ガシャナ地区の水路で見つかった死体は、正確には水死体ではなかった。彼の背中には大きく深い傷跡があったからだ。しかも両足首と腰には藻の絡んだ紐が巻かれていた。
途中で紐は千切れていたが、おそらくその先には死体を沈めるための重石がつけてあったのだろう。日が経って、紐についた藻を魚が食っているうちに、紐が千切れて死体が浮かんだのだ。
一応検分にあたった
よくある荒くれ者同士による喧嘩の末のことであろうと、特に捜査が行われることはなかったのだ。
それも珍しくない日常の光景だった。
ガヤガヤと騒がしい群衆に紛れて、エラルドジェイはその死体を見ていた。
ゴツっと、そそっかしい警邏隊の新米庶衛士が死体の頭を蹴ると、上を向いていた男の顔がこちらを向いた。
エラルドジェイは口の中でその名を呼んだ。
……ニーロ。
自分の師匠であり、
――――もう俺の人生の折り返し地点はとうに過ぎてんだ。勝負に出るなら、今かもしれん……
勝負に負けた彼の顔は白く、ぶよついて往時の面影はなかった。
エラルドジェイはその場を立ち去った。
どうやら見通しは甘かったらしい。なぜ自分達が目をつけられたのかはわからないが、黒幕はダニエルだけで済ます気はないようだ……。
慎重に身を隠しながら、エラルドジェイは数日の間、ニーロを殺した犯人について探った。
それは案外とすぐに割れた。
「あんたが裏切ったとはな、アウェンス」
ニーロの作った弱小闇ギルドの受付係兼構成員でもあったアウェンスと、その妻のグリエは、エラルドジェイが自分達の新居に現れた途端、真っ青になった。
肉屋が閉店していた段階で、エラルドジェイはアウェンス一家ごと消されたのかと思って心配していたのだが、何のことはない。中身を開ければ、アウェンスは今回のダニエルの前金三十
小さなギルドで、構成員などエラルドジェイの他にはアウェンスとその妻ぐらいなものだったから、上下関係などあってないようなものだった。
だからニーロもアウェンス達を警戒していなかったのだろう。
さもなければ、背後からあんなにグッサリときれいに刺されることなど有り得ない。いっても、ニーロはエラルドジェイにこの稼業のイロハを教えてくれた達人なのだから。
「ジェイ…」
アウェンスがかすれた声で呼びかける。
ニーロ同様に家族同然の付き合いをしつつも、エラルドジェイは彼らに
なぜだかはわからないが、教える気になれなかった。
今となれば、自分の感覚は合っていたようだ。
「……勘弁しとくれ、ジェイ!」
普段無口なアウェンスの妻・グリエが叫んだ。
「息子の薬が
エラルドジェイは眉を上げる。
「マルコがどうしたって?」
アウェンスとグリエの間には子供が二人いた。
子供達は二人とも、両親が裏でどういう仕事をしているのかは知らない。
ニーロとエラルドジェイのことも、家の二階を間借りしている居候としか思っていなかった。
マルコは今年で九歳になるが、エラルドジェイが知り合った頃には既に病気の身の上だった。
アウェンス達はその病気について詳しいことを教えなかったが、よほどの重病であろうことは、マルコがずっとベッドで過ごし、家から一度も出たことがないことを考えれば、おおよそ理解できた。
だからこそエラルドジェイもニーロも、自分達の報酬からいくらか家族に援助していたのだが―――――…
「紫蝶病なんだよ…」
力なくグリエは言った。「もう、足は動かない…」
紫蝶病は、下半身から紫斑が増えていき、徐々に神経が麻痺して、最終的には全身に紫斑が広がって心臓の麻痺が起きて死に至る病気だ。
初期の両足裏に現れる蝶のような形の紫斑の段階で治療を開始すれば全治も可能であるが、庶民にはその薬も、治療するために医者に通うことも難しい。
一度、罹患すればただただ死を待つしかない。
しかもこの病は伝染病ではないのだが、その見た目の醜悪さから忌み嫌われ、罹患した者が虐待を受け、捨てられたり殺されることも珍しくなかった。だから、アウェンス達は隠していたのだろう。いくら家族ぐるみで仲良くしていても、こうした病を嫌悪して豹変する人間は少なくない。
しかしエラルドジェイの表情は動かなかった。
「なんで素直にニーロに言わなかった?」
「言ったさ! 言って、助けてほしいと頼んだんだ!! でも、アイツは『待て、待て』って……ちっとも助けてくれなかった」
アウェンスはウロウロと目を泳がせながら、それでもエラルドジェイの方を見ようとせずに必死に抗弁する。
エラルドジェイは眉を寄せた。
ギリ、と奥歯を噛む。
馬鹿野郎め…そんなところで、サプライズでもしようと企んだのか? もう少しで百七十
「
「でも、先月までに金を持って行かないと駄目で…仕方なかったんだよ!」
必死になって弁解するアウェンス達に、エラルドジェイはクスリと口の端を歪めた。
「
「怪しいことなんてない!
「慈悲深い神様は生贄としてニーロを要求したのか?」
エラルドジェイが皮肉を言うと、アウェンスは黙り込んだ。
おそらくエラルドジェイまでの間合いを測っているのだろう。そっと、左腕を背後に挿した短剣に伸ばしている。
「アウェンス。俺らの商売にとって一番重要なものは?」
エラルドジェイが尋ねると、アウェンスは視線をさまよわせた。
「……技…か?」
「違う。信用だ」
エラルドジェイは言い切ると同時に、一歩前に出て右手を払う。
瞬時に現れた四本爪は正確にアウェンスの喉笛を掻き斬った。隣で驚いたグリエが悲鳴を上げる前に、横に払って同じように喉を裂く。
凄まじい勢いで血が噴き出して、家族の団欒部屋は真っ赤に染まった。
「裏切者を許しておくようじゃ、闇ギルドの信用にかかわる。たとえ構成員が一人でもな」
グリエとアウェンス二人の血飛沫を浴びながら、エラルドジェイは無表情に言った。
ふと見れば、アウェンスの短剣が血溜まりに落ちていた。短剣にしては分厚く長い刀身は、さすが肉屋とも言うべき重量感だった。これで背中を一突きされれば即死だったろう。
エラルドジェイはその短剣を手に取った。
「母さん? 父さん? どうしたの?」
マルコが奥の部屋から呼ぶのが聞こえた。
エラルドジェイは
昼間でも光が差さないように、マルコの部屋には分厚いカーテンが引かれたままだった。この病気は日光で痛みを生じるらしい。昔、奴隷であった頃の仲間が同じ病気になっているのを見ていたから、エラルドジェイは知っていた。
「母さん? ………誰?」
マルコは扉を開けて入ってきた血塗れのエラルドジェイを見ても、無反応だった。
「俺だよ、マルコ。わかるか?」
エラルドジェイが声をかけると、マルコの顔がほころんだ。
「ジェイ! 久しぶりだね!!」
「あぁ…元気……でもないか」
エラルドジェイがマルコの頭を撫でると、マルコは少し驚いたように目を瞬かせた後に笑った。
「ごめんね。もう目が見えないんだ。もしかしたら…気味の悪い顔になってるかもしれない」
「そんなことはねぇよ。相変わらず丸猫みたいな顔だ」
エラルドジェイは言ったが、確かにマルコの頬や首に紫斑が出ていた。
失明し、顔にまで紫斑が出ている。もはやマルコの命は風前の灯だ。ここまできて、一体、どんな治療を施せば治るというのか…?
その
「なぁ、マルコ。早く治りたいか?」
エラルドジェイが尋ねると、マルコは一瞬、寂しそうに目を伏せてからコクンと頷いた。
「そうか…」
エラルドジェイはもう一度、マルコの頭を撫でた。
同時に、アウェンスの短剣で心臓を一突きする。
マルコは呻くことすらなく、事切れた。
「………さっさと死んで、さっさと生まれ変わってこい」
短剣を抜いて、マルコの見開いたままの瞼を閉じる。
ゆっくりとベッドに寝かしつけると、「帰ったわよぉ」と帰宅を告げる声が聞こえた。
どうやら娘が帰ってきたらしい。
本当は今すぐに窓から逃げた方がいいのがわかっていたのに、エラルドジェイは途端に体が重くなった。
動くこともなく佇んでいると、父母の死体を見て腰を抜かした娘のカトリが四つん這いになりつつ、必死で歩いて扉に縋りつきながら入ってくる。
「ジェイ……」
カトリはエラルドジェイを見てつぶやいた。
「どうして……?」
引き続き更新します。