昏の皇子<KURA NO MIKO>   作:水奈川葵

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第七十七話 少女の恋、悪魔の誠実

 カトリは今年で十五才になる少女だ。

 両親と弟との四人家族。

 

 どこにでもある家庭だと思っていたが、父親が見つけてきてくれた商家で召使いとして働き始めると、両親がちょっと変わった仕事をしているのではないか…と少しずつ疑うようになった。

 

 それは両親だけでなく、二階に住む居候の男達にも感じた。

 

 けれどカトリは慎重だったので、自分の持った疑問を簡単に誰かに打ち明けることもなかった。まして、その内の一人はカトリにとって、とても大事に思う人であったから、彼との関係性が壊れることの方がカトリには怖かった。

 

 その人はまだ冬の厳しい日に、突然姿を消した。

 これまでにも何度かいなくなることはあったが、今回は長かった。

 

 カトリが我慢できずに、残っていた赤毛のおじさんに尋ねると、「しばらく遠方に買入に行ってんだ」と言われた。

 何か不穏なことをしに行ったのだろう…とカトリは気を揉んだ。

 

 毎日、カトリは月に祈った。

 彼が無事に戻ってきますように。もう一度彼と会えますように。

 

 だが彼と会えないまま、ある日、赤毛のおじさんがいなくなり、カトリ達家族は店を畳んで、これまでよりも少しいい場所に家を買って引っ越した。

 

 弟は清潔で空気の通りのいい家を気に入ったようだった。少しだけ元気になった。

 両親達は「()()()()に言われた通りに家を変えてよかった。薬ももらえたし、きっとマルコは治る」と喜んだ。

 カトリも弟が元気になって、両親が嬉しそうな顔を見るのは嬉しかったが、彼に会えなくなってしまったことだけが、心にポカリと寂しい穴を開けた。

 

 一時的に快方に向かっていた弟の体調は、春が近づくにつれ、また悪くなっていった。

 両親は弟を治してもらうために、()()()()のところへ何度も行って頼み込んで薬をもらってきたが、その薬を服んでも弟は一向によくならなかった。

 

 紫斑はとうとう首にまで出てきて、目が見えなくなり、弟にとって唯一の楽しみだった本を読むことも出来なくなった。

 

 今日はカトリの給料日だった。

 今月は使用人が風邪で何人か休んで泊まり込むようなこともあり、少しばかり多めにもらったので、久々に弟の好きなアーモンドを砂糖衣で包んだ菓子を買った。

 

「帰ったわよぉ~」

 

 弟の喜ぶ顔を楽しみに帰ってきたカトリは、家に入った瞬間、血の匂いに顔を顰めた。

 それは覚えのある匂いだった。ついこの間まで肉屋をやっていた父に染み付いた匂いでもあった。

 父がまた肉屋を始めるのだろうか…とカトリは首をかしげながら、部屋の扉を開けた。

 

 飛び込んできた光景は、カトリの脳を麻痺させた。

 声も出ず、西日が差す真っ赤な部屋をしばらく眺めていた。

 ぼんやりと考えたのは、この部屋が真っ赤なのは西日のせいなのか血のせいか、どちらなのだろう…という、的外れなものだった。

 

 徐々に冷静さを取り戻すと、我に返る。

 

 (マルコ)は? 

 

 カトリはあわてて弟の待つ部屋へと向かおうとしたが、足がうまく動かなかった。

 それでもとにかく前へと前進したくて必死に歩く。

 ほとんど四つん這いになりながら弟の部屋に辿り着くと、扉が半分開いていた。

 

 カトリの心臓がドクンと波打った。

 よろよろと扉にすがりついて立ち上がる。

 一歩足を踏み出して、薄暗い部屋に佇む男の横顔を見て、つぶやいた。

 

「ジェイ…」

 

 懐かしい人。

 いつも無事を月に祈っていた人。

 紺色の髪と同じ色の瞳の、愛しい人。

 

 その彼はどうして、あんなに血に(まみ)れているのだろう…?

 

 心の(うち)で問いかけながら、もうカトリにはわかっていた。

 彼が両親と弟を殺したことを。

 

 カトリの薄茶の瞳の中で涙が震えた。

 

「どうして…?」

 

 エラルドジェイは自分が鈍重になったと思った。問われても、すぐに答えが出てこない。

 涙をこぼすカトリをじっと見つめて、反対に問いかける。

 

「どうして…? なにが…?」

 

 なんの表情もないエラルドジェイに、カトリはブルブルと震えると、涙声で叫んだ。

 

「どうして……どうして私の家族を殺したのよ!?」

 

 この状況で何も言わずに横たわる弟。既に死んだことは、確かめずともわかった。

 

 エラルドジェイは激昂するカトリをしばらく見つめ、静かに言った。

 

「裏切ったからだ」

「……裏切った?」

「お前の両親は、俺達を裏切って金を盗んだ。俺らは闇ギルドだ。裏切者は制裁されなければならない」

 

 闇ギルド、という言葉にカトリはどこかで納得していた。ずっと胸に秘めていた疑問が指し示す答えの一つにあったからだ。しかし、だからといって理解できるわけがない。

 

「どうして殺される必要があるのよ…。お金なら返すわ。私が働いて…」

「金だけの問題じゃない。お前の両親はニーロを殺した」

 

 カトリは愕然とした。

 

 いきなり姿を消した赤毛のおじさん。

 カトリの誕生月になると髪飾りを買ってくれ、マルコには本を買ってくれたおじさん。ちょっと強面だけれど、優しかった。

 その人を…両親が…殺した?

 

「……嘘」

「嘘じゃない。ニーロは殺されて、運河に沈められた。この前、浮いてきたけどな。ぶよぶよの顔になって、耳が魚に食われてたよ」

 

 エラルドジェイは思い出して口の端を歪めた。

 悪党らしい最期と言えるのかもしれない。

 ニーロは恨んだりもしていないだろう。仲間だと思っていた奴らに信頼されてなかったことを少々苦く思うだろうが。

 

 カトリは両親が人殺しをしていた事実に震えていたが、それでも納得できぬことがあった。

 

「……マルコは? なんでマルコを殺したの!?」

「………」

 

 エラルドジェイはベッドに横たわり、白い顔のマルコを見つめた。

 頬の紫斑は薄くなってきていた。不思議なことに、この病気は死んだら紫斑がどんどん薄くなっていく。命とともに、病も昇華されるように。

 

「…どうせ長くない」

 

 マルコを見下ろしたままエラルドジェイがつぶやいた言葉に、カトリは一気に憎悪が膨らんだ。

 

「ふざけないで! 勝手に決めないでよ!!」

「まさか…お前も両親と同じ、()()()()とやらの言葉を信じているのか?」

「なんですって?」

「この病気がここまで進んで、治るわけがない。期待だけさせて、騙されて、人まで殺して……救いようがない」 

 

 カトリは全身が怖気(おぞけ)だった。

 この男は何を言っているのだろうか? 人を三人も殺しておいて、平然と血塗れの姿で、一欠片の後悔も反省もなく。

 

「………人殺し」

 

 無意識につぶやいたカトリの言葉に、エラルドジェイは顔を上げて振り返った。無表情だったその顔に微笑がひらめく。

 

 カトリは震え泣きながら、目が離せなかった。

 

 エラルドジェイはゆっくりとカトリに近寄ると、持っていた短剣を差し出した。

 

「………?」

「持て。お前の父親の形見だ」

 

 カトリは何も考えずに受け取った。血のついた(きっさき)はエラルドジェイに向けられている。

 カトリの目の前で、エラルドジェイが手を広げた。

 

「殺せよ」

 

 カトリは途端に重くなった短剣を持ったまま、慄えが止まらなかった。

 涙に濡れた瞳でエラルドジェイを睨みつける。どうしてこんな選択をさせてくるのだろう、この男は。

 

「どうせ一突きで殺すなんてできないだろうから…何度でも刺せばいい」

 

 悪魔のようだった。

 カトリはしゃくり上げながら、短剣をエラルドジェイに向けたまま動けない。

 

 エラルドジェイはしばらく待っていたが、いつまでたってもカトリが来ないので、一歩、足を進めた。こちらが動くことで、恐怖し、自分の身を守ろうとして攻撃するのは、当然の反応だ。それは正当防衛で、カトリは何も悪くない。

 

 だが、エラルドジェイはわかっていなかった。

 カトリはエラルドジェイが両親と弟を殺したことに驚愕し、失望し、憎悪していたが、彼自身への恐怖はなかったのだ。

 むしろ、自分が彼を殺すことを恐れた。

 

 もう一歩。

 カトリに近づいていくのに、彼女はまったく殺しにこない。

 

 エラルドジェイは眉を寄せ、もうどうでもよくなった。

 一気に彼女に近づいて、そのまま自分からカトリの持つ短剣に刺されようと思ったが、寸前でカトリは短剣を手放した。

 

 カラン、と音をたてて短剣が床に落ちる。

 

「いや……」

 

 カトリはか細い声で言った。「絶対に…いや」

 

 潤んだ薄茶の瞳が自分を見上げている。

 エラルドジェイは急に苛ついた。自分でもどうしてこんな気分になるのかわからない。

 

 カトリの腰を掴み寄せると、強引に彼女の唇を奪った。

 驚いて固まったカトリは、一瞬、静かだったが、すぐに抵抗した。

 

「嫌ッ!!」

 

 思っていたよりも強い力で押し返されて、エラルドジェイはよろめくと、ハァと息を吐いた。

 

 自分でも悪い状態だとわかった。神経が昂ぶってて、何をするかわからない。

 思い出したのは、最初の殺人の時だ。あの時も似たような状態になって、帰ったらニーロに娼館に連れて行かれた。

 

 エラルドジェイはカトリを見た。

 出会った頃はまだ子供だった。ずっと子供だと思っていた。でも引き寄せた腰は細く、抱きしめた時の胸は膨らみがあった。

 

 危ない。このままだと、確実に犯す。

 

「………ジェイ」

 

 カトリが弱々しい声でエラルドジェイを呼ぶ。

 いつの間にか前髪を上げた額は広くて、乱れた髪が垂れ落ちているのが、煽情的だった。

 

 エラルドジェイはまた一歩、カトリから離れた。

 ギリ、と唇を噛み締め、拳を握りしめる。狂気と理性の分かれ目で、エラルドジェイはますます表情を失くした。

 

 ふと出た言葉は自分でも理解できなかった。

 

「……ジェイは通り名だ」

「………なんですって?」

「本当の名はエラルドジェイだ」

 

 早口に言うと、エラルドジェイは窓まで走っていき、その場から逃れた。

 

 カトリはエラルドジェイが去っていった窓の外を見つめて、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、急にガクリと崩折れた。

 

 一体―――何が起きたのだろう?

 あの男は自分に何を残していったのか…?

 

 カチカチと歯が鳴る。

 いきなり押し寄せてきた恐怖と、悲しさと怒りと、この後に及んでも消えない彼への想いがぐちゃぐちゃになって、カトリの中で渦巻く。

 

「わあああぁぁッッ!!」

 

 カトリは慟哭した。

 彼が唇に残していったアーモンドの味が、なまぐさい血の臭いと一緒に染み付いた。

 

「………許さない」

 

 ウッウッとしゃくり上げて泣きながら、つぶやく。

 何度もつぶやいて、カトリは必死に彼を憎んだ。

 

「……許さない! 絶対に…絶対に……許さない!!」

 





次回は2022.09.03.土曜日に更新予定です。

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