既に公爵は大廊下での一悶着について聞き及んでいたらしい。執務室にはルーカス・ベントソンもいて、早速楽しげに尋ねてきた。
「アルビン・シャノルと軽く小競り合いがあったようじゃないか」
「あぁ。…だが私などより、小公爵様が上手にあしらって下さったよ。いつの間にあんな物言いができるようになったのだろうな。頼もしい限りだ」
「ハッ! よく言う。誰がそんな風に変えたのやら」
ルーカスは笑ったが、公爵は息子の成長に対して無関心な表情だった。
ダニエルの事件のことで、さすがの公爵も息子の身を案じ、予定よりも早い帰省を命じたのかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
ヴァルナルは内心で嘆息した。
まだ、
「それより、ハヴェル・グルンデン公子が、イェガ男爵令嬢と婚約すると聞いたんだが…」
ヴァルナルは話を変えた。
今はこちらのことの方が重要だ。
「あぁ、らしいな」
ルーカスが頷いた。
「……よろしいのですか?」
ヴァルナルが尋ねると、公爵の
「なにか、気になることがあるのか?」
「お分かりでしょうに。明らかな牽制です。八歳も年の差があって、侯爵令息の相手が同系列家門の男爵令嬢なんて。イェガ男爵とエシルの騎士団を抱き込もうとしているのは、明白です」
強い口調で言うと、公爵は興味深げに微笑んだ。
「フ……お前がそんなことに頭が使えるようになるとはな」
「馬鹿にしておいでですか?」
「まさか。お前が賢いのはわかっておる」
「やっぱり馬鹿にしていますね…」
ヴァルナルはちょっとむくれたように言ってから、顔を引き締めた。
「今回のダニエル・プリグルスの件も含めて、彼らはなりふり構わず小公爵様に手出ししてきているのですよ。よろしいとお考えですか?」
公爵は無表情になり、背凭れに身を沈めると、手を組んでしばらく黙り込んだ。
思っていたよりも長い沈黙に、ヴァルナルはゴクリと唾を飲み込んだ。
静かな緊張感が漂う中、公爵の口から出たのは、無情な言葉だった。
「私は、グレヴィリウスの存続を考えるのみだ」
ヴァルナルは固まった。
いつもは余裕綽々と、とぼけた態度のルーカスもピクリと眉を寄せ、真顔で口を引き結ぶ。
「そ…れは…どういう意味です?」
ヴァルナルはすっかり困惑して問いかけた。
「小公爵…アドリアン様を後継から外すこともあると?」
「それはない。しかし、過去においても必ずしも継嗣が公爵家を相続した訳ではない。その都度、選ばれた…あるいは、選択の余地なくして選ばせた。もし、純粋な長子相続だけが正統であると考えるのであれば、私も外れる。なにしろ三代前の方は嫡出子でもなかったのだから」
現グレヴィリウス公爵エリアスの曽祖父のベルンハルドは、元は庶子であったが、嫡出の兄達が次々に流行病で亡くなり、公爵家に引き取られている。彼以降、グレヴィリウス公爵は代々冷血公爵の異名を持つことになるのだが、その話はまた別で語られるとして。
「それは…そうですが」
ヴァルナルが少し気まずそうに同意すると、公爵は薄ら笑って尋ねた。
「私がこの地位にあるのも、ただ安穏と父からの地位を承継しただけと、思っているのか?」
ヴァルナルはまた黙り込んだ。
エリアスもまた、腹違いの弟を
反対派を黙らせたからこそ、彼の権威は絶対的なものとなり得ているのだ。
考えてみれば、その弟はハヴェル公子の母でもあるヨセフィーナ・グルンデン侯爵夫人の実弟であった。もしかすると我が子可愛さだけでなく、彼女には弟の復讐という目的もあるのかもしれない。
しかし……。
「しかし、まだアドリアン様は子供です」
ヴァルナルは静かに、それでもはっきりと伝えた。
まだ、子供のアドリアンを後継争いに引きずり込むべきではない。いずれ避けようのないことだとしても、今は大人の手で彼を守るべきだ。
だが最もアドリアンを守れる立場にいるはずの公爵は、やはり無表情に淡々と答える。
「だが、私の子だ。グレヴィリウスの正統を重んじる人間にとっては、私の子であるという正当性を否定してまで、ハヴェルを推戴しようとは思わぬ。
「では、アドリアン様が暴漢に襲われてもよいと
「…………」
公爵は否定も肯定もしなかった。目を伏せて再び沈思黙考する。
ヴァルナルには公爵の考えがわからなかった。
あれほどに愛した
「今回のことでいうなら、目付役であるところのお前の失態というのが一番の問題だがな」
重く凍りついた空気を、軽い口調で変えたのはルーカスだった。
公爵も顔を上げると、フッと笑う。
「まったくだ。小賢しい手に引っ掛かって…
「申し訳ございません」
ヴァルナルは素直に頭を下げた。この事については、なんと処分されようが文句は言えない。
「いかようなる罰も受ける所存です」
「ふ……ん」
公爵はヴァルナルをじっと見つめていたが、意味深な薄ら笑いを浮かべた後、まったく別の話を始めた。
「ところで、面白い拾い物をしたそうじゃないか。黒角馬を見つけてきた小僧らしいな。主犯の男の首を斬ったのは」
「………は」
「まったく。お前はつくづく運がいい。その小僧の母親だと? お前が今、口説いている女は」
「ちっ、違…い……ません…が」
一気に顔を赤らめるヴァルナルに、公爵はクックッと喉奥で笑う。
「相変わらず、この手の話になると少年だな。ルーカス、これがあのレーゲンブルトの荒くれ者達の首領だなどと、陛下も信じられまいよ」
「まったくです。未だに手も握っておらぬようですし」
「て、手ぐらい、握った…っ」
ヴァルナルが真っ赤になって抗議すると、ルーカスは苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「………それを大声で閣下に報告するな。この万年純情中年が」
気恥ずかしそうに首をすぼめるヴァルナルに、公爵はクスリと笑みを浮かべてから、「さて」と机に両肘をついて、その組み合わせた手に顎を乗せる。
「このいつまでも及び腰の男に、どういう
「そうですねぇ…」
ルーカスは意味深にニヤニヤと笑った。
「この男のことですから、今年ものんびり帝都になんぞ行ってる間に、当の相手が別の男と一緒になってた…なぁんてことに、なっとることもあるやもしれません」
「………え?」
ヴァルナルは愕然とした。頭が真っ白になった。
「おいおい…」
ルーカスはあきれたように溜息をつきながら首を振った。
「お前は時々、本当に馬鹿だな。相手の女がお前に惚れているというならともかく、そうでないなら、有り得ない話じゃなかろう? 薄暗かったからはっきり見えなかったが、美人だったなぁ」
うっとりした様子で(もちろんワザと)話すルーカスに、ヴァルナルはあわてた。
「いっ…いつ見たんだ!」
「この前、小公爵様を迎えに行った時だよ。見送りに来ていただろうが。ホレ、あの小さな娘が走ってきた時に。目の覚めるような美人というのじゃないが、ああいう女を好く男は多いだろうな。まさかお前、口説く男が自分以外にはいないと思っているのか?」
ルーカスはあきれたように言いつつも、内心でニヤニヤ笑っていた。
目の前では、いつも騎士然として何事にも動じることのない男が、落ち着きなく視線をさまよわせている。
「でも、ミーナからそんな話は聞いてない…」
「わざわざ自分に言い寄ってくる男の話を好き好んでする女……がいないわけじゃないが、お前のそのミーナとやらは、そういう自慢をするような女なのか?」
「そんなことはしない!」
「だったら黙ってるだけかもしれんだろうが」
「………」
ヴァルナルは言葉をなくした。
あまりにわかりやすい動揺に、公爵はまたクックッと笑ってから、ヒュミドールから葉巻を取り出した。
「まさか…この年になって家臣からこんな青臭い話をされると思わなかったな」
楽しげに言いながら、手慣れた様子で葉巻の吸口をカットし、火をつける。
葉巻の先にじわじわと灰色の円環ができると、公爵は静かに吸って、口腔内で味を楽しんでから、ふぅと煙を吐いた。
微かなシナモンの香りと、
「…で、どうなのだ?」
「は? ……どう、とは?」
「手応えは?」
ヴァルナルはうっと詰まった。ルーカスならばともかく、まさか公爵御本人からこんな――俗な――質問をされるとは思ってなかった。
一体何を、どこまで答えればいいのかわからず、ヴァルナルは中途半端に口を開いたまま固まった。
「その様子だと、まったくない、という訳でもなさそうだな」
見透かしたように言って、公爵はまた一口、煙を喫する。
「へっ? そうなの、お前?」
ルーカスは意外だったのか、公爵の前にもかかわらず、くだけた口調になった。
「そ…れは、まぁ…」
「まさか手ぇ握ったくらいで脈アリとか思うなよ。ガキじゃないんだからな」
「………」
「駄目だ。コイツ本当に…」
ルーカスが額を押さえて天を仰ぐと、さすがのヴァルナルもムッとなって小さな声で抗議した。
「…そういうことは、言葉で説明できるものじゃないだろうが……」
「あぁ! まだるっこしい奴!! 閣下、裁定を願います」
ルーカスはとうとう我慢できなくなって、公爵に訴えた。
公爵は葉巻をゆっくりと燻らせる。
鳶色の瞳が、やや
一口吸って、フゥと長く煙を吐いてからヴァルナルに宣告した。
次回は本日の20:00に更新予定です。
今回は遅れて申し訳ございませんでした。