誘拐事件のあった日から
騎士見習いとして当然のように夜明け前の時間に目を覚まし、いざ起き上がってみれば、元いた小屋とはあまりに違う豪華な内装の部屋に混乱する。いつも隣のベッドで寝ていたアドリアンの姿もなく、薄暗い部屋の中で、オヅマはゾワリと肝を冷やした。
―――――まさか……
内心で問いかけながら、オヅマにも
―――――私は決して、お前を見捨てたりはしない……
低い男の声が不気味に響く…。
耳を押さえて身を縮こまらせていると、ドアが開いた。
ビクリと顔を上げて、そこに現れた母の姿に、オヅマは心底ホッとした。
「母さん…」
ミーナはオヅマが寝たきりとなってから、毎日早朝には息子の様子を見に行くことが日課になっていたが、その日、扉を開けて入るなり呼びかけてきたオヅマの姿に、信じられないように呆っと立ち尽くした。
「母さん?」
オヅマがもう一度声をかけると、ミーナはダダッと駆け寄るなり、オヅマを抱きしめた。
オヅマは久しぶりに母親に抱かれて少し気恥ずかしかったが、幸いなことにマリーもいないので、そのまま受け容れた。
母の匂いが懐かしかった。
ミーナは涙を流しながら、ようやく目覚めた息子の頬を撫でて、再び抱きしめる。「よかった」と何度もつぶやきながら。
「それで…マリーは? 大丈夫?」
ようやく落ち着いた母にオヅマがまず尋ねたのはマリーのことだった。
あの時、悲鳴を上げて倒れたマリーの白い顔で、オヅマの記憶は止まっている。
「大丈夫よ。もう元気にしているわ」
「……そっか」
オヅマはホッとしたものの、少しだけ心配だった。マリーは男の首を斬った自分を恐ろしがるかもしれない。
もし、マリーが自分を避けるようなら……そう考えて暗い顔になった時、当のマリーが姿を現した。マリーもまた、母と同じようにオヅマの様子を毎日見に来ていたのだ。
「お兄ちゃん!」
マリーは起き上がっているオヅマを見るなり叫んで、飛ぶように抱きついた。
「ごめんね! 私のせいで…ごめんね!」
マリーがしゃくり上げて泣きながら言うのを、オヅマは不思議がった。
「なんでお前が謝るんだよ?」
「だって、お兄ちゃん…私を助けてくれたのに、私、怖くて…叫んじゃったから…お兄ちゃん、必死だったのに……私が…」
オヅマは泣きそうになった。
さっきまでの心配は吹っ飛んだ。
マリーは…やっぱりマリーだ。あんな怖い思いをさせたのに、謝るなんて。
「バーカ。気にしてねぇよ」
オヅマは笑って、マリーの頭を軽くポンポンと叩いた。
それでも泣きじゃくる妹を慰めて、いったん落ち着かせてから、オヅマは早速、以前のように騎士見習いとしての朝の仕事にとりかかろうと思ったのだが、情けないことに長く寝たきり生活であったために、すっかり筋肉が落ちていた。生まれたての仔山羊よりも、よろよろと歩く自分に愕然とする。
すぐさまビョルネ医師の診察を受け、徐々に筋力を戻すことと栄養を摂取することを指示された。
「いーいですか? 徐・々・に! です。君はなんでも性急すぎるところがありますからね。徐々に、ゆっっっっくりと! 焦らず! 身体の機能を戻していくように!」
早く治せと喚くオヅマにビョルネ医師は念に念を押して諭した。
オヅマは不満だったが、実際に動こうとしても体が言う事をきかないのだから、医師の言われた通りにやっていくしかなかった。…………が、やはり気が逸る。
「それにしても……よく食べるね…」
オリヴェルは目の前で三本目の鹿肉ソーセージを食べるオヅマに呆れつつ圧倒された。一本あたり四十
「仕方ねぇだろ。たくさん食って、力戻さないといけないんだから…」
「徐々に、って言われてたと思うけど…」
「運動はできることからやってくしかないけど、食べるのはできるから、やれるだけやる」
「お腹壊さないようにね…」
オリヴェルにできる忠告はそれぐらいだった。
三本目のソーセージを食べる前には、レバーパテを挟んだパンも一個丸ごと食べているし、シチューもおかわりしている。見てるこっちが胃もたれしそうだ。
「お兄ちゃーん、ピーカンパイ出来たよ~」
オリヴェルがオヅマの食欲に白目がちになっている間にも、マリーが焼きたてのピーカンパイを運んでくる。甘く香ばしい匂いはいつもならおいしそうに思うのだが、今日は無理だな…とオリヴェルは軽く溜息をついた。
まぁ…でも。
マリーの心底嬉しそうな笑顔が見れたのが、オリヴェルには一番喜ばしいことだった。
アドリアンも帰って、オヅマの意識も戻らず、この
アドリアンが帰る直前に声が戻ると、毎日頻繁に…というよりほとんど詰めっきりでオヅマの部屋にいて、返事のない兄に呼びかけたり、話しかけていた。時々うなされていると、以前にオヅマが歌ってくれた子守唄を歌うこともあった。
それでも目を覚まさない兄に、毎日泣いていた。
オリヴェルはそれを見ていることしかできない自分がもどかしかった。本当に自分はいつも見ていることしかできない……。
「あーあ。アドルがいたら、きっとすごく喜んだのに…残念だわ。お兄ちゃん、どうしてもっと早くに起きなかったのよ?」
マリーは半分に切り分けたピーカンパイを手に持って食べる兄の旺盛な食欲に、すっかり安堵して言った。
「ずっとずうぅーっと、アドルが看病してたんだから。帰るまで、ずっと。お兄ちゃんがなかなか起きないから、お別れの挨拶もできなかったじゃない」
「知らねぇよ。あいつが勝手に帰ったんだろ」
「仕方ないよ。実家に呼ばれたんだから。きっと、色々聞いて心配されたんじゃないかな」
オリヴェルが言うと、マリーは少しだけ寂しそうな顔になった後に、「そうだ!」と声を上げた。
「アドルに貰ったものがあるの。お兄ちゃんにも見せたげる!」
言うやいなや、マリーは走って行った。
「………元気なやつ」
オヅマはあきれたように言いつつも、微笑んだ。
何より、マリーが無事であればいい。元気で笑ってくれていれば、自分の痛みなど軽いものだ。
オリヴェルも頷いてからホッとしたように言った。
「良かったよ。あの後、少しの間、マリー、声が出なくなってたんだ」
「え?」
オヅマはピーカンパイを食べる手を止めた。「なんだって?」
オリヴェルは自分の軽率な発言を後悔したが、今更、ごまかすこともできない。
「あの…ほんの少しの間だったけど…マリー、ショックで声が出なくなっちゃって…」
オヅマの顔が固まるのを見て、オリヴェルはあわてて言い足した。
「本当にちょっと間だから! アドルが帰るときに、ギリギリで戻ったんだよ」
「……アドルが帰る時?」
「うん。アドルが帰るって知って、マリー、あわてて追いかけて…その時に声が出たんだって」
オヅマはしばし、その情景を思い浮かべた。
そうして鸚鵡返しに尋ねる。
「……アドルを追いかけて?」
「う…ん……そう…」
オリヴェルは戸惑いながら頷いた。
オヅマは面白くなさげに腕を組んで、再びつぶやく。
「……アドルを追いかけて…」
「……そうだね…」
「…………」
「…………」
オヅマはぎゅうぅと顔中のパーツを真ん中に寄せて渋い顔になったし、オリヴェルもなぜか、モヤモヤした気分が湧き出てきた。
――――なんでアドル相手にそんな必死になるんだ?
――――仕方ないよね。アドルはあの時、帰るところだったんだから…。
両者の解釈は微妙に食い違いつつも、オヅマもオリヴェルもこの話題についてあまり深入りしない方がよろしかろう…という点で一致して、二人は黙り込んだ。
しかし、戻ってきたマリーが無邪気な笑顔を見せて、
「見て! 見て! これ! アドルに貰ったの!!」
頬を紅潮させて走ってきた妹が、嬉しそうにアドルの名を呼ぶ。オヅマの眉がピクッと苛立ちを浮かべた。
オリヴェルもニコニコと笑いながら、そっとマリーから視線をそらす。
マリーは別れ際にアドルにかけてもらったコートを大事そうに抱えて、オヅマの前に立つと、自分の体に合わせるようにして見せびらかした。
「格好いいでしょう、このコート! とってもあったかいの。アドル、大きいから私が着ても、袖から手が出ないの」
「……じゃ、俺がもらってやる」
オヅマがヒョイと取り上げると、マリーは真っ赤な顔で怒り出した。
「冗談じゃないわ! 私がもらったんだから!!」
「こんなモン、お前が着るやつじゃないだろ。男物なんだから」
黒を基調に、紺の縒紐で縁取りされた襟や袖口、中央部分には裏地に使われた黒狐の毛が縫い込まれ、間隔をあけて金色の釦が並んだそのコートは、確かに少女のマリーが着るには硬質な印象だった。
しかし、マリーにはそんなことは関係ない。
「返してよ!」
「………」
憤然と抗議するマリーはもう涙を浮かべていた。
オヅマはいつもなら軽口を二、三挟んでから返すところだったが、この時は早々に差し出した。
どうも…具合が悪い。色々と。
マリーは怒ったようにオヅマからコートを取り上げ、ブツブツ文句を言いながらコートの皺を伸ばしたりしていたが、ふと目に止まったものに声をあげる。
「……あれ? なんだろ、これ?」
「どうしたの?」
オリヴェルとオヅマもなんとなく気になって覗き込むと、マリーは襟元にある小さな
「これ、なんだろ? ……鹿? と、スズランよね、この花。これは鎌?」
「うん、そうだね」
オリヴェルはすぐにわかった。
牝鹿とスズラン、交差した鎌と剣はグレヴィリウス公爵家の家紋だ。
つまり、このコートは特別に誂えた一点物なのだろう。グレヴィリウス公爵家の一人息子であれば、不思議もない。むしろ、質素なくらいだ。
「グレヴィリウスの家紋だな」
オヅマが言うと、オリヴェルは驚いた。
「オヅマ、知ってるの?」
「知らない訳があるかよ。鎧にも刻んであるし、盾にもついてるぜ。この鹿は牝鹿なんだぞ、マリー」
「そうなんだ」
「牝鹿はサラ=ティナ神の化身ってことで、選ばれたらしいや。まぁ、だいぶ昔の話で本当かどうかわかんねぇらしいけど」
「へぇ…でも、なんでアドルのコートについてるの?」
マリーの単純な質問に、オリヴェルは詰まった。
アドリアンが直接、オヅマとマリーに自分の正体を話すことを約束したので、領主館では未だにアドリアンが小公爵であることについて箝口令が
オリヴェルは約束した当人だから、無論、言うわけにはいかない。
口ごもっていると、オヅマは当然のように言った。
「そりゃそうだろ。あいつ、公爵の………」
オリヴェルはオヅマの口から出て来たまさかの言葉に顔を引き攣らせた。いつの間に知っていたのかと思ったが……
「従僕だし」
次に続いた言葉に、一気に脱力する。
ソファに倒れるように体を凭せかけた。
「どうしたの、オリヴェル? 大丈夫? 気分が悪いの?」
マリーが心配そうに尋ねると、手を振って笑った。
「いや…大丈夫。ちょっとめまいがしただけで…」
「じゃあ寝ておいた方が…お母さん呼んでくる?」
「いや、大丈夫。うん……そうなんだよ。従僕…公爵様の従僕らしいよね」
オリヴェルは自分に言い聞かせるように言った。
あぁ…心臓に悪い。
「ま、そういうことだから。マリー、それ支給品だろうから、今度会ったら返せよ」
オヅマが言うと、マリーは少ししょんぼりしながらも、頷いた。
「そっか。そうだね…アドル、あの時私があわてて寝間着で来たから、きっと寒そうだと思ってかけてくれたんだ」
「なんだよ。貰ったんじゃねえじゃねぇか、それ」
「だって返せって言われなかったもん。領主様だって、もらっておけばいいって…」
「だあぁ~っ!!」
オヅマはくしゃくしゃと頭を掻いて叫んだ。
「どうしてなんだって、みんなして甘い! マリーに甘すぎる! 領主様まで!!」
「……………」
オリヴェルはあきれた…というより、もはやゲンナリとオヅマを見つめた。
一体、どの口が何を言っているんだろうか。
この領主館で…というより、おそらくこの世で最もマリーに甘いのはオヅマだろうに。
引き続き更新します。