ヴァルナルが視察から帰った翌日、ミーナはヴァルナルの執務室に
「オヅマを…近侍に?」
ヴァルナルから話を聞いて、ミーナは信じられなかった。
公爵家の継嗣であるアドリアンがレーゲンブルトにきて、騎士団の訓練を受けさせるために、同じ年頃のオヅマが
「とても…有り難いお話ではございますが……あの子に務まるとは思えません」
ミーナは息子の性格を冷静に見極めた上で言った。
騎士としてならばともかく、近侍というのは主人の身の回りの世話を含め、来客の接待や備品管理といったあらゆる雑務をこなしていかなければならない。
そのため、ただ主に仕えればいいというものではなく、周囲の人間との関係性も円満に運んでいく必要がある。
オヅマは素直で明るい性格ではあるが、貴族の家で働くには少々口が過ぎることがある。言葉遣い一つをとっても、とても務まる職務とは思えなかった。
ヴァルナルは頷いてから、クスッと笑った。
「まぁ…
ミーナはコクリと頷いた。
小公爵であるアドリアンにしろ、目の前のヴァルナルにしろ、オヅマはむしろ恵まれているといっていい。通常の貴族階級の人間であれば、オヅマの言動を不快に思って、とうに放逐されていてもおかしくない。
「だが、貴女も薄々感じていたかもしれないが、小公爵様は公爵邸において、必ずしも心地の良い環境にいるとはいえない」
ヴァルナルの言葉に、ミーナは子供にしてはあまりに落ち着き払ったアドリアンのことを思い出す。
昔、ミーナが働いていた商家の子供達でさえ、もっと我儘で気まぐれであったものだが、帝国の一二を争う大貴族の若君にしては、アドリアンは大人しく忍耐強かった。
そもそも自分の身分を隠して、一騎士見習いとして、隙間風の吹き込むような小屋に寝泊まりするなど、普通の貴公子であれば憤慨して癇癪を起こしているだろう。
よほどに公爵家での教育が行き届いているのだろう…とミーナは内心で感嘆しつつも、一方で老成したアドリアンの姿が痛々しかった。
それは子供にしてはあまりに
「公爵家で、小公爵様は我慢を強いられているのですか?」
ミーナの口調は少しだけ怒りを帯びた。
もはやアドリアンもミーナにとって、家族に近い気持ちを持つほどに
「貴女は……やさしいな」
ヴァルナルはミーナが厳しい顔つきで問いかけてくるのを見て、思わずぽろりと言った。
ミーナは戸惑いつつ、ヴァルナルに小さく抗議する。
「領主様。私は、心配しているのです」
「あぁ、すまない」
ヴァルナルは笑ってから、顔を引き締めた。
どうにも不意に気持ちが溢れてきてしまう。止めようがない。
「確かに貴女の言う通り、小公爵様は我慢を強いられることが多い立場にある。普通、公爵家の息子であれば、もう少し我儘であってもよさそうなものだが、アドリアン様はグレヴィリウス家の教育方針もあって、あまり自分を出されぬ…出さぬように訓練されているのだ。
だからこそ私はここに連れてきた。オヅマがきっと小公爵様の硬くなった感情を解《ほぐ》してくれるだろうと思ったからだ。実際、その通りになって小公爵様は随分と素直に気持ちを表すようになられたし、私はこれはいい傾向だと思っている。
だが、やはりあちらに戻ればここにいた時と同じようにはいかない。小公爵様ご自身もそれはわかってらっしゃるし、納得された上で過ごされておいでだが……」
話を聞きながら、ミーナの脳裡には
オヅマにからかわれて大声で怒ったり、二人で台所に忍び込んでハムをつまみ食いしてソニヤに叱られたり。
来たばかりの頃はヴァルナル以外の人間には心を許していない感じであったが、日が経つにつれ、オヅマを通じて領主館の使用人達とも気安く話すようになっていた。
ミーナは知っていた。
少々人見知りのするアドリアンのために、オヅマが領主館の使用人達を紹介して回っていたことを。
いかに対番とはいえ、四六時中一緒にいるわけではない。
アドリアンが一人でいても、困ることのないように、自分以外の人間にも頼み事ができるようにと、オヅマはそれとなく環境をつくってやったのだ。
もっとも、当人はまったくそういうつもりもなく、
「なんでも俺に聞くな! もっと詳しい人がいるんだよ! そっちに訊いた方が早いだろ!」
と、あくまで自分の手間が増えるのを嫌がっただけ…というのもあるが。
だが、もしオヅマがアドリアンのことを嫌っていたなら、そんな気遣いはしなかっただろう。
なんだかんだと文句を言いながら、オヅマにとってもアドリアンは気の合う友達であったのだと思う。
目覚めてアドリアンが家に帰ったことを聞いてから、オヅマはほとんどアドリアンの話をしなかった。
それとなくミーナが話をしてみると、
「まぁ…仕方ないんじゃねぇの。元からずっとここにいる予定じゃなかったみたいだし」
と、あっさり納得しつつも、つまらなさそうにため息をつく回数は多かった。
「オヅマが小公爵様の支えになることができればよいとは思いますが…」
ミーナは二人の少年たちがここにいた頃のように楽しく過ごせるのであれば、すぐにも賛成した。
しかし、グレヴィリウス公爵邸で働くとなれば話は別である。
下手をすれば、オヅマの言動がアドリアンに迷惑をかけるかもしれない。いや、絶対に迷惑をかける。奔放な息子のことを思い浮かべて、ミーナは確信していた。
「あの子には…近侍は務まりません」
ヴァルナルは苦笑いを浮かべた。
予想はしていたが、ここまではっきりと言われるとは。
しかし、素直に折れることもできない。将来的に騎士になるとしても、グレヴィリウス公爵家の騎士になるのであれば、それなりの礼儀作法や教養は求められるのだから。
小公爵様付きの近侍として、しっかりとした学習の機会を得ることは、オヅマの心身の成長にとっても、意義のあることなのだ。
「実は、小公爵様にこの話をしてしまってな…その時の小公爵様のお喜びようといったら……がんばってどうにか叶えるようにと…激励されてな」
「まぁ……」
ミーナはアドリアンの気持ちを嬉しく思いつつも、やはり複雑だった。
息子が失敗することよりも、公爵家で長く忍従を強いられてきたアドリアンが、オヅマの不手際のせいで、より苦境に立たされでもしたら、申し訳が立たない。
それに…気になることが一つある。
「領主様。グレヴィリウス公爵家ほどのお家柄であれば、その近侍となるべきは、爵位のある家のご子息であろうかと思います。オヅマは領主様の格別のお引き立てで、今、ありがたくも騎士の末端である見習いとして仕えさせて頂いておりますが、とても公爵家の若君のお側に上がるような身分ではないと思います」
とうとうその話に及んで、ヴァルナルの顔に緊張が浮かんだ。「あー…うん…」と頷いてから、何度か咳払いした後に、ヴァルナルはおずおずと言った。
「だから…その…オヅマを……息子…に」
「息子? オヅマを…ですか?」
ミーナは思わず聞き返した。だが同時に、ヴァルナルがこの話をミーナにしてきた理由も実はそこにあったのだと思い至る。
ヴァルナルはヴァルナルで、もう心臓が飛び出そうなくらいに激しく鼓動していた。
「あ…あぁ、そうなんだ。その…できれば、そうなればいいかと…思って…いるんだが…どうだろう?」
問いかけたがミーナの返事はない。眉を寄せて考え込む姿を見て、ヴァルナルはあわてた。
「いや! 元々考えてはいたんだ。なにも今回の話にかこつけて、急にそうしようと思ったわけじゃなく…!」
ヴァルナルとしては、小公爵の近侍の話が出たからミーナとの
一方、ミーナは料理人のソニヤや、やたらと厨房に入り浸るゴアンから聞いた、ヴァルナルが騎士になった経緯を思い出す。
ヴァルナルは元は商家の出で、剣術の才能を当時の公爵家の騎士団長であったクランツ男爵に見出され、養子に入ったのだという。
そういう人であるならば、オヅマの才能を買って、
親としては息子が認められることは嬉しいが、やはりヴァルナルにはオリヴェルという歴とした息子がいることを考えると、ミーナは素直に喜べなかった。
「……若君はどう思われるでしょう」
「オリヴェル? オリヴェルは無論、喜ぶだろう。元々、一人きりで寂しい思いをしていたのが、貴女達親子が来てくれたことで元気になった。むしろ、私などよりも、ずっと積極的に勧めてきたくらいで…」
ヴァルナルは話しながら、ついこの間、オリヴェルに真剣な顔で言われたことを思い出す。
「父上。僕はおそらく父上の後を継いで騎士になることはできません。だから、もし将来オヅマが僕の兄上になってくれるなら…それで父上の後を継いで男爵になることも、譲ります。だから……僕に遠慮して、諦めたりしないで下さい。ミーナにも、そう言って下さいね」
まさか息子から結婚を勧められるとは…と、ヴァルナルは少々自分が情けなかったが、オリヴェルはオリヴェルで、自分が親の結婚の足枷になってはいけないと必死で考えたのだろう。
幼い息子だと思っていたが、時々こうした早熟なところがある。
ミーナはオリヴェルが賛成してくれていると知って、少しだけホッとした。
この事が原因で、子供達の仲に罅が入るようなことだけは避けたかった。
オリヴェルにわだかまりがないのなら、オヅマがヴァルナルの
これまでと同じように、見守っていくだけだ。
「ありがとうございます。元々考えていて下さったなんて…嬉しいです」
ヴァルナルはミーナの言葉に、ポカンとなった。
思わず確認する。
「え? ………本当か?」
「えぇ。有難いことです」
ミーナはニコリと微笑む。
「…………そう…か」
「はい」
この短い会話は、双方ともに重大な誤解を孕みながら、不思議に成立してしまった。
ヴァルナルはぎこちなく、やや
見つめ合いながら、互いが実はまったく別の方向を向いていることに、ヴァルナルもミーナも気づいていなかった。
「そうか……」
もう一度、確認するようにつぶやいて、ヴァルナルはじっくりと自分の気持ちを噛みしめた。
何とも言えぬ甘美な高揚感だ。しかしすぐに浮足立つ自分を戒めた。
ミーナが
「オヅマのことだが、私から話そうと思う。簡単に父親とは認めないだろうが…」
「まぁ、そんな。オヅマは領主様のことを大層尊敬もしていますし、憧れております。急なことで驚くかもしれませんが、きっと喜ぶと思います」
「………そうだろうか…」
冬の神殿でオヅマから言われた言葉が頭から離れない。
―――――俺は父親はいらない
あの拒絶はそう簡単に覆ることはないだろう。
オヅマの『父親』に対する拒否反応は、相当に根深い。
だが、実の息子であるオリヴェルに対してすら、ようやく父親らしい態度で接することができるようになったのは、ついこの前からだ。自分が父親であることを長年放棄してきたのだから、これくらいの冷遇は甘んじて受け入れるべきだろう。
その上で、いつかわかりあえるための努力を怠らないことだ。
「いずれにせよ、オヅマには準備としてオリヴェルと一緒に勉強させようと思っている。今回の帝都からの黒角馬の研究者の中に、教師として招いた人達もいるのだ。彼らから学んで、できれば今年中…は無理としても、来年には近侍として公爵家に行ってもらいたい。あちらに行ってからも、無論、小公爵様らと一緒に多くのことを学ぶだろう」
やや早口になって話すヴァルナルに、ミーナは頭を下げた。
「何から何までご配慮いただいて、有難うございます。ただ、オヅマにはまだ小公爵様付きの近侍となることは知らせないでもらえますでしょうか」
「それは…どうしようかと思っていたが、なぜだ?」
「あの子はこれまで、騎士になるために頑張ってきました。いきなり近侍と言っても、おそらく拒絶することでしょう」
ヴァルナルは頷きながらも、一応訂正する。
「近侍ではあっても、騎士としての修練はしてもらうがな」
近侍には当然ながら小公爵の安全を守るという役目もあるので、護衛としての修練を積むのは当然だった。そもそも下位貴族の子息であれば、騎士の目録を取るぐらいのことは当然とされている。
ミーナは頷いたが、息子の頑固な性格もわかっていた。
「丁寧に説明すればわかるだろうと思いますが、すぐには受け入れないだろうと思います。それに、もうひとつ」
「なんだ?」
「若君から聞きました。小公爵様はご自分のことについて、ご自身の口から直接、オヅマとマリーに話したいと思っていらっしゃる、と。今、オヅマに小公爵様付きの近侍となることを言えば、きっと不思議に思って色々と小公爵様について周囲にも聞いて回ることでしょう。もし、不本意な形で耳にすれば、あの子のことですから、アドリアン様が自分に正体を明かさなかったことを不満に思って、むくれてしまうかもしれません」
ヴァルナルはプッと吹いた。
「さすが…母親だな。よく見ている」
「諭せばわかってくれるだろうとは思いますが…小公爵様ご自身のお考えを尊重した方がよいように思います」
「あぁ…そうだな」
ヴァルナルは頷いてから、穏やかな目でミーナを見つめた。
本当に、思慮深く、篤実な人だ。自分のような無骨な男には、もったいないくらいだが、もはや彼女はなくてはならない人だ。
「ミーナ」
ヴァルナルはおもむろに立ち上がると、たった四、五歩の距離であってももどかしいのか、足早にミーナに近づいてその手を取った。
「ありがとう。受け入れてくれて、嬉しく思う」
「……あ……はい」
ミーナはいきなりこちらに来て手を握られたことで、びっくりしてしまった。途端に心臓が跳ねて、顔が火照ってくる。
ヴァルナルはその顔を赤らめたミーナの姿を、愛しく思って、手に力を込めた。
「正式には、また後日…ちゃんと申し込みたいと思っている。今は少々忙しいので、すぐには無理だと思うが…きちんとしたいんだ。待っててもらえるだろうか?」
「……はい。わざわざ、有難うございます」
ミーナは内心で首をかしげた。
貴族の子弟を迎え入れるというのならともかく、一平民の子供と
そもそも卑賤の身分を迎え入れることは、貴族であれば恥とされるので、大袈裟にはしないものなのだ。
しかしヴァルナルの真摯な瞳を見て、ミーナは納得した。
おそらくヴァルナルがきちんとしたいと言うのは、オヅマの親であるミーナへの礼儀なのであろうと。
「それでは…私はこれで」
ミーナが辞去を告げると、ヴァルナルはややぎこちなく頷いて、名残惜しいながらもそっと手を離す。
「あぁ。う…む。では……また」
いつも通りにミーナは召使いとして礼儀正しく頭を下げて出て行く。
ヴァルナルは手のひらに残った滑らかな肌の感覚を一旦握りしめてから、息をつくと、机の隅に積まれた書類をとって仕事を始めた。
こうして―――――
盛大な誤解を生じたまま、彼らはひとまず自分達の仕事に戻った。
次回は2022.09.18.に更新予定です。