不可能の先へ   作:カクレオン268

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不可能の先へ 前編

 

 中山競バ場 2500m 右回り 稍重・内回り

 

 

 G1 有マ記念

 

 

 基本的に、その年活躍したウマ娘のファン投票上位10人プラスαで開催される年末最後のG1レース。年末最後ということもあり、観客人数はかなり多い。

 

 私は皐月賞1着、東京優駿2着、菊花賞は6着だったけど、直前でのジャパンカップ2着のおかげか、ウマ娘ファン投票上位10人に選ばれ、有マ記念を走っていた。

当日人気は2番人気と、1番人気ではないにしてもかなり期待されている。このレースで着版に自分の番号が載らないなんてあってはならない。

 

 なのに…

 

『第3コーナーを回って、マインドクオーレは中団集団の内側7番手を走っています!』

 

(くッ…出れない…)

 

 私は周りに中団集団に巻き込まれる形で内側を走っていた。外に出ようとするが出るに出れない状況。出ようにも今出たら斜行で即刻謹慎処分を喰らう。それだけは避けなければいけない。

 

 有マ記念は2500m。そして最後の直線には高低差2.2mの坂がある。下手に走るとその坂を登っている途中でスタミナが尽きる。

ただでさえ私の脚質は差しではなく先行だ。中団を走るということ自体あまり好ましくない。

 

 出走直前感じた右脚の違和感。そのせいでスタートが遅れた。ただ、それを今更どうこういったところで現状の問題が解決するわけではない。

 

(今は周りに合わせて脚を溜めるのが第一…)

 

 慣れていない差しでのG1レース。それでも、走りながらできる限り思考を回転させた。外の出れるタイミングを待った。

 

 しかし、そのタイミングは来ないまま最終コーナーに差し掛かる。先頭以外はあまり順位変動がなかったからか、形はほぼ変わっていない。

 

 最終コーナーを曲がるときに僅かに隙間があった。しかし、最内を走っていることでくる遠心力、そのすぐ左に4番が走っているせいでその隙間に行くことができない。

 

(左邪魔!)

 

『さぁ!最終コーナーを回って最後の直線!今年最後の叩き合い!!抜かし抜かされひしめき合う中、勝つのは一体どのウマ娘か!』

 

(最後の直線…もう距離がない!)

 

 中山競バ場は310mと他の中央競バ場と比べて直線が短い。モタモタしている場合ではなかった。

 

『真ん中2番人気、マインドクオーレちょっと苦しいか!抜け出すことはできるのでしょうか!』

 

(少し強引だけど…塞がれている間を無理矢理作り出して…力尽くで抜く!)

 

 

ギシ…

 

 

 僅かに開いていた道筋を強引に抜け出し、先頭争いに加わった。それでも先頭との距離まだある。

 

『間を割ってマインドクオーレが来た!先頭まであと半バ身!』

 

(あと少し!あと少しで期待に…彼に…!)

 

『残りあと100m!先頭抜かせるかマインドクオーレ!!』

 

(私が1着なれ…!)

 

 

 

パキッ…

 

 

 

「……え?」

 

 

『ッ!?マインドクオーレ転倒!マインドクオーレ転倒!ゴール直前でマインドクオーレに故障発生です!』

 

 

 

 

 その一瞬間後、視界の前にターフが映った。何が起きたか分からなかった。気づいたら横になっていた。

 とりあえず立とう。そう思い立ち上がろうとする。が、脚が動かない。それよりも、脚が痛い…脚が痛い…?

 

 

 

 脚が痛い…!!?!?

 

 

 

「ぐっ…あ…!痛…!」

 

 その事実に気づいた瞬間、右脚に激痛が走った。

 

 

 

(痛い…痛い痛い痛い痛い痛い痛い!)

 

 

 

 何も考えられなかった…ただ脚が、脚の痛みだけが意識を支配していった。

 

「マイン!マイン大丈夫か!」

 

 痛みが意識を支配している中…彼の声だけは…鮮明に聞こえた。

 

「あ…ぁ…トレ…ナ…さ…脚…が…!」

 

「脚…ッ!?おいマイン!マイン!」

 

 彼が青ざめた顔で私の名前を必死に呼んでいる…ちゃんと…こた…え……と……

 

 

 意識の糸は…そこで切れた。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 気がつくと、私はレース場のターフの上に立っていた。観客もレース相手もいない。端が見渡せないくらいの広いターフ。

 

 そこに、ただ1人…私だけが存在していた。

 

(どこ…ここ…)

 

 柵以外周りには何もない。もはやレース場とは呼べないくらい長い直線。人気もなく居心地が悪い。

 

 私はとりあえず歩き始めた。立っていても何も始まらない。今は何も無くても、そのうち看板くらいはあるかもしれない。もしかしたらこの先に誰かいるかもしれない。そんなことを考えながら広いターフの上を歩いた。

 

 

しかし

 

 

「はぁ……はぁ…」

 

 

 どれだけ進んだろうか。途中から走り出したから分からない。それでも、未だに先が見えてこないことだけは分かった。

 

(本当に…何なのこの場所は…)

 

 どれだけ進んでも同じ景色。同じ芝。本当に誰もいないんだろうか。私はもう一度周りを見渡した。

 

 すると、遠くの方で黒い人間らしき影を見つけた。

 

「あのー!すいませーん!」

 

 私は慌てて声をかけた。しかし、影はこっちを見ることなく進み始めた。

 

 距離が遠いのもあるだろう。私はその影を追いかけた。追いかけながらも声をかけ続けた。徐々に距離が近くなる。それでも影はこっちを見る素振りをしない。

 

「はぁ…あの!」

 

 影に追いついた私は思い切って腕を掴んだ。そう、掴んだ“はずだった“。

 

 

 腕を掴もうと影に触れた途端、私の視界は真っ暗になった。

 

 

 

 

「……ん…ん…ここ…は…?」

 

 重い瞼を開ける。見る限りどうやら病室のようだ。

 

 一体あの空間は何だったのだろうか。

 

「わた…し…確か…ッ!?」

 

 広いターフを走っていたはず。そう言おうとした。ただ、目の前の光景を見て…そんなことはどうでもよくなった。

 

 有マ記念のゴール直前、激痛が走った右脚が目の前にあった。包帯で巻かれ、釣り上がっている自分の右脚が。

 

「は…はは……嘘…だよね…?」

 

 私は渇いた声で笑った。

 

 目の前の光景を信じたくなかった。信じることができなかった。

 

 いつもと全く違う自分の脚。動かそうとするが動かない。そもそも右脚の感覚がほぼない。

 

 自分では何かに身体を支配されている。寒気がする。途端に1人でいるのが怖くなった。誰でもいいから一緒にいてほしい。そう思った。

 

(誰でもいいから…私を…1人にしない…で…)

 

 私は心の中で叫んだ。

 

 

 そんなとき、右手に違和感を感じた。誰かに握られているような…そんな感触が。

 

 慌てて視線を右に向ける。

 

「トレーナー…さん…」

 

 そこには私の右手を両手で握りながら寝ている彼の姿があった。

 

 その声で起きたのか、彼が唸りながら目を覚ました。

 

「ん……んッ!?マ、マイン!目を覚ましたのか!」

 

「よかった…目を覚ましたんだな…」

 

 私は彼の声を聞いた途端泣き始めた。

 

「ひくっ…とれ…なーさん…おは…よ…」

 

「おはよう…マイン…」

 

 彼は笑って私の名前を呼んでくれた。

 

「とれー…さん…こわかった……っ…」

 

「よしよし…もう大丈夫だよ…」

 

 そう言って頭を撫でてくれた。

 そのとき、不安だった気持ちが一気に爆発して、彼の前で子供のように泣いた。

 

 

 さっきまでのパニック症状は嘘のように薄れていった。

 

 

 

 

 そこから私が落ち着いた頃、彼に何が起こったのかを聞かされた。

 

 それを聞くに、どうやら私は「期待に応えないといけない」という気持ちが強く出過ぎてしまい、無理に前に行って転倒。その場で意識がなくなり3日間寝ていたらしい。

 

 検査の結果、右脚を開放骨折と診断された。不幸中の幸いとして、周りを走っていた子たちが怪我をしなかったこと、右脚以外はかすり傷程度で特に異常がないこと、手術は成功したということを教えてもらった。

 ついでに、生きていられていることが奇跡とも言われた。

 

 右脚は全治6ヶ月。

 

 歩けるようにはなる。ただ、今まで通りに走るのはほぼ不可能と言われた。

 

(最後の言葉だけは聞きたくなかったな…)

 

 その日は目覚めたということもあり、色々と検査をしないといけなかった。そのため彼とはあまり長くは話せなかった。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 目覚めてから数日が経ち、寝ていたときに起きていたことがある程度わかった。

 

 この怪我を境に、それまで彼の事を持ち上げてた人たちが一転、

「骨折したのはトレーナーの管理不足だ!」「トレーナーがマインドクオーレの未来を潰した!」

と手のひら返しで非難し始めたこと。

 

 外に出ると冷めた視線で見られ、街行く人たちに、

「あの人がマインのトレーナー?」

「担当ウマ娘が怪我をしたのによく平気な顔で歩けるよね」

「骨折したのって彼の管理不足なんでしょ?」

「責任取って辞めるべきじゃない?」

と言われている。

 

 …ということをお見舞いに来てくれたクラスメイトが不安そうに教えてくれた。

 

 外に出ると冷たい視線を浴び、ヒソヒソと陰口を言われる。言ってる本人たちは自覚がないだろうが…きっと彼はかなり精神に来てるはずだ。

 

 それでも彼は毎日病院に来てくれている。

 

「来たよ、マイン」

 

「あ、トレーナーさん。いらっしゃい」

 

 今日もいつもと同じ時間に来てくれた。ただ、顔色が昨日より悪い。

 

 

「脚の調子はどうだ?」

 

「まだ感覚がないかな…」

 

「そっか」

 

 

 

 無言の時間が訪れる

 

 

 

「マインの方には…何も来てないか?」

 

「大丈夫だよ。トレーナーさん」

 

「そっか。ならよかった」

 

 

 

 無言の時間が再び訪れる

 

 

 

「あの…トレーナーさんは…大丈夫…?」

 

「ん?僕?…僕は大丈夫だよ」

 

 大丈夫。彼はそう言っているが大丈夫なわけがない。それは彼の状態を見れば明らかだ。

 彼は何も悪くない。自己判断を間違えた自分の責任だ。骨折だって当日まで全く違和感はなかった。なのに、世間は彼を非難する。そんなのは絶対に間違っている。

 彼の中では今、日本中が敵に見えているはずだ。どこにも味方がいない。そんな世界で彼は生きている。

 

「マインは僕が守るから安心してね」

 

 私が悪いのに、彼は私の味方をしてくれている。

 

「ねぇ…トレーナーさん。トレーナーさんは何で私を責めないの…?」

 

「勝手な判断をしたのは私なのに…」

 

 彼は不思議そう顔で私を見ている。私には何で不思議がってるかわからなかった。

 

「マインの判断は正しかった。あそこで前に行かなかったらブロックされて前に出れなかったと思う。正しい判断をしたのに何で責めないといけないの?」

 

「それに、謝らないといけないのは僕の方だ。スピード重視のトレーニングのせいで、脚力のコントロール、脚の管理が上手くできていなかった。これはトレーニング管理と身体管理を怠ったトレーナーである僕の責任だ。だから、世間は間違ってない」

 

 彼はそういい、病室の時計を見て、

 

「お、そろそろいい時間だし帰るね?」

 

 明日もいつもの時間に来るよ。そう言い残して彼は帰っていった。

 

 

 扉を閉める直前、彼は私に見せなかった表情をしていた。肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。そんな彼の顔が、脳裏に焼き付いた。

 

 

 

 

 その日の夜。彼にどうして私を責めないのか聞いたことを後悔した。

 

 もし私を責めたら…それ以上に世間が彼を責めるだろう。そんな状況で私を責められる訳がない。

いや…彼の性格的に、私を責めるという選択肢自体が存在しないのだろう。

 

 彼は私を守るために…今回の怪我のことは全て1人で背負うつもりだろう。そんなことはさせない。

怪我をした張本人として、彼の担当ウマ娘として、彼の背負っているものを一緒に背負う義務がある。

 

「大丈夫です、トレーナーさん。私も一緒に責任背負うから…」

 

 

 

 

 次の日も、また次の日も、彼は毎日同じ時間に私の病室を訪れた。ただ…病室に来るにつれて、日に日に彼はやつれていった。

 

「トレーナーさん…無理はしないでくださいね…?」

 

「…ん?あぁ…大丈夫だよ」

 

「かなりの人に迷惑かけちゃったからね。少し仕事が増えただけだよ。ちょっとした嫌がらせも受けてるけど…食事とかはちゃんと摂ってるから、僕のことは心配しないで大丈夫だよ」

 

 彼はそう言ってはいるが、どう見ても大丈夫な状態ではない。顔はやつれていて目は虚ろだ。クマも酷い。

 

(どうにかしないと…)

 

 そんなことを考えていると、ふと彼のズボンに目線がいった。ポケットに何か入っている。形状的に…何かの薬?

 

「トレーナーさん、ポケットの中って何が入っているんですか?」

 

 気にしすぎだと思いつつ、聞いてみた。きっと家の鍵とか、それに近しい物だろう。

 

「ん…?あぁ…これか?これは…ちょっとした薬だよ。最近少し効果が弱くなってきてるけどね。飲むの忘れるといけないからポケットに入れてるんだよ」

 

 彼は何事もないかのように、笑いながら答えた。私的には答えてほしくなかった物。

 

 薬…彼の状態からして多分、睡眠薬や精神安定剤とかだろうか。それのどこに大丈夫な要素があるんだろうか…

このままでは彼が壊れてしまいかねない。

 

(どうしたらいいだろう…)

 

 机に指を立て、コツコツと音を鳴らす。悩んでいるときによく出てしまう悪い癖だ。

 

 音を鳴らしていると、左手が近くにあったテレビのリモコンに当たった。

 

 

(コン…)

 

 

ビクッ…

 

 彼はその音を聞いたとき酷く怯えていた。それもそうだ。時間的に今は夕方のニュース番組をやっている。ニュース番組では、どのチャンネルでも必ず彼の話題があがる。お昼のワイドショーはもっと酷い。ある事ない事好き勝手に議論する。怖がるのも当然の反応だった。

 

「あ、え…あ!ごめんなさい!」

 

「い、いや…大丈夫。少し驚いただけだから…」

 

 リモコンの音だけで驚くということは相当怖がっているに違いない。

 

 私は彼のことが心配でならなかった。今の彼には安心できる場所、安心できる人物が必要だと思った。

 

「…トレーナーさん。ちょっとこっち来てください」

 

「…?どうした?」

 

 彼は疑問に思いながらも私の元に来た。

 

 

 そのとき、私は彼を抱きしめた。

 

 

「ちょ…っ!?マ、マイン!?」

 

 彼は驚いて離れようとしてきた。絶対に離さない。私は抱きしめながら彼の頭を優しく撫で始めた。落ち着いてきたのか、彼は少しずつ腕の力を緩めていった。

 

 私は頭を撫でながら彼に語り始めた。

 

「トレーナーさん、大丈夫ですよ」

 

「トレーナーさんは悪くありません。全部私の判断ミスです。なのに、世間がそれに気づかないだけです」

 

「大丈夫です。私はトレーナーさんの味方です。それでいて、トレーナーさんの愛バです」

 

 彼の肩が小刻みに震え始めた。

 

「だから…私の前では無理して強がる必要も、嘘をつく必要もないんですよ」

 

「マ…イン…ほんとに…ごめんね…」

 

「私はここにいますよ。トレーナーさんは泣きたいだけ泣いていいんです…全部、私が受け止めますから…」

 

「…マイ…ン…ありがと…ひっく…」

 

 彼は私の胸の中で泣き始めた。きっと、私が想像してる以上につらい思いをしたのだろう。

 

「よしよし…トレーナーさんは1人でよく頑張りました。だけど、もう1人じゃないですよ。私がいますからね…?」

 

「…うぅっ…まい…ん…ごめんね…ま…イン…マイン…マイン…」

 

 腕の中で泣きながら彼は私の名前を呼び続ける。普段は見せない彼が弱いところを見せている。そんな彼を見て、身体に少しだけゾクっという感覚が走った。

 

 世間は彼の味方をしない。私が寝ている間、ずっと1人で責任を押し付けられ、周りには冷たい目で見られていた。彼のことをわかってくれる人はいない。彼がここまで弱ってしまう理由がよくわかる。

 

「大丈夫ですよ…」

 

 そんなことを考えながらも、声をかけ、彼の頭を撫で続けた。

 

 

 

 

 気がつくと彼の声は聞こえなくなった。

 

 目線を下に向けると、泣き疲れたのか彼は眠っていた。

 

 今見ても酷いクマ…多分、寝ようにも目を瞑ると脳裏でフラッシュバックが起きて、寝ることができなかったのだろう。

 

 さっきの会話で、睡眠薬を飲まないと寝れなくなったと言っていたことを思い出した。その睡眠薬ですら最近は効果が薄くなっているとも言っていた。

 

 そんな彼が今、睡眠薬無しで私の中で安心して眠っている。それがすごく嬉しかった。

 

 彼の頭を撫でながら、

 

「かわいい…」

 

 そう呟くと、私の中にある黒いドロっとした“何か”が蠢いた。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

入院して1ヶ月が経った。

 

 彼は仕事の関係で今まで通り毎日来ることは無くなった。それでも彼はできる限り病室に来てくれた。

 

 普通1ヶ月もすればどんな話題だろうと少しは落ち着いてくる。それでも、未だ世間は彼の話題をやめなかった。

 

 彼は少しずつ体調面は回復してきている、1回に飲む種類も少なくなり、1日の服用回数も減ってきていると言っていた。

 

 あの日以来、彼は家であまり寝れなかったときは私の中で少し仮眠をするようになった。

私としては、寝ている間ずっと彼に抱きしめられているので満足するまで寝ていて欲しいが、いかんせん場所が病院なので時間制限がある。

それでも、ギリギリまで起こすことはしない。彼には時間いっぱい休んで欲しいからだ。それに、寝ているときの彼の可愛い寝顔を見ていると、どうしても起こす気になれなかった。

 

 初めは寝ても眠りが浅いからか、うなされることが多く、寝始めて数分後、十数分後に起きることがよくあった。

その度に、この病室には私しかいないこと、私は彼の味方であることを伝え、頭を撫でて彼の不安を取り除き、安心させていた。

そのおかげか、彼の眠りは少しずつ深くなっていった。

 

 そんな日が続いたからか、私は彼の匂いを完全に覚えてしまった。

 

 彼が私の中で寝ると安心するように、私も彼を抱きしめると安心する。

本来、指導者と学生でしかない私たちの関係は、より親密になっていった。

 

 

 そんな入院生活ももうすぐ終わる。

 

 

「明日退院だけど荷物まとめてあるか?」

 

「しっかりまとめてありますよ、トレーナーさん」

 

「了解。先に持っていけるものは持っていくからどれか教えて」

 

 入院してからあまり聞くことがなかった日常生活での彼の声。何だか久しぶりに普段通りの声を聞いた気がする。

 

「とりあえずこれだけお願いします」

 

 そういい彼に鞄を預ける。そもそも荷物といっても基本的に貸し出し物を使っていたので自分の荷物というものはあまりない。強いて言うなら衣類とスマホくらいだろう。そのスマホも最近はあまり使っていない。

 

「了解。とは言っても僕はマインの寮に入れないからトレーナー室に持っていくよ。明日の帰りにトレーナー室寄ってってね?」

 

 そういいながら彼は不器用に笑った。私も彼の笑顔を見て笑った。

 

 明日で退院する。それでもギブスが取れているわけではない。明日からは松葉杖生活。脚が動かせるようになるまではまだまだ時間がかかる。

 

「じゃあ明日は退院時間の少し前くるから。それまでは大人しくしてね」

 

 そう言い残し病室を後にした。

 

 

 

 

 テレテッテレテッテッテ〜♪テレテッテレテッテッテ〜♪

 

 彼が帰った1時間後、唐突にスマホが鳴り始めた。名前を見ると非通知と表示されている。

 時間的に彼からの電話かと考えたが、彼は携帯を持っている。それに番号も登録してあるのでその場合彼の電話番号が表示されるはずだ。

 

「……?」

 

 不審に思いその電話には出なかった。しかし、どれだけ無視してもスマホは着信が止み、またなり続けるを繰り返した。

 私は5回目の着信が来たとき、ついに電話に出てしまった。

 

「はい…もしもし…」

 

「あ、マイン?暁月だけど…今時間ある?」

 

「トレーナーさん?どうしたんですか?」

 

 暁月、それは彼の名前だ。彼からの電話ならもっと早く出ればよかったとちょっと後悔した。

 

「明日のことなんだけど…どうやらマスコミが明日退院するってことをどこかで知ったみたいで…時間は多分わかってないと思うけど、念のため予定より少し早めに病院を出たいんだけど大丈夫か…?」

 

「はい、大丈夫ですよ」

 

「じゃあ、明日は予定より早く行くから…また明日ね」

 

 そう言って彼は電話切った。

 

「マスコミもしつこいなぁ…」

 

 気付けば独り言を呟いていた。そろそろ彼を自由にさせてほしい。彼に落ち度はない。それどころか私のことを最優先で考えてくれていた。右脚の違和感も私が気付けなかったから起きたことで、この件に関しては私の方に落ち度がある。

 

(何とかして彼を守らないと…)

 

 悪い評判はそれ以上の良い評判で上書きできる事は知っている。

 

 数年前、当時最速と言われたサイレンススズカを壊したとして、彼女のトレーナーがかなり非難されていた。

それをもう1人の担当ウマ娘であるグラスワンダーが、それ以上の結果を出して『サイレンススズカを殺したトレーナー』→『グラスワンダーを育てたトレーナー』と呼ばれるまで世間の評価を上書きした。

 

 私にもそれくらいのことが出来れば、彼の評価を変える人たちも出てくるだろう。それをやるには…私自身が頑張るしかない。

そのためにもまず右脚を早く治さないといけない。明日以降の学校生活は右脚に細心の注意をしていこう。

 

 

 …最悪、彼は私のものにしよう。

 

 

〜〜〜〜〜

 

 

 次の日、私は予定より1時間早く退院した。夜から張り込んでいたのか、既に何人かの記者たちがいた。「リハビリ頑張ります」とだけ答え、他は全て無視してトレセン学園に戻った。

 

 久しぶりのトレセン学園。たづなさんと理事長に戻ってきたことを伝え、私たちはとりあえずトレーナー室に向かった。昨日彼に預けていた鞄を取りに行くためだ。

 

 トレーナー室の前に立ち、部屋の鍵を開ける。1ヶ月振りに入ったトレーナー室は入院前とさほど変わっていなかった。

机の上には大量のプリント類と彼が服用していたと思われる瓶と箱が置いてある。変化はそれくらいだった。見た目の変化は…

 

「はいこれ、昨日預かった鞄。大変だと思うから寮の前まで持っていくよ」

 

「ありがとうございます。ですが、もう少しここにいていいですか?」

 

「ん…?まぁいいけど、何もないよ?」

 

「大丈夫ですよ。慣れない松葉杖で疲れちゃって…」

 

「そっか。じゃあ少し休憩しようか」

 

 「飲み物買ってくるね?」といい彼は部屋から出て行った。彼の足音が遠くなるのを確認してから、彼の机に向かう。

机の上にある大量のプリント。私がいない間、きっとがむしゃらに仕事をしたのだろう。インク切れのボールペンが何本も転がっている。瓶や箱の中の薬もほとんど空だ。

私は彼の机の引き出しに手をかけた。中には辞任届とノートが入っていた。

 

「……」

 

 私はノートを手に取り、中身を見た。彼がレースの際、私や相手の資料をまとめるのに使っていたノート。ただ、有マ記念を最後に白紙のページが続く。レースに出る以前の問題だから当然と言えば当然だ。だが、10ページくらいめくった先に殴り書きで一言『怖い』とだけ書いてあった。

 

 私は辞任届を鞄に入れ、ノートは元の場所に戻した。

 

 しばらくして彼が戻ってきた。買ってきてくれたお茶を受け取り、ソファに座った。

 

 そこからは無言の時間が続いた。すると彼が眠そうに首が上下に動き始めた。

 

「トレーナーさん?」

 

「…え、あ。大丈夫だよ」

 

「少しおやすみしますか?まだ時間はありますし」

 

「いやでも…」

 

「トレーナーさんがオーバーワーク気味なのは机を見たら分かります。私のことで休み中も仕事をしていたのでしょう?」

 

「目の下にクマもありますし、少しくらい休むべきです」

 

 私は座っているソファの左隣を軽く叩いた。彼は少し悩んだ後、間を空けて隣に座った。その隙間を埋めるように私は彼にくっついた。彼は恥ずかしそうにこっちを見た。

 

(あぁ…可愛い…)

 

 今度は私の左の膝に手を置き、彼を誘導する。

 

「トレーナーさん…ほら頭を」

 

「いや流石に…右脚もまだ完璧にはくっついてないし…」

 

「いいから、ほら」

 

「うーん…」

 

「1時間後に起こしますから…ね」

 

 彼は心配しながらも寝転び、頭を私の膝に預けた。いわゆる膝枕状態になった。

 

「よしよし…トレーナーさんは本当に頑張りました…少し休みしましょうね…」

 

 私は彼の頭を撫で、優しく話しかけた。すると彼の呼吸は少しずつ深くなり、やがて眠ってしまった。

 

 彼の寝顔は本当に可愛い。私と一緒にいると安心して寝ることができる。逆に言うと私がいないと安心して寝ることができない。私も彼と一緒にいると安心するし不安無く過ごせる。私たちは一種の依存に近い関係になっていっている。それがたまらなく嬉しい。

 

 病室のときから思っていたこと。それは彼はあまりに無防備すぎる。彼の頬を触る。思ったより柔らかくて触り心地がいい。

 

「……うふ。」

 

 寝ている今ならなんでもできる。彼を起こすことも、一緒に寝ることも…唇を奪うことも。

だが、まだしない。右脚のリハビリが終わるまでのお楽しみ。

 

 もう一度頬を触る。

 

「可愛い…♡」

 

 

 

 

 彼の顔を見ていると気づけば1時間経っていた。このまま寝かせてあげたいが約束は約束。私は彼を起こす。

 

「トレーナーさん?起きてください」

 

「……ん…?」

 

(寝起きの声好き…)

 

「1時間経ちましたよー?」

 

「ん…分かった…」

 

 そう言って彼は起き、伸びを始めた。

 

「ありがとうマイン…おかげで疲れが取れたよ」

 

「いえいえ、疲れが少しでも取れたならよかったです」

 

 そこから彼は私の鞄を持ち、私の寮へ向かった。

 

 

 寮に向かうときに昨日なぜ彼が携帯から電話をかけてこなかったのか気になり聞いてみた。

 

「トレーナーさん昨日自分の携帯からかけてこなかったのはなんでですか?」

 

「ん?海に投げたから」

 

 どうやらどこかで彼の電話番号が特定されてしまい、いたずら電話のせいで夜寝ることが出来なかったらしい。

 

「トレーナーさんは私が一緒に寝てあげますからね」

 


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