「…まったく、兄さんはいつも私たちに心配ばかりさせて…少しはこっちの身にもなってもらいたいものだね」
シンボリルドルフは工房の小上がりに上がり込み、エアグルーヴがどこからともなく差し出した座布団に正座してこちらを睨み据えてくる。もちろん耳は引き絞ったままだ。
「あぁもう、こんな怪我をして…痛みはどうなんだ」
包帯でぐるぐる巻きにされ、ネットで覆われている装蹄師の男の頭に顔を近づけ、そっと触れる。
その瞬間、シンボリルドルフの引き絞られていた耳はふにゃりと、力が抜けたようにしおれていく。
その様子を認めて、エアグルーヴも緊張させていた表情をふっと緩めた。
「…別にどうってことはない。少し縫ったくらいだ。痛み止めもあるしな」
装蹄師の男は元々痛みには尋常ではなく強い。過去には自らの腕の不調も痛みではなく不随意運動の為に他者に指摘されて気が付いたほどである。
シンボリルドルフやエアグルーヴもそれは理解していたが、だとしても怪我を過小評価する理由にはならない。
彼女たちは現役を退いたとはいえアスリートであり、怪我に関してはそれなり以上の経験と知見を有しているのだ。
「頭をこれだけ縫ってどうってことはない訳はない。あまり自分の身を粗末にしないでくれ」
心配そうな表情を浮かべるシンボリルドルフの内心を代弁するように、エアグルーヴが優しく哀願するような声で囁く。
皇帝と呼ばれたシンボリルドルフの心底心配している困り眉の瞳と、冷徹で鳴らすエアグルーヴの哀願の声は、頭ごなしに説教されるよりもよほど効いた。装蹄師の男は二人を前に項垂れてしまう。
「…悪かったよ、気をつける」
その言葉に、シンボリルドルフとエアグルーヴは苦笑を浮かべつつ、内心は溜飲を下げた。
「…しかし準備中とはいえ怪我人が出たとなれば、鳥ニンゲンカーニバルの企画を今のニンゲンと同じようなルールで進めるわけにもいかない。兄さんたちの失敗を糧に参加者の安全策向上について検討しなければ」
シンボリルドルフがルナと皇帝とを自我を行き来させながら話す。
「…それと同時に先生の処遇も考えなければいけませんね」
いつのまにかルドルフのそばに控えたエアグルーヴが呟く。
「やはりゴールドシップに兄さんを独占させておく訳にはいかない。我々の胃にも穴が開いてしまう」
シンボリルドルフは装蹄師の男の怪我の観察を続けながらエアグルーヴの投げかけに応える。
自分の名前が出たことを感じ取ったのか、ゴールドシップは炊事場からこちらに寄ってくる。
手にしている皿には新たなイモリの串焼きが山と盛られていた。
「まぁまぁそう熱くなんなって。いっぱい焼いたから食べてくれよー」
二人からの剣呑な視線も柳に風とばかりに受け流して、新たな来客にもイモリを振舞う。
シンボリルドルフとエアグルーヴが何の抵抗もなく串焼きを手に取り、頭からかじりつく姿に、装蹄師の男は本能的な怯えを感じざるを得なかった。
◆
いつのまにかシンボリルドルフとエアグルーヴ、ゴールドシップの三人は車座となり、あれやこれやと議論を始めている。
「…ゴールドシップ、先生から手を引く気はないのか」
「アタシは手を引く気はねぇけど、おっちゃんがアタシ用の飛行機造ってくれるなら独占しようってわけじゃねーんだよ」
「ならまだ話し合いの余地はあるというわけだな。大会を安全に実施するためにもいくつか施策を考えているのだが…」
聞こえてくる話の内容は何やら自分が具材のように扱われているらしいことはわかる。
しかし装蹄師の男はシンボリルドルフ、エアグルーヴ、ゴールドシップの3名が対等に話しているという光景はなかなかに奇妙で、新鮮だ。
彼女たちも成長しているということなのだな、と装蹄師の男はひとりで納得をする。
他方に目をやれば、樫本理子とアグネスタキオンは先ほどまで男がのぞいていたタブレットを手に、なにやら相談をしている。
こちらにちらりと向けられたアグネスタキオンの視線は、面白いモノでも眺めるような色で、にやりと口角の上がった口元がその内心を表していた。
(タキオンの奴、この状況を楽しんでやがるな…)
装蹄師の男は小さくひとつ溜息をつくと、煙草のパッケージを手にとり、彼女たちに悟られぬようにそっと工房の外へ出た。
工房の外のベンチに腰を降ろすと装蹄師の男は煙草に火をつけ、深く吸い込むとゆっくりと煙を吐き出す。
麻酔が切れつつある頭の傷が生むズキズキとした痛みを感じながら、今日の失敗をどうやって設計に反映すべきかをうっすらと考えている。
不意に、工房の中から彼女たちの楽しそうな声が聞こえてくる。話がどう転がっているかはわからないが、それなりに盛り上がってはいるようだ。
こんな時間もなかなか悪くない、と思いながら、思考は自らの原罪についての考察に移行した。
彼女たちからの好意は常日頃感じているものの、どう応えるべきなのかはいまだにわからぬまま、時ばかりが過ぎている。
トレセン学園在学時から好意を向けられていること自体は薄々理解していたが、それは彼女たちが狭い世界にいるが故の勘違いであろうと思っていたし、社会に出ればいつしかそれは学生時代の淡い思い出として昇華され、関係は薄れていくものと考えていた。
しかし一朝事あらば今回のように工房に押し寄せてくる関係性はトレセン学園時代と変わらずであったし、なんならシンボリルドルフは酒に酔って幼子の頃のように自分の寝床に潜り込んでくる始末である。
後輩からも常々、彼女たちのことを考えてやれ、とは言われていた。
しかしなぁ…と真剣に取り合うことを先延ばしにするうちに、ここまでズルズルと来てしまっている。
(つまるところ、あいつらに甘えているのだろうな…)
そう結論づけて、男は夕陽も落ちて闇となった空間に向けて虚ろな視線を向けながら煙を吐く。
「なに湿気た顔してるのよ」
不意に後ろから声がする。
振り向けば、暗闇の中に東条ハナが仁王立ちにこちらを見下ろしていた。
「どうしたんだ、いきなり…」
装蹄師の男は東条ハナの眼鏡の奥にある瞳を目を細めて伺いながら、呟いた。
「アンタの顔を見に来たのよ。思ったよりも元気そうじゃない」
東条ハナはそういうと微笑む。
「まぁ縫ったとこはハゲるかもしれんがな」
男は傷口の痛みを感じながら視線を逸らし、冗談めかして笑う。
「まぁ勲章だと思っときなさい。あのコをかばって怪我したんでしょう?情緒不安定な感じの連絡が来たわよ」
そういうと東条ハナは耳元を飾る蹄鉄型のピアスをきらりと煌めかせて装蹄師の男の顎をくいっと指で持ち上げて至近距離に近づく。視線を合わせさせ、蠱惑的な唇が動く。ふわりと甘い香りが男の脳に響き、傷の痛みがかき消えていく。
「…無理しちゃダメよ」
そう告げてじっと装蹄師の男の目、その奥を覗き込むようにしばらく見つめ合う。
東条ハナの瞳は何かを願うように瞬きも忘れ、男の目をしばらく射抜き、黒目の輪郭が少し潤んでぼやけたように見えた。
ふっと東条ハナが視線をそらし、男の顎から指が離れ、そのまま背を向けてひとつ深呼吸をする。
東条ハナはそのまま、工房の入り口とは逆方向の、もと来たと思われる方向に歩み出す。
「みんな中に居るぞ」
寄って行かないのか、というニュアンスを込めて、男は声を掛ける。
「…今夜は帰るわ。明日も早いのよ」
それだけ言うと東条ハナは振り返ることなく、停めていた自分のクルマに乗り込み、忍ぶように静かにクルマを発進させた。
一瞬の出来事に装蹄師の男は暫し動くことができず、惚けたように誰も居なくなった空間を眺めていた。