空を飛びたいウマ娘と山奥の装蹄師の話   作:小松市古城

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25:ようこそ、我らがクラブへ

 

 

 

自分の身に何が起こったのか、正確に理解するのはいつだって、難しい。

 

 シリウスシンボリはトレセン学園の練習トラックを後にして、学内を歩みつつ考えを整理した。

 

 ひとつ、事実としてあるのは今日、蹄鉄を変えたこと。

 

 現役を引退して久しい身としては、小さな変化だ。たとえば、ランニングシューズを変えるような気軽さで、蹄鉄を打ち替えただけなのだ。

 

 極限まで突き詰めてレースを戦っていた時代ならともかく、今は若き現役たちの良き先達として並走相手を務める程度の走りしかしないはずの自分である。

 

 蹄鉄ひとつでそれほど何かが変わるはずがない。

 

 彼女の常識はそう訴えていたが、それは先ほどまでの練習トラックでの走りで裏切られた。

 

 

 複雑な思いを抱いたまま学内を無意識にさまよい歩いたシリウスは、いつしか中庭に辿り着いており、三女神の像を仰ぎ見るベンチに腰をおろして溜息をついた。

 

 彼女の表情はいつもの勝気な眼差しは鳴りを潜め、どこか焦点の定まらぬ、それでいて遠くを眺めるような瞳で三女神のその向こうの虚空を見つめているようだった。

 

 周囲を時折行きかう顔見知りの現役ウマ娘たちも、雰囲気の違いにシリウスシンボリとは気づかない。

 

「…シリウス?」

 

 自らを呼びかける聞き覚えのある声に、シリウスは我を取り戻してゆっくりと声のした方向へ視線をめぐらせる。

 

「……ウチの皇帝サマの御守はどうした?」

 

 彼女に声を掛けたのは、たまたま所用で学園に訪れていたエアグルーヴだった。

 

 

 

 

 

 

「…不思議だな、貴様とこうして二人でグラスを傾ける日が来るとは」

 

 学園にほど近いいつものバーのカウンターで、シリウスシンボリとエアグルーヴは隣同士に腰掛け、グラスを傾けていた。

 

「いつもは工房で腑抜けた女帝サマしか見ていないからな」

 

 シリウスはエアグルーヴの存在によりいつもの調子をいくらか取り戻しており、エアグルーヴを揶揄う。

 

 エアグルーヴは取り合わずにその言葉を受け入れて、頬を少し赤くする。よもや、一口でアルコールが回ったわけでもないだろう。

 

「あそこは…特別な場所だからな、私にとって」

「場所じゃなくて、ヒトだろう。フェリーの件は随分と大胆だったじゃないか」

「ライバルが多いものでね。ああでもしないと先生とプライベートな時間を持つことは難しい」

「ハッ…ご苦労なことだな」

 

 シリウスは琥珀色の液体に浮かんだ氷を見つめて微笑した。

 

「しかし、さっきの三女神の像での前の表情といい、どうしたんだシリウス。らしくもない物憂げな表情をしていたようだが」

 

 エアグルーヴはシリウスに切り込む。

 

「…今まで、私は何をしていたんだろうな、と思ってな」

 

 そう告げるとシリウスはグラスを一気に干し、物言わぬバーテンダーに視線で次の一杯を求める。

 

「…抽象的だな。なにか嫌なことでもあったのか」

 

 エアグルーヴはその長い耳をそばだたせてシリウスの表情を窺う。

 

「女帝サマは、あの装蹄師のオッサンの蹄鉄を履いて走っていたんだったな…?」

 

 突然のシリウスの問いに、エアグルーヴは肩をびくりと震わせる。

 

「あ…あぁ…色々あって、キャリアの終盤は先生の手が入ったものを使っていた」

 

 エアグルーヴにしてみればそこに何ら恥じることはないはずであったが、シリウスに改めてそれを問われることは直観的に何か、後ろめたさのようなものを感じてしまう。

 

 それは彼の蹄鉄を着けてなお、望む結果を出しきれなかった宝塚記念を想起したせいかもしれない。

 

「…やはり、違ったか?…その…それまで使っていたものとは」

 

 シリウスが普段の態度とは似つかわしくない、どこかおどおどとした力のない声音で問うてくる。

 

「そう…だな…技術的に唯一無二、一番自分に合ったもの、ということは疑いがない。実際に、先生に打ってもらった蹄鉄以上に、自分に馴染むものはない。だが…それだけというわけでもなくてだな…」

 

 エアグルーヴはシリウスに対し何か調子が狂うものを感じながら、ゆっくりと思案して答えを探した。

 

「…私のことだけを考えて打たれた蹄鉄、というマテリアルは、想いを力に変えて走るウマ娘としてこれ以上ないほどのパワーを与えてくれる…そう思わないか?」

 

 エアグルーヴのその言葉を聞いた瞬間、シリウスの耳はビクリと跳ねた。

 

 普段なら、エアグルーヴの言葉を惚気と受け取って、先ほどまでよりもさらに辛辣に揶揄う言葉も浮かんできただろう。

 

 しかし今は、違う。

 

 

 昨日の昼に装蹄師の男に蹄鉄を見てもらった後、使用予定を聞かれて今日だと答えたとき、僅かに戸惑いを見せた男の表情。

 

 そして普段はされない夕飯と夜食のリクエストに、今度はこちらが戸惑った。

 

 その時点で、夜を徹して私の新しい蹄鉄を誂える覚悟ができていたのだろう。

 

 そして今朝、自分が起き出してみれば、部屋の前にはきっちりと新しい蹄鉄をシューズにセッティングして置いてあった。

 

 シューズの中に丸めて入れられていたメモ書きにはお世辞にも綺麗とは言えない字で、蹄鉄を慣らすための手順と感触のフィードバックを求める依頼、そして夜食が旨かったことが書かれていた。

 

 

「…ハッ…そんなことで絆されるとは…ヤキが回ったってことか、私も…」

 

「…私も…?…貴様、まさか…」  

 

 シリウスシンボリはエアグルーヴの問いかけを誤魔化すように2杯目を口にする。

 

 その様子を見て、エアグルーヴは眉間を押さえてしばらく逡巡していたが、やがてひとつ溜息を吐くと、自らもグラスを呷って干し、ことりとカウンターに置いた。

 

「色々思うところはあるが…そうだな…今の貴様に私からかける言葉があるとすれば、だ」

 

 シリウスは持って回った言葉を呟くエアグルーヴを横目で窺うと、アイシャドウで強調されたまなじりからこちらを窺う視線と交錯した。

 

「…ようこそ、我らがクラブへ。ここから先は、甘くて居心地が良い地獄…かもしれないな」

 

 シリウスは、エアグルーヴの言葉を一笑に付すことができない自分に気付いた。

 

 

 

 

 




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