ここのところ、シンボリルドルフは精彩を欠いている。
それは長い付き合いであるエアグルーヴから見て鮮明なものであり、普段業務上で関係のある者たちも気づき始めていた。
今もデスクでPCに向かっているシンボリルドルフは、目の焦点すら怪しく、しきりに瞬きをしている。その姿はトレセン学園の会長として、現役ウマ娘として伝説を残したウマ娘としての威風を喪っているように見えた。
「………」
驚異的な事務処理能力は鳴りを潜め、いつもなら踊るように動き続ける指先は沈黙して動いていない。
その様子を観察していたエアグルーヴはいよいよたまりかねて、声をかけようと腰を浮かしかけた時、意識をどこかへ飛ばしていたシンボリルドルフははっと我を取り戻したように瞳に再び光を灯した。
そして心配そうに見つめていたエアグルーヴと視線が合う。
少しだけ眉をひそめ、見られてしまったか、と苦笑を浮かべたシンボリルドルフは、エアグルーヴを打ち合わせと称して連れ出した。
「…もう1か月だ…」
URA本部内のカフェテリアで、お世辞にも上質とは言い難い使い捨てカップ入りのコーヒーを片手に、シンボリルドルフは呟いた。
「……なにが、でしょうか」
エアグルーヴは薄々、彼女が何を呟いているのかわかりつつ、敢えてそう返した。
「兄さんと…兄さんと会えていない」
あぁ、やはり。
エアグルーヴは溜息をついた。
「それは私も…」
「…君は、私たちを出し抜いてたっぷりと二人きりの時間を楽しんだろう?」
いつになく険のある声音で、シンボリルドルフは呟き、それを言われたエアグルーヴはぐうの音も出ずに眉間に指を添えて視線を逸らすしかない。
「…まぁ、それは私も認めていたことだ。今更それについてどうというわけではない…わけではないが…」
自らの理性と本能の摩擦だけで自らの年間消費電力量ほども発電できそうなくらいに悩みぬいているシンボリルドルフは、最早擦り切れる寸前といった様子に消耗していた。
エアグルーヴはその様子を見ながらスマートフォンを数度タップし、ここ数日幾度も自らのために開いては閉じていたアプリケーションを呼び出し、そこに表示されている情報をさっと確認した。
「…そんなに仰るなら。幸い、業務の進捗は予定より早い状況ですし、明日は公休。今ならば、ここをタップするだけです」
エアグルーヴはシンボリルドルフに画面を示す。
まるで何かの禁断症状のようにわなわなと震えたシンボリルドルフの指がおそるおそる近づき、やや躊躇いながらも結局、画面下の「予約する」ボタンをタッチする。
「…あぁ…いいのだろうか…押しかけてしまうことになるが…」
何を今さら、と思うエアグルーヴは浅めの溜息をひとつつく。
「メジロの別邸には連絡を入れておきます」
そこまで聞いてルドルフの耳はぴんと立ち、何かに気付いた。
「エアグルーヴ…君も一緒に?」
「…?ええ。何か問題でも?」
凛とした態度を崩さないエアグルーヴだったが、その尻尾のワクワクとした揺れは隠し切れない。
「…そうか、どおりで。話が早いと思ったよ」
「…会長が気乗りされないのであれば、私だけでも」
「いや、そうじゃないんだ」
こんな状況でも冷静さを欠いていないエアグルーヴを、些か羨望の混じった瞳で見つめるシンボリルドルフ。
「…君は今でも私の有能な右腕、というわけだ」
「恐縮です」
シンボリルドルフは、相反する感情を抱えながらも、それでも皇帝の右腕であり続けようとしてくれるエアグルーヴを、改めて得難い存在として己に刻んだ。
勿論、彼女自身の野心も心に留め置いた上で。
■
「おいオッサン、今夜も走りに行くぞ」
「えぇ…」
シリウスシンボリと軽トラックで夜の峠での語らいをしてから数日。
毎晩のようにシリウスに峠での運転練習に付き合わされている装蹄師の男。些かげんなりとしてきていた。
「私は負けず嫌いなんだ。オッサンのテクを習得するまではやめられねえ」
それは装蹄師の男の自業自得故のことでもあった。
あの夜、メジロ別邸へ帰るための峠の下りのドライブで、彼の「それなり」の走りをしてしまったのである。
もちろん軽トラックであるからして、その速度は法定速度を上回るものではなかった(ということにしておく)。
しかし狭隘極まる道幅のヘアピンカーブが連続する区間で、スピードメーターが法定速度の上限に張り付いていたと言えば、男の「それなり」はマルゼンスキーの苛烈極まるドライブとそう違いがなかった。
その夜、助手席でぐったりとしたシリウスを回収し看病したゴールドシップは、「次はアタシも連れていけ」と装蹄師の男に抗議していたが、未だその機会は訪れていない。
「おーシリウス、燃えてんなぁ!アタシも荷台でいいから連れてけよ!」
「荷台に乗るのは道交法違反なんで勘弁してくださいゴルシ様」
「おっちゃんにソレ言われたらしゃーねぇなあ…じゃあナマのマックちゃん抱き枕でしっぽりしとくしかねーか!」
いつもの様式美となったやりとりを一通り行ったのち、結局男はシリウスシンボリに連行されて、夜の峠に繰り出した。
「…そう…しっかり荷重移動を意識して…フロントのサスをしっかり沈ませてコーナリング…アクセルはじわっと踏んで…」
シリウスシンボリに運転させながら、装蹄師の男は助手席で時折口を挟む。
シリウスシンボリはさすがに小型飛行機の免許を持っているだけあってクルマへの機械的な理解も早く、元がアスリートなだけあり言われたことをすんなりと消化して操作技術に反映させることもできている。
軽トラックは理想的なコーナリング姿勢でタイヤから僅かにスキール音を鳴らし、峠のコーナーをクリアしていく。
「よーしよしよし…上手いぞ。さすがに飲み込みが早い」
男は軽トラックの助手席で煙草を銜え、シリウスの運転を褒める。
基礎的なことはここ数日で教え終わっているから、最初に運転し始めた時とは見違えるように上達しているシリウスの運転で、数日前に語らった広い路側帯のあるところで転回し、小休止。
ここ数日の、暗黙のうちに決まったパターンである。
「だいぶこなれてきたな。飛行機とは違うが、これはこれで面白いもんだろう」
モリモリと腕を上げるシリウスに目を細めながら、装蹄師の男は言う。
「そうだな…だんだんと、タイヤやサスの動きやフレームのしなりみたいなものがわかるようになってくる」
「さすがに感覚が鋭い」
男は持ってきた缶コーヒーのひとつをシリウスに投げ渡し、自らも缶を開ける。
シリウスはぐびりと一口飲んで話を続けた。
「自分で走っているときにもある感覚だからな。自分の骨や筋肉…シューズや蹄鉄のしなりなんかも」
「まぁ、運動の伝達機構が違うだけで、前に進んで曲がってだからな。間違っちゃいねぇな」
「レースコースは芝かダートだし、あんな鋭角のヘアピンなんかねえよ」
「まぁそれはそうね。走りの引き出しはこっちの方が多くて複雑だわな。伊達に現代の主力移動手段なわけじゃない」
煙草の煙を盛大にもくもくさせながら、装蹄師の男はタイヤのエッジ部分を観察している。
「…オッサン、速いんだな」
そんな様子の装蹄師の男を眺めながらシリウスは男の運転を思い出し、ぽつりと言った。
「…?俺より速い普通のオッサンなんてゴロゴロいるよ」
不思議そうな顔をするシリウスを見て、男は言葉を継ぐ。
「…例えばそうだなぁ…俺の後輩のアイツとかな」
シリウスの耳が驚いたように立ち上がる。
「ま、気になるなら今度、どこかのサーキットか峠ででも横に乗せてもらえばいい。アイツの本気の一発はほんとに狂ってるぞ」
もっとも俺の助手席でノビたお前さんがどうなっても知らんがな、と男は薄笑いを浮かべながら意地の悪い言葉を添えた。
「…あ、あの時は驚いただけだ!今なら理屈は分かるからな…あんな風にはならん」
「ほー。じゃあ試してみるか。隣乗れよ」
そう言いながら装蹄師の男は煙草を揉み消して灰皿に放り込むと、運転席に乗り込んでシリウスを助手席に促した。
■
「会長…スピードは控えめに…」
「あぁ…でも、兄さんに会えると思うとどうにも気持ちが逸ってしまってね…」
シンボリルドルフがステアリングを握るレンタカーは、エアグルーヴの手配によりシンボリルドルフが快適に移動が出来るよう、プレミアムクラスのセダンを用意していた。
エアグルーヴは当然自分でそれを運転し、シンボリルドルフには後席でくつろいでもらおうと考えていたのだが、空港に着くなり運転席はルドルフに奪われた。
仕方なく助手席に納まったエアグルーヴだったが、走り出したシンボリルドルフは猛然とクルマを走らせた。
とはいえ著名人でもありURA職員としての立場もあるシンボリルドルフが速度違反で捕まるわけにもいかない。高速道路はあくまで周囲の流れに合わせた速度で通した。
シンボリルドルフの焦燥が剥き出しになったのは高速を降りた後、メジロ別邸へ続く下道で峠に入った時だった。
「…会長…ブレーキ…!」
瞬間、軽いブレーキとステアリング操作で向きを変え、あくまでアクセルを緩めずに峠を登っていく。
一応は国道扱いの峠は制限速度こそ50km/hだが、道幅は狭くつづら折れになっており、普通に走れば30km/hがせいぜいというような道だ。
「エアグルーヴが良いクルマを確保しておいてくれたおかげで、心配なく道を急ぐことが出来る」
助手席で左右に振られながらエアグルーヴは眉間を押さえ、自らのクルマのチョイスが失敗だったことを悟る。
「申し分のないパワーだよ」
思わず笑いを抑えきれないといった雰囲気の声音で呟くシンボリルドルフ。
その横顔を見たエアグルーヴは、現役時代もかくやという鋭い視線に、背筋にぞくりとしたものを感じた。
■
「やっぱオッサンうめぇな…」
細かな道をひらりひらりと軽トラを振り回し峠を下っていく車中、助手席から装蹄師の男のドライビングを見ながらシリウスシンボリは呟いた。
「こんなん基礎だ基礎。ほら、スピードもたいして出てねぇ」
細かく続くカーブを最短距離で繋ぎ、ステアリング操作もブレーキも最低限。車線内を極力広く使うためにガードレールにこするかと思うほど車体を寄せながら道を駆け抜けていく。
「たとえばこの先のヘアピンならな…」
男はその先にある左折れの180度ヘアピンを指し示す。
「こうはいって…」
そこにアクセルを開けたまま突っ込んでいく。
「はやいはやいはやい!」
助手席で悲鳴を上げるシリウスをそのままに、一瞬アクセルを抜いてブレーキ、瞬時にシフトをひとつ飛ばしで落としてステアリングを切り込む。
「そんで、こう」
横Gがかかったタイミングでサイドブレーキを一瞬だけ引き、車体はくるりと向きを変えてカーブを立ち上がる。
「ほら、カンタン」
「簡単じゃねーよ!」
シリウスもツッコミだけは瞬時に入れる。
「ジムカーナでも齧ったやつならこのくらいは息するようなもんだ…っと、後ろからなんか来たな」
3つほど後ろのカーブに、ちらりとヘッドライトの灯りが反射したのを装蹄師の男は見逃さない。
「あ?…地元の走り屋かなんかか?」
ここのところシリウスとこの峠に通っていたが、街と街をつなぐこの地方の幹線道路という扱いでありながら、この時間帯に他のクルマと行きあうことはほとんどなかった。
後ろからくるクルマに気付くこともまず、ない。
「余程気合の入った走り方してるやつじゃないと、まずこの道で後ろから追いつかれることはないもんなぁ…」
コーナーを曲がりながら器用に煙草を銜え火をつけた男が呟く。
安全を考えれば譲って先にいかせるべきだったが、あいにくしばらくは譲れるような道幅もない。
「しょうがねぇ…シリウス、ちょっと我慢してくれ」
男はアクセルを目いっぱい床まで踏み込んだ。
あれ。これ何の小説でしたっけ(すっとぼけ)