ある日の夜。
トレセン学園近くにある、大人の隠れ家といった趣のバーで、東条ハナは一人、静かにグラスを傾けている。
春のウマ娘GⅠ戦線がひと段落し、ひと心地ついたタイミングであった。
夏に向けていくつか大きいレースはあるものの、彼女の弟子格のトレーナーが担当のウマ娘とともに挑戦するという状況で彼女自身は手持無沙汰であったし、鳥ニンゲンカーニバルのほうは運営を委託している団体から順調な報告が上がってきている。そちら方面での東条ハナ自身の出番はもう少し先というところだ。
今夜は店に東条ハナ以外の客は居ない。
一昔前ならば清貧極まる癖にここでの飲酒をやめようとしない沖野トレーナーに東条ハナがここにいることを察知されてたかられる局面であるが、今や彼もサイレンススズカの海外挑戦に伴ってアメリカに渡り、チームスピカの指導も続けてはいるものの、基本的には後進のトレーナーに任せるスタイルになっている。
そんなわけで今宵、ぽっかりとスケジュールも空いて、誰かと誘い合わせて飲むというのも適当な相手が思い浮かばず、こうしてひとりで無聊を慰めることしか思いつかなかった。
「………」
カクテルを二杯ほど干し、おかわりを頼んでしまってから、東条ハナは物思いに耽る。
ここのところ聞こえてくる話と言えば、例えば装蹄師の男を追いかけて北海道へ飛んだシンボリルドルフとエアグルーヴの話。
向こうで何があったかは分からないが、ルドルフは戻ってくるなり、目の色を変えてこれまで以上に仕事に邁進しているらしい。
それは今回の鳥ニンゲンカーニバルの成功のため、という側面と、このイベントを一回限りにしないための様々な取り組みだという。
今回の参加予定団体に対しても、今回だけのお祭り要素だけではなく、継続的に取り組める仕組みづくりを呼び掛けてきていた。
そのためなのか、各団体には有形無形のスポンサーが斡旋されてきたり、大会そのものについたスポンサーからの支援も徐々に充実しはじめている。
それはトレセン学園、URAという組織に居ると気が付きづらい状況からの活動であり、環境整備のように東条ハナには感じられた。
普段、URAやトレセン学園に所属しているとトゥインクルシリーズをはじめ、ウマ娘のレースやイベントが当然のように組まれている環境である。当然、トレーナーもウマ娘もその前提のもとで活動している。これは規模こそ異なるが地方であっても基本的には同じといえる。
ウマ娘のレースは既に国民的知名度と人気を誇っているエンターテイメントであるが故に、積極的な営業活動やスポンサーを募るといった必要はほとんどない。
もちろん大レースごとの告知活動などは存在するし、イベントを盛り上げるためのプロモーション活動は行うが、それは皆、既に知っていることに話題を放り込んでいくことでさらに盛り上げていく、という方向性のことであり、0を1にするというよりも、10を12や15にするといったイメージである。
つまり、既に下地があるのだ。社会的ステータスもあり、マスコミにおいても無下に扱われるということは基本的にない。
それと較べればルドルフたちの現在取り組んでいる仕事は0を1にするような仕事であり、いかにこれまで鳥ニンゲンカーニバルというイベントの下地があり、そこにウマ娘という知名度のバックグラウンドがある、ある種のタレントを起用してさらに大きなものにするという仕掛けは、これまでの彼女たちが知っている、或いは生きてきた世界とは勝手が違うだろう。
それに邁進する彼女たちはすなわち、初めて自らの手で世界を創っている途中、と言える。
ルドルフが常に理想として唱えていた「すべてのウマ娘たちが幸福に暮らせる社会」という方向性に資する部分があるのは確かであるし、そのための第一歩という意味でも良い取り組みではないか、と思う。
(…これまでよりもさらに熱心に邁進しているのは大方、北海道であの男となにかあったんでしょうけど)
オーダーしたカクテルをシェイカーで振るリズミカルな音が、東条ハナの小さな溜息を覆い隠してくれる。
耳元に飾られた蹄鉄型のピアスをそっと指でなぞり、ここのところ思考の外に追い出していた装蹄師の男のことを考える贅沢とも無駄ともいえる行いを自分に許そうとしたとき、バーのドアベルが新たな客の訪問を報らせ、無意識に東条ハナの視線はそちらへと流された。
「……エアグルーヴ」
東条ハナを認めてすこし驚いたような表情のエアグルーヴは、すぐに柔らかに微笑んだ。
「こんばんは、おハナさん」
◆
東条ハナはエアグルーヴから北海道のあらましを聞いた。
レンタカーで峠を攻めるルドルフの掛かり具合には思わず苦笑してしまったけれども、追いかけた相手がまさか装蹄師の男だとは思わなかった。
というか、軽トラックで借りものとはいえスペックに数倍差はあるだろう高級セダンを引き離すとは、相変わらずどうかしている。オープンレベルのウマ娘がGⅠで優勝するくらいあり得ないことのように思える。まぁそういう例が全くない訳でもない、というほどの意味だが。
尤も、彼のその腕によってウマ娘に対する東条ハナの面子が守られたこともあるがゆえに、そのエピソードを聞いて胸の奥底は少し暖かくなるような心持ちになってしまう。どうにも装蹄師の男が関係する話は感情と理性が複雑に絡み合い、自身の内心の解釈に難渋する。
逸れた意識を東条ハナは必死に引き戻す。
肝心のルドルフと装蹄師の男との間でどのようなやりとりがあったかまでは、エアグルーヴもはっきりとしたことはわからないらしい。
「だた…帰りの飛行機の中で、ぽつりとおっしゃいました。『兄さんと約束したんだ』とだけ…」
ふと思い出したようにそれを付け加えたエアグルーヴは、それで話は終わりとでも言うようにカクテルを口にした。
「…あなたも苦労するわね」
少しの間があって、東条ハナは呻くような声でそう言った。
それはおハナさんもだろう、とエアグルーヴは思った。しかしそれをストレートに口にするほどエアグルーヴにはまだアルコールが回っていなかった。
普段の東条ハナを印象付ける怜悧な顔つきはアルコールと共に緩まり、今のように頬を少しだけ朱く染めながら装蹄師の男の手になるピアスをつけて物憂げにバーにひとりともなれば、エアグルーヴからしても東条ハナの内心を推して知るべし、である。
「私の心の重さは、おハナさんも一緒だと思いますよ」
エアグルーヴは少し意地の悪い言いまわしで、内心の共有を示した。
東条ハナはそれを聞いて少しだけ瞳を見開き驚き、そして諦めたようにため息をついた。
そして会話も一息ついたところで、ドアベルが新たな客の来訪を報せる。
◆
「あれ、お二人さんお揃いで…何やら神妙な表情っスね…ガールズトークの邪魔にならないように、ちょっと端っこで失礼するっス」
東条ハナとエアグルーヴの様子に察するところがあったのか、入店してきた男は少し離れたカウンターの隅に腰を降ろそうとする。
「何を今さら遠慮してんのよ。こっちにいらっしゃい」
東条ハナが呆れたような表情で招き寄せたのは装蹄師の男の後輩であった。
後輩の男は少し逡巡するような様子を見せた後、諦めたような苦笑を浮かべ、やや不自由な脚を杖で器用にカバーしながらエアグルーヴから東条ハナを挟んで反対側のカウンターに収まる。
彼はそのままバーテンダーにアイコンタクトをすると、それだけで意向が通じ、棚に飾られている一本が取り出された。
「いやぁ、ここのところ忙しくて好みの酒の補充を怠りましてね。どこで呑めるかと思案していたら、ここを思い出した次第でして」
「いいわよ、そんな言い訳しなくても。何か察するところがあったからここに来たんでしょう?」
後輩の男の苦しい言い訳を東条ハナはあっさりと切り捨てる。
「かなわないっスねぇ…東条サンには」
男はカウンターから差し出されたグラスを控えめに二人に掲げ、コクリと一口目を口にした。
「全く、困った先輩っスよ。先輩がルドルフさんを焚きつけたせいで、雪だるま式に話がデカくなってるっス」
銜えた煙草に火をつけながら、男はボヤいた。
「アンタのところの商売は大きくなって結構なことじゃないの」
東条ハナは再び呆れたような声音で後輩の男を突き放す。
「いやだなぁ東条サン。俺っちの本業は商社っスよ。広告代理店じゃあない」
後輩の男は声と顔は笑っているが、目は笑っていない。
「…実際のところ、どうなんだ。鳥ニンゲンカーニバルは先々まで続くようなイベントに発展させられるのか」
エアグルーヴはそのためにルドルフと日々奔走しているが、今一つ手応えを掴めずにいる。後輩の男が裏から提供してくれているバックアップがあるとはいえ、イベントそのものもまだ構築途上であるがゆえに不安感は拭えずにいた。
煙草を吸い込んで、吐き出しつつ灰皿にとんとんと灰を落としながら、後輩の男はニヤリと笑う。
「まぁ、そこらへんはURAの覚悟次第ってとこじゃないっスかね。理子ちゃんもルドルフさんもエアグルーヴさんも居るんで、あんまり心配はしてないっスけど」
後輩の男は煙草を指ではさんだままグラスから琥珀色の液体を流し込むと、空になったグラスをバーテンダーに軽く掲げ、おかわりを求める。
「答えを教えるみたいで気が引けるんで、これは独り言っスけど、本気でイベントとして確立させようとするなら、他のスポンサー無しでも5年や10年は支えてみせますよ」
後輩の男は視線を明後日の方向へ飛ばしながら、いかにも大したことじゃない、という態度でさらりと述べる。
「…過保護ね、貴方」
東条ハナは先ほどとは別の意味で呆れたように言うと、後輩の男はやや照れたように笑う。
「いやぁどうっスかね。別に箸の上げ下げまで補助しようってわけでもないですし。一回大掃除したとはいえ、URAが一枚岩ってわけでもない。それなり以上に苦労はすると思いますよ。あ、エアグルーヴさん、この話はルドルフさんには内密に」
わかっている、という表情でエアグルーヴは頷く。
表情は神妙だが、後輩の男の言葉に一番安堵したのはエアグルーヴかもしれなかった。後輩の男の手のひらの上で踊らされていると知っても、後詰があるという心強さが勝る。
「それにしても、まったくアイツは北海道で気楽なモノね。ルドルフに呪いをかけてネジを巻きなおして、本人は飛行機飛ばして遊んで」
東条ハナはやや芝居がかった口調で装蹄師の男に罵りの言葉を漏らす。半分冗談、半分本気といったところだった。
「呪いとは言い得て妙っスね。まぁ、行き過ぎた技術は魔法と区別が付かないみたいな言葉もありますし、先輩はある種の魔法使いかなにかかもしれないっスねぇ…」
この三人の中で最も付き合いの長い後輩の男が言うと、言葉に俄然真実味が帯びるような気がした。
「…魔法使いというよりは仙人か何かの類かもしれませんが。あ、そろそろ帰ってくるみたいっスよ、山の棲み処に」
何気なく添えられた装蹄師の男の動静報告に、東条ハナがハッと意識を切り替え、艶然とした表情を浮かべる。
「そう…じゃあそろそろ私の番、というわけかしら」
口角を上げてカクテルグラスに唇を添える表情は覚悟のようなものを感じさせ、エアグルーヴはその東条ハナの風格を伴った姿に慄然とする。
「…なんだかんだ東条サンにもしっかり呪いが効いてるあたり、先輩も罪な人ですよ、ホント」
後輩の男は場慣れした様子で東条ハナを茶化し、それを見逃すはずもない彼女に素早く襟首を掴まれ……
エアグルーヴは二人の様式美のようなやりとりを微笑ましく眺めつつ、バーテンダーに少し強めのカクテルを注文した。
結局、その夜の支払いとそれぞれの自宅までの送迎サービスを請け負うことで、後輩の男の軽率な軽口は赦しを得ることが出来た。
ご無沙汰しております。
なんかずっと書くのリハビリ状態なくらい書けないですね…
いかんいかん。
今回はちょっと初心に戻ることを心がけました。