シリウスシンボリはコックピットに収まり、内部で行える一通りのチェックを済ませてしまうと、瞳を閉じ、深呼吸した。
これまでの経緯が走馬灯のように脳内を巡る。
今思えばとんでもない横車を押し倒したものだ。自分がしたことにもかかわらず、横暴にもほどがあると思える。
もちろん年齢なりに大人になっていたから、ただ無体を働くだけではなく、きちんと周囲へそれなりの態度を示すことで折り合いはつけた自覚はあるが、それにしても、と今更ながら反省せざるを得ない。
とはいえすでに、どれだけの無理を通しきり、このプラットフォームの上で、装蹄師の男たちが作り、ゴールドシップから奪ったこの機体に収まっているのは自分自身、シリウスシンボリであった。
ならば、なすべきことはひとつしかない。
風は強く、プラットフォームから見下ろす湖面は細かな波が目立つ。機体の翼布が震え、フレームを通して微細な振動が伝わってくる。
一呼吸入れ、ペダルに脚をかけた。
機体の軽さが頼りなく感じるほどの風だ。
しかし、飛ぶことは無理ではない。これまでの思い入れによる錯誤かもしれないが、今はその理性による補正を無視した。
「回すぞ!」
シリウスシンボリはプラットフォームの後端ギリギリまで下げた機体の中で、左右で主翼を支えるゴールドシップとアグネスタキオンに聞こえるように叫ぶ。
左右を支える彼女たちに順番に視線を向ければ、二人とも疲れの影も見せずに清々しい笑顔で親指を立ててきた。
視線を前方に戻して一息入れてペダルを踏みこめば、彼女の後ろに推進式に取り付けられたプロペラが回りだす。
最初こそフライホイールの重みを感じたペダルは、踏み込むごとにギアの唸りとともに勢いがつき、やがて離陸に必要な回転数をプロペラに与えた。
「いくぞ!3、2、1…!」
「っしゃおらーっ!」
カウントゼロのタイミングでゴールドシップが咆哮、アグネスタキオンと共にウマ娘の脚力を十全に活かし、一気に機体を押し出す。
「…っ!」
刹那の加速、そして次の瞬間。
シリウスシンボリはプラットフォームから射出されるように空へと飛び出した。
◆
「…ゴールドシップの咆哮一発、シリウスシンボリが離床!」
場内アナウンスを聞いた瞬間、装蹄師の男はモーターボートのエンジン回転数を上げて湖面を滑り出す。
装蹄師の男がプラットフォームを斜め下の湖面に浮かぶボート上から注視していると、その影から見慣れた機体が打ち出されるように躍り出た。
「あ」
そして、それに続くようにプラットフォームから落下する二人のウマ娘の影。イカロスでもなく翼を持たぬ2人のウマ娘は、哀れ湖面へ一直線に落水し、派手な水しぶきを上げた。
装蹄師の男は反射的にモーターボートのスロットルを開けて着水点に船を寄せる。
「ばっかやろ!早く上がれ!」
装蹄師の男は巧みな操船で二人を回収した。
「ったく……これが公式大会だったら失格だぞ」
引き上げた二人をヒト撫でしてやると、二人ともにへら、と愉快そうに笑った。
「いやーついつい気合が入り過ぎて行き過ぎちまったぜ★」
ずぶ濡れでもイイ女であるゴールドシップは、てへへと舌を出しながら笑う。アグネスタキオンはその背後で水を吸って重たそうな白衣を脱ぎ棄てていた。
「それよりおっちゃん、シリウス追うぞ!」
振り向くと、プラットフォームから打ち出されたシリウスは、ラダーを小刻みにあおって上手く横風をいなしながらゆるゆると高度を下げつつある。
「しっかり飛んでくれよなシリウスぅぅぅ!!」
装蹄師の男から舵を奪ったゴールドシップは、躊躇いなくモーターボートのスロットルを全開位置へと押し込んだ。
◆
一瞬、足許が抜けたような浮遊感。
ペダルを漕ぐ脚が行き場を無くしたかのような感覚、そして背後にある主翼を貫くカーボンフレームの軋みを知覚した次の刹那、翼が大気を捉えて、シリウスの身体をふわりと押し上げた。
シリウスはあくまで冷静に、まずは機体の水平を保つため、ロードバイクのドロップハンドルを流用した先に付けられたコントロールレバーを用いて主翼の動翼と先尾翼を少しだけ操作して、左右、上下方向共に水平に近いところで安定させ、さらにラダーを用いて機首の向きを向かい風を受ける方向へ滑らす。
力を込めてペダルを回し続けながらの指先での繊細な操作は、いくらシミュレーターで訓練を重ねても難しい。ましてやぶっつけ本番の主翼。ハナからイメージ通りというわけにもいかない。
しかし一通りの動作が済み、彼女自身が持つカンによっていくらかの修正を加えて目的通りに姿勢を安定させることができてしまえば、シリウスシンボリはようやくひと心地ついて視線を前方に移すことができた。
「…あぁ…」
感嘆以外の言葉が出なかった。
私は今、自分の脚で飛んでいる。
風の影響か、細やかな揺れ。
それに対応するために無意識に、小刻みに操作するレバー類は、それを通じて空気を操り、ダイレクトに体に反応を返すその感触は、自分の普段の愛機よりもリアルに、空気を掴んで飛んでいる感覚をシリウスに与えていた。
ふと右後方に視線を走らせれば、追走してくるボートが見える。
美しく輝く髪をたなびかせてボートの舵を握っているのはおそらくゴールドシップだろう。
シリウスは彼女に親指を立てて挨拶を送った。
◆
シリウスを追うボート、その後部デッキに腰掛けて、装蹄師の男とアグネスタキオンはシリウスの駆る機体を見上げていた。
シリウスによるによる的確な操作で動翼は小気味よく動き、プラットフォームから離床して間もなく機体は安定した。
風の中で機首をやや向かい風方向に振り、先尾翼をちょこちょこと調整しながら前後のバランスを取っている。
シリウスはちらりとこちらに視線を向けたように見えた。
「シリウス!いいぞ!」
ゴールドシップはシリウスのあいさつに応じて声を上げ、手を振る。
装蹄師の男は表情を変えずにいたが、それでも内心はほっとしていた。
「まずは第一関門をクリアだねぇ」
アグネスタキオンが傍らで呟く。装蹄師の男も頷いた。
「あとはここからうまく想定の高度まで降りられるか…今は彼女の脚力で飛んでいるようなものかな。計算上、彼女の出力の8割以上は出ているだろうねぇ」
装蹄師の男が設計上意図した飛行条件は高度1m。
男は無表情ながら視線に幾らかの不安を混じらせ、シリウスの駆る機体を仰ぎ見た。
◆
シリウスは次の飛行フェーズに移るべく、少しずつ脚の回転を下げた。
自分の脚力をプロペラで推力に変換し高度と速度を維持しているという感覚は感じていたから、それを少しずつ、機体バランスの変化を感じながらの行動だ。
脚力をコントロールしながら先尾翼を細かく調整し、ほんの少しだけ迎え角を取るように高度を下げてゆく。
これまで感じたことは元の設計の機体より翼の抵抗がやや大きく、それにともないピッチコントロールによる抵抗の変化もまた二次曲線で大きく出る傾向があるということだ。
元の主翼より安定性は高いが重く、そのわりに進行方向に対しては敏感という感じだ。
事前に聞いていた想定飛行高度に近づいていく。
「……っ!」
事前に聞かされていた想定飛行高度1m。
機体は脚力を下げている状況にも拘わらず、主翼がふわりと持ち上がる。
シリウスは装蹄師の男が意図した、空気のクッションに乗ったことを理解した。
◆
「…やったねぇ、上手く乗った。シミュレーション通りだ」
アグネスタキオンが感心したように呟き、装蹄師の男は頷いた。
「おうおっちゃん、アレって一体どういうことだ?」
ゴールドシップが機体から目を離さずに聞いた。
「地表効果とか地面効果とか言ってな、高度を下げると翼の下の空気が地面と圧縮されて、その反発力で少ない力で飛べるってやつだ」
ほーん、とゴールドシップは分かったようなわからないような反応だ。
「…アレか。着陸の時の最後に思ったより高度が下がりきらなくてなかなか降りられねーみたいになるやつか」
ゴールドシップのおそろしいところはこういうところだ、と装蹄師の男は思った。少ない情報から直感的に自身の経験をすり合わせ、理屈や理論はともかく現象としての正解を一発で見抜いてくる。
「おまえはほんとにかしこいな。その状況を積極的に使うのがあの翼の狙いだ」
装蹄師の男は褒めるようにゴールドシップに返した。
「やっぱよー、シリウスの経験値もあってこそだな。ゴルシちゃん、説明されてもあんなのぶっつけ本番で出来る気しねえもん」
ゴールドシップは自分が褒められていることは脇に置き、素直にシリウスの対応力を賞賛した。
「でもよ、やっぱゴルシちゃんは天気のいい日に気持ちよくぶわーっと飛びてえな!おっちゃん、来年はそういうの頼むぜ!」
装蹄師の男は苦笑いを浮かべる。
「わかったよ。来年はもっといいもんつくってやる。今年譲ってくれた分も上乗せしてな」
そう答えた刹那、強い横風がボートの上を吹き抜けた。
◆
気持ちよく湖面を滑るように飛行していたシリウスだったが、その時間はほんの束の間だった。
「…つっ…!」
地面効果を体感しながら飛んでいたシリウスが少し気を緩めていた瞬間、横風が機体の姿勢を乱す。
瞬時の反応で当て舵を入れるも、飛行速度を下げていたことも関係し、思ったほどの効きが得られない。
「ちっ…」
さらに追加でラダーを動かし、機首を風向き方向へずらし、斜め前から風を受ける。
「そんなに甘くねぇか…」
なんとか安定を取り戻したが、湖面の風は複雑に向きを変え、翼面積が広いうえに軽量な機体を気儘に弄び、揺れは激しい。
事前の気象予報を思い出す。
これから風はさらに強く、複雑さを増すはずだった。
追走してくるボートを見れば、波に翻弄され、手摺に捕まって必死に耐えながらこちらを窺っているゴールドシップたちが見える。
アグネスタキオンは腕を必死に上下に振り、着水を促しているようだった。
飛び立ったプラットフォームは既に後方遠い。
「ここらが潮時か…」
シリウスシンボリは深く息を吸い込み、気持ちを切り替える。
「名残惜しいが仕方ねぇ」
シリウスシンボリは意を決して、脚の回転をゆっくりと緩めた。